
§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection
「高級車」という妖怪が日本の自動車界を徘徊している。1990年代初頭、ついにわが自動車工業界は、そのような領域に踏み込んでしまった。歴史の扉をこじ開けた。
「大衆車」も作っているメーカーによる、「高級車」の製造。自動車史は、このような幅の広いメイクスの出現を予測しておらず、作り手は“棲み分け”の中に生き続けることを、それとない決定事項としてきた。
したがって「歴史家」であればあるほど、ついに到来したこの現実に対応できず、反動の嵐も、少なくない勢いで湧き起こっている。(高級車は作れないよ、日本のメーカーには!)とりわけ、レクサス=セルシオの後にお目見えした、ニッサンのインフィニティQ45には、その種の風当たりが集中している感があるのは、むしろ異様なほどだ。
高級車は、こんなものに非ず! 何もわかっていない、このクルマは! モーター・ジャーナリズムの取りあえずの反応は、どうもこのへんの乱暴な評言に集約されるようである。……そうなのだろうか? 「高級車」という時に、あまりにも“西独~日本ライン”のモノサシを当てすぎてはいないだろうか?
たとえば、「高級車」ではなく「大型車」ならどうなのか。あるいは、「高級」ということにしても、たとえばアメリカ的な高級。そして、ラテン的な、南欧的な(さらには、日本的な!)高級。こういうものも、アリなのではないか。
高級/大型車におけるメルセデスの“引力”というものは、たしかにあるだろう。ともかく重厚に。硬いボディ。ドアを閉めた途端に始まる別世界。隙のない内装。つまりは、冷徹なパッケージ……。そして、この“圏内”においての静かなる優等生。レクサス=セルシオは、おそらくそのような存在で、その分評価がしやすいものがあったと思う。一方インフィニティは、この“メルセデス圏内”にいない。
外観、佇まいも軽快であり、その通りに挙動も俊敏。インテリアの印象も明るく、よく走り、よく動く。そういう「大型車」であって、要するに「違う」のだ。そういう「高級車」で、これはこれでいいのではないだろうか。
高いクルマに見えないという評も、俺はメルセデスならカネを出すけど、カルいクルマにはカネ払わないということだろうし、あるいは、ウソみたいに静かなクルマならカネ取ってもいいけど、足がいいだけじゃ大金を取ってはイカン……。
インフィニティへの評は、このようにホンヤクできる気がする。そしてそれは、ジャーナリズムが決めることじゃないし、あるいは、サイレント・カプセル(セルシオ)に驚いたというモノサシを当ててみるだけじゃ、このクルマの批評にはならないとも思う。
インフィニティQ45。これは大らかさと伸びやかさがあるニューモデルである。大柄ではあるが、走り出すと印象はコンパクトになり、足まわりのポテンシャルはしたたかに高く、なお乗り心地はしなやかさを保つ。
噂の油圧アクティブ・サスペンションは、クルージング感覚を非常にフラットにしてくれるフシギな効果を持ち、コーナリングにおいても、軽いロールを示した後に、巨体をしっかりと支えきる。ドライバー側からの多少のムリもクルマが聞いてくれるという意味で、このサスはコーナリング・スピードを上げる足だ。ただ、メカ・サス仕様も、乗り心地がいいままに、クセのない自然な走りの味を示し、かつ、乗り手の気持ちを高めるような動きをする。走りは良い。このビッグなサイズを考えると、さらに良い。
たとえば静かさ、たとえば細部、たとえば仕上げ。このような点で、投資に見合わないという説は、ニッポン市場では大勢になるかもしれない。このへんは、まさにマーケット自身が決定することだが、大型/高級車に、あえてこの表現を使うが「軽さ」を持ち込んだこと。この一点だけでも、インフィニティQ45というクルマは評価すべきものがあると思う。
“メルセデス圏”から遠く離れて……。Q45はフリーである。
(1989/11/21)
○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
インフィニティQ45(89年10月~ )
◆車体の上の方、つまりドライバーの頭部のあたりが、何となくうるさい。風切り音なのか、ウインドーの密閉度の問題なのか、ルーフの薄さか? ニッポン的な視点かもしれないが、ニッサン車への注文を出すとすれば、この点であり、これはインフィニティにおいても例外ではない。トヨタに限らず他社が一様に、この種の静粛性に関して充実してきており、ニッサンも後れを取ってはならないと思う。足まわりと挙動については名車を輩出している同社に、90年代の課題として、この点を提出しておきたい。
Posted at 2015/03/10 08:53:21 | |
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80年代こんなコラムを | 日記