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家村浩明のブログ一覧

2014年12月09日 イイね!

第13章 「ニュル」 その2

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

さて、そのR33GT-Rのプロトタイプが初めて北海道のテストコースに行ったのは、93年の春である。評価ドライバー・加藤の「30点」発言から出発して、実験部のスタッフは、まず独自にボディを補強した「栃木仕様」のGT-Rを作り、それを陸別に確認に行ったのだ。

実験部の川上はそのクルマを設計陣に見せ、「厚木に帰って、車体剛性を計算してくれ」と要請する。最低限、このくらいのボディでないと今度のGT-Rはできないという実験部からの回答だった。

そして、93年の8月。9代目スカイラインとしてのR33・基準車が発表される。この時にGT-RだけはR32のままで、とりあえず併売されていた。R33でも、GT-Rは出るのか? これに対してニッサン側はイエスともノーとも言わずに沈黙を守ったが、当然、ジャーナリズムは新しいGT-Rについての憶測記事に沸いた。

いや、もっと言うなら、大きくて重たくなってホイールベースが伸びた新型(R33)で、GT-Rは果して作れるのかという懸念と疑問のネガティブな流れが、誰言うともなく生まれていた。渡邉はもちろんそれに気づいてはいたが、この件に関しては、11月のモーターショーで答が出せるし、それでいいと思っていた。

そして、その93年・秋。R33GT-Rのプロトタイプは、初めて「ニュル」の土を踏んでいる。超高速で、かつ複雑極まる「G」がかかる、この“危険なサーキット”を走ってみようという程度には、クルマは進化していたことになる。

この時のテストは、時期的にはR33の発表後であり、もう堂々とそのGT-R仕様がニュルを走っても不思議はないような気もするが、しかし「もちろん、カムフラージュ付き」(渡邉)だった。発表されたのは、あくまでスカイラインの基準車のみ。そのGT-R版は、対外的にはまだ存在することさえ秘密なのだ。

この「ニュル・テスト」で、最も精力的に動き回ったのは、もちろん評価ドライバーの加藤博義である。テストした加藤は、まず、さらなるステアリング・インフォメーションを求めた。

加藤のドライビング理論は以前にも紹介したが、クルマが速くなればなるほど、もう「掌」しか頼れる情報源はなくなる。「ニュル」ではさまざまな方向からの「G」が車体にかかり、しばしばオーバー200km/hで曲がらなければならず、さらにブラインド・コーナーだらけだ。次のコーナー、このまま行ってもいいのか、いや、アクセルを緩めるべきなのか? 加藤にそれを教えてくれるのは、唯一、ステアリング(掌)だけだった。

いっそうの「情報性」を求めたこの時の加藤の要求は決して過大なものではなく、むしろ最低限の、また肉体から発した必死の要求であっただろう。渡邉は、フッと洩らしたことがある。加藤には今回、ものすごくシビアなことをしてもらった、彼の身に何もなくてよかった、と。

ただ、このステアリング・インフォメーションをさらに良くするというのは、実はそう易きことではない。要するに、路面からの情報を過不足なく、ドライバーの「掌」まで伝えてほしいという願いだが、その地表との接点であるタイヤからステアリングホイールまでには、驚くほどの数のパーツがある。それらのうちのどれかひとつにダルなものがあったら、もう情報は途切れてしまう。

すべての部品が見直されたほか、新GT-Rのステアリング系には、1000分の1ミリ単位の精度で加工と研磨がなされたギヤが導入されることになった。そのギヤは、通常のクルマよりはるかに深く噛まされ、そして、それを押しつけるための油圧も高められた。また、フロント・サスペンションのアッパーアームが二段にされ、横方向の支持剛性が大幅に上げられた。

さらには、『動性能』のためのシェイプアップとして、フューエルタンクはR32に比べて、より車体中央寄りに置かれ、一方全体の重量配分は1.5%ほど、R32よりも後ろ寄りにセットし直された。また、フロント部を軽くするためにエンジンマウント(材質)はアルミ化され、インタークーラーも軽量のものに換えられた。「まあ100グラム単位で、ひとつずつやっていくだけ……」。実験部による第一次ニュル・テストに同行した主担の吉川正敏は、この種の軽量化については、こう語るだけだ。

(第13章・了) ──文中敬称略
2014年12月08日 イイね!

第13章 「ニュル」 その1

第13章 「ニュル」 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

まず、栃木のワインディング路(テストコース)で。ここでの評価と確認ができたら、北海道・陸別の高速テストコースへ。そして、最終確認を欧州のサーキット、ニュルブルクリンク・オールドコースで──。スカイラインGT-Rの開発スケジュールは、このような段取りを踏むことが、いつの間にか全スタッフの了解事項になっていた。

「ニュル」を走る。このこと自体は、80年代後半から90年代にかけての日本車の開発では、べつに稀なことではない。とりわけ海外(欧州)をメイン・マーケットにするようなモデルでは“ニュル詣で”はしばしば行なわれ、ニッサン車でいえばパルサーやプリメーラも、「ニュル」を開発の最終ステージに選んでいた。

しかしスカイラインは当時も、そして今日でも、輸出の予定はまったくないモデルである。……にもかかわらず、「ニュル」は走る。これは、R32GT-Rの開発時に、実験主担としての渡邉衡三が国内専用車であることを知りつつ、敢えて挑戦するという道を選んだことから引き継がれていた。

なぜ「ニュル」か? 渡邉と伊藤修令・R32主管は、GT-Rで世界最高の「ロードゴーイング・カー」を作りたいと念じた。そのためには、世界の高性能車が走るテスト・ステージと同じ場に、自身の作品を置いてみたい。こういう素朴な、しかし真摯な願望があったのだ。

これと似たことを、同じような時期に同じような動機でやっていた日本のメーカーがある。スポーツカーNSXを開発中だったホンダである。ただし実際に走ってみた「ニュル」は、NSXの開発陣にいきなり課題を突きつけた。とくにボディの剛性については全面的な見直しを余儀なくされ、発売は当初の予定より一年ほど遅れることになる。ここでも、かつてR32GT-Rプロトタイプが受けたのと同じ“ニュルの洗礼”があった。こうした経験の後にこの両社は、「ニュル」的なテスト・フィールドの必要性を強く認識し、北海道に、それを模したコースを新設するという共通点を持つ。

ただ、ここで注意したいのは、スカイラインGT-Rとは、あくまでも「ロードゴーイング・カー」として企画され、その線でまとめられたクルマだということである。たしかに、GT-Rとモータースポーツは切っても切れない関係があるし、R31の時代からサーキットには関わっていた。レーシング・スカイラインのマル秘プロジェクトもあった。

しかし、渡邉は証言する。R32とそのGT-Rをまとめあげた時に、「これならレースにも勝てるねということになり、じゃあレースのために開発したということにしよう……となった。まあ、両面作戦ではありましたけどね」ということなのだ。

ロードゴーイング・カー、つまり使用条件がさまざまである市販車だから、ニュー・コンセプトの駆動方式や、複雑なサスペンションの機構が必要になる。あるいは、さまざまなレベルのドライバーが乗る市販車だから、高性能を人にとってやさしくするための配慮が要る。もしサーキット・ユースだけを考えるなら、もっとシンプルなクルマでいいことは、1995年にル・マンに初挑戦した「GT-R LM」を見ても、よくわかることだ。

スポーツ車両開発センターの水野和敏が作ったル・マン仕様33GT-Rは、単なるFR(2WD)であり、またサスペンションも、レーシングカーとしての定番であるダブルウィッシュボーン方式をわざわざ選択していた。(グループCカーでの実績があるパーツを使いたかったという理由もあるが)

また「ニュル」についても、渡邉は、次の点は確認しておいてほしいと言う。ここの「オールドコース」という周回路は、一般のサーキットのように、ピットの前を全速で通過できるようには作られていない。コースの外から入り、一周したら、また外に出て行くという構造になっている。

したがって、ニュルにおけるタイムは、どういう計り方をするかで違ってくる。R32GT-Rが記録した「8分20秒」とは、あくまでもニッサンとしての計測法によるタイムということ。後にR33GT-Rはこのタイムを大幅に縮めるが、その際つねに「マイナス何秒」という表現をしていくのはこのような理由による。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月08日 イイね!

ホンダ・コンチェルトへの“道”は、かく複雑・微妙なり……!

ホンダ・コンチェルトへの“道”は、かく複雑・微妙なり……!§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

クルマについてある程度アツくて、たとえば外国車についての知識も少なくないものがあり、書物も読んだりしてる。ただし、ありがちなこととして絶対にオカネモチではなく、したがって「リーズナブル」という語には本気で対応するし、クルマの複数所有は、まず諸事情が許さない。

いわゆるエンスージァストというよりは、もう少し批評的であり、むろんセールスマンによるクルマ選びはしないし、値引き額で購入車を決めたりもしない。欧州車へはひそかな憧憬と敬意があり、その所有経験すらあるかもしれないが、諸般の事情をかんがみた結果、いまは乗ってなかったり、耐えつつも、そのどれかと暮らしてる。

……というような人々(レアケースかもしれないけど)にとって、「質感」がテーマだとして呈示されたコンパクトなニューモデルは、静かだが強いインパクトがあったようである。(ああ、小さな高級車よ! 我、ついにその幻の具体化を見たり……)

この時、ヴァンデンプラは出て来ても、トヨタのカローラやカリーナは決してイメージされないというのが興味深いが、それはともかく、ホンダのコンチェルトというニューモデルは、どうもそのような受け止められ方をしたフシがある。

その結果、ヴァンデン・プラは知ってか知らずか、とにかく「高級度」という判定基準を当てられて、このコンチェルトは評価されがちのようだ。そうなると、このクルマの評価も、けっこうシビアになってしまうよな……。

だが、よく考えてみると、4WD版をスペシャルとして別格扱いにすれば、コンチェルトとはアンダー200万円というプライスのクルマであり、その値段からしてとくに「高級」ではない。300~400万円くださいという存在ではないのだった。所詮はシビック・ベースのクルマだからねえ……という非難めいた批評も、事実関係の指摘には有効だが、クルマ全体の評価としてはどうなのか。

そして、“プアマンズ・ローバー800”というのも、実にその通りなのだから、800よりもチープな分は“プア”になって当然でもある。たしかにローバーというのは、高級というかアッパーミドルのブランドで、コンチェルトとは、いずれは「ローバー400」としてもお目見えするモデルではあるが、しかし、400はあくまで400であって、800ではない。

「ローバー」という語感は、先ほどの“レア・ピープル”にとっては、かくも想像力をかき立てるものであったのかということを確認しつつ、作り手であるホンダ側の次のような意図を紹介しておく。それは、同様のコンポーネンツを使用して、シビックは日本、インテグラはアメリカ、そして今回のコンチェルトはヨーロッパです、というもの。つまり、そのような地域別の「作り分け」だというのだ。

なるほど、ね……。この方が、よほど明快だね。すると、ヨーロッパ車的なるものが、今日のニッポン市場で、どのくらいの商品力を持つか。これがコンチェルトの意味になるわけだ。6ヵ月後の販売台数に、その答えがあるさ……と言ってしまってもいいのだが、ここで敢えて展望を述べるなら、コンチェルトとは、ニッポンで一番ウルサ型の、それも、繰り返すけど“レア・ピープル”の前に示された商品だと思えてならない。

──「ヨーロッパ」にかぶれ、なおかつ、それと巧みに訣別した人のためのクルマ。それがコンチェルトということになりそうだが、ただ、そこには、けっこう愛らしいジゥジアーロ造型のジェミニが待っていたりする。ローバー400をこの目で見るまでは、評価は留保する? うん、それもまた、ひとつの正解だろう。『アクション・ジャーナル』も、その手で行くことにします。

(1988/11/15)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
コンチェルト(88年6月~  )
◆「小さな高級車」というのを希求するのは、ひょっとしたら自動車ジャーナリズム内だけに存在する志向だろうか? つまり、高級車(いいクルマ)を欲してはいるのだが、その欲求をあまり表に出したくないし見せたくない。その程度の羞恥心(?)はあって、しかし立場上、いろんなクルマに触れる特権は持っており、経験だけは豊富で、安っぽさにも敏感に反応する。そして、仕事上(と称して)都市内でもクルマで動きたがるから、取り回しの良さも重要で、ゆえに大型車は求めない。さらには、クルマへの関心は深いが、何台もまとめてクルマを所有できるほどにはおカネは持ってない。自動車雑誌関係者に多いタイプである。

○2014年のための注釈的メモ
ギョーカイの内輪話みたいな部分も多い一文で、いま読んでおもしろいかどうかは、もう、よくわかりません(笑)。ただ当時のギョーカイには、ヨーロッパではこうなのに、何でニッポンではそうならないんだ!?……といった“文化的苛立ち”が少なからずあり、そのイライラ感を、そのままクルマ(日本車)にぶつける“評論”がしばしばあった。コンチェルトの例では、メーカーがチラッと「質感」と言っただけで、こんなものが「高級」であるはずがない、何もわかってない!……と鉄槌を振りかざす。

でも英国を見るなら、おそらくは「階級」なるものがある故に、まったく同じメカニカル・コンポーネンツで、ヴァンデン・プラとモーリス/オースチンを作り分ける。(室内などディテールはもちろん異なるが)これが「馬車の時代」から引き継がれた慣習と社会的要請であり、作り手としても、それにやむなく(?)対応し続けた。その結果、大衆車モーリスと同じサイズの高級車も付随的に登場する、と。要するに、こういう事情だったと思うのだが。
Posted at 2014/12/08 06:31:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月07日 イイね!

第12章 「過渡特性」

第12章 「過渡特性」 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

主管の渡邉衡三が、新R33GT-Rでやりたかったこと。それは、ひとつはR32の足らざるところ、つまりブレーキ、クラッチの容量と耐久性、エンジンルーム内の熱の処理、そして高速での空力の修整だった。また、せっかく「トルク・スプリット」まで到達した4WD技術の次への展開もあった。ここまで来たからと中断してしまっては、必ずや、カメに抜かれてしまうという例の“寝るウサギ”になりかねない。R32で仮にも「先進」というところにいるからこそ、そこで立ち止まっていてはならない。

主担として渡邉のパートナーとなった吉川正敏も、もしR33でGT-Rを作らないことになれば、その技術の展開を休んでしまうことになると思っていたひとりだった。同時に吉川は、新GT-Rが「280ps」という国内の自主規制の中にあっても、ソフト面での“ツメ”で、同出力でもクルマはさらに速くできるとイメージしていた。これは彼が、エンジンがほぼ同じR32「グループA・GT-R」がサーキットで年々速くなっていくことを見続けていたからだ。

同じパワーだとして、では、それをもっと「使い切る」ことができたら──。この吉川と同じことを、栃木・実験部の主管・萩原裕も、やはり考えていた。せっかく「280ps」というパワーがあっても、もしドライバーが恐いと思ったり、コーナリングでのアンダーステアが強くてアクセルを戻さなければならないクルマだったとすれば、それを使い切ってないということになる。

その点でのR32GT-Rは、やはりまだまだ未成熟だった。評価ドライバー加藤博義の言を借りれば、「もうちょっとハナが早く入ってくれれば、もっといい……」というクルマだったのだ。R32GT-Rというクルマを栃木組が「60点」とするのは、この決定的な弱点がわかっていたからだ。

そして、このアンダーステア、つまりステアリングを切り込んだほどにはクルマが曲がってくれないという問題は、「32では、いかんともしがたい」(渡邉)のであった。省みれば、R32時代に世に出た各種のディベロプメントとは、タイヤにせよE-TSの再チューニングにせよ、32GT-Rをいかによく「曲がる」ようにするかという一点に集約することができる。

だから渡邉は「R32の次」をやりたかった。より「意のままに」走れるクルマを作りたかった。そして、「走り・曲がり・止まる」だけでなく、それらを統合した、GT-Rならではの『動性能』というものを、もっとツメてみたかったのだ。

吉川も言う、ドライバーがどれだけ、クルマの持っているポテンシャルを引き出せるか。ドライバーがこれまで使えなかった領域があるとすれば、それをなくせないか。もしくは、使える領域をもっと拡げてやることはできないか。それができれば、たとえ同出力のエンジンを積んだクルマであっても、絶対に性能は上げられる、と。

そしてもうひとつ、「予兆」が大事だと吉川は考えていた。これは、ポテンシャルを引き出すこととも密接に関係するが、クルマとのコミュニケーションがどれくらいできるかということである。クルマがドライバーに情報を発信する。これから、こうなりそうだぞと言ってくる。そういうクルマからの信号があれば、ドライバーは対応できるし、さらには、その未来の挙動を「走り」に応用することもできるだろう。

そのためには、その情報やコミュニケーションには再現性があることが必須だ。それによって、はじめてライバーも、クルマとの対話を記憶することができる。こうして、吉川と加藤・川上との間で「予兆のルール」が作られた。必ず、予兆があって、何かが起こるクルマにすること。それを、あらゆる局面で徹底すること。それをひとつずつ設定しては決定していく。こういう合意である。

つねに「意のままに」とは、つまりは、意のままにならない領域や部分をなくすことである。ある速度域ではダメ、また、ある回転域ではかったるいといったネガをつぶしていくことでもある。さらに、あらゆる性能は常にリニアに「つながって」いなければならない。

ここまでコンセプトがツメられて、ついに「過渡特性」というテーマが出現する。エンジンでの例がわかりやすいが、たとえば回転域のどこかで息をつくのなら、その特性が磨かれていないことになる。さらには、Aという状態からB状態に移行するその中間のすべての領域でも、いつもドライバーにとって「快」であってほしい。

いや、エンジンだけではない。「走り・曲がり・止まる」というすべてのシチュエーションで、つまり『動性能』のトータルな局面で、そのようでありたい。新しいR33GT-Rとは、以上のようなクルマを作りたいという野望のもとに動き続けたプロジェクトであった。

そして、その企図の大きさの割りにはスタッフに与えられた時間は限られており、また、この事実は、渡邉衡三自身の口から発せられることは決してないが、実は彼がR33GT-Rのプロジェクトに“呼ばれた”時には、R33の基準車は既にディメンションもデザインも決まっていた。主管・渡邉は、いわば与えられたパッケージで、R32GT-Rを超えるクルマを作ることを求められたのである。

「時間がない。だからヒロヨシが要る」……。渡邉は何度か、R33GT-R開発を語る際にこのフレーズを用いた。その渡邉の切実で複雑な心境が、この台詞には滲む。R32を超える、新しいGT-Rの具現化に向けて、渡邉と吉川と、そして評価ドライバー加藤の“ハード・ジョブ”は、こうして始まっていた。

そのプロトタイプができてしばらく経った頃、加藤は一度だけ、渡邉の自宅に電話をかけて“泣き”を入れたという。加藤が言った、「時間か、何かタマが欲しい……」。時は、93年の半ば頃だった。発売時期を変えられないか、何か問題解決の手助けになるような新技術はないのか。加藤は渡邉にこう言っているのだ。

渡邉は、むしろ非情に言った。「何もないし、発売は延ばせない」。心では頑張れと念じつつ、あえて望みを断ち切ることが、この場合は友情だった。(きみにやってもらうしかないんだよ)……加藤自身の手になる、例の“高剛性ボディ製作ファクトリー”が本格稼働しはじめたのは、実は渡邉へのこの電話の後のことだった。

(第12章・了) ──文中敬称略
2014年12月06日 イイね!

第11章 補強

第11章 補強 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

(これは、車体だ)……。1993年の春に、一応のかたちになったR33GT-Rの初期プロトタイプ車。それに触れた「足」のプロフェッショナル、加藤博義は、こう直感した。

このプロトタイプに、彼は極めて辛い点を付けた。厚木の設計陣がやろうとしている「アクティブLSD」なるものへの不満点もあったが、そんな新デバイス云々よりも、それを“盛りつける”ベースの能力がそもそも足りてないのだ。新しいR33GT-Rのプロトタイプは、エンジンとブレーキはそこそこだったが、さまざまな意味で「曲がる性能」に欠けていた。

加藤は、R32時代に川上と一緒に作っていた「評価シート」にそのプロトタイプを載せて、タイヤ、ステアリング系の剛性、そのインフォメーションの度合などを採点していく。そして実験部のスタッフや設計のエンジニアとミーティングしては、ひとつひとつテーマを絞ってその部分を遡上に上げ、次の段階として、バランスも大切にしながらの評価シートを、もう一度付けていった。そして同時に、クルマの「全体」を気にしながらテストコースを日々走りまくった。もちろん、採点することだけが彼の仕事ではない。「評価ドライバー」として、ここからクルマをどうしていくか。

ところでサスペンションだが、これはやや乱暴な言い方をするなら、所詮は車体と4本のタイヤの中間を埋める「接合部」としての機能しかない。一見、機構が複雑であり、そのメカニズムについていちいち名前がついていて“華やか”なのだが、それによってクルマ(=走りの性能)が一挙に解決されるようなオールマイティ性は、始めから持っていない。

後に、R33スカイラインGT-Rを基本に、ル・マン24時間レースのための「レーシングGT-R」を作ることになるニッサンのスポーツ車両開発センターのエンジニア・水野和敏も、サスペンションについては結構クールな物言いをするひとりだ。レーシング・エンジニアとしての水野に言わせると、クルマを設計する際に「最後に描く」のがサスペンションなのだという。むろん、どうでもいいというものではないが、優れたパーツとしてのサスペンションさえあればクルマは成り立つというものではない。これは、そのことの証言であるだろう。

さて、評価ドライバーの加藤とその良きパートナー、実験部の川上慎吾は、課題である新R33GT-Rの「まとめ」に、93年から精力的かつ具体的に取り組みはじめた。彼らがまず始めにやったこと、それはともかくクルマを「硬く」することだった。

たとえば加藤が「クルマの後ろがクニャクニャしてて、ちゃんと走れない」と評価したとする。まず、後輪の操舵機構であるハイキャスを止めてみる。この作動が、ひょっとすると悪影響を及ぼしているのかもしれないからだ。そして、それでも症状が変わらなければ、ブッシュ類を硬いものに交換してみる。これでとりあえず、ガチガチの足回りが出現する。それでもまだダメだとなった時に、対策はサスから、それがくっついているモトの部分(ボディ)へと移る。

GT-Rの主管・渡邉衡三は、“ヒロヨシ”と呼んでいる加藤について、「彼は、クルマを作っていける開発ドライバーだ」と語るが、この「作っていく」とは、スタッフに指示を出していくことだけを意味しない。加藤は、文字通りに実際にクルマを作ってしまう男だった。

加藤は、厚木の作ったオリジナル・プロトタイプの顔が気に入ってなかったのだが、それを、さっそく自身でグリルを切って修正してしまった。これはまあ社内ジョークとしてのイタズラに属するが、テストの結果、R33GT-R初期プロトタイプの欠陥がサスだけでは処理できないとわかるや、その“作り手”としての能力をいかんなく発揮しはじめる。

何をしたかというと、ボディの補強であった。それも、自分自身で器用に工作するし、溶接もする。そして、その補強のアイデアがオリジナリティに溢れるものだった。僚友の川上が感心して言う。「(加藤が)ストラット・タワーバーを二本にすると効くというんですよね。でも、前例もないしどうしようと言ってると、もう加藤がさっさと付けちゃったモノがある。試しに走ると、やっぱり効いてるんですよ(笑)」。

専任主担の吉川正敏も言った。「見ると、こことここをくっつけてどうするの?……というようなとこが、つながっているんですよ(笑)。でも走ってみると、事実として効果がある。そういうことがいっぱいありましたね」

新しい来たるべきGT-Rは、アクティブLSDや4WDの新次元のコントロールといった、ここ何年か研究を重ねてきた新技術が盛り込まれることになっている。だが、それらをチューニングするには、それらを載せて収める「ハコ」をきちんと決めておかなくてはならない。おカズを調理する前に、どういう弁当箱にそれを盛るのかを決定しておく必要があるのだ。

加藤は、実験部がクルマを仕上げていくことを「料理」にたとえた。目の前にある材料から、どうすれば最上のディッシュができるかをツメていく。しかし、今回はそれだけではなく、加藤は“シェフ”として、いわば原材料の調達にまで踏み込んだ。このクルマは、普通のクルマ作りと違うことがいっぱいある。GT-Rを語るニッサンのエンジニアたちは、異口同音にこのように語るが、その白眉がこの“加藤ファクトリー”の出現であった。

その手作りによるボディ補強は、こういう車体にしたいという加藤の希望を現実化するためだけのものだから、見栄えなんかは一切無視されている。「なんか棒がちょん切ってあって、それでバシッと留めてあるとか(笑)。要するにそういうクルマですよ」。とても外部に見せられるような代物ではないという意味も含んで、川上は笑いながら言った。

栃木のテストコースを走り込みながら、加藤は彼にとってのあり得べき「GT-R」を作っていった。タイヤとサスは決めてある。だからボディを決めないと、俺の仕事が始まらない……。

その作業がある程度まとまりはじめた頃、川上は栃木にボディ設計(厚木)のスタッフを呼んで、加藤が「いじった」そのクルマを見せ、また彼らをそれに乗せている。「実験では、こういう風にしてます。こうでないと、加藤は『走れない』と言ってる。だから厚木へ帰ったら、車体剛性を計算してほしい」(川上)。栃木としては、それまでの厚木の車体設計にノーを出し、新たな新GT-Rのためのボディ作りを厚木に求めたことになる。

こうして栃木のワインディング路でのテストを経て、基本部分が少しずつ固まってきたGT-Rのプロトタイプとともに、実験部は北海道へ向かった。この陸別でのテストには、厚木からボディ設計のエンジニアが二人、後から合流するという決定もなされた。

ようやく新GT-Rは、あくまでも“手作り”の状態ながら、栃木とは車速や路面からの「入力」が大きく異なる陸別のHPG(=北海道プルービング・グラウンド)での初テストにこぎつけた。「まあ、とりあえずこれは(開発スタート時の)『30点』から『60点』にしようというテストでしたね」。状況は少しずつ、前には進んでいる。しかし前途はまだ、途方もなく遠い……。これが陸別でのテストを終えた専任主担・吉川の実感だった。

(第11章・了) ──文中敬称略
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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