
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
主管の渡邉衡三が、新R33GT-Rでやりたかったこと。それは、ひとつはR32の足らざるところ、つまりブレーキ、クラッチの容量と耐久性、エンジンルーム内の熱の処理、そして高速での空力の修整だった。また、せっかく「トルク・スプリット」まで到達した4WD技術の次への展開もあった。ここまで来たからと中断してしまっては、必ずや、カメに抜かれてしまうという例の“寝るウサギ”になりかねない。R32で仮にも「先進」というところにいるからこそ、そこで立ち止まっていてはならない。
主担として渡邉のパートナーとなった吉川正敏も、もしR33でGT-Rを作らないことになれば、その技術の展開を休んでしまうことになると思っていたひとりだった。同時に吉川は、新GT-Rが「280ps」という国内の自主規制の中にあっても、ソフト面での“ツメ”で、同出力でもクルマはさらに速くできるとイメージしていた。これは彼が、エンジンがほぼ同じR32「グループA・GT-R」がサーキットで年々速くなっていくことを見続けていたからだ。
同じパワーだとして、では、それをもっと「使い切る」ことができたら──。この吉川と同じことを、栃木・実験部の主管・萩原裕も、やはり考えていた。せっかく「280ps」というパワーがあっても、もしドライバーが恐いと思ったり、コーナリングでのアンダーステアが強くてアクセルを戻さなければならないクルマだったとすれば、それを使い切ってないということになる。
その点でのR32GT-Rは、やはりまだまだ未成熟だった。評価ドライバー加藤博義の言を借りれば、「もうちょっとハナが早く入ってくれれば、もっといい……」というクルマだったのだ。R32GT-Rというクルマを栃木組が「60点」とするのは、この決定的な弱点がわかっていたからだ。
そして、このアンダーステア、つまりステアリングを切り込んだほどにはクルマが曲がってくれないという問題は、「32では、いかんともしがたい」(渡邉)のであった。省みれば、R32時代に世に出た各種のディベロプメントとは、タイヤにせよE-TSの再チューニングにせよ、32GT-Rをいかによく「曲がる」ようにするかという一点に集約することができる。
だから渡邉は「R32の次」をやりたかった。より「意のままに」走れるクルマを作りたかった。そして、「走り・曲がり・止まる」だけでなく、それらを統合した、GT-Rならではの『動性能』というものを、もっとツメてみたかったのだ。
吉川も言う、ドライバーがどれだけ、クルマの持っているポテンシャルを引き出せるか。ドライバーがこれまで使えなかった領域があるとすれば、それをなくせないか。もしくは、使える領域をもっと拡げてやることはできないか。それができれば、たとえ同出力のエンジンを積んだクルマであっても、絶対に性能は上げられる、と。
そしてもうひとつ、「予兆」が大事だと吉川は考えていた。これは、ポテンシャルを引き出すこととも密接に関係するが、クルマとのコミュニケーションがどれくらいできるかということである。クルマがドライバーに情報を発信する。これから、こうなりそうだぞと言ってくる。そういうクルマからの信号があれば、ドライバーは対応できるし、さらには、その未来の挙動を「走り」に応用することもできるだろう。
そのためには、その情報やコミュニケーションには再現性があることが必須だ。それによって、はじめてライバーも、クルマとの対話を記憶することができる。こうして、吉川と加藤・川上との間で「予兆のルール」が作られた。必ず、予兆があって、何かが起こるクルマにすること。それを、あらゆる局面で徹底すること。それをひとつずつ設定しては決定していく。こういう合意である。
つねに「意のままに」とは、つまりは、意のままにならない領域や部分をなくすことである。ある速度域ではダメ、また、ある回転域ではかったるいといったネガをつぶしていくことでもある。さらに、あらゆる性能は常にリニアに「つながって」いなければならない。
ここまでコンセプトがツメられて、ついに「過渡特性」というテーマが出現する。エンジンでの例がわかりやすいが、たとえば回転域のどこかで息をつくのなら、その特性が磨かれていないことになる。さらには、Aという状態からB状態に移行するその中間のすべての領域でも、いつもドライバーにとって「快」であってほしい。
いや、エンジンだけではない。「走り・曲がり・止まる」というすべてのシチュエーションで、つまり『動性能』のトータルな局面で、そのようでありたい。新しいR33GT-Rとは、以上のようなクルマを作りたいという野望のもとに動き続けたプロジェクトであった。
そして、その企図の大きさの割りにはスタッフに与えられた時間は限られており、また、この事実は、渡邉衡三自身の口から発せられることは決してないが、実は彼がR33GT-Rのプロジェクトに“呼ばれた”時には、R33の基準車は既にディメンションもデザインも決まっていた。主管・渡邉は、いわば与えられたパッケージで、R32GT-Rを超えるクルマを作ることを求められたのである。
「時間がない。だからヒロヨシが要る」……。渡邉は何度か、R33GT-R開発を語る際にこのフレーズを用いた。その渡邉の切実で複雑な心境が、この台詞には滲む。R32を超える、新しいGT-Rの具現化に向けて、渡邉と吉川と、そして評価ドライバー加藤の“ハード・ジョブ”は、こうして始まっていた。
そのプロトタイプができてしばらく経った頃、加藤は一度だけ、渡邉の自宅に電話をかけて“泣き”を入れたという。加藤が言った、「時間か、何かタマが欲しい……」。時は、93年の半ば頃だった。発売時期を変えられないか、何か問題解決の手助けになるような新技術はないのか。加藤は渡邉にこう言っているのだ。
渡邉は、むしろ非情に言った。「何もないし、発売は延ばせない」。心では頑張れと念じつつ、あえて望みを断ち切ることが、この場合は友情だった。(きみにやってもらうしかないんだよ)……加藤自身の手になる、例の“高剛性ボディ製作ファクトリー”が本格稼働しはじめたのは、実は渡邉へのこの電話の後のことだった。
(第12章・了) ──文中敬称略
Posted at 2014/12/07 10:58:15 | |
トラックバック(0) |
90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記