
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
R33GT-Rの全28ページに及ぶ広報資料の中に、「BODY」という項目がある。
そこでは「車体・シャシー トータル高剛性構造」というタイトルで、どのようにGT-Rのボディが強化されているかが解説されている。
そのうちの「車体強化部位説明図」に載っているパーツが、村山工場の面々を悩ませたGT-R用に新たに追加された強化部品の群れである。ざっと列記すると、フロントストラットタワーバー、フロントクロスバー、フロアクロスバー、シートバックセンター、リヤストラットタワーバー、そして、リヤトリプルクロスバーなどだ。
このようにネーミングされたことでわかるように、たしかにこれらは、村山側が言うように「棒とか板とか」であった。要するに、どこかとどこかをつないで、これまでになかったレベルのボディ剛性を生み出すための部品群である。
R33の場合、フロアはGT-R専用として、剛性を上げて肉厚も違う新部品としていたが、ただしそれは、形状としては基準車用と同じものだった。この場合は、クルマを組む側にとっての手間と時間は、基準車もGT-Rもさして変わらない。これなら、工場側も容認できる。
だが、ボディ強化のための「棒や板」は、それとは違う。これらは、基準車作りと比べると付加的な部品であり、組み付けの時間も大幅な増加が予想される。村山は、量販されるであろうR33スカイライン基準車の生産をきちんとこなしつつ、それに加えて、その同じラインでGT-Rを組まなければならない。その「二重生産」はどちらも同じように重要であり、そのシステムに支障が出る可能性があるとすれば、いくら栃木や厚木から強い要求があったとしても、安直にOKは出せない。
今度のGT-Rでは、これをここのところに組み付けたい。厚木の設計陣が、図面や、果てはパーツそのものを持って、村山工場に連日のようにやって来た。それに対して、以上のような立場から、「それはむずかしい」と村山側が答える。こういうやり取りが1994年の春から夏頃に、すなわちGT-R発売の半年ほど前まで、頻繁に繰り返されていた。
そしてもうひとつ、村山としては人員の問題も気にしていた。工場での組み付けのスタッフは、いつでも豊富に確保されているわけではない。四人がかりでやれば簡単に組めるじゃないかと言われても、そうした条件付きの部品はやはり引受けられない。どんな状況になっても工場としてGT-Rを作れること、これが前提なのである。
村山工場の“GT-R四人衆”である技術課の久松、生産課の篠塚、組立課・恩田、そして検査課の獅子倉らは、しかし、ダメだダメだと突っぱねてばかりいたわけではなかった。獅子倉のテストで、これらのパーツが有効であることは村山としても確認している。だから、村山は強化のためのパーツを加えることには異議はない。ただ、量産をしなければならない工場としてはどうしたらいいのか、その検討なのである。
この時期、おそらくオール・ニッサンで最も忙しかったエンジニアのひとりが、厚木の車両設計部でGT-Rのボディ設計を担当していた田沼謹一であった。田沼は、栃木・実験部の要求レベルを満たすべく、補強のためのパーツを新たに設計しては、それを村山で工場試作させ、それを組み込んだプロトタイプGT-Rを栃木の評価ドライバー加藤博義に委ねて、その是非を聞き、また村山と相談して、場合によってはふたたび、厚木の自分の机で新設計の線を引く。そういう日々を送っていた。
「ともかく、いっぱい部品は作ったなあ!」と、村山の面々も述懐する。また普通は作り勝手がどうかということでの部品の「変更通知」があるのだが、このGT-Rの場合は、「目標値そのものが上がっちゃって、それで変更になるんだから」と、獅子倉が苦笑する。つまり栃木が、もう少し「上」へ行きたい、もっと速くしたいとして、到達すべき目標を変えてしまうのだ。クルマを組む側は、それにいちいち付き合って行かなければならない。
また、クルマ作りには外注メーカーの協力とサプライが不可欠だが、ある部品を作ってもらってテストすると、栃木の実験部からは「あの六番目のやつがよかった!」なんて言ってくることがあるのだ。田沼と村山・生産課の篠塚は一緒にそのメーカーに行き、「そういうことなんで、あのパーツ、次の試作テストまでにぜひ間に合わせて」……という交渉をしたことも度々であった。
新しい部品が厚木から来るたびに、村山のスタッフはそれを見て検討する。「今度はコレか、どうする?」「クルマの下から入るか、コレ?」「いやあ、ひとりじゃムリだなあ」「じゃ切ろうか、田沼に言って分割させようか」……。
前述の各種強化部品のカタカナ名は、あくまでも外部に発表するための資料用語であって、村山ではあんな風には呼んでいなかった。「鹿の角」、「トンネルステー」、そして「例の板」といった具合である。また、エンジンルーム内では「象の鼻」と呼ばれた難物のパーツがあった。これはエンジンとインタークーラーをつないでいる太いホースで、これが固くてたわまず、入れにくく組みにくいパーツの代表として、論議の的になった。
だが村山側は、単に受け身でいて文句ばかりを言っていたわけではない。どうしよう、こうしてくれと、さまざまに意見や要望を出しては、厚木の設計陣とのすり合わせを続けた。そしてそれだけでなく、積極的に新しいGT-Rを作るためのアイデアを村山からも提出していた。
たとえば、初期のR33GT-Rでは、4WD機構でフロントへのトルクがどのくらい行っているのかを示す「トルクメーター」がなかった。渡邉や吉川は、それはインジケーターランプでやればいいとしていたが、村山の評価ドライバー獅子倉が「そりゃないよ!」とねじこんだ。結果としてR33のGT-R、そのセンターコンソールにはフロント・トルクメーターが付いている。スカイラインGT-Rが「かくあってほしい」というイメージは、厚木や栃木や鶴見だけのものではなかった。
ほとんどの部品に、村山からの、クルマを組む立場からのアイデアが盛り込まれた。そして、村山で組まれた試作車を栃木がテストして、厚木にフィードバックし、修整すべきところは修整されて、また村山に戻る。こういう循環で、試作とテストが繰り返された。
このGT-R作りにおいては、工場は、単なる最終アセンブリーの請け負い部門ではなかった。このクルマは普通のクルマ作りとは違う点がいっぱいあるというが、それは工場が果たす役割と機能でも同様であった。
そして、工場内を回る部品の「変更通知書」は、GT-Rの場合、生産の立ち上がりまでに、ついに97通に達した。「普通のクルマの場合? まあ両手以内で立ち上がりましょうねって言って、実際にもそんなもの。多くて10通ですね」(村山工場工務部生産課・篠塚友良)
(第19章・了) ──文中敬称略