2014年11月28日
ただ、そうした水素社会が来たとして、その社会でも「ビークル」を動かすための原動機がモーター(電動機)であるのなら、それが必要とするのは電気です。さらに言えば、電気であれば、どんな作り方をしたものであってもモーターは回ります。そしてその電気を作る方法が“脱・化石燃料”であったら、水素社会の目的は一応達成したことになります。
でも、ハナシがそこまで来たら、その“地球を苛めない”であろう製法で発生した電気、それをビークルに充填して「EV」を走らせればいいのでは? ……と思ってしまいます。
燃料電池車=FCVは、電気を作ることを、それこそ自前で、そして車上で行ないつつ、電動のモーターを回して走行します。でも、その「製電」というシゴトは、いちいち個人ならぬ「個車」でというか、それぞれの自動車=ビークルがやらなければいけないものなのか。ドライバーそれぞれが、自車に発電のための“化学プラント”を抱えつつ動くのがベターか。
ここでおそらく「蓄電池」の問題が浮上してきます。EVが「電池車」である限りは、いわゆる航続距離は伸びない、内燃機関にはついに及ばない……という見解ですね。ここ10年くらいのバッテリーの状況を見ても、その見方は正しいかもしれません。ただ、電池というのはこれ以上進化しないのか。蓄電するための装置には“ブレークスルー”は起こらないのか?
そしてもうひとつ、この「航続距離」という考え方が、あまりにも20世紀的なのではないか。そんな疑問も持ちます。ヨーロッパという交通環境で生まれたビークル、馬車が走れる道が既にあって、そこをより高速で走るために“馬なし馬車”に進化した。そういう場におけるビークルは、たとえば航続距離1000キロというような性能も必要だった。そして、そこ(西ヨーロッパ)では、ディーゼルなど内燃機関が適切だった……かもしれない。
それはそれでいいですが、でも、地球上で「人とクルマ」が住んでいるのは、ヨーロッパだけではありません。クルマに乗ったままで連続走行する距離数、それはせいぜい数十キロである。こんな環境や社会の中で用いるビークルを考えれば、今日の“電池車”であっても、既に十分に使い物になっています。
たまたまヨーロッパという、道路環境が異様に良く、そしてトラフィックが空いている。そういうエリアで、クルマに求められた性能。それを探って進化していったのが20世紀の自動車であり、そしてわが国の自動車工業も、同様にそのテーマを追った、20世紀においては──。でも、それは地球上の他のエリアでも、同じように求められる性能だったのか?
「道とクルマとの関係」では、西ヨーロッパの場合、もし望むなら、誰でもがそのクルマの最高速で走れます。ただ、そうした「道との関係」は、西ヨーロッパ以外の地域でもあるのか。もし、他の地域はそうでないのなら、その状況に合った能力のビークルがあっていいはず。「西欧基準」だけがクルマではない。20世紀には見えにくかったかもしれない、こんなことも、21世紀も中葉になれば、誰かがふと気づいたりするのではないかと思います。
…… MIRAI 、そしてFCVに話を戻せば、そして、 MIRAI の未来を考えるなら、最大のライバルは、実は内燃機関による自動車ではなく、同じ“電動組”に属する、いまは「ピュアEV」と呼ばれている電池+モーターのEVではないか。そんな気がしてなりません。
たとえば5年先、もしバッテリー(蓄電池)の性能が今日より30%でも向上したら、ピュアEVのビークルとしての印象や価値は、今日とはかなり違ったものになるでしょう。化石燃料社会であっても、また水素社会になったとしても、そのどちらであれ、したたかに生き残るのは単純なEVかもしれない。複雑さを巧みにまとめた「商品としてのFCV」が登場したが故に、逆に、こんなことを考えるようになった昨今です。
(了)
Posted at 2014/11/28 06:25:18 | |
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New Car ジャーナル | 日記