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家村浩明のブログ一覧

2014年12月22日 イイね!

第21章 専任主担

第21章 専任主担 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

さて、ここまでR33GT-R開発の流れを追ってきたが、外部から見ると、ちょっと不思議に思うことがある。それは、GT-Rを作っていくに際しての各部署の関係で、端的には栃木・実験部の“独走”が目立つことだ。彼らは何と独自にボディを作り、ボディ担当・厚木のエンジニアにそれを突きつけて、その設計を根本からやり直させた。さらに、ライン生産ではやりにくそうな複雑なボディ構造のクルマを、村山工場に「量産」させようとしている。

実験部としてやりたいことはわかるが、それにはおのずと範囲があるのではないか。GT-Rといえども「量産」の市販車なのだ。あるいは、試作車はとにかく目一杯やってみるけれど、生産段階ではある程度の線でまとめる。そうした妥協に似た案が出てきても、それもまた妥当のような気がする。何より、開発には時間という制限があり、組み立てにはコストと生産性の問題が絡むはずだからだ。

そういった総合的なマネージメントが、主管や主担というポジションの仕事ではないのか。その種のハンドリングでは「専任主担」という役職にいた吉川正敏はどうしていたのか。もし栃木が“暴走”していたなら、それを止められたのは彼だったはずなのだが。

「え、独走というのは?」……。この件について訊くと、吉川は一瞬、何のことかわからないという表情をした。つまり、栃木の実験部が、ひとり“走っていた”というようにも見えるのだが? 「それは、ぼくはまったく止めてないですから」。吉川はようやく質問の意味がわかったというように、微笑みながら言った。「あ、けしかけてたのは、ぼくです(笑)」。このクルマの場合、何より、目標を達成しないと話にならない。だから、「栃木を押してた」というのだ。

もちろん、実験部によるテストの状況は、逐一、吉川の耳に入っていた。川上が報告してくる、吉川が確認する。「それで(目標は)達成したのか?」「いや、ちょっと足らないところはある」「じゃあ、もう一度やってくれ」。こういうやり取りで、R33GT-R開発の仕事は進行していった。吉川は笑って付け加える。「ふつう、実験には、そんなに勝手にはさせないですよ(笑)」

……なるほど。主担である吉川の指示と支えがあってこそ、栃木は“突っ込む”ことができた。そして、そこまでの指示を実験部に出せたのは、渡邉と吉川の二人が、加藤・川上グループを全面的に信頼していたからであった。

まず、栃木として「OK」が出せるものを作ってくれ。そうしたら、厚木と村山でそれを作る(再現する)から──。GT-Rはこの方法でやる、設計や工場は説得する。あとは何とかするから、とにかくやってくれ! これがR33GT-R開発の方法だった。

吉川は続けて言った。「動力性能というのは、ゼロヨンにしてもエンジンにしても、台上のテストもできるし、データでもわかります。でも『操安』(操縦安定性)っていうのは、加藤と神山、この二人が『いい』っていうものをやるしかない。彼らを信じていくしかないでしょう」

さらには、今回のR33GT-Rは必ず「ニュル」に持って行く。「ニュル」に行けるかどうかの判断は、実験部がやる。このことも、渡邉と吉川の間で、始めに決定されていた。

ただし、各種の「要素技術」が個々のアイテムのレベルでは効果があることはわかっていたが、組み合わせによって確実にクルマが速くなるという保証は、実はなかった……と、吉川はそっと打ち明けた。しかし、そうであっても確固たる目標はあった。それは「ニュル」では最低でも10秒、そして筑波サーキットなら1秒を、R32GT-Rがそれぞれに残したタイムから“削り取る”ことだった。

サス剛性、リム幅のアップ、新しいLSD。そしてR32のステアリング特性やトラクション不足といった点を改良し、そのほかの部分での小さな積み重ねを総合すれば、これはやれる、必ず速くなる。吉川は主担としてこうした判断をくだし、まず実験部に全権を委ねたのである。

そして吉川は、今回、自身が就いた「専任主担」職の意味についても語った。新しいスカイラインであるR33でも、GT-Rを作る。これは商品本部長・三坂泰彦の意志だが、しかし、あくまでも商品本部内での決定とコンセンサスだった。一方、開発側あるいは工場サイドでは、GT-Rは「一回休んでもいいんじゃないか」という空気があったという。それに対し「専任」職を置くことで、商品本部としての強い意志表示をする。それが「専任主担」職の新設で、然るが故にテンションも高くならざるを得なかった、と──。

そのように加藤や川上に自由にやらせた吉川だったが、しかし、参ったなということももちろんあった。たとえば、「ニュル」のテストに吉川が行ってみると、川上が手招きして吉川を呼ぶのだ。「ちょっと見せたいものがある(笑)」。見ると、また加藤の手になる新しい“棒”が加わっている。(そうか、これを「生産」しなきゃいけないのか……)

また、設計変更にしても、厚木に指示を出せるのは吉川しかいない。吉川がターゲットにしたのは、まず田沼謹一だった。吉川は、その田沼に、ほとんど懇願に近い指示を出す。新GT-R、何としてもやってもらいたい! そして村山工場へ行くと、そこでは工務部との交渉になる。田沼にきちんと設計させる、工場でできるようなものをちゃんと提案する、だから工場も協力してほしい!

田沼に、ある時は、工場で案がまとまるまでは厚木に帰ってくるなと言い、工場に対しては、「作れなかったら、結局は売り出せない。そうなれば、これまでやってきたことのすべてがムダになる」と説得した。そして田沼も、ここでハンパに終わるのはくやしいと言い始め、村山側も、彼ら独自のテストをやって確認した上で、このプロジェクトを貫徹して行くことになる。そこから、設計(厚木)で考え切れないところは工場(村山)からもアイデアを出すという合意と協力関係も成立した。

そういえば、評価ドライバーの加藤博義による「30点」は、その後、どうなったのだろうか。これについて、最終的には何点になったのかと加藤に訊いたことがあったが、その時に返ってきたのは即答だった。「それは100点です!」──。ここまで言い切るために、加藤を中心とする実験部は、自由に、そして「神」としての責任とともに、GT-R作りという仕事をしていたのだ。

(第21章・了)
2014年12月21日 イイね!

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その2

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

佐々木はコンピュータのロムを打ち直し、厚木の若手ドライバーに乗ってもらい、少しずつセッティングをいじって行った。評価ドライバー加藤の不満は、やはりターンイン時の挙動に集中していた。まずここで、とにかくクルマが安定していない。ここでクルマをだらしなく横に流さず、きちんとした姿勢を作る。そしてその後に、4WDを活かしてフロントにトルクを送るタイミングを精密に計る。この二点がキモだった。

「トラクションっていうのは、アクセルを踏んでいる時だけじゃないんですね。ターンインのブレーキングの時こそ、それが要るんです」
「LSDでオーバーステアのモーメントを作ってやる。そのままほっとくとスピン傾向になるので、そこで前へのトルクを出す。その出し方を早めていって、うまく四輪を使い切れるような設定を探すんです」
佐々木博樹が、この件を語るときの口調は熱い。

アテーサE-TS・PROは前後が、そしてアクティブLSDは左右が「可変」である。R33GT-Rは、このようにトルクの出し方をコントロールできる。しかし、変えられるということは、どうにでもできるということであり、一歩間違えば、どうにでもなってしまうものでもあった。

加藤博義は、現代のクルマの「足」や挙動のテストについて、「二次元どころか、三次元、四次元になってる……」と言ったことがあるが、これは「前後左右」のすべて(の駆動力)が可変であること。そして、それをクルマとして「まとめる」ことのむずかしさを端的に語ったものであろう。

だが、うまくやれば、クルマの挙動は積極的に「作れる」のだ。そして、それが可能な時代なのだ。佐々木は、クルマの安定性はまずLSDで作るということを基本にして、ここを突破口に事態を打開した。そして、あまりにも大きな(チューニングの)自由度の中から、ついに新GT-Rのための「解」を探しだした。ブレークスルーできたのは加藤がいたからだと、佐々木は言う。

そして最後に、きっちりとツメなければならなかったのが挙動の「つながり」だった。ここでも加藤は、リニアさと「過渡特性」を重視したからだ。加藤がこの電制システムに対して、担当者の佐々木に最終的なOKを出すのは、これからさらに半年後、94年の「ニュル・テスト」直前の頃になる。

さて、生産工場も含めて、さまざまな人々にとってシビアだった1993年の長い冬が終わろうとしていた。「電制」の最終仕様を決める佐々木と加藤の仕事の部分だけは、まだ細かなツメが残っていたが、新しいR33のGT-R像は、ほぼまとまってきていた。

1994年、早春。栃木の実験部は、練り上げてきたプロトタイプを携えて、北海道に飛んだ。そこには、「ニュル」を模して造成された陸別の高速ワインディング路がある。厚木で設計され、鶴見でエンジンを磨かれ、そして村山が製作した試作車が、栃木・実験部のスタッフによって、冬をくぐり抜けた北海道の「ニュル」を駆けた。

このテストが終わる頃、R33GT-Rのプロトタイプは、特別なレーシング・バージョンは別として、これまでのいかなるR32GT-Rよりも速く、陸別のコースを周回できるようになっていた。スタッフの誰もが小さく安堵し、そして誰かが声に出して言った。「よし、これで、ニュルに行ける」……

(第20章・了) ──文中敬称略
2014年12月21日 イイね!

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その1

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33の「GT-R作り」は、それを企画し設計した厚木と、それを生産するセクションである村山工場との“社内交渉”において、最終的ないくつかの困難に直面していた。しかし、それは生産ラインで量産するという点については問題点があるという話であって、村山では「新GT-R」が組めないというのではなかった。

新GT-Rの「現車」を作る作業は、厚木の試作車レベルから、とうに村山に移っている。村山で組んだものが、栃木あるいは北海道・陸別のテストコースで、実験部によってテストされた。「工場試作車」としてのGT-Rは、93年後半から94年にかけて続々とできあがっていた。

ちなみに生産工場としては、このような「工場試作」を数次に渡って行ない、さらに本格的な「生産試作車」を、これまた一次/二次と作って評価・検討し、そして最終的な「量産」へと立ち上がっていく。

新GT-Rを生み出すために始めはバリアとなっていた要素も、少しずつクリアされていった。繰り返されるテスト、トライと修整、また場合によっては仕様の変更などにより、R33のGT-Rの最終的な姿と仕様が徐々に見えてきた。

では、評価ドライバー加藤博義の「30点!」という酷評からはじまった走りのチューニングはどうだっただろうか。

そもそもR32のGT-Rは、ドライバーの意のほどには曲がってくれないという傾向(アンダーステア)があった。それは実験部の川上慎吾が言うように、「アンダーなりに挙動はまとまっていた」クルマではあったが、新GT-Rでは、そこのところを激しくブレークスルーしたかった。アンダーステアを消せば、コーナーでもっと早くアクセルを開けられる。280psのパワーも使い切れる。すなわち、もっと速いクルマにできるという展望である。

そこから、91年頃よりテストを重ねてきた「要素技術」のうち、厚木は「アクティブLSD」と「E-TS PRO」(前後トルクスプリットの4WD)をチョイスし、それによって新GT-Rの運動性を強化し、究極の「曲がる」クルマ──「意のままに」なるクルマを作ろうとイメージしていた。ところが、これが最初はひどかった! 加藤の「30点発言」は、主にこのバージョンへのものだった。

厚木側のこのシステムの担当者は、「電制」のスペシャリスト、佐々木博樹である。初めてそのプロトタイプに乗った加藤は、ほとんどドアを蹴飛ばしながら降りてきて、佐々木に言った。
「(挙動が)バラバラ、全然だめ。第一このクルマ、前に行かねえよ」
「アンダー消すのに、じゃあオーバーステアならいいだろうじゃダメだよ、乗ってみるか、横に」

加藤は佐々木を乗せて、テストコース内にある広場に出た。佐々木の苦心のセッティングだったはずのプロトタイプGT-Rは、ブレーキングすると激しくオーバーステア傾向になり、そこでアクセルをオンにすると、後輪から白煙をあげて、キキュー!……とスピンした。

このシステムの基本的な考え方は、こうである。曲がろうとして制動し、ステアリングを入れ(切り)、荷重が移動して外向きになっている時に、その外側のタイヤ(左コーナーなら右側)に、内側より多いトルクをくれてやる。このように左右に駆動力を分けると、4WDとの絡みでいえば、これまでよりも多くのパワーを後輪に渡せる。

すると前輪への駆動力配分が減らせるため、前のタイヤのグリップ力も、駆動力が減った分、上昇する。つまり、駆動と舵を切ることを同じ前輪でやることから生ずるFF的=4WD的なアンダーステアの要素が減る。こうして、四輪駆動GT-R特有のアンダーステアを消そうというアイデアであった。

この「電制」のテストのために、高剛性のGT-Rの車体が新たに作られるまでは、手作りで補強された電制テスト用の専用車が1台キープされた。「おまえの作りたい足って、これなのか? 違うだろ。ほら、こうやるとこのクルマって……」。加藤はテストコースが薄暗くなるまで、佐々木を乗せては、クルマが「前に行かない」こと、いまクルマがこういう挙動しかしないことを、佐々木に身体で教えた。

肩身の狭い日々もあり、厚木には当分帰ってくるなと言われた時もあり、また加藤とのケンカの毎日という時期もあったが、でも佐々木博樹は自分でも「燃えてるなあ!」と実感していた。93年の末頃から94年の初頭までが、そのトライ&エラーのピークだった。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月19日 イイね!

これは正しい決めつけである、クルマはインテリアだ──ペルソナ宣言

これは正しい決めつけである、クルマはインテリアだ──ペルソナ宣言§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

ぼくはこのクルマを静かな微笑みとともに、あたたかく迎えたいと思う。そして、語りかけたい。ペルソナ、きみはまさに「時代の子」だ。それも悲しいほどに、ニッポンの「いま」に添い寝している、と。

その出発点において、ペルソナは確実に正しかった。では今日では正しくないのかというと、そんなことはなく、3年半前のコンセプト・ワークだとは作り手側の告白であるけれど、むろん、いまでも十分に有効だ。

ついでに言っておくと、コンセプト・ワークから世に出るまでに、最低でもこれくらいの年月を要するというのは、クルマという商品の宿命である。いま売りたいものを、いま作る──このような呈示の方法をクルマは採れない。服作りとは違うのだ。

「NOW」と「トレンディ」からのみ、クルマを、それもクルマ作りや発想法を採点し、批判までするという「批評」の方法は、ゴールして着順がわかってから競馬を語るという予想屋ならぬ“結果屋”の解説に、どこか似たものがある。「NOW」に対して、クルマはハンディキャップを負っていることに、認識を欠いている。

さてペルソナだが、クルマとはついに「インテリア」と「細部」であり、キカイやパーツの集合体ではないというのが、おそらくその主張である。インテリアは、クルマから自立(!)しなければならず、細部にこそ、意味が宿らなければならぬ。キカイは完璧に隠蔽されるべきで、そのような「クルマ」こそが、今日のニッポン市場で求められているものである……というわけで、これにぼくは深く同意する。むしろ、3年以上も前にニッポンの特異性を読み切って具体的にゴーサインを出したことに、敬意すら表したい。

クルマへのアプローチが、この国では複雑怪奇なのだ。そして、ヨーロッパやアメリカとは違う尺度や基準があり、非関税障壁とはむしろこのことなんじゃないかと思うほどなのだ。そして、そのフクザツさを、ただ批評しているんじゃなく、そのようなマーケットを解するためのキーワードを探さなければならない──もし、クルマを作るとすれば。それが「インテリア」と「細部」だったというのは、ウーム……やっぱりほかにはないだろうね。

ステアリングホイールさえ無ければ、ほとんどクルマの中とは思えないようなインテリアを作ってしまおう。スイッチも、やっぱりキカイであるから、それらも、インテリア・デザインの“内部”に溶かしてしまおう。その「溶かす」思想は、物入れ・物置きの類にも、しっかりと適用しよう。

そして、車室内の「全体」をワン・ユニットと見えるような連続性とトータル性を与える。そのためには、これまで部品や「部分」の集合体だからとして無視されてきたところにも補足や“詰めもの”をして、一体感とラウンド感をつくり出す。それによって、室内が仮に狭くなろうとも、それは厭わない。そう、ペルソナとは、ここまでやった「クルマ」である。

……と、ここまでペルソナが発信する周波を受け取った上で、いくつか意見を述べたい。まず、室内における物入れスペースの容量不足である。ペルソナが企図したのは、すべてがキレイなフタの内部に収まっているシステムキッチンの姿であろう。ただ、それを可能にするには──たとえばフライパンが外にぶら下がっていないというのは、その種の物を十分に包み込む収納能力が要る。

ウエス、曇り取り、カセットテープあるいはCDディスク、地図や、その他もろもろ……。クルマを日常的に使うには、けっこう雑多なものが、トランクの中ではなく手許に必要で、ペルソナをペルソナらしく使うためにこそ(美しく使いたい!)、それらを隠しきるためのスペースがほしいと、切に願う。

そして、これから先は個人的な趣味も含むが、エクステリアについてである。ペルソナのデザインとは、要はディテールに細かな工夫を凝らした“小さなルーチェ”であろう。しかしルーチェのボディシェルにはマツダのオリジナルという香りは少なく、また、マツダというメーカーのアイデンティティも感じられない。まあ、そういうデザインである。

ルーチェを捨ててほしかった。エクステリアでも、アッと言わせてほしかった。出発点において大いに共感するがゆえに、その展開にも新しさがほしかったと、ここでは評したい。

そして、もうひとつの恐るべき現実……。ペルソナを一見しての直感批評に、「なんかトヨタみたいなマツダ車だね」というのがあったのだが、トヨタは実はカローラ・クラスに至るまで、とっくに“ペルソナの思想”を具体化していたのではないか? それも、トヨタ風に巧みに薄めたかたちで、目立たせず、反発を起こさない範囲で……。トヨタというのは凄い。だが同じように、このペルソナにもオマージュを捧げたい。1988年・秋、ワタクシはそんな心境です。

そして、このようなクルマを作ろうとする、あるいは希求しているマーケットというのは、世界広しといえども、わがニッポンだけであろう。日本人にしか意味がわからないクルマがあったって、いいじゃないかっ! 『アクション・ジャーナル』は軽自動車の数々をはじめとするいくつかの日本車に、このフレーズを捧げてきたが、今回も、そのように宣言したいと思う。

(1988/12/13)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
ペルソナ(88年10月~  )
◆この国では、クルマというものが「多義」である。この事実を象徴するモデルを挙げよと言われたら、ぼくはやっぱりこのペルソナをピックアップしたい。そして、たとえばニッポン市場を解したいと望む外国メーカーがあるなら、そのサンプルとして、このクルマの研究を勧めたい。もちろん、ハード的な解剖ではない。コンポーネンツはカペラだ……なんてことではなく、このクルマのコンセプトと求めたもの、つまりペルソナのテーマを解析すべきであると思う。

○2014年のための注釈的メモ
クルマは、どのようなものであっても構わない。そもそも、クルマについてのイメージが(ヨーロッパのように)凝り固まってない。それは、この国のみんながクルマについて無知だからよ……という説があるかもしれないが、でも、それでもいいと思うね。とにかく、クルマへのアプローチが柔軟で何でもあり! これがこの市場(日本)の一大特色であり、80年代から既にその気配はあった。

ゆえに、メーカーからはいろいろ提案が出て来る。そういう市場だから、90年代に米語でいうミニバンやSUVが入って来ても、すぐに受け入れた。……というよりSUVなら、80年代にクロスカントリー・タイプ(クロカン)をさっさと乗用車として使っていたのがこの日本だった。その意味では、アメリカよりも先を行っていたことになる。

この「ペルソナ」というモデル自体は、みんな(私も含めて)もう忘れてしまっていたかもしれない。ただ90年代目前、そんな日本マーケットの「柔軟性」というフィールドに咲いた、季節を逸した早すぎた花……。それがこのクルマだったのではないかと、いまにして思う。
Posted at 2014/12/19 19:58:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月19日 イイね!

第19章 “二重生産”

第19章 “二重生産” ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの全28ページに及ぶ広報資料の中に、「BODY」という項目がある。
そこでは「車体・シャシー トータル高剛性構造」というタイトルで、どのようにGT-Rのボディが強化されているかが解説されている。

そのうちの「車体強化部位説明図」に載っているパーツが、村山工場の面々を悩ませたGT-R用に新たに追加された強化部品の群れである。ざっと列記すると、フロントストラットタワーバー、フロントクロスバー、フロアクロスバー、シートバックセンター、リヤストラットタワーバー、そして、リヤトリプルクロスバーなどだ。

このようにネーミングされたことでわかるように、たしかにこれらは、村山側が言うように「棒とか板とか」であった。要するに、どこかとどこかをつないで、これまでになかったレベルのボディ剛性を生み出すための部品群である。

R33の場合、フロアはGT-R専用として、剛性を上げて肉厚も違う新部品としていたが、ただしそれは、形状としては基準車用と同じものだった。この場合は、クルマを組む側にとっての手間と時間は、基準車もGT-Rもさして変わらない。これなら、工場側も容認できる。

だが、ボディ強化のための「棒や板」は、それとは違う。これらは、基準車作りと比べると付加的な部品であり、組み付けの時間も大幅な増加が予想される。村山は、量販されるであろうR33スカイライン基準車の生産をきちんとこなしつつ、それに加えて、その同じラインでGT-Rを組まなければならない。その「二重生産」はどちらも同じように重要であり、そのシステムに支障が出る可能性があるとすれば、いくら栃木や厚木から強い要求があったとしても、安直にOKは出せない。

今度のGT-Rでは、これをここのところに組み付けたい。厚木の設計陣が、図面や、果てはパーツそのものを持って、村山工場に連日のようにやって来た。それに対して、以上のような立場から、「それはむずかしい」と村山側が答える。こういうやり取りが1994年の春から夏頃に、すなわちGT-R発売の半年ほど前まで、頻繁に繰り返されていた。

そしてもうひとつ、村山としては人員の問題も気にしていた。工場での組み付けのスタッフは、いつでも豊富に確保されているわけではない。四人がかりでやれば簡単に組めるじゃないかと言われても、そうした条件付きの部品はやはり引受けられない。どんな状況になっても工場としてGT-Rを作れること、これが前提なのである。

村山工場の“GT-R四人衆”である技術課の久松、生産課の篠塚、組立課・恩田、そして検査課の獅子倉らは、しかし、ダメだダメだと突っぱねてばかりいたわけではなかった。獅子倉のテストで、これらのパーツが有効であることは村山としても確認している。だから、村山は強化のためのパーツを加えることには異議はない。ただ、量産をしなければならない工場としてはどうしたらいいのか、その検討なのである。

この時期、おそらくオール・ニッサンで最も忙しかったエンジニアのひとりが、厚木の車両設計部でGT-Rのボディ設計を担当していた田沼謹一であった。田沼は、栃木・実験部の要求レベルを満たすべく、補強のためのパーツを新たに設計しては、それを村山で工場試作させ、それを組み込んだプロトタイプGT-Rを栃木の評価ドライバー加藤博義に委ねて、その是非を聞き、また村山と相談して、場合によってはふたたび、厚木の自分の机で新設計の線を引く。そういう日々を送っていた。

「ともかく、いっぱい部品は作ったなあ!」と、村山の面々も述懐する。また普通は作り勝手がどうかということでの部品の「変更通知」があるのだが、このGT-Rの場合は、「目標値そのものが上がっちゃって、それで変更になるんだから」と、獅子倉が苦笑する。つまり栃木が、もう少し「上」へ行きたい、もっと速くしたいとして、到達すべき目標を変えてしまうのだ。クルマを組む側は、それにいちいち付き合って行かなければならない。

また、クルマ作りには外注メーカーの協力とサプライが不可欠だが、ある部品を作ってもらってテストすると、栃木の実験部からは「あの六番目のやつがよかった!」なんて言ってくることがあるのだ。田沼と村山・生産課の篠塚は一緒にそのメーカーに行き、「そういうことなんで、あのパーツ、次の試作テストまでにぜひ間に合わせて」……という交渉をしたことも度々であった。

新しい部品が厚木から来るたびに、村山のスタッフはそれを見て検討する。「今度はコレか、どうする?」「クルマの下から入るか、コレ?」「いやあ、ひとりじゃムリだなあ」「じゃ切ろうか、田沼に言って分割させようか」……。

前述の各種強化部品のカタカナ名は、あくまでも外部に発表するための資料用語であって、村山ではあんな風には呼んでいなかった。「鹿の角」、「トンネルステー」、そして「例の板」といった具合である。また、エンジンルーム内では「象の鼻」と呼ばれた難物のパーツがあった。これはエンジンとインタークーラーをつないでいる太いホースで、これが固くてたわまず、入れにくく組みにくいパーツの代表として、論議の的になった。

だが村山側は、単に受け身でいて文句ばかりを言っていたわけではない。どうしよう、こうしてくれと、さまざまに意見や要望を出しては、厚木の設計陣とのすり合わせを続けた。そしてそれだけでなく、積極的に新しいGT-Rを作るためのアイデアを村山からも提出していた。

たとえば、初期のR33GT-Rでは、4WD機構でフロントへのトルクがどのくらい行っているのかを示す「トルクメーター」がなかった。渡邉や吉川は、それはインジケーターランプでやればいいとしていたが、村山の評価ドライバー獅子倉が「そりゃないよ!」とねじこんだ。結果としてR33のGT-R、そのセンターコンソールにはフロント・トルクメーターが付いている。スカイラインGT-Rが「かくあってほしい」というイメージは、厚木や栃木や鶴見だけのものではなかった。

ほとんどの部品に、村山からの、クルマを組む立場からのアイデアが盛り込まれた。そして、村山で組まれた試作車を栃木がテストして、厚木にフィードバックし、修整すべきところは修整されて、また村山に戻る。こういう循環で、試作とテストが繰り返された。

このGT-R作りにおいては、工場は、単なる最終アセンブリーの請け負い部門ではなかった。このクルマは普通のクルマ作りとは違う点がいっぱいあるというが、それは工場が果たす役割と機能でも同様であった。

そして、工場内を回る部品の「変更通知書」は、GT-Rの場合、生産の立ち上がりまでに、ついに97通に達した。「普通のクルマの場合? まあ両手以内で立ち上がりましょうねって言って、実際にもそんなもの。多くて10通ですね」(村山工場工務部生産課・篠塚友良)

(第19章・了) ──文中敬称略
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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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