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家村浩明のブログ一覧

2014年07月31日 イイね!

初代シビックを語る 《6》 part2

 ~ 1972年シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第6回 存在感の薄いクルマにはしないぞ! (下)

----「シビック」は、たしかに安価なクルマではありましたが、たとえばディスクブレーキとか、タイヤはラジアルだとか、そういうカスタマーを“くすぐる”ようなことに関しては、きちんと押さえてありましたよね。

木澤 ええ。ディスクブレーキ、ラジアルタイヤ、付けたんですね。それで、これは「シビック」ではないんだけれども、それをもっと、本当はやりたかったというのを技術的な分野で(すべて)入れたのは「アコード」の初代です。たとえば「5速のミッションもほしいね」という発想でやったのは「アコード」です。

----その「アコード」も?

木澤 ぼくは初代の「アコード」やったLPLです。「シビック」と「アコード」のLPL、それから、初代の「プレリュード」までやらされた。これは意にそぐわないところがたくさんあって、やったクルマですけどね。

----でも“曲がるクルマ”ばかりですね、みんな(笑)。

木澤 恥ずかしいんだけど(笑)。当時“曲がるクルマ”といっても、たとえばラック&ピニオンとフロントサスペンションのジオメトリーみたいなものだって、そんなに十分、まだ、わかりきってなかった。だから、「シビック」の右左のドライブシャフトの長さが違って、しかも多少アングルを付けざるを得なかった。

それから、トルクステア(注2)が起こるみたいなことが、設計している段階で……(わかってはいた)。それは、水平なドライブシャフトにしたり、等長のドライブシャフトにしたり、あるいはフロントのノーズが上がったときに、トー変化を起こさないようにしようとか、こういうのは、いまでこそ誰でも当たり前のことなんですけれども。でも、当時は、そんなにそれが悪影響を及ぼすものだというようには認識していなかった。理屈としてはわかっていても。

◆サスペンションは、誰に何を言われようと「四独」にする!

木澤 それとサスペンションでは、これひとつ、おやじ(宗一郎)さんとの論争があったのですけど、四輪独立懸架にしたいというのが最初からあった。それはさっきのように、やはり「走り」でいろいろチューニングしていったときに、たとえばレースにも出られる、ラリーにも出られるというクルマにしたいので。

そのためには、フロントエンジン/FF(前輪駆動)であっても、リヤ(サスを)リジッドにはしたくなかった。

これについては、おやじさんは「リーフで何でいかんのだ」というので、シャシー担当が危うく頭をぶん殴られそうになったことがありました。それを河島(喜好)さんが救ってくれて、「まあ、いいじゃないですか、『独懸』やりたいんだから、やらせてやれば」と。四輪独立懸架にしたいというのは、はじめから──。

----それは、いろいろな欧州車に乗られたご経験からも?

木澤 そうです。

----初代の「シビック」には、当時の「クルマって、最新のやつはこうなっているよね」というのが、メカ的にはほとんど盛られていましたよね。

木澤 そうですね、上手にできていたかどうかは別として(笑)。だから、さっき申し上げたように、知識のレベルがホンダだけでなくて、ほかもそんなには高くなかったんだろうと思います。でも、ヨーロッパのクルマは(あの時点では日本車とは)かなり違うところがありました。

----カタログ的なスペックとしては、ほんと、外国車に負けてなかったと思うな!

木澤 ええ、スペックとしては(笑)。(クルマは)こういうものにしなければいけないということは認識していましたから。

(つづく) ──(収録:1998年春)

注2:トルクステア
これはもう死語というか、言葉だけは残っているが、現象自体はなくなってしまった……ということだと思う。60~70年代には、たしかに「FFのクセ」というのがあって、それを嫌う“伝統主義者”の方々は前輪駆動車には乗りたがらなかった。

それは、エンジンを横置きにしたFF車の場合、アクセルのオン/オフや踏み加減の具合がいちいちステアリングホイールに伝わるという現象で、つまり、いまどういう“チカラ”(トルク)がステアリングにかかっているかが、そのまま手のひらで感じられたのだ。

対して「FR」などの後輪駆動車は、駆動輪は前輪ではないので、アクセルをどう踏んでも、前輪(そこからつながるステアリング、そして手のひら)にその種の“変化”が伝わることはない。「FF」には、駆動輪と、方向を操作する車輪が一致していることによるメリットはあったものの、このトルクステアは前輪駆動の特徴、あるいは欠点のひとつとして指摘されていたものだ。

しかし、ある時期から、この「クセ」は見えなくなった。それまでは、クルマに乗ってちょっと「曲がって」みれば、(あ、これはFF車ね…)という感じがあったのだが、いつの間にか、それを体感することがむずかしくなっていた。(私が鈍感だというせいもあったと思うけど(笑))年代で大雑把に区切れば、日本車におけるトルクステアは、80年代にはほぼ消滅していた現象と言っていいのではないか。

ちなみに、70年代後半(1978年)から小型車のFF化に参入したトヨタは、この現象を避けるために「ターセル」のエンジンを縦置きとした。また、60~70年代のスバルの「1000」そして続く「FF-1」は、水平対向という形式もあって、始めから“縦置き”だった。
2014年07月29日 イイね!

初代シビックを語る 《6》 part1

 ~ 1972年シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第6回 存在感の薄いクルマにはしないぞ! (上)

----それにしても興味深いのは、70年代初頭の日本に、なぜ“あのようなクルマ”が出てきたのか……。

木澤 ええ、当時の小さなクルマとしては、すでに「カローラ」とか「サニー」があって、FFとしては「チェリー」もあった。

----「スバル」(1000~FF1)もありましたね。

木澤 「カローラ」の初代の「1100」は、ハードウエアとしては、かなりいいクルマだったと思います。「サニー」も、そこそこよかった。でも、われわれにとってというか、クルマ好きから見ると存在感の薄いクルマでした。われわれがよく言っていたのは、「学校の先生や、役所に勤めているお父さんが買うんじゃないようなクルマを作ろうよ!」。これは、ものすごく意識の中にありました。

そういう土壌というのは、もともとホンダに入ってきたヤツが持っているものです。レースが好きだったり、モータースポーツが好きだったり、また走るのが好きだったり。そもそも、そういう連中ですからね(笑)。

だから、地味なクルマというか、存在感の薄い、小市民的なクルマは作りたくないというのが、みんなの頭の中にあった。当時の感じで言うと、腕に黒いカバーをはめて机に座ってハンコ押してる、そういうような人が買うようなクルマじゃないのを作ろうよ、と。(シビックがああいうクルマにまとまったのは)それがあったからでしょうね。

----もうひとつは、トヨタ、ニッサンの場合は、そういう小さいクルマは最下級のモデルであるというのがあったと思います。

木澤 そうです。ホンダの場合、幸い(社内に)比較するものが何もなかった。上にクルマがあって、これ以上(上級車を)超えないようにしようとか、(上下関係の中で)見てくれはこうだ(この範囲で)とか、そういう比較をやらなくて済んだ。それで、あんなクルマになったんだと思う。

◆クルマの性能で、何を「ふくらませる」か?

木澤 ただ、そういうクルマにしたくないといいながら、いままでみたいに、ただ、たとえば居住性だ、走りだ、経済性だ、値段だというのをやっていくと、グラフで描くと丸くなるような、どこ見ても同じようにふくらんでいるクルマになりかねない。ですから、どこか違うところをふくらませたいな! そういうのがありましたね。

----それは、たとえばハンドリングですか?

木澤 ええ。ハンドリングだとか、走りだとか。走りもそんなムチャクチャ(速く)走るのではないけれども、少なくとも、その(走りという)コンセプトでは(他車に)負けないクルマにしよう。そういうところは(開発陣の意識として)非常に強かった。

----あのクルマは、走っていて、とりあえず、おもしろかったですよね。キビキビ感に何より驚いたし、また、ドライバーとして嬉しかったし。“普通だけど普通じゃない”というところがありました。

木澤 そうなんです、普通だけど普通じゃないクルマにしたいというのが、みんなの意識にあった。あれは、結果としてなったのではないです。だから、本当におもしろかったですよ、作っているときも。いまみたいに、こっち出ちゃいかん、あっち出ちゃいかんみたいなのが、何もなかったから(笑)。

ただ、おカネ(販価)だけは高くしてはいかんなというのは、ひとつありました。というのは、自分たちで買えなくなるから(笑)。ですから、買えるように(コストには)歯止めをかけた。だから逆にいうと、おカネの歯止めがあったものだから、(技術屋にとっての)勝手なクルマとして作ってはだめだという反省(姿勢)も(作りながら)あった。

営業(の立場)からは、やはり、たとえばスタンダードがあり、その上があり、さらに上がありと、こういうグレードのランクを付けたいですから。そういう意味では(開発エンジニア側としては)意に添わないようなこともやった。たとえば一番下のスタンダードとハイデラックスでは、バンパーを削ってみたり。まあ、結果としては数は出なかったけれど。

それから、(クルマとしては全グレードで)ディスクブレーキをやりたかったけど、(下位グレードには)ディスクブレーキを使わないでドラムにしてみたり、そういうランクを付けざるを得なかった。そういうクルマ(ディスクなし仕様)が「ジス・イズ・初代のシビック」(注1)という気持ちは、みんなにはなかったです。

営業出身が研究所の所長だったものですから、そういったって安いクルマもなくちゃ困るんじゃないの──こういう話になって、そういうものを追加していったのですけれども。(開発エンジニア側の)頭の中にあったのは、どこまでも、一番数が出た「GL」ですね。

(つづく) ──(収録:1998年春)

注1:「ジス・イズ……」
これは今日でも使われているホンダの社内用語で、あるモデル中で、これこそが最も本領を発揮したグレード、これがエンジニアとして最もやりたかった仕様、最も重要視して規範となるべくテストを重ねたグレードはこれだった、というような意味で用いられているようだ。
たとえば新型A車が、仮に1300と1500と1500のスポーティ仕様という3グレードで登場したとする。その時に「今回は、どれが“ジス・イズ……”ですか?」という質問をすると、ホンダ側からは間髪を入れず「それは ※※ です」という答が返ってくる。

1972年シビックの場合は、ディスクブレーキ装着、大きなバンパー装着、リヤゲート付きのハッチバック「3ドアGL」が、開発グループにとっての「ジス・イズ・シビック」だったということ。
2014年07月27日 イイね!

ルーチェの劇的なる生涯、最新版のテーマは「走り」だ!

ルーチェの劇的なる生涯、最新版のテーマは「走り」だ!§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

マツダ・ルーチェというクルマの“劇的なる生涯”には、なかなか興味がある。劇的と言ったのは、ニューモデルごとに、ルーチェは「時代」の変化をそのまま露わにするかたちで出現するからである。

それは、そのクルマに対するメーカー側の姿勢が定まらないからか? それも少しはあるだろう。しかし作り手は、自社の最高級車という一貫性を示してもいる。その意味では変わってはいず、変化はやはり受け手(=市場)が担っているのだと見なければならない。

むろん、すべての長生き商品は時代とともに在り、呼吸する。そのようにして生き残る。しかし、たとえばカローラはルーチェのように揺れてはいない。したたかに一本道だ。隣のクルマを小さく見せるべく出発したこのクルマは、スポーツ性やゴージャス性を採り入れつつ、「大衆車」から「中流車」へと行き着いた。

さてルーチェだ。ルーチェが呼吸し、そしてそこで体現し続けたもの、それは高級感への憧憬であろう。もう少しロコツに言えば、いま欲しがられているクルマとは何か、どんなクルマなら、たくさんおカネを出してもらえるのかという設問への、その時々のメーカーの回答であったと思う。

初代、時は1966年。ルーチェは、まんまイタリアン・デザインでデビューした。ベルトーネの流麗な簡素美! マツダ(当時・東洋工業)のみならず、この頃はいろんなクルマがイタリアのデザイナーによって線を引かれていた。国内初の「レザートップ」(懐かし!)装着モデルという栄誉を担うのも、このルーチェである。

70年代。少しずつ自信を持ってきた日本のメーカーは、「イタリア」から脱する。アメリカ車のゆったりした豪華ムードに、日本的なキメの細かさを塗したクルマが「高級車」の定理となる。

そして、センターグリルの出現。伝統がないことを誇りとする視点や立ち位置もあると思うのだが、そうではなく、そのことを気にしていることを逆に明らかにするような“大きな顔”が中央でニラミを効かす。そういう「高級車」である。このギトギトした外観とフカフカの内装、ナンジャクな足というのは、いまに至るまでのニッポンの高級車の持ち味で、ルーチェもその例外ではなく、二代にわたってこれと付き合った。

そして、プレ90年代の今日。高級車にも「走り」、つまりファスト・ドライビングが要求されるようになった。いや、走りが優れているものが高級車なのだ、という時代が見えた。すなわち、ヨーロッパの高級車である。

「日本の新しい高級車」と、ルーチェは謳う。堅牢極まるボディをまず作ることに意を払い、凝ったサスペンションを設計し、ともかくシャシーを頑張る。滑らかな多気筒エンジン、まったく新しいV6ユニットの開発。走りの微妙なテイストにこだわった故の、FRレイアウトの継承。

走ることが好きなぼくたちは、このような「高級車」を支持する。そして、願わくば、もっとメッキ部分の少ない、もっとシンプルな、そして、もっと欧州某車に似ていない「高級車」の登場を期待する。次こそは、より吹っ切れた「新しい高級車」であることを! 

(1986/11/05)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
ルーチェ(86年9月~  )
◆高級/高価車における「顔」とは、なかなかデリケートなものであるようだ。強い主張性というか識別性というか、そういう要素もこの種のクルマには必要なようで、ホンダのアイデンティティである「グリルレス」で売り出したレジェンド・セダンは、89年に“光る顔”を付けたら、果たして売れ始めたという。大きくて立派なホンダ車ということだけではダメで、レジェンドという別格性が求められたのだろう。ルーチェは? ……いい足はできた。いまは、これだけを記す。

○2014年のための注釈的メモ
このコラムで「生涯」などという言葉を使ったせいなのか、結局ルーチェというモデルは、1986年に登場したこの5代目で、その20年に及ぶ歴史を閉じてしまった。1991年に生産終了(タクシー向けは継続された)となり、同じポジションには「センティア/MS-9」が投入されて、マツダの最上級&FRモデルの座を引き継いだ。そのセンティアは見事に“脱ルーチェ”を果たし、まろやかな曲面と小さなグリルの流麗なデザインになっていた。
Posted at 2014/07/27 06:14:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年07月25日 イイね!

すべての日本車はツインカムをめざす。スズキ・カルタス、参入す

すべての日本車はツインカムをめざす。スズキ・カルタス、参入す§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

ツインカム・エンジンがどんどん出て来る。とても嬉しい。ギュンギュン走れるからか? それもある。だが、それよりも「大衆化」ということがいいと思うのだ。いろんな人がいろんなレベルで、ある商品を試すとき、その商品は強くなる、タフになる。そう、商品なのである。工芸品や稀少生産品ではなく、また一部で秘かに熱く流通するものでもなく、あくまで一般の人々に向けて作られる大衆消費財。それがどの程度か、どのくらいの水準なのか。

商品はいつも、ある程度の金銭的負担さえすれば、誰にでも手に入る。そのように“ひらかれて”いる。その条件さえ満たせば、注文主の“顔”は問われない。また金銭的条件とは、つねに苛烈な競争原理のなかにあり、安さ──つまり大衆化への方向こそ歓迎される。そのようなシステムである。

ツインカム、つまりDOHCそのものは決して新しいメカニズムではない。4バルブ化こそ最近だが、60年代から市販車レベルでも存在していた。しかし当時は、それらは少数者であることの誇りと栄光のなかにいた。商品であることを、どこかで拒んでいたのである。

往時のツインカムを知る人が、しばしばこう語る。近年のそれは、名ばかりでつまらない。ある回転域から、そう、カムに乗ったときに突然繰り出される爆発的なパワー、それを操る喜び。それがない、と。

60年代は、それでよかった。あるいは、それしか作れなかった。しかし日本の、80年代のツインカムは、そうであってはならない。誰にでも扱えるエンジンを、いやクルマという“全体”を、安価に大量に作り出す。これがニッポン・クルマ史のメインテーマであり、「ロールス・ロイス」を志向しなかったことをこそ評価すべきだ。わが国におけるツインカムの歴史的推移は、このニッポン・クルマ史の流れと見事にパラレルである。

スズキ・カルタスが1.3リッター級に送り出したツインカム・エンジンは、予想通りに、低中速でも何ら問題なく、そして、上の方は果てしなく滑らかに吹ける。ツインカムの良さだけが、ノーマル・エンジン的特性の上に盛りつけてある。果たして、そのようなユニットであった。

これでいいと思う、「今日」では。ただ、「今日」はいつまでも暮れないわけではない。市場は少しずつ、ひと皮剥けようとしている。あるいは、ツインカム大衆化の次は?……と言い換えてもいい。

限りなく回るだけでなく、どう回るか。その際の音はどうか。人の感覚をどう刺激するのか。そのような官能的な領域をパワーユニットに求める時代が、すでに見え始めている。それは、実用エンジンとスポーティエンジンがもっとはっきり分かれる市場かもしれないし、数種のチューンをメーカーが市販する状況かもしれない。

カルタス搭載のG13ツインカムは、その時に供えて、髙回転時のエキゾーストサウンドの質に、まず手を打っておくべきではないか。(……てな風に「大衆」は、ここぞと、あーだこーだ言う。そういう時代です)

(1986/10/08)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
カルタス1300・3ドアGTi(86年6月~88年5月)
◆80年代末、ツインカムはついに「実用」と「スポーツ」に分裂した(トヨタ)。4バルブを2本のカムシャフトで精密に動かし、高効率化をはかるツインカム=DOHCは、単なる高出力の主張ではなく、日常性へと進出した。さらには、そういう効率化のためなら、4バルブを動かすのに「2本」は要らぬ。1カムシャフトでやる方が、さらに軽量でコンパクトだというところまで来た(ホンダ)。相変わらず、この国のクルマ史は「速い」!
Posted at 2014/07/25 06:09:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年07月23日 イイね!

初代シビックを語る 《5》

 ~ 1972年シビック開発担当 木澤博司氏 ロング・インタビュー

第5回 今度のクルマのコンセプトは「自分たちが買いたいクルマ」!

----さて、企画書ができて、そこには販価も?

木澤 ええ。とにかく安くなければいけないという意識は、そのとき、かなりあったですね。

----量販も見込んでの設定ですね。

木澤 2年間10万台という要件だったと思いますけれども。かなり、コストには、あのクルマはこだわったんです。研究所の所長が、営業出身の鈴木さんに代わっていて、この方が数字にうるさい人でしてね。営業本部長なんかをずっとやってこられたものですから、売値に関しては一つのイメージがあった。コストはこれ以上高くなってはいかんというのは、そこで一本、線引きをされました。

----コストや販価には制約があった。でも、コンセプトはしっかりしていたから?

木澤 コンセプトは、はからずも、みんな「自分たちが今度作ったクルマは買おう!」というもの。ちょうど(担当したのが)20代の終わりから30代の連中だったですからね。自分たちが本当に買いたくなるようなクルマを──。いまのように、市場のどういうところを狙ってどうこう、なんてことではなくて。(クルマを)作るなら、自分たちが買うクルマを作りたいね、こういう気持ちが非常に強かった。

◆モンテカルロ・ラリーで、ミニやサーブと闘えるクルマに! 

木澤 それと、みんなクルマ好きでレース好きだから、そのクルマでモンテカルロ・ラリーだとか、ああいうこともできるようなポテンシャルを持ったクルマにしたい。そういう気持ちも強かった。

----あ、その志向はあったのですね。あのクルマは、それは捨てていたかとも思っていましたが?

木澤 捨ててないんです! クルマに手を加えればラリーくらいはできるという、そういうポテンシャルは持たせてあった。

その頃のモンテカルロ(ラリー)なんかは、「ミニ」は三回か、優勝していますね。あるいは、「サーブ」はカールソンで優勝したり。ただ、そこらへんからクルマがモンスター風に変わっていって(注1)、勝てるということはちょっと……。もし(シビックで)やっていてもね、そのポテンシャルはなかったと思うんですけど。でも(開発側には)そういう気持ちはあった。

----そうでしたか! ……でも、そうでなかったら、(シビックは)ああいうクルマになってなかったかもしれないな。

木澤 それは、やりたかったんです。

----いま気づきましたが、初代「シビック」の企画書は、69年に帰国されたわけですから、企画書を実際にお書きになったのは、70年になってからですよね?

木澤 そうです。

----そうすると、ずいぶん(開発期間が)短くないですか? (シビックの)実車は72年にデビューしていますから?

木澤 ええ、短いんですよ。ほんとうに2年間でやった。……というのは、ほかに、いまみたいにRV(注2)もあれば何でもあるじゃなくて。研究所は二輪、汎用を入れて800人から1000人ぐらいしかいなくて。そして、まだ和光だけで、朝霞も分かれてなかった。それで、800人ぐらいで、四輪に携わっているのはそのうちの400人かそこらしかいないのですけど。

でも、その全員がこれ(シビック)にかかった。だって、ほかのクルマ、ないんだから(笑)。それに、開発の時期、つまり、いつ完了していつ出す(市販する)という時期は、企画書にも明記されていましたからね。

(つづく) ──(収録:1998年春)


注1:モンスター風に……。
「ラリー・モンテカルロ」は1966年から、SS(スペシャルステージ)のタイム・トライアルで勝負を決するラリーとなった。これ以後、スポーツカーをラリー車に仕立てたものが優位となり、ポルシェ911とアルピーヌA110の対決の時代になる。60年代にミニを擁して3勝したBMC(当時)は、1968年にワークス活動を閉じた。

注2:RV
90年代半ば以降、セダンやクーペといったそれまでのクルマのタイプではなく、新たに注目されたワゴン・タイプ(ハコ)、ステーション・ワゴン、ワンボックスなどを総称して「レクリエーショナル・ビークル」と分類し、その頭文字で「RV」と呼んでいた。パジェロのようなタイプは「クロカン」(クロスカントリー車)として、一応別立てだったが、ただ、これらも「RV」に含まれていた時期もあった。「ミニバン」あるいは「SUV」という言葉(米語)は、まだ渡来してなく、90年代の日本では使われていなかった。
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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