
1991年シリーズのF1、スクーデリア・イタリアのドライバーは、日本のF3000で育ったエマニュエル・ピッロだ。そして、チームメイトがJ・J・レート。エンジンはジャッドV10で、シャシーのコードネームは「ダッラーラ F191」──つまり、フォーミュラ・ワン(1)の“1991”である。
そして、今回本誌が撮影したモデルが、ご覧の「ダッラーラ F391」。コードネームの通りに、F3の最新、91年型。サイズでいうと、ほぼ6分の5のミニチュアのF1ということでもある。
ダッラーラF3の歴史は意外と長く、1981年には、イタリアのフォーミュラ・シーンにその姿を現わしていて、1985年以降は圧倒的なシェアを誇り、イタリアでのチャンピオン・シャシーとなっている。現・F1ドライバーであるニコラ・ラリーニやジャンニ・モルビデリも“ダッラーラ育ち”であり、ラリーニには1986年、モルビデリは1989年のイタリアF3のチャンピオンである。
また、現・ティレルで、中嶋悟のチームメイトであるイタリア人ドライバー、ステファノ・モデナは、カートからF3へと移行したが、そのキャリアの中にイタリアのF3チャンピオンというのが含まれていない。彼がイタリアでF3を闘ったのは1986年で、その翌年には、インターナショナルF3000に闘いの場を移した。
才能溢れるドライバーのモデナが、なぜイタリアF3のトップに立てなかったか? そのワケは、ステファノがF3で乗っていたマシンがレイナードだったから……とは、イタリアでは真顔で語られるエピソードだという。そのくらいに1986年は、イタリアF3でダッラーラ全盛の時であった。
イタリアは、多くのレーシング・ドライバーを世に送り出しているだけでなく、エンジニアやコンストラクターなどの「レースする人々」を生み続けている“熱い国”である。また、一旦フォーミュラに関わると、結果はともかく、何が何でもF1シーンまで駆け上るという傾向も見える。
ビッグ・フェラーリだけでなく、いまイタリア系のF1チームというのは、ミナルディ、オゼッラ(現・フォンドメタル)、コローニ、モデナ(実質的にランボルギーニ・ワークス)、そしてスクーデリア・イタリアと、五指に余る数だ。
そのような風土の中でのダッラーラだが、ここは、頼まれれば何でもするというプロフェッショナリズムを見せる一方で、フォーミュラ・レーシングのベーシックな部分を支えるF3マシンを黙々と作り続けた、そんな“スクーデリア”である。そして、そのダッラーラF3は、単なる走りのためだけを超えて、優美さと造型の妙も盛り込まれた、とても綺麗なフォーミュラだ。
日本へのデビューは、1986年の「鈴鹿」だった。ダッラーラのF3(F388/ニッサン)はほとんどぶっつけ本番で、そして非力なエンジンでありながら、予選7位、決勝でも3位という鮮やかなリザルトを残す。その時のドライバーが、いまや日本のF3000シリーズでトップ・コンテンダーに成長したマウロ・マルティーニだった。(彼は、1988年のイタリアF3では2位)
今年、2台のダッラーラF3が日本のF3レースを走る。この繊細にして美麗な“紅いエレガンス”は、果たして、どんなドラマを刻むだろうか。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/27 06:39:26 | |
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