
第1章 ニュルブルクリンク part1
パリから南西へ、およそ200キロ。ル・マン市のサルテ・サーキットは、毎年6月に壮大な祭りの季節を迎える。ル・マン24時間耐久レースである。
1994年6月18日、土曜日、午後4時。そのサルテ・サーキットに3台のNSXが並んだとき、ホンダ栃木研究所の橋本健は不思議に冷静だった。
(あ、並んだな。これで、レースが始まるんだな)
ホンダNSXを駆る3チームの総監督として、これから先、恐ろしく長い24時間が始まることにまだ気づいていないし、そもそも24時間レースなんて、やったこともないのだ。
しかし、ともかく“彼のNSX”は、いまル・マンにいる。これから、レースを闘おうとしている。この現実に至るまでの長い時間を考えれば、24時間はあまりにも短い。橋本がこうイメージしていたとしても、それは誰にも責められないだろう。まだル・マンは、あるいは24時間レースという怪物は、どのエントラントに対しても牙を剥いていないのだ。
いや、ようやくスタートにこぎつけたことに感慨を持てるほどヒマじゃない。こう見る方が正解なのかもしれない。この半年余り、エンジニアとしてヒートアップしたまま、冷めるときもなく、94年の6月はやって来た。
(一年延ばしたくない、やっぱり、94年のル・マンには出る!)
こうして駆けつづけたのが、この半年だった。
そしていま、NSXはこうしてサルテにいる。これはやっぱり、あの時から決まっていたのだ。もし橋本健が、これから始まる24時間のことでなく、ちょっと過去を振り返る気になったら、同じヨーロッパの空の下での、もう一つのサーキットでの苦闘を思い出したことだろう。そのサーキットの名はニュルブルクリンク。
NSXとニュル。この遭遇が、ここ何年かの橋本の仕事を決定したと言って決して過言ではない。そもそも、NSXというクルマがニュルなしには生まれなかった。そして、NSXがなければ、ル・マンも何もなかった。すべては、ニュルから始まったのだ──。
*
「何でだよ!?」
思わず橋本健は、口を尖らせて叫んだ。何でダメなんだ、何で走れないんだ? スタッフも同じだった。ダメなことだけはわかった。でも、どこがダメなのかは見えなかった。
時は1989年の春。ニュルブルクリンク・オールドコースのピット。走れないとされたクルマは「NSX」だった。
……「ニュル」は不思議なサーキットである。NSXを走らせる前に、橋本をはじめとするテスト・スタッフは二日間の練習日を設けた。そして、初めてのサーキットを市販のプレリュードで走った。それは、何でもなかった。
(何だ、言われるほどの道じゃあないな。大したことないや!)
橋本自身も、そう思った。しかし、プレリュードではなくNSXで走りはじめたとき、ニュルは一転して、別のサーキットであるかのような様相を呈したのである。
2リッター級4気筒のスポーツクーペと、3リッターV6の純スポーツカー。この両車では、メーター読みでたった40km/hしか走行速度は違わない。しかし、その40キロ差がもたらすものが凄いのだ。車速が上がった途端、いきなり、ボディがよじれ始める。クルマが空を飛び始める。「G」が横方向だけでなく、縦にも斜めにもかかる。車体は浮き、ハネるが、それが予測不可能なため、ドライビングしてるという感じにならない。どう浮くかわからないのだから、どう落ちるかはさらに読めない。
「何なんだよ、これは!」
橋本健は、ふたたび呻いた。
そもそもこのNSXは、栃木研究所で、一応十分に仕上げてきたつもりだった。フェラーリにも乗った、ポルシェも攻めてみた。その上で、NSXもテストした。ホンダ初の本格スポーツカーNSXは、そういうテストで、先輩たちと較べてもまったく遜色なかったし、優れている部分さえあった。これはイケる! そうした自信のもとに、ニュルへやって来たのだ。ニュル体験はスポーツカーNSXにとって、その仕上げの、ほんの終章のつもりだった。ニュルも走っておこうよ! その程度のノリだった。
だがニュルブルクリンク(オールドコース)は、終章どころか、きみたちのNSXは序章にすら達していないと、橋本らに対して白紙宣言をしたのである
世の中には、恐ろしい道があるのだ。橋本は心の底からそう思った。井の中の蛙だったと認識した。このクルマではニュルは走れない。
そういえば、鈴鹿サーキットでも何度もテストしたし、あのアイルトン・セナに乗ってもらったこともあった。セナは言った、「剛性がないね」。そうだろうか? セナだからじゃないのか? そう思っていたこともあった。でも、そうではなかった。セナでなくても、誰が走っても、ここニュルではダメなんだ。そのことを、セナは言っていたのだ。
世の中、こんな道もあるんだよ──。ニュルは静かに、橋本に課題を突きつけていた。そして橋本は、ニュルですらこうなんだと、その課題を置き換えていた。じゃあ広い世の中、もっとクルマにとって過酷な道だってあるかもしれない、と。
ともかく最低限、ニュルを征服しなきゃあダメだ。ホンダのスタッフは、コース脇の納屋を借り切り、そこを臨時のファクトリーとした。そしてそれは、何でもやってみる工場となった。ここを補強したら、ボディの剛性はどうなるのか。サスペンションのジオメトリーをこういじると、クルマはどう変わるのか。板金もやったし、溶接もやった。そしてコースに出て、また補強した。ニュルを走れるNSXを作りあげるまでは、ここから帰れなかった
(つづく) ──文中敬称略
○解説:『 Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』の再録です。本文の無断転載を禁じます。