• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2014年12月05日 イイね!

5ドアは要らない風土で、エテルナ「5ドア」を名乗らず

5ドアは要らない風土で、エテルナ「5ドア」を名乗らず§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

エテルナをギャランの5ドア版だというのは、ほとんど誤りであると、まず報告したい。いや、モーター誌風に言うなら、ギャランのメカニカル・コンポーネンツを用いて……というやつなので、それはその通りなのだが、開発スタッフもまったく別なのだそうで、事実、クルマのまとめ方が全然違う。

あるいは、ギャランというのがあまりに特殊であったという社内意見もあるようで、たしかに、あのギャランは80年代デビュー車としては稀な堂々たる「ハードウェア主張車」であった。何ができる、これが新メカ、エンジン最強!……と、そういうクルマであり、そのままスポーツ(ラリー)フィールドへなだれ込んで行ったのは、むしろ納得できるものだった。

とくにDOHC+ターボ+4WDバージョンはそのシンボル的な存在で、そこから想像できるパフォーマンスと同時に、街乗りレベルでの猛烈な乗り心地の硬さを引き受けねばならない、文字通りのハード・パッケージだった。

もちろん今回のエテルナにも、ギャランのそのVR-4に相当するZR-4というのがある。同エンジン、同サスペンション型式のハイパワー4WDだが、しかし、これはもう全然覚悟は要らない。実にしっとりと低・中速をこなし、まあ有り体に言うなら(乗用車として)はるかに洗練されている。

聞けば、あのギャランは、それまでシグマなどであまりに軟弱となっていた三菱車のイメージを払拭したいとした気概が、そのままクルマにぶつけられてしまったところがあり、それも(社員としては)わかるのだけれども、エテルナはその道は採らなかったというのが、開発スタッフの弁であった。(この11月、ギャランもマイナーチェンジ。乗り心地はソフト方向に変えられたそうだ)

さて、というわけで、ギャランとエテルナは別種であるが、もうひとつ、決定的な違いがある。そう、テールゲートの存在である。いま、日本のメーカーがまったく排斥してしまった表現を使えば、エテルナは5ドア・ハッチバックであった。

そうは見えない? そうだとすれば、それは作り手にとって限りない喜びであろうし、また、あくまでも「ノッチ」を付けつつ、テールゲートを設けるという近年の欧州ニューモデルの傾向とも同じやり方であり、巧みに“国際トレンド”にも乗っていると評すべきであろう。

それに、5ドアでありながら、ありがちなシックス・ライト・ウインドーにすることを慎重に避け、敢えてフォー・ライトで造型したサイドビューという努力も報いられるというもの。実際、このフォー・ライトのすっきりした“キメ”は、なかなかの効果である。

……なのだが、ウーム、この新タイプ乗用車の行く末は如何であろうか。ぼくは、この国で5ドアが売れないのは、ハードウェアの問題ではないと思っている。テールの処理がどうとか、セダンより天井が低いからとか、もっとワゴン風に振るべしとか、“識者”たちは意見を出して、果ては、クルマに対する意識がヨーロッパと比べてススんでないのだといった見解まで飛び出すのだが、みんなウソだと思う。

なぜ、われわれは5ドア車を買わないか? 理由は簡単である。黒いネコの運輸会社その他がある限り、ニッポン人民は自分自身で、そしてクルマで、大きな荷物を運ばなければならぬという状況に出会わないのだ。欧州よりクルマの歴史が遅れているなんて、とんでもない大誤解。モノの流通がとっくに欧州を追い越した、濃密で親切なサービスがいっぱいの、ここはそういう物流列島である。

テールゲートは要らない。その種のクルマ買ってみたけど、ついに、リヤゲートによるマルチユースぶりを試す機会はなかった。テールが大きく開いて便利だと思ったことは思い出せない……。極言すれば、ここはそういう国であろう。

エテルナの造型はたしかに新しく、また、空力をツメて行くと、セダンとしてもこういう方向になっていくはずで(例:アウディ80)、そういう意味でも、実になかなか注目作なのだが、さてさて「5ドア」がどうなのだろうかと、思いは乱れる。……だからァ、5ドアなんて一度も言ってないでしょ? ええ、そうなんですけどね。

(1988/12/06)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
エテルナ(88年10月~  )
◆三菱はエテルナに「サヴァ」というシリーズを追加している。これはつまりエテルナの「4ドア・セダン」で、このような追加版が必要であったことが日本市場での5ドア車のむずかしさを語っていることになろう。そして、ギャラン販売の側から「ウチにもエテルナみたいなのをくれ」という声が出て来ないことは言うまでもない。ディーラーにとっては、ほんとにほしかった機種、それがサヴァだったはずだ。この国における「5」と「4」の力関係をふたたび認識させてくれた新シリーズの追加ではあった。

○2014年のための注釈的メモ
まあ「5ドア」が売れなかったのは、単に流通のせいだけではなかったでしょう。ただ、欧州と日本とではクルマ以外の部分で違うところがいっぱいあった(ある)わけで、そのあたりに目を向けてみたのがこのコラムでした。ただ「5ドア」についは、今日ではもう説明が必要なのかもしれません。ステーション・ワゴンではなく、もちろんセダンでもなく、そしてミニバンやSUVはまだ出現していない80年代に、国内各社は競うようにしてこの5ドア仕様を作っていました。これはヨーロッパと同じことをやろうという、メーカーとしてのフォローであったと思います。

この頃の多くの5ドア仕様は、4ドア・セダンの“背中”を寝かせた造型を好み、そこに「5番目のドア」、つまりテールゲートを設けていました。この時、テールの処理をスポーティ方向に振ったものが多かったのは、米国風のバンやステーション・ワゴンではないこと。さらにはセダン並みに走るクルマなんだ!……という主張であったと思います。しかしセダンでもワゴンでもない微妙な車型の「5ドア」からはついにヒット作は生まれず、80年代末にデビューしたレガシィは、レオーネ・ワゴンから続く歴史(4WD)を背負いつつ、5枚のドアを持つ「ワゴン」を名乗って成功したモデルとなりました。
Posted at 2014/12/05 19:33:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月05日 イイね!

第10章 逞しい“靴”

第10章 逞しい“靴” ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

塚田健一が実験部への出向を終えて、彼本来のポジションである設計部(厚木)に戻ったのは、1991年の末だった。この91年末とは、当時の商品本部長・三坂泰彦が、R33GT-Rプロジェクトの発進を決意した時にあたる。

これ以後、R33GT-Rの具体化のための動きが社内で本格化するとともに、対外的には、R32の新スペックや強化バージョンが次々と送りだされることになるが、サスペンションの分野で、このディベロプメントにずっと関わっていたのが塚田だったのだ。

そしてそのまま、塚田はR33GT-Rのサス担当になるが、新GT-Rのサスペンションについては、そのための大きなジャンプをする必要はなかった。なぜなら、「R33の基準車で、もう32の直したいところはやってありましたからね。そういう素性の上がった足をベースにして、33のGT-Rはやればよかった」からである。

塚田が見つけていたR32の「足」の要改良点とは、フロントのキャンバー剛性をもっと上げたいこと。そしてサスのストロークのリファイン、具体的にはもっとストロークを長く取りたいということだった。

もうひとつ、R33の「足」の作り方では画期的なことがあった。それは、サス担当(シャシー設計)が車体設計の領域まで踏み込んだことである。塚田流の言い方では「車体屋をこっち(足作り)に引っ張りだした張本人」が彼だということになるのだが、たとえば、サス取り付けのパネル部分の作り方、ストラット・タワーバーによる車体補強といったものの設計をシャシー担当でやったのだ。「もちろん、サス屋の方でやれるところまではやっといて、という話ですけどね」(塚田)

R33のGT-Rの開発にあたっても、この“シャシー&車体合同作戦”は威力を発揮した。第1号の試作車に、評価ドライバーの加藤博義が「30点」というシビアな評価を出した時も、塚田らのサス屋としては(これは、車体だな)と、すぐにイメージできた。

245/45サイズで17インチのタイヤ、そして9Jのリム幅。R33のGT-Rはこのような逞しい“靴”を履くが、その選択は、実は塚田の構想によるものだった。この巨大なタイヤを支えるためのサスペンションは、当然、それまでになかったような高い剛性を必要とする。だがその点については、タイヤを決めた本人としての責任で、サスに関してはすでに一応の手は打ってあったのだ。

また、このタイヤの決定に際しては、実験部の川上慎吾と塚田との間で、かなり前からの連携があった。R32からR33のGT-Rへと進化させるにあたって、どういう「足」の特性にしたいのかを、設計と実験とで互いに「口を出し合った」(塚田)のである。

そして、実験部とのそのようなコミュニケーションと経緯から、塚田の「車体屋をこっちへ引っ張りだす」という発想も生まれてきたのだろう。たとえば、ブレーキ性能の確保という「足」の領域に属することでも、冷却のための大きなエアダクトがフロント・スポイラーにほしいとなれば、ボディ設計陣との連携が必要になる。R33GT-Rのフロント・スポイラーに開いている「穴」のサイズとタテヨコ比は、実は塚田や川上によって決められたものだった。

さて、結果としてR33のGT-Rは、32のそれと比べると、はるかに大げさ、かつ入念なボディの「補強」を必要とすることになるのだが、これはR33の基準車のボディや基本構造に、何らかの弱点があったということになるのだろうか?

「それは違いますね」、塚田は即答した。何といっても、装着されるタイヤのキャパシティが違いすぎるというのだ。R33の基準車もプアなタイヤが付いているわけではなく、ホイール&リムは6.5J、R32GT-Rでも8Jであった。しかしR33GT-Rは、一挙にそれを9Jとしたのだ。

「ボディへの入力が、ケタ違いに大きくなってますからね。まず、どんなボディを持ってきてもダメだったと思います」(塚田)。GT-R専任主担の吉川正敏も、まったく同じ意見を述べる。この異常なまでのタイヤからの「入力」を持ちこたえられる車体が作れるかどうか……。R33GT-Rの開発で、最初の大きな課題となったのがこれだった。

そしてその車体は、単にガチガチに剛性があればいいというものではなかった。これを評価するのは、あの加藤博義である。加藤の評価軸というかそのモノサシは、あくまでも「動的剛性感」がどうなのかということだ。つまり「動的」であって、かつ「感」であり、この彼の、ダイナミックにして繊細な官能評価に耐えなければならない。また、この「足」とその性能に影響を及ぼすことがわかっているボディを早期に決定しておかないと、R33のGT-Rでは始めから用意しようとしていたVスペック仕様のチューニングもできない。

また今回は、先行実験車でテスト済みの「アクティブLSD」がR33GT-Rの「走り」をグレードアップするために導入されていたが、それが実は、当初はまるでダメだった。評価ドライバー加藤の、初期プロトタイプに対する「30点」発言には、この期待すべきニュー・メカであるアクティブLSDへの失望が含まれていた。

これを担当したのは、電子制御系のスペシャリストである佐々木博樹だが、評価ドライバーの加藤は、それを装備したプロトタイプに一瞬乗っただけで、クルマを降りてしまった。トラクション、制動しながらステアリングを切り込んだ時の挙動、そして「舵」の効き。それらのすべてに、加藤はダメを出した。

前述のように、タイヤのキャパシティは大幅に上がっている。だからグリップ力は向上し、限界「G」も上がっていた。加藤の希望通りに、アンダーステアは減っていた。クルマは、曲がることは曲がった。でも、唐突だった。挙動がまったくバラバラだった。「これは、こわくて乗れない」と加藤は言った。

R32GT-Rは、たしかにアンダーステアが強いクルマだった。でも、走っていて、自分でクルマを曲げてるんだという意識は持てた。そして何より、「クルマとの情報のやりとりができた」(加藤)のだ。だが、新GT-Rのプロトタイプ、そしてそのアクティブLSDは、いかなる意味でも、その動きに「まとまり」を欠いていた。

このアクティブLSDについては、テストがはじまった初期段階では、そのあまりの未成熟さに“やめてしまえ論”さえ出たほどだ。「高いユニット付けてるのに、どうしてダメなんでしょう」、佐々木にこうプレッシャーをかけたのは、主管の渡邉衡三である。

ただ、その「電制」ユニットをまとめるためにも、まずは「足」とボディの基本がそれなりにできていることが必要になる。実験部はとりあえず、ガチガチに車体の補強をして、栃木工場内にあるワインディング路で走行テストを重ねた。

(第10章・了) ──文中敬称略
2014年12月04日 イイね!

第9章 技術投入量

第9章 技術投入量 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

「結局、もとに戻した」──。R33GT-Rのエンジンをどうするか。この問題で、パワートレーン開発本部(鶴見)の松村基宏が出した結論がこれだった。「もとに」とは、R32GT-R用に仕上げた「RB26DETT」と、たとえばカムシャフトやターボの径は同じにするということである。

栃木でエンジン実験を担当する恒川康介、そして厚木のパワートレーン設計部の堀内朋房ら、R32に引き続いてGT-Rのエンジンを担当するスタッフたちの意見も、最終的には同様であった。「RB26DETT」というGT-R専用に作ったエンジンの基本性能の高さと、その総合的なバランスの良さは、90年代半ばに世に問うことになるニューR33GT-R用のパワーソースとしても十分なポテンシャルを持つ。そういう結論である。

もちろん、そこに至るまでには、さまざまなテストとトライがあった。安直に同じでいいと決定したわけではなかった。カムシャフトだけでも10種類以上のパーツを試作したし、ターボにしても、小径にして応答性の方向に振ってみたり、あるいは径を大きくして高回転域でのパワーを重視したりといったチャレンジをした。

しかし、「ターボを小さくすると、ちょっとGT-Rのエンジンにしては“細い”イメージになる。……といって、大きなターボでは、下でのレスポンスが落ちる」。恒川は、結局R32用と同じターボ径に戻った経緯を、こう振り返る。

そして松村は言った。「R32(GT-R)をやったときの“技術投入量”は凄かったということです。6連スロットルにしても、市販車としては、まだ、どこも追随してない。5年経っても古くならない技術が(R32GT-Rには)すでに入っていたと考えてほしい」

さらに松村は、このR32からR33での、2モデルに渡って同じエンジンという姿勢の積極的な意味について、その胸中を明かした。ともすれば「新しさ」に逃げてしまう傾向がなきにしもあらずだったこの国のクルマ開発に対して、継続あるいは熟成というかたちでの「開発」もあることを提案したいというのだ。

こういう松村の発想には、彼自身のモータースポーツでの経験が投影されているかもしれない。クルマというハードを用いて行なうスポーツであるレースは、ハイテクを駆使しての最新技術バトルというイメージが振りまかれているかもしれないが、その実、意外に“カタい”世界である。たとえば、最新の技術には実績という保証がない。「新しさ」とはあくまでもトライであって、勝利への方程式とはならない場合が少なくないのだ。これは、モータースポーツの歴史が語る定理でもある。

実は松村は、二代に渡るGT-R評価ドライバーの加藤博義がN1レースに出場していた3年間を、エンジニアとしてサポートしていた。この間、レースのエントラントという闘いの場に自らを置いたのだが、「この世界、変えない方がベターであることって多いですよね」とは、そういう現場での切実な経験から生まれた発言なのであった。

そしてN1とはいえレースであるから、当然そこにはチューニングがあった。松村はメーカーのエンジニアとして、レースを先行開発の一部と考え、そのレーシング技術を市販車として展開できないかという秘かなリサーチも怠らなかった。R33GT-Rのエンジン開発でパートナーとなる加藤とのコンビは、このときからすでに密接なものだったし、またGT-Rとコンペティションとの密着がこのエピソードでも知れる。

さて、こうしてR33GT-Rのエンジン開発におけるスタンスが定まった。基本はOK、そこから熟成せよ、である。

エンジンは、「RB26」としての継続性を持たせる。基本的に同一エンジンを使うということは、これがR33用の新ユニットを作る作業における目標レベルの下限となる。そして第二には、そこから性能的に進歩していることが求められる。これがエンジンのスタッフに課せられた「上げ代」(あげしろ)である。

その熟成の方向は、ひとつは、ニューモデルでは車両重量の増加が見込まれるので、パワー(これは上げられないが)もしくはトルクのアップが必須であること。そして、もうひとつ重要なこととして、感覚面での“磨き上げ”があった。同じ280psでも、いっそうのパワー感というものは新たに出せるはずであり、そして8000回転まできれいに吹け切る感覚的な伸びの良さも、もっと磨きたい。これがR33GT-Rに向けたエンジン屋としてのテーマとなった。

新エンジンの開発は、まずは全開状況で所定の評価基準を充たしているかどうかに始まり、続いて、アイドルなどの細部のチェックに入り、そして一定速から最大トルクに達するまでどう回るかといった細部の評価に入っていく。この段階では、エンジン作りはもう既に“味つけ”の領域に入っているが、ここまではベンチテストでもできる範囲である。以上をクリアして、はじめて実車に搭載され、実走しての総合的なテストに突入する。

エンジンについて、評価&開発ドライバーである加藤は、いったいどのようなものを良しとしているのだろうか。松村によると、「エンジンは、おとなしく仕事をしてくれれば、それでいい」とだけ加藤は言うそうで、これは言い換えると、まったく問題なくクセもなく、かつ、いつでも望み通りに……という注文であろうか。何気ないが、実は極めて水準が高い要求というべきだ。

その「おとなしく……」という加藤の要求のレベルの高さを示す挿話を、松村が語ってくれた。「ひとつの例ですが、3500回転から(アクセルを)戻して、もう一回踏むと、ほんのちょっとトルクが“やせる”ポイントがあったんですね。そういうのを、テストコースを走りながら、加藤は見つけ出すわけですよ」

加藤の横に乗っていた松村は、運転を代わってもらい、直線コースで言われた通りにやってみた。たしかにそういう傾向はあると、松村にもわかった。このときの原因は、混合比がほんの少し濃かったことだった。

アクセルをオンにして、次にオフにし、また開ける。こういった「過渡的な領域」はかなり重点的にエンジン屋としてテストし、コンピュータ制御で補っていたはずだった。また、その電子制御に、より高い「知恵」を持たせるため、そしてよりコントロールを速くするため、R33GT-R用のユニットは16ビットのハードに変更してあった。だが「加藤は、その(コンピュータの)“式のはざま”を探し出しちゃうんですね……」(松村)。

もうひとつ、松村がこのR33のエンジンで大切にしたかったことがある。それは「昂揚感」だった。あるいは、高回転域での「伸び感」といったものだ。「リニア感はもちろん重要なんですけど、ドライバーがこう期待する――でも、まったくその期待値の通りでは、実は不満なんですね。まず期待通りのレスポンスがあり、かつ、それにプラスアルファあって、はじめてドライバーは満足する」(松村)

できあがった新GT-R用のエンジンは、これでも中速域でのトルクは抑えてあるのだという。単にトルクを出すだけなら、もっと出すこともできる。だがそうすると、ドライバーの感覚として、そのようなエンジンは「上が伸びない」ように思えてしまうというのだ。松村や恒川らの言う、基本は同じにして熟成方向で特性を磨くということの中身は、このようなレベルであった。

(第9章・了) ──文中敬称略
2014年12月02日 イイね!

めざすは北米大陸だが、マキシマの新鮮さは“買い”だ!

めざすは北米大陸だが、マキシマの新鮮さは“買い”だ!§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

大きなサイズのクルマというのは例外なく、いわゆる「高級車」であり、豊かな空間とともに、さまざまなる付帯的な装備品を買わされるというのが、この国のクルマ・マーケットの慣例であった。

また、内・外装のシンプルなフィニッシュというのは、あるクルマのシリーズの、たとえば最下級グレードなどにたまたまあっても、それはほとんど注文生産に近い現実には存在しないバージョンであったり、走行に関する装備において、上級バージョンとは大きな格差が設けられていたりで(ブレーキ、タイヤなど)、現象的にも内容的にも“買えない”モデルであることが少なくなかった。クルマにおいて「大」を求めるユーザーは、見た目の豪華さというブラックホールに、むしろ自然に引き寄せられる、そんな構造に支配されてもいた。

大きなクルマをほしい人は、要するにデカい顔をしたいのであり、キラキラ、ギラギラと他人に眩しい思いをさせたいのであり、たくさんのスイッチやボタンの類で同乗者を威圧したいのであり(時には自身で途方に暮れつつも!)、またついでに、最速やら最高出力やらの勲章も望む人なのだ。──と、これが日本メーカーの理解で、なかなか正しかったりもするし、それで大きな成功を収めているところも事実としてあるのだが、しかし、そればかりではないはず……というチャレンジングなクルマがついに現われた。それがニッサン・マキシマである。

シンプル・パッケージの、しかも、大きなクルマ。この、ほとんど唯一無比のスタンスがマキシマであって、この双方に同じように価値を見出す人でないと、このクルマは意味を持たない。言い方を変えると、極端な限定商品である。

そんなニッポン人なんて、いるのかよ? この問いかけに確固とした答えを出せる者は、おそらく、いま誰もいない。ぼくもわからない。ただ、眩しくなくてケバくないクルマをほしいというだけの理由で、見栄ではなくて、外国車を買っている。そういう層はたしかに存在するはず。また、本年登場のセドリック/グロリアにしても、そうした従来のニッポン的高級車へのささやかな反歌であろう。ただし、このマキシマは、セドリック以上に“サービス”がないんだな……。

しかし、ビッグサイズ、大トルクのパワーユニット、豊かなシート、しっかりした“足腰”といった高価なクルマに求められるものは十分に具現化されている。そして、走ってトロくもなく、また静粛でもある。

また、フェンダー、ボンネット、バンパー、ランプ類などのパーツの「集積」としてクルマ(のデザイン)を構想するのではなく、何というか、まずマス(かたまり)をイメージして、そのかたちにパーツを溶け込ませる。そういった方法を採ったと思われるこのクルマの造型にも意欲が見える。この方法は内装にも貫かれていて、奇妙なデザインとも思えるステアリングは、その方法論の過激な現われなのだろう。

ともかく、成功するのか失敗するのか、まったく読めないというスリリングな商品で、メーカーの勇気すら感じるが、シートの成熟、乗り心地の良さなどの達成への評価も含めて、この“大いなる無印商品”に敬意を表する。そして、ニッポンでどのくらい売れるか、本気で注目する。

(1988/11/22)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
マキシマ(88年10月~  )
◆最初に書くと、このクルマはニッポンでやっぱり売れなかった。月販目標1500台を掲げたが、その控えめな数値にも届かなかった。これをまず、報告しておく。そしてぼくは、この事実をフシギとは思わない。でも、デザインにおける「パーツを溶け込ませる」手法を、このような量販セダンにまで持ち込んだという点で、マキシマとニッサンを評価したい。何と言ってもこれはアメリカで、そしてアメリカの普通の人々に売ろうというクルマなのであり、それでやったのだから。

○2014年のための注釈的メモ
当時の筆者も気づいているように、これはアメリカ市場狙いのモデルだった。そう考えれば、彼の地では、そもそもサイズからしてラージでもリッチでもないわけで、簡潔な佇まいの中級車としてまとめてみました……というのは当然であったかもしれない。それにしても、このクルマの「きれいなマス」をまずイメージするという造型、そのコンセプトと達成は見事だった。そして、この「マキシマ」のセンスを「欧・日」向けに処理すると、あの「P10」(1990プリメーラ)になるのではないかと思う。この二機種は、この時期のニッサンが生んだ二大傑作デザインだった。
Posted at 2014/12/02 21:29:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2014年12月02日 イイね!

第8章 「神の声」

第8章 「神の声」 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

1989年にR32スカイラインとそのGT-Rがデビューした時、「テストドライバーの声は『神の声』と思え!」というやり方でこのクルマは作られたという宣言を覚えている読者は少なくないはずだ。それはニッサンの職名でいう「評価ドライバー」の意見を唯一の基準として、つまり数字やデータによってではなく、人の感覚や官能面での評価が最も重要だとしてクルマを作っていく方法であった。

もちろん、どのメーカーのどんなクルマでも、その開発にはテストスタッフがいて、実車での走行テストを抜きにしてのクルマ作りはあり得ない。だが、「神の声」というまでにテストドライバーの評価を尊重して市販車を開発した例は稀であろう。GT-Rについて、「このクルマは、ちょっと普通と違うから…」というニッサン側の声は多いが、この「神の声」というシステムはそのひとつの例である。

さらに、そのような評価ドライバーと設計のエンジニアとの関係を、それまでとは違う「動的な」ものにした。これも、渡邉衡三を実験主担としたR32スカイラインの特徴だった。

エンジニアが作ったものについて、評価ドライバーがテストし、その結果を報告する。こういう静的なやり取りだけでなく、エンジニアもその評価テストの現場に立ち会い、そして、ドライバーとエンジニアが一緒にテスト車に乗って、同じ時間と経験を共有するダイナミックなテスト方式である。「エンジニアが『わかった』と言うまでは、クルマから降ろさない(笑)」と、渡邉衡三・現R33主管は、R32、R33と続けたこのシステムについて、笑みを浮かべながら語る。

今度のスカイラインでは、技術屋をドライバーの横に乗っけてテストコースをグルグル回り、フラフラにしては、厚木(シャシー、ボディ)や鶴見(エンジン)に帰してる……という社内の噂が立ったのは、R32開発時代のことだ。そしてその時、その評価を絶対のものとするとして渡邉に信頼された男、つまり「神」と呼ばれた男が加藤博義であった。「神? ……いやあ、ペラペラのカミで(笑)」。この話になると、加藤はテレまくる。

加藤によれば、何故そういうことになるのかは、逆に簡単な話なのだという。テストの結果をエンジニアに、これこれだと言う。その時、いくら口で説明しても、言っていることが伝わりにくいことがある。「わからない? あ、じゃあ隣に乗せてあげましょう、と。要するに、問題を共有化したいだけ」(加藤)

加藤の僚友であり、栃木と厚木の間の窓口になることも多い川上慎吾が付け加える。「自分で走ると、スカイラインの性能の5割ぐらいしか、普通のエンジニアは使えてない。だから、加藤の言ってることの意味とか内容がわからないんですね」

ただ加藤は、その「普通の人々」のドライビングについて楽観していない。これだけ世の中にたくさんのR32GT-Rが走っている。すると、「私のできることぐらいは、世の中のひと、やりますよ」と思うのだ。だから、マジなのだ。

川上によれば、加藤の横に乗ったほとんどのエンジニアは、「そんなスピードで(このクルマは)走れるのか!」とびっくりするという。そういう次元で、加藤は、「たとえば、後ろがヨレてるよとか、アクセル踏んでもついてこないよ、とか。私の言ってる世界はここですよ、と」。

こうした説得、もしくは実験と設計の相互理解によって、R32スカイラインは作られていった。そしてR33GT-Rにおいて、このような「磨き上げ」の歴史がもう一度再現されるのだ。

この「神」こと加藤博義は、「サスばっかりやってきた」というテスト・ドライバーで、「走り」とサスペンション評価のスペシャリスト。そして、単なる評価屋ではなく、クルマを「作る」能力があると、R33の主管・渡邉衡三は言う。これは、加藤流に言うと、「ここをこうしたら、こういうクルマになるというのが見えるだけのこと」。

それでも、ことサスペンションに関しては、べつに曲がりくねったところを走り込まずとも、「まっすぐちょっと走ればわかります。あ、これはサスだなとか、これはもうサスじゃない、車体だなとか」「16年、やってきましたからね。そのくらいは見える」と加藤は言う。

そして、自分はあくまでもクルマという現物に接しつつの評価しかしないし、イメージやこだわりが先行するタイプじゃないとしながら、加藤が速いクルマをテストしていく際に重要視しているポイントがひとつだけある。それが「ステアリング・インフォメーション」である。

加藤によれば、ドライバーがクルマの動きを知るための情報源は、クルマが速くなっていくにつれて、次のように変わっていくという。遅い時は、まず眼で知る。次は、腰あるいは尻で感じる。そして、さらにクルマが速くなったら「掌」になるというのだ。そして、その手が触れている唯一のもの、それがステアリングなのである。「腰で……というのは、まだまだ(速度が)下のレベル。ほんとに速い時は、腰じゃ間に合わない」(加藤)

たとえば「ニュル」のような、あるいはHPG(=北海道・陸別のテストコース)のような、超高速で走って、かつ曲がるというシチュエーションの場合だ。クルマをこう動かしたいと、ステアリングを切る。それと同時に、「入力」通りにクルマがちゃんと動いているか、このままコーナーに入って行って大丈夫か、アクセルを開けていいのかを決めなければならない。腰に「G」が来るのを待っていたら、本当に対応が間に合わない。それだけ速いのだ。

さらに突っ込んだ話をすれば、陸別のプルービング・グラウンドには、ジャンプした後で接地して、すぐに右に曲がるというコーナーがある。……となるとドライバーは、クルマが飛んでいる間に、次のコーナーのためにステアリングの舵角を決めておかなくてはならない。クルマは宙に浮いているから、バネに吊られた格好になっているタイヤも揺れる。その影響がステアリング系にまで及んで、ステアリングホイールが“踊って”しまってもやむを得ない……とも思えるが、それを加藤は嫌がった。さっそく、「ステアリング系、ちゃんとしてね」というオーダーになる。

GT-Rの「走り」を調合してまとめた“シェフ”、評価ドライバーの加藤博義が求めた「走り」の水準とは、このくらいにダイナミックで、そしてデリケートなものであった。そして、そのシビアなオーダーに、設計グループが応え続けた。これもまた、GT-Rならではだった。

加藤は語る。「たとえば、どこそこを直したいと言っても、いま頃言っても困るよって、まあ普通は直さないことが多いのが並みの市販車」「そういう意味では、このクルマは実験だけじゃなく、みんなが、本来やらないことまでも、いっぱいやってますね」

(第8章・了) ──文中敬称略
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2014/12 >>

  1 23 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 1617 18 1920
21 22 23 24 25 2627
2829 30 31   

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation