
そして、それは次のような展開を生む。アメリカ西海岸、アマチュアのスポーツカー・レースを発端とするカンナム・レースだったが、そのヨーロッパ・スタイルのレースが、F1のドライバー/コンストラクターとつながったのだ。当時(60年代後半)のF1は、欧州ラウンドを終えた後、アメリカとメキシコでGPをやっていたが、その「F1組」がこの“カンナム”に注目し、続々と参加し始める。
ドライバーでいえば、ブルース・マクラーレン、ジョン・サーティース、ジャッキー・スチュワート、グラハム・ヒル、デニス・ハルム。コンストラクターではマクラーレン、ローラ、後にはポルシェ、フェラーリ、マーチ(現レイトンハウス)など。そうなると、これはもはや“草レース”ではない。これらのヨーロッパ勢に対して、アメリカ人として彼らを迎撃したのが気鋭のテキサス人ジム・ホールで、そのマシンが“怪鳥”シャパラルだった。
1966年からシリーズ化された「カンナム」は、はじめから大成功を収める。同時に、アメリカのレース・シーンに、貴重で国際的な歴史を刻んだ。1966年のチャンピオンは、ジョン・サーティース/ローラ。1967年から70年までは、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムが乗るマクラーレンの全盛で、20連勝という記録さえあるが、その連勝を止めたのはポルシェ908(3リッター)だった。
ブルース・マクラーレンの事故死は、このカンナム・マシンをテスト中の出来事である。また、日本グランプリでトヨタやニッサンと対決したのも、このカンナム用のローラやマクラーレンであった。
1970年、トヨタは負け続けの「日本グランプリ」のために、もの凄いプランを立てた。5リッターV8エンジンの「ターボ化」である。この「ターボチャージド・トヨタ-7」の出力は800馬力といわれ、現在のグループCカー並みで、当時としては驚異的なものだった。また、カンナムが「ターボ時代」となるのは1972年のポルシェからであり、その意味でも最先端だった。
だが、この驚異の「トヨタ-7」の目の前から、ライバルは突然消えてしまう。
「現下の自動車を取り巻く周囲の情勢から、安全公害問題に全力を尽くすべき時期である。大排気量プロトタイプ車による高速走行安定などに関する研究は、昨年までのグランプリ・レースにおいて、一応初期の目標を達成した」
「日本グランプリ」に2年連続で勝ち、1970年6月の全日本富士300マイル・レースに「R382」でワンツー・フィニッシュ(トヨタは不参加)したニッサンは、その次の日に、このような衝撃的な声明を発表した。
1970年の「日本グランプリ」に、ニッサン・ワークス出場せず……! この結果、秋の「グランプリ」というイベントそのものが中止となり、日本のレーシング・シーンは“冬の時代”へと入っていく。「ターボチャージド・トヨタ-7」は幻のモンスターとして、歴史と記憶の中のマシンとなった。「日本グランプリ」以外の闘いの場として、ひそかにイメージしたカンナムにも、ついに出場することはなかった。
1970年頃のカンナムは、常勝マクラーレンが衰退していた時期に当たり、各車がさまざまなトライとバトルを重ねていた時期だ。いわば過渡期であり、ターボによる圧倒的なパワーをもってすれば、トヨタ-7にとって「もし!」があり得たのではないかとも思われるが、もちろんそれも、すべて幻である。
そういえば1960年代後半から1970年頃というのは、日本のメーカーはモータースポーツの草創期でありながら、いや逆にそれ故にか、海外のレース・シーンに進出して、その力を試していた時期だった。ホンダはF1へ。ニッサンはサファリ・ラリーへ。マツダ(当時・東洋工業)はツーリングカー・レースで欧州へ。トヨタのカンナムへの夢は、そういう状況の中でのアメリカへの展開であった。
……ついに「時代」とミートすることがなかった800馬力の怪物マシンは、いま、静かなる日々をトヨタ博物館のフロアで過ごしている。さらば、60年代。そして、さらば、巨大ウイングの時代。
この「ターボチャージド・トヨタ-7」は、少なくともエンジンにおいては、日本の自動車工業がこの時点で既に世界レベルにあったことを示すモニュメントである。「国産車」の歴史の中のひとつの頂点として、長く記憶されるべきクルマであろう。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/01/23 20:53:01 | |
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