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家村浩明のブログ一覧

2014年12月18日 イイね!

第18章 棒や板

第18章 棒や板 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

今度のクルマは、いったいオレたちに何をさせようというんだ……? R33GT-Rを作っていくプロジェクトの中で、この「仕事が見えない」という感じを抱いていた部署が、厚木のボディ設計のほかにもうひとつあった。クルマ(市販車)の現物を実際に組み上げる役を担う村山工場である。

一台の新型車を作りあげるために、メーカー内の各部署は力を出し合う。その時、そこにはおのずと“相場感”というものが生じる。車両設計部のエンジニア・田沼謹一は、それに「契約」という言葉を宛てたが、A車を作るのにはこのくらいのパワー(労力)を出せばいいはずという経験から発した社内共通の認識である。

だが、評価ドライバーの加藤博義を中心とする栃木の実験部は、独自の判断で――というより彼らにとっての必要から、各部に補強を施してガチガチに強化した超・高剛性のボディを作ってしまった。“メイド・バイ・ヒロヨシ”のこのボディなら、「GT-R」としての要件を充たす。これと同じものを作ってくれ! 

このオーダーが厚木に行き、ボディ屋の田沼謹一が設計をやり直す。こうして、R33GT-Rの「セカンド・プロト」作りが進行するが、その場合、あくまでも村山で量産できることというのが条件になる。GT-Rは、ホンダのNSXのように、専用の工場で組むという方式は採っていないからだ。

ただ、仮の話だが、もしニッサン上層部が、R33のGT-Rは村山以外のどこかに専用の施設などを新設して作るという決定をしたら、必ずや村山からの猛反発に遭っただろう。R32の時から、世界一のクルマ(GT-R)を作っている工場というのは、村山の人々にとっての誇りと勲章なのだ。

とはいえ、工場としてできないものは困るし、何よりクルマを最終的に組み上げる部署としての責任というものがある。また、メーカーの各セクションのうちで、最も顧客と近いのは工場だという自負もある。そのために村山には、完成車をテストする検査部があるし、また工場としてのテストコースも設けてあった。

R31の時に、まずゼロヨンなどの加速テストができる直線路を作り、それに加えて、タイトなコーナーが連続するミニ・サーキットまでが敷地内にあるのだ。これはアップダウンがある全長1.2kmほどのコースで、北海道・陸別のプルービング・グラウンドのミニチュアというべき格好になっていた。工場試作車に一番先に乗れるのは、実は実験部じゃなくてウチなんだ……と明かすのは、その検査部でR33GT-Rの生産を立ち上がらせた、村山の「走りのテスター」獅子倉和男である。

この獅子倉のほか、厚木との窓口となって図面などを受け取るのが生産課の篠塚友良。それを受けて現場へ展開し玉成していく技術課の久松太久司。そしてその現場で、実際にクルマの生産を担当する製造部組立課の工長が恩田賢一。その恩田らが組んだ完成車が、獅子倉の検査部に行く。クルマを生産する村山工場の仕事はこのように回るが、この四人が、スカイラインとそのGT-Rを作り、GT-Rに強いこだわりを見せる村山の“GT-R四人衆”と呼ぶべきメンバーであった。

ただ、R33でもGT-Rをやるというのは、村山側にとってはやや唐突な感があったようだ。一般的にはデザイン検討の頃というから、かなり早い時期に、新型車の開発には工場の技術部が加わるはずであり、図面(設計図)を描くという段階には、既に工場も深く関与しているものだという。したがって、それがなかった以上、次期GT-Rを作るというのは、もう1サイクル遅らせてもいい、あるいは遅らせるのではないかというのが、工場側の感触だったのである。

だが、実験部による新しいR33GT-Rの開発は着々と進んでいた。そして、彼らの“自作”によるボディまでできた。それを厚木の田沼が必死で「翻訳」して再設計しているが、そのボディとはどうやら、棒やら板やらがいっぱい付いた、市販車としては信じがたいシロモノらしいのだ。「そんなものは、工場では組めない!」、村山側はこう何度もはっきり言って、厚木に断っていた。

しかし、実験部(栃木)の意思も強固だ。これをやらなくては「GT-R」じゃないという。この間のマネージメントに奔走したのが専任主担の吉川正敏で、田沼が設計した「セカンド・プロト」をどう工場で組むかというのが彼の一時期の大テーマとなった。吉川の“村山詣で”が始まる。「頼むよ、作ってよ。ボディについては加藤がこう言ってるし、そこから田沼も何とか生産性を考えての新設計をやってるし、ぜひ、新しいGT-Rのために工場も協力を──」

村山側の言う「板とか棒とか」が何種類も厚木からやって来た。これらのパーツを加えて組むと「GT-Rになる」のだという。でも村山としては、手間や時間がかかること、さらには一人の作業員では組めないパーツが持ち込まれることさえあり、工場のシステムを考えると、いくらGT-R作りに意欲があっても、そんなことは簡単には引き受けられない。

それまでも、実験部の「あと何秒、HPG(陸別)でツメたい」という要求に、工場試作車を作った側として、「じゃあ、やろうか」と何度も協力し、クルマを作って(変更して)きた。だが、プロトタイプならそういうことがあってもいいが、工場ラインでの生産となると話のレベルが違う。

そして、組立を依頼される側としては、ついにこういう疑問も出てくるのだ。厚木の設計が持ってくる大量の「GT-R用」という、ラインでは組めそうもないパーツの山がある。しかし、「だいたいこの部品、効く効くというけれど、ホントなのかよ?」ということである。

たまらず、村山側は独自にテストをすることにした。ボディのどこかとどこかを連結する「棒」や、剛性を上げることに効果があるという「板」、そして肉厚の違う新パーツ。厚木の設計が持ってきたこれらの見慣れない部品を、彼らのいうように全部付けたクルマを作ってみる。一方で、そういうものをまったく付けないクルマを用意する。この二つの仕様を並べて、実際に走ってみることにしたのだ。

村山としての実走のテスターは、もちろん獅子倉である。工場には小規模ながら、きちんとしたテストフィールドもある。自分たちでテストしてみて、もしもそんなにはっきりと効果があるのなら、その時点で、あらためて考えてみようというわけだ。

……やってみた。明白だった。獅子倉は、二台のクルマで一回ずつ、120km/hでダブルレーン・チェンジをしただけで、笑いながらクルマから降りてきた。「参った、効くよ、これは!」

クルマがガシッとする。挙動がダイレクトになる。何かをした後の収まり具合が違う。収束性には格段の差がある。そして、レスポンスの違いは最も顕著だった。新パーツを付けたクルマは、ドライバーの意志が、気持ちいいほど瞬時に、クルマの全身にピッと伝わった。テストした二種類のR33は、まさに別のクルマであった。

そういうことなら、これらのパーツのすべてを組む前提で、それにはどうしたらいいかを、厚木とツメよう。村山は決定した。これで、GT-R作りの最終行程へのルートがようやく見えてきた。

(第18章・了) ──文中敬称略
2014年12月16日 イイね!

第17章 工場試作 その2

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

さて“猫殺し”というアダ名の加藤プロデュースによる“超・高剛性ボディ”ができあがって、R33GT-Rのボディのあるべき姿は見えていた。次は、そのボディをどう「再現」するかがスタッフの仕事となる。厚木での試作段階が終わり、それをGT-Rの生産工場である村山の「工場試作」に移す時期が来た。

だが、できあがった村山工場製のボディに加藤が乗ると、彼のダメが出てしまう。栃木の不満が噴き出す。厚木と村山は、ちゃんと「一対一」の対応をしてるのか? 言った通りにならないじゃないか!

一方、工場の村山にも言い分がある。これはラインでの生産を前提としてのプロトタイプだ。純粋に性能狙いだけで作ってくる厚木の試作は、そのまま生産(量産)できない部分がある。たとえば、ネジの穴をこのサイズにしないとラインでは組めないとか、あるいはスポット溶接の箇所を変えざるを得ないといったことだ。さらに、プレスにしても、厚木で試作用に使っているものと、大量生産のための村山の機械とでは、そのできあがり具合が微妙に違っていた。

だが、こうして微細な差があるプロトタイプを作ると、恐るべきセンサーの持ち主である評価ドライバーの加藤博義は、違いをあっさりと発見してしまう。そして言うのだ、「これじゃあ、GT-Rにはならない」と。

開発の時間は無限ではない。甚だしい場合は、設計図も抜きだった。厚木の試作品を、田沼がそのまま村山へ持っていく。このブツで行きたい、これを工場(ライン)で作れる(組める)かどうか、やってみてほしい──。 

「ある日突然(ボディに)これ付けたいって、設計担当が持ってくるんですよ」「設計図じゃなくって、段ボール切って、こういうパーツなんだけどって、田沼が来たことがありましたね(笑)」。村山工場の対厚木の窓口になっている工務部技術課の久松太久司は、この頃の田沼の行動をこう証言する。

設計者としての田沼の仕事は、「工場試作」が本格的に始まってからもなくならなかった。栃木の要求レベルのものを、村山の組立ラインで再現する。そのためにはどう設計するか、どう設計変更すればいいのか。それを考え続けなければならなかったからだ。

ひとつの例では、GT-Rはリヤのストラットの下側に、リヤ・ストラット・タワーボードという剛性強化のための板が渡されていた。これを工場のラインで組む際には、その板をトランクの開口部(上)から入れたいと、工場側は言った。それに対応して、二分割して上から入るようにしようと変更したが、栃木にテストをさせると「やはり一体化してくれ」という答が実験部からは返って来る。では一枚で、かつトランクから入れられるようにするには、どういう形状ならいいのか。こういう問題に対応しなければならない。

また、仮にその種の「板」が運ぶのには重すぎるとすれば、アルミに材料置換することが必要になるかもしれない。工場での実際の作業者が、仕事をしやすいようにする。これもまた、設計側に課せられた重要なテーマだ。田沼にとってのボディ設計面での開発終了というのは、彼が設計して村山で組んだものに、栃木がOKを出した時ということになる。

結果的にGT-Rのアンダーフロアは、その形状自体は基準車とまったく同じものになった。だが、その材質と厚さは、基準車とは全然違っていた。ボディサイドの部分も同様に、形状は同じで材質だけが異なるものとした。スカイラインの基準車が流れるのと同じラインで、GT-Rを組む。そのために、田沼をはじめとする厚木のボディ設計陣が編み出した巧妙な作戦であった。

「GT-Rは、ボディでいうと、基準車とはドンガラから全部違ってます。同じ生産ラインの中で、まったく別のクルマを作る。それがGT-Rの方法です」。厚木のボディ設計エンジニア・田沼謹一は、自身の仕事をこう振り返った。

(第17章・了) ──文中敬称略
2014年12月15日 イイね!

第17章 工場試作 その1

第17章 工場試作 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの「セカンド・プロト」作りは、1993年の秋から本格稼働した。“加藤スペシャル”の剛性解析を終えた厚木の車両設計部によって、新たな試作ボディが次々と作られた。その厚木製の新プロトタイプがようやく93年の秋、ニュルに持ち込まれて、加藤らのテストを受けている。ステアリング・インフォメーションの強化など、加藤の注文は多岐に渡ったが、ボディ設計のエンジニア・田沼謹一は、自分のフィールドでは何を求められているのかに絞って、そのテストを見ていた。

それまでの加藤のボディへのリクエストは、ほとんどリヤまわりに集中していた。「ともかく後ろを、もっとしっかりさせてくれ!」、手練のテスターは「尻がプルプルする」ことを何よりも嫌がったからだ。そしてこれは、実はR32に対して、新作のR33が抱え込んでしまった大きな欠点となっていた。

ただし、それには理由があった。そしてそれは、R32からR33に進化させようとする際に越えなければならない大きな壁でもあった。R32は、たしかにアンダーステアが強いクルマだった。挙動が限界に達しようとすると、フロントが逃げた。……というか、クルマがそうやって“対処”していた。

そしてそれが「たまたまうまくいった」(川上)だけなのかもしれないが、川上が言うように、「アンダーなりに挙動はまとまっていた」クルマとなっていた。ドライバー加藤の言を借りれば、「クルマを自分で曲げているという感じは持てたし、クルマとの情報のやり取りもできる」クルマであった。

それに続くR33では、アンダーステアを消したいというのを、まずメインテーマとした。そこから、タイヤとサスペンションで、ともかくフロントが外に出ないようにした。つまり、ひたすら「前をがんばらせた」(川上)のが初期プロトタイプだったのだ。

しかし、そのツケがリヤに来た。「後ろが一緒に上がってない」(加藤)クルマになってしまい、テールの動きに節度がないだけでなく、プルプルと動いてだらしなかった。さらにスピン傾向も強く、速く走れないし、アクセルも踏めない。そういうクルマとして始まっていた。

それがようやく何とかなったと、田沼は感じていた。今回の「ニュル」のテストでは、加藤は細部にこだわりはじめた。とくにアンダーフロアのサスペンション取り付け部の剛性をもっと上げることが必要になったが、こういう注文の方がエンジニアにとってははるかにわかりやすいオーダーであり、対策もしやすい。

一番辛いのは、ともかく全体がダメだという場合である。どこかに手を付けると、どこかにまた新たなシワ寄せが来る。そこを強化すると、また別のアラが出現したりする。全体のバランスを保ちつつ、やるべきところを探る。この苦しい模索の時期がようやく終わりつつあるのだなと、田沼は思った。

だが、それにしても「ニュル」というのは凄い場所だと、ボディ設計屋として、田沼はあらためて実感していた。コースがクルマにさまざまに「入力」してくる、その量と種類、そしてレベルがケタ違いなのだ。そして田沼は、その「入力」の処理法としてひとつのコツを発見していた。ドライバーの加藤が本能的に(?)対策している「棒でつなぐ」というのは、実に理にかなっている。

これは、モノコックのボディで、どうやって高剛性の“ドンガラ”を作るかの基本でもあるのだが、たとえば、ガツーン!と入ってきた「入力」があったとして、それをボディ全体でどう受けてやるか。そのためには、その「力」を伝達する経路を作ってやるのが手っ取り早い。要は「入力」をどう「流す」か。故に、仮に一ヵ所を固めすぎると、弱いところに力が集中してしまうことにもなる。バランスが重要というのは、このためだった。

「ストラット・タワーバーっていうのは、こういう意味で効くんですね」「あれはタスキがけのようにきちっと締め上げるから、剛性が生まれるんじゃない。バーがあることによって、片方から入力した力が逆サイドに流れてくれる。そのための装置なんです」(田沼)

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月14日 イイね!

ニュー・ビークル、ニュー・デザイン。プレーリーの意欲と欠くるもの

ニュー・ビークル、ニュー・デザイン。プレーリーの意欲と欠くるもの§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

初代のプレーリーは、やはり成功作ではなかっただろう。センターピラーなしで、豪快に“吹き抜け”構造にするなど、意欲はたっぷりだった新提案カーだったが、いかんせん、ルックスがチャーミングではなかった。機能美(?)でありすぎた。

つまり、ほんとうに機能追求で巨大な動くハコを求めるなら、もっと大きくて、エンジンも床下にあるようなワンボックス・ワゴンがあまた存在する。この厳粛な事実の前に、いくらセダンではないからとはいえ、機能一辺倒の造型を持ってきては、やっぱり勝てないのである。

またこのクルマは、純・乗用セダンでもワンボックスでもないという中間に、つまり、どっちでありすぎても困るという、極めて限定されたところにユーザーを求めた機種のはずで、その故にこそ、オリジナリティというものがほしかった。初代プレーリーは、ワンボックスから何かを借り、セダンからはこれをかすめてというような「中間車」であったとぼくは思う。

……ウム、そもそも「1.5ボックスだ」みたいな、中間意識がいけないんじゃないかね。双方をキョロキョロ見るんじゃなくて、何か、これまで無かった類のビークルを新たに創出する。そのくらいの意気でもってやると「自動車」という概念の根ッコのところでの新風となって、展望もまた開ける。そういうもんだヮと、ま、こんなエラそうな感想も持っておりました。

では今回の、セカンド・ジェネレーションとしてのプレーリーはどうか? これは、いいでしょうね。ある与えられた投影面積の上で、BOXがいくつかなんてことは構わずに、自由に遊ぶ。そして、そのようなイメージスケッチが、ほとんどまんま、商品となって実現している。そういう新しいビークルである。

ふつうのセダンも、いわゆるワンボックスも買わない。そういう人のための限定商品は、ターゲットが狭い故に、受け手の見方が逆にシビアになると思う。スポーツカーというものがよい例で、ほんの些細なフィーリングの差が「優劣」とされてしまうし、デザインの“一瞬”が勝負の分かれ目となる。プレーリーのようなクルマに注目する限られた層にとって、今回のスタイリングは、顔をほころばせるに足るものではないか。やってくれたね、今度は!……というところであろう。

嗚呼、だからこそ! ここまで来た故にこそ、パワーソースへの十分以上の吟味がほしかった。こういうの買う人って、あまり飛ばさないんじゃない?……と言っているとしか思えないエンジンは、はっきり言って魅力がない。ここのところで、セダンじゃないからといった逃げを打たないでほしい。

繰り返すが、これは新種の「自動車」。速さやドライバビリティなどの点でも、欠けるところがあってはならないクルマ。もっと言えば、パワーユニットにおいても、新しさの主張がなければならないはず。

新カテゴリー・ビークル、プレーリーに、もっと速さを、そして、走りにも夢を! 

(1988/12/20)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
プレーリー(88年9月~  )
◆この種のプレーリーみたいなクルマは、90年代の新傾向となりそうである。いくつかのメーカーから、このような大きなハコ型で、そして、あくまでも乗用ユースであるというビークルが登場してくる。それなりのカテゴリーができた時、今度はその「レギュレーション」内での競争となり、クルマが磨かれる。そういった歴史が、また始まるのであろう。きびしい世界だなと思いつつ、もちろん受け手としては、そのようなバトルを歓迎するものである。レースの世界とよく似てるな、やっぱり──。
Posted at 2014/12/14 18:55:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月13日 イイね!

第16章 「こいつら本気だ!」 その2

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

厚木に帰ってきた田沼と今井の報告を聞いた車両設計部長の藤原靖彦は、すぐに態勢の見直しを決定した。今度の「GT-R」は、文字通りにハンパじゃないものを作るプロジェクトだった。ボディ屋としても、そのハイ・テンションの進行に遅れをとってはならない。

北海道を走った“栃木製”のクルマが厚木に持ち帰られ、すぐに解析がはじまった。加藤がつないだこの「バー」は、いったい何に効いてるのか。モディファイされたこの部分は、何にどのくらいの効果があるのか。その解析が完全に終わるまでには、約二ヵ月の時間が必要だった。そして、この新たにGT-Rのボディを模索している時に、それまでにないテスト法として、モデルを宙に浮かせて「横G」をかけるという方法も考えだされた。

田沼は、この仕事に熱中した。どこにどのくらいの剛性が要るのかという解析の後は、その剛性を保ちつつ、それをスマートに見せるには、どういう代替案があるのかを探った。何故なら加藤が作ったクルマは、僚友の川上が苦笑いするくらいに、見栄えは構わずにバシッと棒と棒がつながっている、そういう「アクロバティックな(笑)」(田沼)代物だったからである。

もうひとつ、田沼にとっての大前提があった。ここが実験部による強化ボディ作りと決定的に違うところだが、田沼が設計するボディは、いずれは、村山工場の生産ラインに載る必要があるのだ。強靱なボディでなければならないが、しかし、ラインでの大量生産が可能で、かつ生産性も良いこと。それが必須の条件になっている。

工場のラインで作れて、合理的で、かつ軽く――。課せられたテーマは多かった。部材としてのアルミやカーボンの使用も検討された。レーシングカーを作っている系列会社のニスモにも、何度か問い合わせを入れた。

むろん村山工場とも「GT-Rを作るんだ」という点での合意があり、さらに栃木の意欲も、厚木を通じて、村山側に伝わっていた。田沼は栃木と村山を、厚木を拠点に精力的に動きまわった。栃木の求める「レベル」を、どう村山で作るか。そのためには、車体はどのような設計でなければならないか。

強固なボディを作るということは、部分だけでなく全体のバランスが、部分の出来具合以上に重要だ。そして、あくまでも『動性能』の中でそれを評価しようという加藤のシビアな目(というより「掌」か)も待っている。新R33GT-Rの車体の「セカンド・プロト」作りは、93年の半ばに、そのプロジェクトが新たにスタートした。

この年の秋、「ニュル」での初テストでは、栃木からの要請と必要条件とを入れて、かつ生産性というファクターも含んで、田沼ら厚木の設計陣が新作したボディが使われていた。ボディパネルの板厚を大幅に上げて再設計されたR33GT-R「セカンド・プロト」の原型である。

この新プロトに対して評価ドライバーの加藤は、サスの取り付け部など細部の剛性の強化を主に求めてきた。それまでは、主にリヤまわりに加藤のクレームは集中していた。加藤からの注文がこうして「細部」になったということは、ようやく車体の「全体」は何とか固まってきたんだなと、ボディ設計担当の田沼謹一はちょっとだけ息をついだ。

(第16章・了) ──文中敬称略
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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