
夢のエンジンには、夢のスタイリングを! 初代コスモ・スポーツを、もし、ひと言でいうなら、こういうことになる。キーワードは「ドリーム」だ。
コスモのこのスタイリングは、当時の「ドリーム・カー」や「未来車」の造形の集積というか、その頃の《夢》= Dream の要素を一身に集めたようなデザイン。誰が見ても、どこから見ても、そして、クルマのどこを切り取っても「未来的」だ。そんな思いに囚われる造形で、その意味では見事だった。
ところで、この「ドリーム・カー」だが、この言葉を今日に説明するのは、結構むずかしいことに気づく。まあ無理やり現代語にホンヤクすれば、「コンセプト・カー」ということになるかもしれないが、ただ「参考出品車」の場合は、いずれは市販されることがあるのに対して、1960年代当時の「ドリーム・カー」は、文字通りに“夢のクルマ”であり、具体性は求められていなかった。
言い換えれば、「クルマ」は当時、まだまだ発展途上の商品で、何をしても許された代わりに、よくわからないところが多い分、その限界も見えていなかったということではなかったか。こんなこともできるはず、こんなクルマにしてみたいと、誰もが「クルマ」を材料に夢を見ていた。
そんな1960年代の初頭、エンジンでいうなら、《夢》はロータリーにあり、だった。既存のレシプロ・エンジンのように、ピストンの往復運動を回転運動に交換して後、ようやくクルマを動かすためのチカラとする……のではなく、はじめから「回転する」エンジンがあるというのだ。こうした「回転するピストン」の《夢》は、人類は16世紀から追い求めていたそうで、それが20世紀の中葉に、ついに実現しそうになっていたのである。
そんな《夢》のエンジンの発明者はフェリックス・ヴァンケル(1902~1988)。その名を取って「ヴァンケル・エンジン」とも呼ばれたこのエンジンが、メーカー(NSU)との共同研究に入ったのは1951年だった。そして、そのライセンスを日本の東洋工業(現・マツダ)が獲得したのが1961年のこと。東洋工業はライセンスの獲得後、1963年に、試作のロータリー・エンジンをモーターショーで初めて公開した。
その同じ頃、この“はじめから回転するエンジン”のライセンスを取得したメーカーやエンジン製造者の数は、世界中で「28」にのぼったといわれる。このエンジンが自動車業界に与えたインパクトの強さを示す数字である。
しかし、その“回転エンジン”を、実際の路上での使用に耐えるまでに作り上げることができたのは、ひとり東洋工業だけだった。ライセンス取得後の苦節数年を経て、東洋工業=マツダは、《夢》のエンジンを《夢》のような“包装紙”でくるんだスタイリッシュな「市販車」を発表した。それが、この「コスモ・スポーツ」であった。(1967年)……また、1970年代の前半。世界をオイル・ショックが襲った時に、すべての他メーカーは“回転するエンジン”の開発と研究を放棄した。しかし、マツダだけはそれを行なわなかった。
このクルマ「コスモ・スポーツ」は、たとえば世界初のロータリー搭載車(これはNSUがその“権利”を持つ)であるといった栄誉を担うものではない。しかし、21世紀の「RX8」にまでつながる、往復運動しないエンジンの具体化とその実用化という「マツダ史」の《夢》の原点として、そして、自動車史全般という視点からも絶対に外すことができない、地上に舞い降りた“リアル・ドリームカー”だった。
(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/11/23 13:40:38 | |
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