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家村浩明のブログ一覧

2014年01月31日 イイね!

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦

Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦
第1章 ニュルブルクリンク part1 


パリから南西へ、およそ200キロ。ル・マン市のサルテ・サーキットは、毎年6月に壮大な祭りの季節を迎える。ル・マン24時間耐久レースである。

1994年6月18日、土曜日、午後4時。そのサルテ・サーキットに3台のNSXが並んだとき、ホンダ栃木研究所の橋本健は不思議に冷静だった。
(あ、並んだな。これで、レースが始まるんだな)
ホンダNSXを駆る3チームの総監督として、これから先、恐ろしく長い24時間が始まることにまだ気づいていないし、そもそも24時間レースなんて、やったこともないのだ。

しかし、ともかく“彼のNSX”は、いまル・マンにいる。これから、レースを闘おうとしている。この現実に至るまでの長い時間を考えれば、24時間はあまりにも短い。橋本がこうイメージしていたとしても、それは誰にも責められないだろう。まだル・マンは、あるいは24時間レースという怪物は、どのエントラントに対しても牙を剥いていないのだ。

いや、ようやくスタートにこぎつけたことに感慨を持てるほどヒマじゃない。こう見る方が正解なのかもしれない。この半年余り、エンジニアとしてヒートアップしたまま、冷めるときもなく、94年の6月はやって来た。
(一年延ばしたくない、やっぱり、94年のル・マンには出る!)
こうして駆けつづけたのが、この半年だった。

そしていま、NSXはこうしてサルテにいる。これはやっぱり、あの時から決まっていたのだ。もし橋本健が、これから始まる24時間のことでなく、ちょっと過去を振り返る気になったら、同じヨーロッパの空の下での、もう一つのサーキットでの苦闘を思い出したことだろう。そのサーキットの名はニュルブルクリンク。

NSXとニュル。この遭遇が、ここ何年かの橋本の仕事を決定したと言って決して過言ではない。そもそも、NSXというクルマがニュルなしには生まれなかった。そして、NSXがなければ、ル・マンも何もなかった。すべては、ニュルから始まったのだ──。



「何でだよ!?」
思わず橋本健は、口を尖らせて叫んだ。何でダメなんだ、何で走れないんだ? スタッフも同じだった。ダメなことだけはわかった。でも、どこがダメなのかは見えなかった。

時は1989年の春。ニュルブルクリンク・オールドコースのピット。走れないとされたクルマは「NSX」だった。

……「ニュル」は不思議なサーキットである。NSXを走らせる前に、橋本をはじめとするテスト・スタッフは二日間の練習日を設けた。そして、初めてのサーキットを市販のプレリュードで走った。それは、何でもなかった。
(何だ、言われるほどの道じゃあないな。大したことないや!)
橋本自身も、そう思った。しかし、プレリュードではなくNSXで走りはじめたとき、ニュルは一転して、別のサーキットであるかのような様相を呈したのである。

2リッター級4気筒のスポーツクーペと、3リッターV6の純スポーツカー。この両車では、メーター読みでたった40km/hしか走行速度は違わない。しかし、その40キロ差がもたらすものが凄いのだ。車速が上がった途端、いきなり、ボディがよじれ始める。クルマが空を飛び始める。「G」が横方向だけでなく、縦にも斜めにもかかる。車体は浮き、ハネるが、それが予測不可能なため、ドライビングしてるという感じにならない。どう浮くかわからないのだから、どう落ちるかはさらに読めない。
「何なんだよ、これは!」
橋本健は、ふたたび呻いた。

そもそもこのNSXは、栃木研究所で、一応十分に仕上げてきたつもりだった。フェラーリにも乗った、ポルシェも攻めてみた。その上で、NSXもテストした。ホンダ初の本格スポーツカーNSXは、そういうテストで、先輩たちと較べてもまったく遜色なかったし、優れている部分さえあった。これはイケる! そうした自信のもとに、ニュルへやって来たのだ。ニュル体験はスポーツカーNSXにとって、その仕上げの、ほんの終章のつもりだった。ニュルも走っておこうよ! その程度のノリだった。

だがニュルブルクリンク(オールドコース)は、終章どころか、きみたちのNSXは序章にすら達していないと、橋本らに対して白紙宣言をしたのである

世の中には、恐ろしい道があるのだ。橋本は心の底からそう思った。井の中の蛙だったと認識した。このクルマではニュルは走れない。

そういえば、鈴鹿サーキットでも何度もテストしたし、あのアイルトン・セナに乗ってもらったこともあった。セナは言った、「剛性がないね」。そうだろうか? セナだからじゃないのか? そう思っていたこともあった。でも、そうではなかった。セナでなくても、誰が走っても、ここニュルではダメなんだ。そのことを、セナは言っていたのだ。

世の中、こんな道もあるんだよ──。ニュルは静かに、橋本に課題を突きつけていた。そして橋本は、ニュルですらこうなんだと、その課題を置き換えていた。じゃあ広い世の中、もっとクルマにとって過酷な道だってあるかもしれない、と。

ともかく最低限、ニュルを征服しなきゃあダメだ。ホンダのスタッフは、コース脇の納屋を借り切り、そこを臨時のファクトリーとした。そしてそれは、何でもやってみる工場となった。ここを補強したら、ボディの剛性はどうなるのか。サスペンションのジオメトリーをこういじると、クルマはどう変わるのか。板金もやったし、溶接もやった。そしてコースに出て、また補強した。ニュルを走れるNSXを作りあげるまでは、ここから帰れなかった

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ……1994レーシングNSXの挑戦 』
この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』の再録です。本文の無断転載を禁じます。
2014年01月31日 イイね!

エンジンは何処だ!? 大胆不敵、トゥデイの造型革命

エンジンは何処だ!? 大胆不敵、トゥデイの造型革命§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

軽自動車はまだ「やること」があったのだ、と教えてくれたのが、ホンダの新作トゥデイである。

というのは、昨今のニュー軽は、ミニカにせよミラ/クォーレにせよ、ある寸法の範囲内では進化し尽くしたように見えていたからだ。1.5ボックスよりもさらに前部のエンジンを収めるハコは小さくされ、いわば1.2~1.3ボックスへ。その分、全長に占める室内長は広がり、車高も高くして居住空間の利用率を向上させる。ルーフはいさぎよく、垂直に近い線で断ち切って、ほんとに四角いハコの形にする。

この後できることといえば、法規を無視するか、キャブオーバー型のワンボックスにするかぐらいしかないんじゃないか……と、某社の軽・開発スタッフは冗談まじりに洩らしていたほどで、われわれもそう思いかけていたのだである。

しかし、ウーム……まだ手口はあったのだ。

ホンダ・トゥデイにおける卓抜なるアイデア──それはエンジンを寝かせてしまったことである。オールアルミ製の2気筒エンジンは、当然横置きでFFだが、これを水平にマウントした。ただ、このままでは、エンジンは低くなっても、前後方向に長くなるだけ。しからば、その主たる出っ張りであるデフ部分をエンジンの下側に入れちまったらどうか? というわけなのである。いわば“二階建て構造”のパワートレーンで、これがトゥデイの短い短いハナの部分に詰まっている。

さらにこのマウント方式は、他の要素とも有機的に関わり合って、トゥデイのアイデンティティを形成する。

まずサスペンションと連携して、車体のほんとの四隅にホイールを配置したいという夢を可能にした。並みのクルマよりも前進したデフが、前輪をさらに前方へ押しやってくれたのだ。

また、ボンネット髙が低くなったので、ウェストラインも下げられる。フロントウインドーも低くできたから、シートの位置、つまりアイポイントも下げてよい。全高1315㎜と、外見は低姿勢ながら、室内はまったく狭くならないというわけ。

もうひとつおまけに、シリンダーが前後方向に水平になっているので、「エンジンの加振力と駆動反力を分散支持する慣性主軸式エンジンマウントを採用」できて、この点は確かに、メーカーの言うように、室内に振動が来ない。(軽らしくない!)

らしくないといえば、以上の結果として実現したロング・ホイールベースもそうだ。トゥデイの軸距、2330㎜。これは、1200ccのシティよりも110㎜長い。スターレットとマーチのそれは2300㎜であり、新型ミラ/クォーレは2250㎜なのである。

室内へのホイールハウスの進入がない軽。ドライバーズシートをいっぱいに下げると、足がペダルに届かなくなる軽。左向きのかたちで運転しなくてもよい、ハンドル&ペダルがオフセットしていない軽……。パワートレーン搭載法における“コロンブスの卵”的なホンダのアタマの柔らかさは、軽自動車というものを、文字通りの意味で「拡げた」といえる。軽の新しい規範である。

31馬力のエンジンは、ターボなんかはないので目覚ましくはないけど、十分走るし、何よりしっとりした乗り心地が、ここでも軽らしくなくて良い。コーナリングを外から見ると結構ロールしているのだが、ドライバーにはそれと感じられないことも付記しておく。

非対称グリルの大半を占める黄色いナンバープレートがひどく無粋で目立ってしまうのが残念だが、これはもちろん、メーカーのせいではない。まずはお試しあれ。

(1985/10/16)


○単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈

トゥデイ(85年9月~  )

◆軽自動車マーケットに再参入したホンダの採った方法は、この世界に「スタイリッシュ」という概念を導入したことだった。実用性はそれなりに確保しつつも、もっとかわいくなれるはず……というもので、まずこのような造型が決められ、それに合わせて、パワートレーンが作られた(本当である)。大いに感心はしたが、2気筒エンジンはやっぱり非力でマイナーチェンジで3気筒へと強化されて、現在に至っている。デザインだけで言えば、この当時の丸型ヘッドランプの方が、現行型の顔よりはるかにキュートだ。

Posted at 2014/01/31 09:08:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年01月31日 イイね!

小指とスポーツカー 《1》


小指とスポーツカー

それは私が小学生の頃と思われるので、時代としては1950年代の末、あるいは60年代初期であっただろう。その頃の夜も9時過ぎ、宵っ張りのコドモ(私)が覗き見ていた外国のテレビ映画に、いまもその一部を覚えている鮮烈なものがあった。そういえば当時は、大量のアメリカ製のドラマや映画が、放送開始後数年という段階であった日本のテレビ番組を占拠していたものだ。画面は、まだモノクローム。記憶しているストーリーの断片から察するに、おそらく『ヒッチコック劇場』シリーズ中の一篇ではなかったか。

話というのは、こうである。街のカフェのようなところに青年がいて、カウンターにもたれてライターを弄んでいる。そのライターは、青年が「カシッ!」と操作するたびに、いつも確実に火がつく。すると、いつの間にか隣には中年の男がいて、その青年に話しかけるのだ。

「ずいぶん調子のいいライターじゃないか」
「まあね」
「さっきから見てたけど、必ずワン・アクションで火がつくね」
「ああ、そのへんにあるやつとは違うんだ」
「でも、10回続けてつくだろうか?」
「何回だって簡単だよ、ほら」
青年は、さっきまでしていたことを繰り返す。ライターは着実に発火するが、しかし中年男はなおも絡んでくる。
「そうかな? 本当に10回も火がつくかな?」
「おい、何を言いたいんだ!」

気色ばむ青年に、一見裕福そうな中年男は穏やかに言う。
「もし、そのライターが10回連続でついたら――」
「必ずつくさ、ついたら何だ?」
「きみの勝ちだ。あれをあげよう」
中年男はカフェの窓越しに路上を指差す。そこには、男が乗ってきた(らしい)一台のスポーツカーが停まっている。
「でも、もし、つかなかったら、私の勝ちだ」
中年男は青年の手に視線をやって、無雑作に言った。
「その小指をもらう」

テレビ画面を覗き見していた少年は、このストーリーに驚愕した。いや、ほとんど戦慄したというのが正しいかもしれない。少年は半ば震えながら、しかし、画面から目が離せなくなる。ドラマの中の青年は、もちろんこの勝負を受けた。モノクロ画面の中で、三度、四度とライターは火がつき、炎がクローズアップされる。

……そうだ、今日の感覚では、なぜこんなことで賭けが成立するのか、そのことが不思議であるかもしれない。いや、この頃のライターは、そう簡単に火がつく代物ではなかったのだ。摩擦を起こすための「石」を定期的に交換しておく必要があったし、仮にそうしたメンテナンスがなされていても、その石の摩擦によって生じた火花とオイルやガスがきちんと同調して、実際に“火になる”かどうかは、また別の問題だった。そのため、はじめから「カシカシッ」と数回の摩擦を行なう。つまり一回の操作(摩擦)で火をつけようとはしないという裏ワザも、ライター使用の際の常識として確立されていたほどだ。

したがって、「シュボッ!」という一回のアクションで快調に火がつくライターが、もしあったとすれば、それを持ち主が自慢気に見せびらかすのは大いにあり得ることだった。10回連続で、それもワンアクションで火がつくとは、当時は至難であったはずである。こと点火の確実性において、50~60年代のライターはたとえ高価なものであっても、近年に百円程度で売られているライターに遠く及ばなかった。もし昨今、こんなことを言い出す中年男がいたら、あまたの青年がそこらで拾ってきたライターで、何台でも好きなクルマを手に入れることができる。

さて、このドラマが私の記憶から去らなかったその理由は、そんな当時の工業水準がらみからではない。このドラマは、とにかく怖かった! それもほとんど肉体的な恐怖で、青年が賭けの代価として差し出したものが、生きている肉体の一部であったことに、少年は怯えた。天秤のようなハカリがあり、その片方の皿に「自動車」が載っている。そしてもう一方の皿には、それに釣り合うものとして、青年は自身の「小指」を載せなければならないのだ。

もちろん、勝負事と割り切れば、勝てば済むことではある。世の強者の方々はそんな風に思いながら、こうした物語を見続けるのであろうか。しかし、巷には気弱な少年もいる。この賭けに、もし勝てなかったら……? このシナリオの極端さというか、勝ち負けによって生ずる結果の“振れ幅”の大きさは人を脅かすに十分で、シナリオとしても優れてキャッチーであろう。この設定とストーリーなら、コドモならずとも、何らかの決着がつくまではテレビの前から離れられない。

(つづく)
Posted at 2014/01/31 01:51:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2014年01月31日 イイね!

越えられない“踏切” part1


越えられない“踏切”
       ~ アメリカ映画『恋に落ちて』の“深層”を妄想する

アメリカ映画であるのに、ヒロインが乗るクルマがホンダ・シビック。その小柄のボディが、ヒロインの想いとともにクライマックス・シーンで突っ走る。日本のクルマがアメリカ映画で、それも主役側の重要なギアとして登場。そんな記念すべき作品でもあると、この映画については記憶していた。日本での公開は1985年ということで、その際に映画館で観たと思う。

さて、DVD(レンタル)という便利なツールで、2013年の冬、この映画を見直した。たまたまクリスマス・シーズンと重なったのは、単なる偶然。あらためて観ると、クルマと物語との関係が非常に“密”で、クルマが常にドラマの内容と進行に影響を与えている映画でもあった。たとえば発端にしても、ほかならぬクルマの“事情”が主人公の行動を決している。

ニューヨークのマンハッタンと郊外の住宅地域を結ぶ通勤鉄道。映画はこれを重要な小道具とし、その「トレインM」に登場人物が乗ることで物語が始まる。この列車に主人公が乗った原因と理由は、朝にクルマが使えなかったこと。トレインに乗り込んだモリー(演ずるはメリル・ストリープ)は、座席に収まると、すぐに新聞を広げた。そして次の駅で、同じ車両にフランク(ロバート・デ・ニーロ)が乗り、モリーの一列後ろに座った。マンハッタンに到着後、駅構内の公衆電話で、二人はそれぞれ連絡を入れる。

フランクは「たぶんオルタネーターだ。だから、ガレージに置いてきた」と妻に言っている。モリーは、医師であるらしい夫とは直に話せなかったものの、電話の相手に「(クルマが)スタートしなかったの。だから電車で来たわ」と語る。なるほど、フランクがやや慌てた感じでタクシーで駅に乗りつけたのは、そういう事情であったか。

この時に二人が着いたのは、クリスマス直前のマンハッタンだった。フランクとモリーは家族のための買い物をして、さらに書店に向かい、パートナーにプレゼントする本を買い求める。そして、レジを済ませたあたりで二人はぶつかり、互いの持ち物を床にバラ撒いてしまう。拾い集めるために協力する二人は、言葉は交わしつつも相手の顔を露骨に見ることはしない。そして、この程度のコンタクトで自己紹介をすることもなく、季節の挨拶としての「メリー・クリスマス!」を言い合って、二人は雑踏に消える。ただ、こんな風であったのに、相手の顔を記憶していたことは後にわかるのだが。

そんなニューヨーク郊外在住者であるフランクは、ダッジのエンブレムが付いた中間サイズ、白っぽい4ドアセダンに乗る。すでに子どもが二人いるこの家庭には、もう一台、奥様が運転するステーション・ワゴンがあって、こっちはフルサイズだ。

一方、会社勤めではないモリーが乗るのは、ホンダ・シビックの3ドア・ハッチバック。日本の広告展開では“ワンダー・シビック”と呼ばれていた機種で、自宅にモリーが帰ってきたという場面で、いきなり(演芸用語での)ピン状態で登場する。車体色はシルバー・メタか。アルミではなくスチールのホイールというのが、アメリカの“日常車”らしい雰囲気。そして、このシビックがマニュアル・シフト(MT)車だということが後にわかる。

この映画が製作されたのは1984年という。映画の中の時代設定も、同様に80年代のアメリカだとして、イラン政変による、いわゆる第二次石油ショックが起きたのが1979年。この時にアメリカでは、燃料を食う大きなクルマが一気に売れなくなり、コンパクトで燃費がいい外国からの輸入車、具体的には日本車の人気が沸騰して、市場ではプレミアムが付いたとされる。

そんな日本車人気に政治が介入し、日本政府は(メーカーではない)アメリカへの自動車輸出台数を制限する政策を採った。それが1981年で、それならと日本のメーカーは、米国での現地生産という新たな“ウェイ”を探ることになる。その動きの最先端にいたのがホンダで、彼らは1982年にオハイオ州に工場を建て、アメリカでの生産を開始した。ホンダの現地生産は、まずは(高価な)アコードから始まったので、この映画に登場するシビックは、おそらく日本からの輸入車として現地を走っていたものと思う。

(つづく)
Posted at 2014/01/31 00:48:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2014年01月31日 イイね!

80年代後半、こんなコラムを週刊漫画誌に

80年代後半、こんなコラムを週刊漫画誌に80年代後半、こんなコラムを週刊漫画誌に書いていました。
   ~『アクション・ジャーナル』セレクション 

(単行本『自動車コラム大全 1984~1989』双葉社刊より)

○解説と少々のイイワケ……

1980年代に“青年漫画誌”というジャンルがあり、大人向けの漫画だけでなく、一般週刊誌に対抗しての活字ページが各誌に設定されていました。そんな中で双葉社が刊行していた『週刊漫画アクション』は、成人漫画誌の定番だったギャンブル情報などではなく、「コラム」の集成で活字ページを作っていました。それが『アクション・ジャーナル』です。

そのページを担当していたのが気鋭の編集者Kさんで、そこに集った若手のライターたちが、誰が何を書いてもいいというルールのもと、毎週5~6本のコラムを誌面化していました。そんな書き手グループの末席に、ある日、カー雑誌編集経験あり……というだけの私が加わったわけです。

興味深いのは、その『アクション・ジャーナル』コラムがすべて無署名であったこと。掲載した記事の「文責」はすべて編集部にあるというシステムであるわけですが、しかしその分、何をどう書くか。これが書き手にとっての問題になりました。オレはこれが好きだ!……だけでは「コラム」にならないんですね。

当時は電子メールはなく、ファクシミリもそんなに一般的ではありませんでした。したがって、基本は原稿用紙の手渡しです。フットワークが凄いKさんは、どんな時刻であっても、原稿の受け渡しに応じました。……というか、出来上がりの遅い書き手(=私)のせいで、そうせざるを得なかったわけですが。

深夜のファミレスなどで、目の前で、実は先刻できたばかりの原稿を読むベテラン編集者──。読み終えて、「ところで……」と、読んでいた原稿とはまったく無関係な話をKさんが始めたら、それは(この原稿、オッケーです!)のサインでした。一方その段階で、コラムの斬り口や内容について修整の打ち合わせをして、書き直しになることも少なくありませんでした。

そんな風にして何年間か“走った”あと、『アクション・ジャーナル』のクルマ関係コラムをまとめてみようかという話が浮上し、1990年の直前、正確には89年末に、コラム105篇を並べた本が双葉社から刊行されました。書籍のタイトルをどうするかでもいろいろありましたが、“コラム”という語を使いたかったので、やや硬いのは承知で、『自動車コラム大全 1984~1989』を書名としました。

また、コラムの執筆時と単行本化の時期が、ものによっては数年ズレていたため、単行本では、採り上げたクルマの写真とともに、90年目前時点でのクルマの説明や注釈のようなものを加えました。そこで多少のイイワケもしていますので、ここでまた2010年代にイイワケを重ねることは避けます。

いま読むと、妙に肩にチカラが入っていたり、気になる点もいくつかありますが、かつて、ここに採り上げたようなモデルがあったこと。そして、活字という媒体がゲンキだったこと。そうした記憶と記録の一環になればと、ブログ開設記念の一コンテンツとして、ここで再録&公開することに致しました。

(2014年1月)
Posted at 2014/01/31 00:31:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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