
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
ダーク・ショイスマンが、ふたたびコースインした。タイムアタックに入って5周目の走行である。それまでの4周と同じような時間が過ぎてゆく。三人が持っているデジタルウォッチの「分」のところが「7」になり、さらに「秒」が刻まれた。そしてスタッフの耳に、GT-Rのエキゾーストノートが響いた。
渡邉は止まった時計を見た。「7」は「7」のままだった。萩原と川上が、渡邉に時計を示した。三つのストップウォッチのすべてが表示していたのは「7分58秒台」の数字だった。……「切ったよね」「切れたね!」
市販の量産車としては、おそらく空前にして絶後(注1)であろう「8分以下」というタイムで、新しいR33のGT-Rは、いま「ニュル」を駆けた。
渡邉がまず思ったのは、(これで言い訳しないで済むな……)ということだった。タイムを約束させられたプロジェクトを、その予定通りにスタッフはクリアした。そして次の瞬間、渡邉は「よし、これで『銀のスプーン』だ!」と、みんなに聞こえるように言った。
幸せな子どもの誕生のことを、まるで銀のスプーンを咥えて生まれてきたようだと例えることがある。R33GT-Rという“新生児”に、このとき渡邉は、親として銀色に輝くスプーンをプレゼントできたと思ったのだ。
(おまえは明らかに、そしてはるかに、R32より速くて高性能だ)
(そのことを確実に示す、この「7分58秒台」と一緒に、おまえは世に出ていく)
(そしておまえはN1レースでデビューウィンして、さらに、ル・マン24時間レースにも出場するのだ)……
新GT-Rのテストは、5周で終わった。それ以上走る必要はなかった。この「ニュル・テスト」の目的はただひとつ、「タイム」だったからだ。
日本へ帰れば、新車発売前の三ヵ月に集中する、たくさんの主管としての仕事が待っている。そうだ、カタログは作り直させなければいけないし、広報資料のコピーについては全面的なチェックが要る。
何より、まだ村山工場での生産が生産試作の段階であり、最終的な「立ち上がり」の確認には至っていない。村山とのツメをやっている主担の吉川正敏からは、「ニュル」にいる渡邉を追っての電話連絡が入り、ちょっとやり合うような場面すらあったのだ。
「ニュル7分台」というのは渡邉にとって、R33GT-Rを作る仕事にとっての単なる通過点でしかない。そう気を引き締めていた渡邉が、ふと振り返ると、加藤が全速で渡邉に向かって走って来るのが見えた。(何だ、ヒロヨシ、どうしたんだ?)加藤の手には大きな瓶があった。それは、いつの間にか抜かれていたシャンパンだった。さらに川上も加わって、加藤と同じことをしようとしている。
「ニュル」のパドックを逃げ回るR33GT-Rの主管・渡邉衡三に、スタッフからのシャンペン・シャワーが浴びせられた。防寒服がシャンペンだらけになった渡邉の顔が、思いっきりクシャクシャになった。1994年の9月、ヨーロッパの秋は深く、空気の冷たさが肌を刺した。スカイラインR33GT-Rのデビュー前、“最後の秋”だった。
(もう、少しだ……)渡邉はこう自らに鞭打って、スタッフより一足早く、来た時と同じようにひとりで、日本への帰途についた。渡邉衡三が主管として全責任を負うスカイラインR33GT-Rが世に出るのは、1995年が明けたらすぐなのだ。
(第24章・了) ──文中敬称略
○注1:空前にして絶後
競争と競走を好むクルマ世界の辞書に、やはり“絶後”という語はなかった。R33GT-Rの“空前”のアタックから約20年後の今日、「8分以下」というのは「FF車」のターゲット・タイムになっている。その“ニュルFF選手権”では、ルノー・メガーヌRSが「7分54秒36」を記録して現時点での王座にいる。このタイムに、わが国からはホンダ(シビック)とニッサン(パルサー)が挑む準備をしているようだ。
一方、スカイラインという“くびき”が取れてV6エンジンとなった「ニッサンGT-R」は、2007年の登場以後、着実にその性能を上げ、「ニュル」のターゲット・タイムも「7分10秒を切る」というところにまで達している。そして2013年、ニスモ仕様のGT-Rは、ミハエル・クルム選手のドライブで「7分08秒679」というタイムを刻んだ。約20年という月日は、GT-Rとニュルブルクリンク・オールド(北)コースとのコンタクト時間を、およそ「50秒」短縮したことになる。
Posted at 2014/12/26 13:16:29 | |
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