
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
さて、ここまでR33GT-R開発の流れを追ってきたが、外部から見ると、ちょっと不思議に思うことがある。それは、GT-Rを作っていくに際しての各部署の関係で、端的には栃木・実験部の“独走”が目立つことだ。彼らは何と独自にボディを作り、ボディ担当・厚木のエンジニアにそれを突きつけて、その設計を根本からやり直させた。さらに、ライン生産ではやりにくそうな複雑なボディ構造のクルマを、村山工場に「量産」させようとしている。
実験部としてやりたいことはわかるが、それにはおのずと範囲があるのではないか。GT-Rといえども「量産」の市販車なのだ。あるいは、試作車はとにかく目一杯やってみるけれど、生産段階ではある程度の線でまとめる。そうした妥協に似た案が出てきても、それもまた妥当のような気がする。何より、開発には時間という制限があり、組み立てにはコストと生産性の問題が絡むはずだからだ。
そういった総合的なマネージメントが、主管や主担というポジションの仕事ではないのか。その種のハンドリングでは「専任主担」という役職にいた吉川正敏はどうしていたのか。もし栃木が“暴走”していたなら、それを止められたのは彼だったはずなのだが。
「え、独走というのは?」……。この件について訊くと、吉川は一瞬、何のことかわからないという表情をした。つまり、栃木の実験部が、ひとり“走っていた”というようにも見えるのだが? 「それは、ぼくはまったく止めてないですから」。吉川はようやく質問の意味がわかったというように、微笑みながら言った。「あ、けしかけてたのは、ぼくです(笑)」。このクルマの場合、何より、目標を達成しないと話にならない。だから、「栃木を押してた」というのだ。
もちろん、実験部によるテストの状況は、逐一、吉川の耳に入っていた。川上が報告してくる、吉川が確認する。「それで(目標は)達成したのか?」「いや、ちょっと足らないところはある」「じゃあ、もう一度やってくれ」。こういうやり取りで、R33GT-R開発の仕事は進行していった。吉川は笑って付け加える。「ふつう、実験には、そんなに勝手にはさせないですよ(笑)」
……なるほど。主担である吉川の指示と支えがあってこそ、栃木は“突っ込む”ことができた。そして、そこまでの指示を実験部に出せたのは、渡邉と吉川の二人が、加藤・川上グループを全面的に信頼していたからであった。
まず、栃木として「OK」が出せるものを作ってくれ。そうしたら、厚木と村山でそれを作る(再現する)から──。GT-Rはこの方法でやる、設計や工場は説得する。あとは何とかするから、とにかくやってくれ! これがR33GT-R開発の方法だった。
吉川は続けて言った。「動力性能というのは、ゼロヨンにしてもエンジンにしても、台上のテストもできるし、データでもわかります。でも『操安』(操縦安定性)っていうのは、加藤と神山、この二人が『いい』っていうものをやるしかない。彼らを信じていくしかないでしょう」
さらには、今回のR33GT-Rは必ず「ニュル」に持って行く。「ニュル」に行けるかどうかの判断は、実験部がやる。このことも、渡邉と吉川の間で、始めに決定されていた。
ただし、各種の「要素技術」が個々のアイテムのレベルでは効果があることはわかっていたが、組み合わせによって確実にクルマが速くなるという保証は、実はなかった……と、吉川はそっと打ち明けた。しかし、そうであっても確固たる目標はあった。それは「ニュル」では最低でも10秒、そして筑波サーキットなら1秒を、R32GT-Rがそれぞれに残したタイムから“削り取る”ことだった。
サス剛性、リム幅のアップ、新しいLSD。そしてR32のステアリング特性やトラクション不足といった点を改良し、そのほかの部分での小さな積み重ねを総合すれば、これはやれる、必ず速くなる。吉川は主担としてこうした判断をくだし、まず実験部に全権を委ねたのである。
そして吉川は、今回、自身が就いた「専任主担」職の意味についても語った。新しいスカイラインであるR33でも、GT-Rを作る。これは商品本部長・三坂泰彦の意志だが、しかし、あくまでも商品本部内での決定とコンセンサスだった。一方、開発側あるいは工場サイドでは、GT-Rは「一回休んでもいいんじゃないか」という空気があったという。それに対し「専任」職を置くことで、商品本部としての強い意志表示をする。それが「専任主担」職の新設で、然るが故にテンションも高くならざるを得なかった、と──。
そのように加藤や川上に自由にやらせた吉川だったが、しかし、参ったなということももちろんあった。たとえば、「ニュル」のテストに吉川が行ってみると、川上が手招きして吉川を呼ぶのだ。「ちょっと見せたいものがある(笑)」。見ると、また加藤の手になる新しい“棒”が加わっている。(そうか、これを「生産」しなきゃいけないのか……)
また、設計変更にしても、厚木に指示を出せるのは吉川しかいない。吉川がターゲットにしたのは、まず田沼謹一だった。吉川は、その田沼に、ほとんど懇願に近い指示を出す。新GT-R、何としてもやってもらいたい! そして村山工場へ行くと、そこでは工務部との交渉になる。田沼にきちんと設計させる、工場でできるようなものをちゃんと提案する、だから工場も協力してほしい!
田沼に、ある時は、工場で案がまとまるまでは厚木に帰ってくるなと言い、工場に対しては、「作れなかったら、結局は売り出せない。そうなれば、これまでやってきたことのすべてがムダになる」と説得した。そして田沼も、ここでハンパに終わるのはくやしいと言い始め、村山側も、彼ら独自のテストをやって確認した上で、このプロジェクトを貫徹して行くことになる。そこから、設計(厚木)で考え切れないところは工場(村山)からもアイデアを出すという合意と協力関係も成立した。
そういえば、評価ドライバーの加藤博義による「30点」は、その後、どうなったのだろうか。これについて、最終的には何点になったのかと加藤に訊いたことがあったが、その時に返ってきたのは即答だった。「それは100点です!」──。ここまで言い切るために、加藤を中心とする実験部は、自由に、そして「神」としての責任とともに、GT-R作りという仕事をしていたのだ。
(第21章・了)
Posted at 2014/12/22 20:15:13 | |
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90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記