
この「 THE FORD CENTURY 」という百周年記念の本には、フォードに労働組合ができそうになった時に、それを潰そうと、社長のヘンリー・フォードが警備員(スト破りのギャング?)に命じて、組合の幹部を歩道橋で襲わせた。その際の被害者二人が鼻と口から血を流している写真が載っている。これはそんな“記念本”であり、事実は事実として書くという立場である(らしい)この本が、ヘンリー・フォードをどう描いているか。……ということで、もう少し、この「 THE FORD CENTURY 」を探っていく。
さて、自作のガソリン・エンジン始動に成功したヘンリー・フォードは、次に「クルマ」に挑んでいる。クルマといっても、自転車を二台併行に並べたような“四輪の自転車”で、それに2気筒のエンジンを組み合わせたものだ。(タイトルフォト)
その「クワドリサイクル」はできあがったのだが、しかし、作業部屋としていた小屋のドアは小さく、そのクルマを外に出すことができない。やむなくヘンリーは、斧で壁を壊し始めた……というのだが、これとよく似たエピソードが、1930年代のブガッティにもあった。ブガッティの場合は、速い列車を作ったら工場の門から出られなかった、だったか。この時にブガッティ氏が「塀を壊してくれないか」と言ったらしく、この挿話を初めて読んだ時には思わず笑ってしまったが。
まあフォードにしても、またブガッティも、どちらも事実ではあるのだろうが、天才的な技術者はしばしば、周りのことも忘れてモノ作りに熱中し、その結果、家の壁や庭の塀を壊すこともある、と──。これは、ヒーローを描く伝記作者が好むタイプのエピソードなのだろう。
そのエンジン付き自転車の「クワドリサイクル」は、ブレーキ、後退機能、ステアリングホイールは付いていなかった。もちろん操舵は可能で、四つの車輪をそれぞれに操舵できたという。このクルマを見せるために、ヘンリーはこれを運転して父ウイリアムの農場へ行くのだが、堅実な農業人である父ウイリアムは、息子がキワモノに浮かれていると思ったのか、このクルマについてはほとんど興味を示さなかったと、家族は証言する。
ただ、そんな父とは異なる反応もあった。「クワドリサイクル」を作った同じ年の1896年、ヘンリーは、電球と映画を発明したトーマス・エジソンに紹介される。そこでヘンリーが、いま自動車を作っていますと「クワドリサイクル」の絵を描きながら言うと、発明王は「燃料を内蔵式にしたのか、それだ。これからもその調子で頑張りたまえ」と声高に叫んだ。
「ヘンリーは大喜びでした。中年期を目前にし、真の成功を収めていなかった彼は、とりわけトーマス・エジソンに自動車開発を続けるよう促されたことで自信を深めました」と本書で語るのは、ヘンリー・フォード博物館の司書テリー・フーパーである。
そして、このエジソンのひと言によって、ヘンリーは勤めていたエジソン照明会社を退職することになる。「会社」と「自動車」のどちらを取るのか? 二足のワラジ的な生活だったヘンリーは、実は上司から、かねがねそう言われていたのだった。
……うーん、あのエジソンが登場したりでキャスト的には注目だが、ここまでのヘンリーとそのライフは、むしろ平凡であろう。ヘンリーも“人の子”で、そしてエキセントリック(奇矯)な部分はまったくない。心身ともに健康な、普通の常識人。強いてヘンリーが常人とは違っていたところを探せば、機械好きのエンジニアでありながら、一方で、経理や経営を学んでいたことだろうか。
こうしてエジソンの会社を辞したヘンリーは、「フォード・モーター」の前に、二つの小さな会社を興したと「 THE FORD CENTURY 」は記す。この二社は自動車製造会社だったそうだが、それ以上のことは本書には何も書かれていない。
そして1903年の6月、ヘンリーと11人の共同事業者は州政府の機関に、会社設立の申請書を提出した。これが今日にまで続く「フォード・モーター」の起こりで、この時点で彼らのもとにあったのは、2万8000ドルの現金と工具と、そして青写真だけだったという。この時、ヘンリー39歳──。
会社設立時の共同株主は、石油卸売業のアレキサンダー・マルコムソンと、銀行家、工場を所有している二人の兄弟、建築家、弁護士など。マルコムソンの腹心の部下で実務に優れたジェームズ・クーゼンズが、ほとんどのメンバーを集めてきた。この会社に、ヘンリーは、自身が持っていた特許、製図、そして経験を投入する。事業の運営面はクーゼンズが任されたので、ヘンリーは設計と開発に専念できた。
そして彼らは、外注部品を使えば、自動車を手早く安価に製作できると考え、小さな荷馬車の製造工場を貸借。1903年から1908年の間に、A型からS型までの型式の自動車を2万台売った。この時点でのヘンリーのクルマ作りのコンセプトが、前述した「家族全員が乗れる大きさがありながら、運転や手入れがしやすいコンパクトなクルマ。価格も低く抑え、ある程度の収入を得ている人なら必ず購入できるようなクルマ」だった。
そして、このようにフォード車の草創期を説明したあと、「 THE FORD CENTURY 」はすぐに、“あのT型”についての話に入ってしまう。ここはちょっと意外で、また残念でもあるのだが、創業から1908年までの5年間、そして「AからSまで」の初期フォード車については、販売が2万台だったという以外は何も描かれない。
クルマ史を紐解くと、「タイプT」のように、二打席連続の満塁ホームランといった機種ではないものの、野球でいえばシングルヒットで、そのあとも二塁まで走者は進んだ……といった感じの「N型」というモデルがあったようだ。これは小型で、エンジンが4気筒ということではT型と共通する。ただ三人しか乗れなかったので、ヘンリーは、この「N」には不満だったともいわれる。
ただ、何よりその「5年間」に会社がツブれることもなく、小規模ながらも商売はできていた。ゆえに、あの「T型」も生まれたと思われるのだが、成功の度合いが違いすぎるということか、この「 THE FORD CENTURY 」では、「AからSまで」の時期はあっさり無視されてしまった。
ちなみに「自動車の世紀」(折口透・著)では、フォード車の第一号車完成を「1896年」としている。これは「クワドリサイクル」のことで、そして1903年のフォード・モーター設立以後については、「もちろんフォードも最初は大型の高級モデルK型なども作っていたが、たまたま不景気が到来し(1907年)、1000ドル以下のモデル(N型など)の方が売り上げが伸びたことも、T型に踏み切るきっかけとなった」と、フォード社の“この時期”を評している。
(つづく)
Posted at 2016/03/12 10:35:37 | |
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