• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2014年11月20日 イイね!

スカイラインGT-Rと地名

スカイラインGT-Rと地名連載中の記事「最速GT-R物語」ですが、第3章以降、いくつかの「地名」が登場します。ジャーナリズムも含めての業界の“習慣”と、また、地名を使うとけっこう便利なので、この「物語」の書き手(誰だ?(笑))も、その安易な手口を使っているわけですが、ただ、いきなり地名を出されても何のことだか、という方々も少なくないかと思います。……というわけで、以下、地名について若干の解説を試みます。

・厚木
ニッサン・テクニカル・センター=生産技術開発センターがあるところ。新型車の企画、コンセプト作り、設計はここで行なわれる。いわば新車開発のヘッドクォーター、NTCと通称される。渡邉主管、吉川主担らはここを拠点として仕事をしている。

・栃木
生産工場と試験路がある。新車開発というフェイズでは、クルマの評価を担当する「商品実験部」の拠点。テスト・ドライバーは、まずはここにある「商品性評価路」で試験走行を始める。文中で「栃木では」と言った場合は、「商品実験部では」とほぼ同義。

・鶴見
ニッサンの横浜工場群のひとつ。パワートレーンの設計と製造を行なう。生産だけでなく、評価のためにエンジンの実験部もある。実はこれは「厚木」や「村山」も同様で、それぞれの工場や施設は基本的に実験や評価の部署を持っている。

・北海道/陸別
超・高速走行や高速でのコーナリングが可能なテストコースがある。もともとは、冬期の寒冷地テストの場として設けられた施設で、その北海道プルービング・グラウンド(=HPG)の中に、「ニュル」を模したワインディング路が加えられた。

・荻窪
かつてプリンス自動車の本社があった場所。そもそもは「中島飛行機」の発祥の地。主人公の渡邉主管が新入社員として仕事を始めたのはここ。1966年にプリンスがニッサンと合併して、「ニッサン・荻窪」に。後に宇宙航空事業部となったが、1998年、同事業部が群馬・富岡市に移り、「荻窪」も閉鎖された。

・村山
スカイラインの生産工場。もとはプリンスの工場で、ニッサンと合併後もスカイラインの生産を引き継いだ。その後、スカイラインのほか、ローレル、セフィーロ、レパード、マーチなどを生産した。2001年に工場閉鎖。

・東銀座
当時は都内・銀座にニッサンの本社があった。この「物語」では、この地名そのものは出て来ないが、たとえば主人公が営業本部長と打ち合わせする際には、ここ「東銀座」に行っていたはず。2008年に、ニッサンは本社を横浜「みなとみらい」地区に移転。ちなみに横浜は、ニッサンが1933年の創業時に本社を置いた地である。

なお、この「物語」中の役職名、たとえば「主管」や「実験主担」などは、すべて当時(90年代半ば)のものです。今日のニッサンでは、それらは、たとえば「テクニカル・ディレクター」といった横文字(英語)に変更されています。

そして、もうひとつ。今日では「GT-R」といえば「ニッサンGT-R」を指すのでしょうが、90年代のこの「物語」では、それはあくまでも「スカイラインGT-R」です。主人公も、スカイラインの“範囲内”で「GT-R」をイメージしています。当時、渡邉さんにGT-Rの直列6気筒エンジンについて伺った時には、こんな答が返ってきました。
「もし“ニッサンGT-R”であれば、エンジンはV6でも何でもいいでしょう。でも、スカイラインでは、それはできない」──
2014年11月19日 イイね!

第2章 『R』の原点 その2

第2章 『R』の原点 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1989年8月、R32GT-Rがデビューしてすぐに、つまり世間が新型車の登場に湧いている時に、厚木のNTC=ニッサン・テクニカルセンター内で始められたことがある。それは「要素技術」のテストであった。何のためにと言えば、もちろん、来たるべき「次期GT-R」のためにである。そして「要素」とは、次世代のGT-Rを構成することになる(かもしれない)新しいユニットのことだ。

R33スカイラインの主管・渡邉衡三は、R32GT-Rの「ニュル」でのテストで、極めてシビアな「走り」の状況で必要とされる技術的なテーマを発見していた。またR32スカイラインでGT-Rを作ったが故に、その改良を中心としたいくつかの問題点を把握した。これらを解決するための「要素」のテストも、そこには含まれていた。

ブレーキ、クラッチ、エンジンルーム内の熱、フロントバンパー下のエア整流。あるいは、ハイキャスの特性、4輪駆動アテーサET-Sのトルクの前後配分、タイヤの特性、さらには、後にR33の基準車にも設定されることになるアクティブLSD。これらのすべてが、この時、研究と開発とテストの対象とされた。

たとえば、R32のGT-Rに追加されたブレンボ・ブレーキ装着仕様の「Vスペック」は、実はこの「要素技術」の研究から生まれたものだ。また、このVスペックでは「回頭性」が向上したことが指摘されたが、それもそのはず、この先行テストを踏まえてのE-TSチューンの変更で、4WDの前後トルク配分の見直しが行なわれていたのである。

このように、次なるものをめざして活動を続けている以上、いずれは「R33GT-R」の実現と市販に到達したいというのは、その研究やスカイライン・プロジェクトに関わっていたスタッフ全員の、当然の願望であった。

もちろん渡邉衡三もそのひとりなのだが、ただ、不安もなくはなかった。たとえばR32GT-Rは、基準車に対して駆動システムから違っており、エンジンも2.6リッターの別物を新作した。これは当時の「グループA」レースのレギュレーションで、車両重量との絡みで最も有利とされた排気量であり、R32主管の伊藤が「シリンダーヘッドとクランクだけ、ちょっと変えていいかな?」と、社内の了解を半ば強引に取りつけ、まんまと2リッター「RB20」エンジンからの飛躍を果たしたという、いわくつきのパワーユニットだった。

つまりR32のGT-Rは、そのベース車に比べると、このような技術的な大きなジャンプと新しい武器があったのである。また、それまでまったく空白であったところに、16年ぶりに「GT-R」というハードパンチを繰り出した──この意義と衝撃も大きかったはずだ。

実験主担としてR32を作り、そしてR33の主管というポジションに就いた渡邉は、ひそかに自問自答していた。
(R32GT-Rは、仮に60点の出来だったとしても、それまでがゼロだったのだから60点分のインパクトがあった。またその評価にしても、つねにゼロと比べてのものだった)
(しかしR33の『R』は、もし90点のものを作ったとしても、既存のものに対して、たかだか30点が上乗せされたものでしかない)……

さらに、もうニューGT-Rを飾るべき新しい“武器”はないよという声が、他ならぬ社内の他部署のエンジニアから聞こえてきたのも、渡邉を考え込ませた。そうかもしれないのだ。(「やりたい」と「できる」は違う。あのR32を、果して超えられるのか……)そして、身内というべきスタッフの中にも、「ハンパなら(R33のGT-Rは)やめたら?」という者がいた。その通りだと、渡邉も思った。

その間にも、市販中のR32GT-Rのモディファイは着々と進行していた。クラッチが変わり、ブレーキが変わった。前述のように、4WDシステムのE-TSも見直されて、市販モデルに盛り込まれた。でも、これらは、次代のR33GT-Rのための“武器”としてテストされているものではなかったのか。たとえば、冷却性能が高くて強力なブレンボのブレーキシステムを、R33GT-Rの“目玉”とするより先に、R32に装着して市販してしまったのは何故だろう? 

これにはレーシング・フィールドからの要請もあったであろうが、次期GT-Rの「要素技術」テストを続けてきたスタッフにとっては別の動機が存在した。たとえばその中心にいたひとりであり、このR32GT-R・Vスペック仕様の完成に尽力してきた実験部の吉川正敏にとっては──。

吉川の見解というのは、こうだ。各種の「要素技術」のテストの結果、R33のGT-Rを「出せる」という確信が生まれた。そうなったからこそ、逆にR32もきちんとやっておきたいと思うようになった。ブレーキでいえば「要素」のテストの後、実際にクルマに積んでの一年間の確認期間を経て、ブレンボ仕様をデビューさせた。先行開発のテストと、市販化のための確認作業は同じではないので、ちょっと煩わしかったが、これでよかったと思っている。

R33GT-Rの姿が、吉川正敏の中で少しずつ見えてきていた。故に、R32で「要素技術」の一部を見せてしまったとしても一向に構わない。そういう展望なのである。その背景にあったのは、彼が自身で見てきたサーキットでの現実だった。吉川はモータースポーツ好きであり、自宅の居間(庭ではない!)にレーシング・ロータス・エランを飾っているほどだが、サーキットにもしばしば足を運んでは、グループA・R32GT-Rのレースを見続けていた。そして、その中でひとつ重要な発見をしていた。

サーキットでのR32GT-Rは、年々速くなっていく。しかし、基本的なハードは変わっていない。ということは、ソフトと“ツメ”でクルマはいくらでも変えられるということではないのか? (新しい武器というのは、新しいハードということだけじゃない)

「ハンパなら、やめたら?」と渡邉に言ったスタッフのひとりとは、実は吉川正敏であった。その当の本人が、先行テストを経た結果、R33のGT-Rに向けて本気になりはじめた。

(第2章・了) ──文中敬称略
2014年11月19日 イイね!

第2章 『R』の原点 その1

第2章 『R』の原点 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33のGT-Rを作るという仕事が、いつ始まったのか。これを判定することは、なかなかむずかしい。いや、これはGT-Rに限ったことではなく、クルマ開発の全般に言えることでもある。技術は常にヴィヴィッドであり、いろいろな開発がさまざまなタイミングで行なわれているからだ。

たとえば「先行開発」という時期がある。そこで研究され確認された新技術がニューモデルに搭載されると、その先行開発がすなわち新型車のスタートだったともいえるが、しかし、それはやはりクルマの開発においては準備期間というべきであろう。

R33GT-Rの主管である渡邉衡三によれば、R32の開発時期、つまりR32が世に出現するより前に、R31GT-Xの“ドンガラ”(ボディ)を使っての、スカイライン・スタッフによる“社内秘”の「Rプロジェクト」が存在したという。

何故そんなテストが行われたのかといえば、R31で「グループA」レースに出ていたからである。当時、その「R31・改」に積んでいた400psのエンジンでは、最強のグループAレーシングカーであったフォード・シエラの500psには勝てない。

しかし仮に、エンジンを600psにしたとしても、単なる後輪駆動(FR)ではリヤのトラクションに不足が生じた。では、そのハイパワーを四つに分散しようということで試みに4輪駆動にしてみても、既存の4駆方式ではどれもアンダーステアが強くてコーナリング性能が落ち、サーキット・ユースでは役に立たない。さあ、どうする……? 

ここから、前後にトルクを配分する「トルク・スプリット」というコンセプトの新4WDがイメージされ、これは後に、市販車R32GT-Rの「アテーサET-S」として世に出ることになる。新技術あるいは要素技術が市販車に展開された一例である。

そしてもうひとつ、ここからわかることがある。80年代のGT-Rとは、ことレースという側面では「始めに600psありき」「600psで、どうレースする?」というプロジェクトだったということ。いわばこれがGT-Rの原点ともいえるのだが、しかし、これをもって開発のスタートということはできまい。

ただ、ここで注目すべきは、R30、R31、R32、さらにR33に至るまで、ニッサン内部では、『R』に向けての研究開発とテストがまったく途切れることなく続いていた。そしてクルマとは、そのようにして日常的に研鑽されているものだということである。

また、R32のスカイラインは、フェアレディZやプリメーラとともに、ニッサンが1990年にシャシー性能で世界一になることをめざした「901活動」の産物として評価を受けた。だが、その後、この活動のことが対外的にあまり言われなくなったのは、「901」の灯が消えてしまったからではなく、社内的にそれが基礎技術として行き渡ったからであろう。そのひとつの例としては、この活動で多くの「評価・開発ドライバー」が社内に育ち、以後のニッサン車の「走り」のレベルを底上げしていることが挙げられる。「901」は終わったのではなく、初期の役目を終えて深く浸透したのだ。

そしてこれは後日談になるが、シャシーだけが突出してもクルマ全体としての向上は図れないということで、エンジン部門でもこの種のディベロプメント活動が始まり、後にそれは軽量V型6気筒の「VQ」ユニットとして結実することになる。

(つづく) ──文中敬称略
2014年11月17日 イイね!

クルマの風土性を深く体感、ポロは欧州で生きるべし……

クルマの風土性を深く体感、ポロは欧州で生きるべし……§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

「小」は「大」に準ずべし。あるいは、「小」は「大」に比べれば、欠くるところあって可なり。このような“サイズの法則”に縛られている日本の自動車ユーザーは少なくないのではないか。「小」なるクルマは、たとえば、どうせ ※※ はしないのだからとか、そこまではやらないからいいんだ、とか。

むしろ日本の風土でいえば、買い手の側に、より強くこの種のサイズ肥大願望シンドロームが根強く存在している。そして、自分で自分自身をサベツするという奇怪な言動を示す場合すらある。(いつかは △△ に……とは、したがって有効なのですね、いまでも)

もしヨーロッパ大陸に比べて、この日本のクルマ事情が発展途上であるとすれば、このような巨根願望にも似たサイズへの信仰が、この国の、それもベテランといわれるユーザーに残存することであろう。

ただ、このへんの“めざめ”について言うなら、クルマの作り手の側の方がよっぽど早かった。クルマのサイズと走行性能は、何らリンクするものに非ず。小さいからってダメなものを平気で作っていたんじゃ、それこそ国際競争で生き抜けないのだ。

折から輸入が再開された、フォルクスワーゲンの「ポロ」というベーシック車がある。ヨーロッパにおけるミニマムサイズのクルマではあるが、しかし、欧州大陸を走るための必要条件を見事に充たしていることには、やっぱり感心してしまう。

それは、主に「足」であり──いや、足に尽きるのだが、高速巡航での安定性、コーナリング性能、どっちにしても十分な余裕がある。そして、そうでありつつ、なおかつスポーツライクだ。とくにワインディング路を走ってのキビキビ感は、兄貴分のVWゴルフを凌ぐもので、そういう場ではポロの方がはるかに“fun”でもある。また「上」は回らないがトルクが太いというエンジンも、小排気量という点を考え合わせるなら高ポイントを与えてよいだろう。

このように、こと「走り」に関してはサイズにはまったく無関係だという良い見本であるのがポロで、それはこのクラスに、プジョー205やらフィアット・ウーノやらの強敵がいるが故の成果でもあると思う。

“いいクルマ”である……もしわが風土が、ヨーロッパのように涼しければ。湿気がなければ。信号が少なければ。渋滞が稀ならば……。そして彼の地の、それも田舎のように、いったん走り出したらほぼ停止することなく、目的地まで走り抜ける環境があるならば……。

嗚呼、当然だがこれらの「もし」はあり得ず、ここは高温多湿で、クルマの“人口密度”も高すぎる国であった。そして、それらの条件を前提にした、小さくて安価なクルマが、それも9社から市場に供給されているところでもあった。

ポロは、ヨーロッパのクルマ風土を研究するには好適なサンプルではあるが、そして、われわれの“サイズ神話”を突き動かすカンフル剤でもあるが、やはり、エアコンなし/オートマチックなしというのは、この国では苦しいと言わねばならない。(クーラーは付く、念のため)

そしてこのクルマは、「走り」以外のいくつかの性能がこの国では重要なチェックポイントになることを、改めて教えてくれる存在でもある。日本人としてVWポロに乗ることは、いろんな意味でおもしろい。そのことは、よくわかったのだが。

(1988/09/20)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フォルクスワーゲン・ポロ・クーペCL(88年~  )
◆十字路の中央部をサークル(円状」にして、そこを経由することにより、停止信号というものナシに、クルマの往来をさばく「ランナバウト」。まあクルマの絶対量が少ないということもあるのだろうが、そうであっても、できるだけクルマを流そう、いつも動かし続けようという発想がヨーロッパにはある。一方、ともかく止める、クルマは止めれば安全。こういう考え方が、わが日本である。“動的な”ヨーロッパの道をポロのようなクルマで走るのは、ドライバーとして気持ちがいいだろうとは思う。大都市内はもちろん信号もあり、それなりに混むけれども。

○2014年のための注釈的メモ
「クーラー」ウンヌンは1988年時点での話であり、今日のポロにはもちろんエアコンは装備されている。そして切れ味を秘めた走りの軽快さと確かさは、ポロというクルマの持ち味であり、最新作でもそれは健在だ。また近年のVWは、低速域での乗り心地が入念にケアされて日本市場に入ってきていることにも注目。VWは変貌している。
Posted at 2014/11/17 20:00:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年11月16日 イイね!

第1章 実験主担 その2

第1章 実験主担 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R32の主管・伊藤修令は、渡邉に語り続けた。「R30、R31は、俺たちのスカイラインじゃなかった。次は、本来のスカイラインに戻せ」「とにかく、走るクルマにしろ!」

渡邉衡三を実験主担とするR32のクルーは、その目的に対しては極めつけに真摯だった。ルーフは小さく絞り込んで、車体の“上半身”のマスと重量を減らした。リヤのトランクスペース、つまりクルマの運動性の邪魔になるオーバーハングの部分も縮めた。同時にフロントエンドも、スパッとカドを断ち落とした。

もう造形の段階から、R32は「運動性」がテーマになっていたのだ。そのクルマ作りの文法は、ほとんどスポーツカーのそれに近いというべきで、たとえば居住性や快適性は、運動性よりはるかにプライオリティが低かった。「室内はサニー並みでいい」、伊藤は言い切った。

そして、その“走るスカイライン”のシンボルとして、GT-Rがイメージされた。その『復活』を最も強く主張したのは、伊藤修令であった。

「俺は、究極のロード・ゴーイング・カーを作りたい!」

伊藤は渡邉に、こうも言った。渡邉は、それを十全にサポートした。渡邉にとっても、『R』というのは、伊藤以上に思い入れがあった。ハンパはできなかった。

渡邉は、R32のGT-Rを仕上げるにあたって、スカイラインは国内専用のモデルであるにもかかわらず、「ニュル」をその最終のテスト・ステージに選んでいる。グリルをシルビア(S13)風に変装させたプロトタイプGT-Rは、ポルシェ944のニュルブルクリンク・オールドコースでのタイム「8分40秒」を抜くべく、ドイツに飛ぶのだ。

しかし初めてのニュルは、やはりタフだった。歓迎は手荒だった。プロトタイプGT-Rは、ニュルのコースを10キロ走ってオーバーヒートした。エンジンの高回転領域での連続的な加減速というのは、日本では経験し得ない次元のもので、その結果、エンジンルーム内が高熱になり、その熱でゴム部品が溶けだした。同じように熱のためにターボもトラブり、タービンが壊れた。

しかし、熱対策を施し、サスと車体の剛性に手を入れたプロトタイプGT-Rは、やはり速かった。はじめは譲ってくれなかったポルシェが、“シルビア”が来るとコースを開けるようになった。ニュルのコースを完走できるクルマになった時、GT-Rは「8分20秒」後にはスタッフの前に帰って来るようになっていた。

「ニュル」で何が必要だったか、渡邉はこのテストでしっかりと把握した。また、こうしてR32のGT-Rを作ったことで、新たな課題も見えてきた。

主管である伊藤にとっても、本来のスカイラインに戻せとして「小さなR32」を作り、GT-Rも復活させたが、このR32はあくまでも走りに振った意識的なモデルであり、「スカイライン」としての許容範囲をひょっとしたら越えてしまっているかもしれないという懸念があった。“走らないスカイライン”は許せない。しかしクルマとして、ここまで居住性などをイジメてしまっていいのかということである。

だから、スカイラインとしての「走りの主張」をやり終えたら、次世代であるR33では、R32での“極端主義”を捨て、もう一度フリーにスカイラインというクルマを企画しよう。これは伊藤と渡邉の間での、暗黙の了解事項になっていた。

当然、R33でもGT-Rは作りたい。なぜならR32でGT-Rを作ったが故に、渡邉には新たなGT-Rを作る必然ができたからである。「32という山に登ったら、もっと高い山があることがわかった」(渡邉)のだ。

だが、基準車としてのR33スカイラインを93年の8月に発表して以後、その時にはR33の主管になっていた渡邉は、ふしぎな現象に遭遇して、怒るというよりむしろ困惑することになった。

ジャーナリズム、あるいはユーザーやファンの間から、何とはなしに沸き上がってきた声のトーンはひとつだった。このR33では「GT-Rはできない」というのだ。いや、もっと極端な意見もあった。R33のGT-Rは「作ってはいけない」(!)というのである。

折りからレース界のレギュレーションが変わり、“R32GT-R・改”が圧勝を続けていた「グループA」というレースのカテゴリーが消滅する決定がなされた。スカイラインGT-Rにとっての重要なステージのうちのひとつは、こうして失われた。仮にR33のGT-Rを作ったとしても、市販車レースの世界統一規格「グループA」レースは、もうないのだ。GT-Rが「グループA」レースのための“素材車”として生まれたと信じて疑わない(?)レース寄りの論客やジャーナリストが、R33GT-R不要論の急先鋒となっていた。

しかし、果たしてそうなのか、渡邉は思った。仮にレース活動にこだわるとして、スカイラインが関われそうな「市販車・改」のレースは「グループA」だけなのか? 日本でも「グループA」よりもっと市販車の状態に近いカテゴリーの「N1耐久」というジャンルが誕生しようとしていたし、世界のレーシング・シーンに目を向ければ、もっとさまざまな可能性があるはずだ。たとえば……! 渡邉は、夢を馳せた。

だが、この時の渡邉はまだ、R32に対するカスタマーやファンの、奇妙だが強烈な愛着を本当には読み切っていなかったのである。

(第1章・了) ──文中敬称略
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2014/11 >>

       1
2 3 4567 8
9 1011 12 13 14 15
16 1718 19 20 2122
23 2425 26 27 2829
30      

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation