
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
ついに「ニュル」へ! R33GT-Rの準備が整った。
ほぼ完成したそのプロトタイプは、その最終的な性能確認のために、この世界のカー・メーカーが高性能車のテストフィールドとしているコースを走るのだ。R32でGT-Rを復活させた張本人で、当時は実験主担であった渡邉衡三は、そのクルマがこのサーキットを「8分20秒」で駆けたことを知っている。いまふたたび、R33GT-Rでは、今度は総責任者である主管として、この1年半余りの間育ててきたプロトタイプを「ニュル」というステージに送る時が来た。
今度のスカイラインでは、GT-Rを作るのはむずかしいだろうという声もあった。車体が大きくなった、ホイールベースが伸びた、車重も増えた。でもエンジンの最高出力は、もう「280ps」で上げようがない。いったいR32より速いクルマなんて作れるのか? 浴びせられたあらゆるネガティブな見方とイメージを、R33GT-Rの開発チームは越えてきた。いや、越えてきたはずだった。
そして、その事実を最終的に証明するのが「ニュル」なのだ。新しいR33のGT-Rは、旧型であるR32のそれとは明らかに違っている。この事実を内外に示すことができるのが「ニュル」のラップタイムなのだ。
北海道・陸別でのテストを終え、生産についての村山工場とのツメも大詰めを迎えていた1994年の夏。渡邉衡三は、「ニュル」でのテストという段階になったことの報告を兼ねて、ドイツでのテストの予算や目的などを記した上申書を携え、商品本部長の三坂泰彦を訪ねていた。
R33でのGT-R作りについて、「やれるよな?」と、渡邉をその“ハード・ジョブ”に導いたのが三坂である。そして、もちろん冗談であろうが、三坂は渡邉に、もしGT-Rができなかったら、会社にカネを「家屋敷を売っても返せよな(笑)」とまで言ったのだ。その仕事が、ついにものになった。そのことを、ようやくここで三坂に報告できる。
渡邉が作った「ニュル行き」の上申書に目を通しながら、三坂は渡邉に問いかけた。
「それで、何秒くらいで走れるんだ?」
渡邉は答える。
「8分の一桁、8分2~3秒までは行けると思います」
R32のGT-Rが「8分20秒」、R32のボディにR33の技術要素を盛り込んで走った時のタイムが「8分13秒」である。シャシーとボディを新しいR33に換え、R33のGT-Rとして開発を進めてきた新型が、旧型R32+新技術というクルマが残したタイム(8分13秒)から「10秒」を削り取ることは可能だ。技術屋としての渡邉は、こういう展望を持っていた。
もちろんそれは、絶対に確実な……というものではない。シミュレーションも、ややラフである。しかし、極秘に走った筑波サーキットでのテストタイム、パワーウェイトレシオからの計算、他社のクルマがどのくらいでニュルを回っているか、そして北海道・陸別での旧型や基準車との比較などから、新しいGT-Rの「ニュル」でのこのタイムは、エンジニアとして一応の根拠があるものだった。
だが三坂は、ちょっと首を振りながら微笑んで、渡邉に言った。
「この『3秒』は、ただの3秒じゃないな」
時の商品本部長・三坂泰彦は、営業本部から商品本部に転じ、主管として、あのグランツーリスモを含むセドリック/グロリアを世に出した男として知られる。それは“三坂セドリック”と呼ばれたほどに、社内的にも、そしてマーケット的にも大反響を巻き起こした。「グラツー」は、営業畑出身という自身の資質を十分に生かしての主管・三坂のヒット作であり、くすみかけていたセドリック/グロリア・シリーズを再生させた。そういう男だった。
その極めつけの営業屋が、エンジニアである渡邉に、さとすように続ける。
「この『3秒』は、何とかならんのか」
「は……?」
「8分2秒と7分59秒とでは、たった3秒しか違わない。でも、この『3秒』の違いは途轍もなく大きい」
渡邉は、この発想に虚をつかれる思いだった。エンジニアとしては、どこまでならやれるだろうという読みがあり、それをツメていって、ようやくひとつの技術的成果を確約するまでに至る。だが三坂は、いったい何が「外」に対して有効なのかをまず考えているのだ。
エンジニアのものの考え方が「積み上げ型」であるとするなら、三坂の場合は、始めにインパクトありきだった。そしてそのためには、いったい何が要るのかということを、まずイメージしている。渡邉は、自分とまったく違う“種族”を目の前にして、その発想にむしろ感心していた。その渡邉に、三坂は言った。「この『3秒』の違いが作るメッセージ性を考えてみろ。わかるだろ?」
商品本部長としての三坂は、「8分3秒」まで行ったのなら「7分台」にすることもできるだろうと渡邉に言っていた。技術は積み上げであり、ジャンプはできないのだというエンジニア的な常識はハナからなかった。三坂の真骨頂だった。
もし渡邉が“純・エンジニア”の頃だったら、こんな技術的に理不尽な要求には反発を覚えたかもしれない。しかしこのとき渡邉は、まったくそうだと思った。いい勉強をしたとも思った。すでに渡邉もまた、一エンジニアという立場から、主管という総合職の発想になっていた。
「ニュル・テスト」のための準備がはじまった。厚木のNTC=ニッサン・テクニカルセンターと、ブラッセルにあるヨーロッパの技術センター、NETCが合同で、このプロジェクトを組んだ。時は1994年の9月だった。
まず、ブラッセルにクルマを搬入する。そして、ライセンス・ナンバーを取得し、ヨーロッパの公道を走れるようにする。そこからドイツに入り、ニュルブルクリンクの街のホテルに拠点を設ける。これがニッサンのいつもの「ニュル・テスト」の方法だった。そして今回の“ニュル・アタック”には、1ヵ月の時間が充てられることになっていた。
だが、このGT-Rの場合、それまでの「ニュル・テスト」と違っていたことが二つあった。ひとつは、時間の制限である。本格的に冬が来たら、雪が舞うニュルでのハードな走行はできなくなる。フル・アタックは無理で、速いタイムも出せない。R33GT-Rの発売時期を考えると、これは“最後の秋”だった。
そしてもうひとつは、記録しなければならないラップタイムが決められていたことである。目標はニュル・オールドコースでの「7分台」──。94年秋の「ニュル・テスト」は、ニッサン史上でも例を見ない、タイムを約束させられたプロジェクトであった。
(第22章・了) ──文中敬称略