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家村浩明のブログ一覧

2015年01月14日 イイね!

運動性なら3ドアという証明、スポーツカーとしての205GTI

運動性なら3ドアという証明、スポーツカーとしての205GTI§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

さまざまな意味で、このクルマは「スポーツカー」である。120馬力バージョンとなった89年のプジョー205GTIと“遊んで”みて、このことを実感した。

試乗車はたまたま左ハンドル仕様であったが、クルマのどっち側に座るかという違いを感じさせないほどのコンパクトな車体。コクッコクッと気持ちよく入る、クロスレシオの5速のミッションは、必要だからではなく、それを行ないたいがためにシフトレバーを動かしたくなる。小ぶりのシートながら、サイドサポートと腿の部分のホールド性は万全で、基本形状にも優れたそれは、ドライバーズ・シートに収まること自体をひとつの喜びとしてくれる。

スロットル、ステアリング、ブレーキング。これらの「……ワーク」に対するレスポンスは、一様に、俊敏にして適度。べつにワインディング・ロードへ攻め入らなくたって、そのへんを“ひと曲がり”するだけでわかる、挙動のおもしろさ。全身を使ってクルマを動かすこと、クルマを操ることが、それだけで嬉しい。

突き詰めると、何処にも到着しなくともよいクルマ、走ってるだけで気持ちが充足してしまうクルマ──。目的と手段ということから言えば、ほとんど倒錯しているようなこういう自動車。それがきっと「スポーツカー」というものなのだが、プジョー205GTIは、以上のような意味で、たっぷりとその要素(変態性!?)を持っている。

そして、そうでありながらも、このクルマは決して排他的ではなく、“人当たり”はやさしくて、乗り心地もマイルド。加えて、愛くるしい造型さえも併せ持つ。……というわけで、スポーツ性のみならず、日常車/実用車としても十分に使えるクルマであるのだが、しかし、この「総合的に見て」という評価軸を持ち出すと、205GTIという存在はいささか評価を下げざるを得ない。

まず、小さく、狭い。とくにヘッドルームはミニマム以下だろう。ロードノイズや風切り音など、外部からの音は容赦なくキャビンに侵入し、ボディ剛性にさほど気を配っていないと思えるクルマの作り方も、その印象を増幅する。もちろん、こういう要求を安価な軽量車に求めるのは、もともと酷なことである。軽量であることは、そのまま、運動性にいては長所となり得る表裏一体のものだからだ。

ただ、そこまでわかっても、プジョー205GTIは、この国の市場においては決して安価ではないクルマだ。いくつかの短所も、すべては、この価格にしては……という比較軸による。何と言ってもこのクルマは、何だかんだで「300万円カー」なのである。

嗚呼、しかし! 総合性能やら快適性やら、さらにはバリュー・フォー・マネーであるかどうかなど、そういった浮き世の事象やセコい問題から、ひとり離れて、スポーツカーの世界は存在するのだ、おそらく!

プジョー205GTIは、まぎれもなくスポーツカーである。総合的なバランスの良さとパッケージングで、乗り手のココロをワクワクさせる。その昂揚感こそが「商品性」であり、これに世俗的な意味での値段は付かないし、また、付けてもいけないのだろうな……。

(1989/04/11)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
プジョー205GTI/120(88年~  )
◆「スポーツカー」という批評軸を持ち出して、205GTIに当ててみると、つまりはこのような一文になる。小さく狭いことだって、運動性という一点からすれば、好材料にもなる。その運動性の魅力は、ここに記した通り。一方でこの書き手は、どっぷりと「浮き世の事象」の中にいるので、このクルマが「安価ではない」ことをスンナリとは是認できない。そしてそれは“スポーツカー乗り”として、根本的な“何か”が欠けていることを意味するのだが、ただ、そうした浮き世のしがらみは、わかっていたらどうにかなる……といったものでもないのが困ってしまうところだ。

○2015年のための注釈的メモ
ここまで書いた「プジョー205GTI」だが、しかし私はこれを“生活の友”にはしなかったし、GTIより安価な普通の205を購入することもなかった。私に二の足を踏ませたのは、やはりVWでのトラブル体験だったと思う。信頼性が高いとされているドイツ車でもそうなるのなら、フランス車はもっと、いろいろとあるのではないか。まあ、この時がエンスージァスト(=コワれても好きな人)になるか、普通に浮き世を生きるか(笑)の境目であったとも思うが、90年代の私は前者の道は採らなかった。
Posted at 2015/01/14 16:36:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
2015年01月13日 イイね!

car essay 欲しかった自動車

 car essay  欲しかった自動車“環七劇場”で目の前を走り去る自動車を追い、友人と一緒にカー雑誌を見ていた10~12歳の少年(私)は、その頃、どんなクルマが「好き」だったか。その記憶を探って、思わず苦笑してしまった。何ともコドモらしくない(笑)チョイスがよみがえったからである。

50年代末から60年代初頭、ニッポン庶民の少年が選んだ(ひそかな)アイドル車種は、華麗なテールフィンのアメリカ車でもなく、俊敏そうな欧州のスポーツカーでもなく、平凡なフォルクスワーゲンだった。もちろん、当時のVWは一車種しかない。そう、あの“カブトムシ”(タイプ1)である。

なぜ、少年がそんなクルマに着目したかというと、これには一応の理由があった。それはフォルクスワーゲンのエンジンが「空冷」であったことだ。おそらくカー雑誌のコドモにもわかる部分の断片を記憶し、それらを繋ぎ合わせて“ストーリー”を作ったのだろう。では、なぜ「空冷」を良しとしたのか? 

いわく、自動車のエンジンは、その冷却の方法で大きく分けて二種があり、それが水冷と空冷である。そして、そのうちの水冷方式は、ラジエターなる部品を伴う(らしい)。しかし、雑誌記事によれば、そのラジエターは水漏れなどでしばしばトラブルを起こしていた。そしてその部品の状態如何では、クルマは走行不能になってしまうこともあるという。そういえば、雑誌のオーナー座談会でも、ラジエター関連のトラブルは頻繁に話題に上っていた。それならいっそ、そんな部品などない方がいいのではないか? 

では、エンジンが水冷ではない車種にはどんなものがある? こうして、西独製(当時は東西二つのドイツがあった)の“無骨な鉄のハコ”が浮上したのだった。デザインについても、オリジナル・ビートルのあの格好が不細工であるとは露ほども思わなかったから、フォルクスワーゲンはそのまま、少年の“仮想愛車”となった。もっとも、車名の「国民のクルマ」という言葉とその意味はよくわからず、また、アドルフ・ヒトラーとの関わりについても、何も知らないままだったが。

そしてこのとき、「空冷こそ良し」という考え方を裏から支えていた史実があった。第二次大戦での戦闘機でも、水冷(液冷)であったのは三式の「飛燕」だけであり、「零戦」も「疾風」も空冷であったことだ。少年はべつに「飛燕」のファンでもなかったので、「ゼロ」だってそうなんだから……と、よくわからないままに、自分の中で“空冷信仰”を補強するための材料に使っていた。

(例の「水冷のラジエターだって、最終的には空気で冷やしてんだろ。じゃあ、最初っからエンジンを空冷にすればいいじゃないか!」という“本田宗一郎理論”は、この50年代末時点では、まだ世に出ていなかったのではないかと思う。後年、このポジティブ極まる空冷讃歌を知った時には、私はちょっと感動した……)

* 

そしてフォルクスワーゲンでは、もうひとつ重要なことがあった。それは価格である。雑誌で見ている限り、フォルクスワーゲンには中古車の売り物が数多くあり、具体的な金額は正確には覚えていないので記さないが、中古車販売の広告であれ読者同士の売買であれ、このクルマだけは売り物リスト中に、いつもその名前があった。そしてその価格は、ときに他車で見られた、少年が夢見ることさえも拒絶しているような天文学的数字ではなかった。

もちろん「空冷」がいいとしても、それは雑誌から得ただけの知識であり、たとえば“水の上着”(ウォーター・ジャケット)を着ていないエンジンが発する音の問題、冷却効率の低さ、さらにはヒーターの効きが水冷には及ばないなど、実用上の空冷エンジンの特徴(欠点か)を知っていたわけではない。

……というわけで、空冷エンジンのフォルクスワーゲンは、少年のひそかなアイドル車種になったのだが、ただ“環七劇場”を一緒に見ていた友人たちには、この件は語らなかったような気がする。たぶん、「なぜワーゲンか」ということを、友だちにはうまく説明できないと直感したのだろう。また、壊れにくい(らしい)から、空冷のあのクルマが好きなんだ……という、あまりコドモらしくない(?)理由を友に語るのも、何となく気恥ずかしかったのではないか。

そしてもちろん、フォルクスワーゲンが他車と較べれば「安価」であったとしても、それを(将来においても)買えるとか自分で使えるとか、そんな風に思っていたわけではなかった。もしも、自分の手許でクルマを使うようなことが起こったなら、その場合はラジエターのない自動車が条件になりそうだなと、ボンヤリと、今日の言葉で言うシミュレーション(?)をしていただけである。

* 

さて、この「空冷主義」の後日談だが、これはとくにない。結局、私は“カブトムシ”を買うことはなかったし、VW以外の空冷モデルの何かを購入して、それと生活をともにすることもなかった。

理由のひとつとして、自身でクルマを買えそうになった70年代半ば頃では、ラジエターに起因する自動車のメカニカル・トラブルは、ほぼなくなっていたことがある。冷却方式の違いが車種選びの指針になることは、最早なかった。またその頃には、ワーゲンよりもさらに安価で、そしてもっとおもしろそうな日本製のクルマが多数出現していた。

ただ、私なりの「空冷体験」はある。それは60年代後半の学生時代、友人から紹介されたアルバイトだった。その仕事で、取引先に届け物をする際の“足”が空冷エンジンの「ホンダN360」だったのだ。このクルマではかなりの距離を走ったが、当時は較べる術もなかったので、エンジンの騒音にしてもヒーターの効きにしても、何にも気づくことはなかった。そしてこのバイトは、独りでクルマを動かせる時間があるということが、ただただ嬉しかった。

そういえば後年に『アパートの鍵貸します』という1950年代製作のアメリカ映画を(レンタルDVDで)観ていた時、登場人物の台詞に、ホテル代わりに使うには「あのクルマは狭いし、それに寒い……」というのがあって笑った。車名そのものは映画では語られないが、画面にはしっかり車体の全体が映る。その“寒いクルマ”とは空冷フォルクスワーゲン(カブトムシ)であり、当時のアメリカでは、こうして映画でのギャグに使えるくらいにはVW車が売れていたことが窺える。

そして、たとえヒーターが効かずに寒くても、また、豊かなアメリカであっても、“その種の用途”に迫られれば、どんな自動車であっても人はそれを使う。そんなオトナの事情も、この映画によって知った。そして、オトナになってからこの映画を見てよかったなとも思った。そもそもアパートの自室を、会社の上司に媚びるためにホテル代わりに差し出すというこの映画の基本設定が、コドモには理解できなかったはずだからだ。映画によっては一回だけでなく、時間をおいて何度か観た方がいいというものがある。ビリー・ワイルダーによる、この映画の緻密なシナリオを楽しみながら、こんなことも思っていた。

(タイトルフォトは、トヨタ博物館にて撮影)
Posted at 2015/01/13 05:55:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2015年01月11日 イイね!

car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その2》

 car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その2》……というわけで、そうした小説にも採り上げられるほどに、この場所(都内南部の環七)と自動車とは、当時“蜜月関係”にあった。そして、少年が通った小学校の校庭は、その「劇場」の観覧席であり最前列でもあった。金網から「いい道」を見ていた少年たちは気づいていなかったが、彼らは連日、50年代後半当時の「新鋭車」が動き回る様子を特等席から見ていたのだ。

そして、そんな“金網”はすぐに、同じようなことをする仲間を引き合わせることになる。少年たちは鉄の網に顔をくっつけ、目の前の直線路を指差しては、それぞれに叫び声をあげた。「ダッジだ、58年型」「あ、新型のシボレー・インパラ、もう走ってる!」「来た、プリムスが」……。

「環七」を走っていく自動車では、まずは、大きくて豪華なアメリカ車が少年たちの目を奪った。それには時代的な理由もあり、ひとつは、50年代末のアメリカ車は巨大な「テールフィン」をボディ後半部に“立てた”奔放かつ華やかなデザインだったからである。そんなテールフィンの高さでいえば、たぶんダッジとプリムスが双璧で、一方でシボレーのインパラ60年型は、そのリヤに、横方向に長い二つのテールランプを配して、リヤビューの全体で、恐ろしく派手な“芸”をしていた。

そして、注目した理由のもうひとつ。それは当時のアメリカ車が一年ごとにモデルチェンジをしていたことである。米ビッグ・スリーはこの頃、「計画された陳腐化」を毎年行なって、新型車をたった一年で旧型に追いやっていた。この頃のアメリカには、そんなメーカーの思惑に応えるだけのマーケットとカスタマーが存在したのだ。第二次大戦・戦勝国の戦後は、それほどに豊かであった。

そんな米車の現状と変化を知るためにも自動車雑誌は必要で、“金網の少年たち”は、誰かが雑誌を持っていれば、それを見ては情報を収集し合った。最新の雑誌を買えるくらいの小遣いをもらっていた少年が、たぶんグループにいたのだ。また、クルマの絵を描くことがとても上手な少年もいた。

私はといえば、最新の雑誌は持ち寄れず、そして、何かクルマのスケッチを描いてそれを友に示すようなこともできなかった。私は自動車のデザイナーになるという夢を一瞬たりとも持ったことがないが、それには単純にして厳粛な理由があった。そう、私はクルマに限らずだが、そもそも「絵を描く」ということがまったくできなかったのである(笑)……。

こうして、多少の時間が経った。“環七ウォッチ”と自動車雑誌のせいで少しだけ目が肥えてきた少年たちは、鈍重な乗用車(セダン)よりも、それより小さくて、俊敏そうで、そしてちょっとフシギな格好をしたスポーツカーを「環七劇場」で探すようになった。私の場合はそれに加えて、排気音とともに疾走する大型二輪車にも惹きつけられた。MG-A、ジャガーXK120、トライアンフTR3、オースチン・ヒーレーとそのスプライト、さらに二輪のトライアンフ、BSA……。こうしたモデルが、少年であった私にとってのスターたちだった。

* 

さて、この小学校の立地には何の変更もないと、先に記した。しかし、数十年後の今日、そこに小学校があるということを知っている人でない限り、いま、この学校を発見することはきわめて困難であると思う。……というのは「環七」側から見た場合、今日では、そこに学校があるという気配は皆無だからだ。

校庭と「環七」がスケスケの金網だけで接していた、自動車ウォッチャーにとっての幸福な時間は長くなかった。正確な時期は知らないが、おそらくは70年代に入った頃であろう(注4)。大量の自動車が走る幹線道路「環七」が発しはじめた走行騒音と、その自動車から吐き出される排ガスから児童を守るために、小学校は高い隔壁で“武装”したのだ。1970年代、環七は「劇場」から「公害」になっていた。それ以後とそして今日、外が見えないであろう塀の中で、この小学校のコドモたちは、校庭でどんな遊びをしているのだろう……。

(了)

注4:小学校の高い隔壁
この小学校のホームページを当たってみると、その「沿革」で、学校に「防音壁」が設置されたのは昭和38年(=1963年)と記されていた。70年代ではなく1963年時点で、つまり「カローラ/サニー」が登場する何年も前に、「環七」はすでに、学校として何らかの対策が必要なほど多くのクルマが走る道になっていたようだ。

(タイトルフォトは、キャデラック・シリーズ62セダン1959年型。トヨタ博物館・刊「BIG3の時代」より)
Posted at 2015/01/11 19:44:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2015年01月11日 イイね!

car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その1》

 car essay “環七劇場”と『ぽんこつ』 《その1》コドモというか幼少時から、どうも電車やバスなどの動くもの、そしてそれに乗ることが好きだったらしく、その種の“観察記録”は年長者から何度か聞かされた。たしかに、誰かに抱え上げられて──これはつまり、窓の高さに対して身長が不足していたからだが、そうやって抱えてもらえるような年令で、走る電車の一番前の車両で目の前を飛び去る景色を見ていたという記憶はある。

また、九州某所で過ごした幼年時には、船舶の「進水式」に連れて行くと告げると、コドモ(私)はどんな状況でも瞬時に泣き止んだそうだ。見上げると首が痛くなるような巨大な船腹、それに「くす玉」が当たってはじけると、新造の船体が静々と動き始める。この儀式は、今日でも継承されているのだろうか。

ただ、電車でも船でもなく、また飛行機でもなく、コドモであった私が自動車のファンになったのは、やはり小学3年生以降を過ごした、ある学校(東京都内)の立地と関係があっただろうとは、いまにして思う。

その小学校がある場所は、21世紀の今日でも変わっていない。校庭が面していたのは、当時(1950年代)としては幅が広く、よく整備された直線の舗装路だった。その幹線道路と校庭を隔てていたのは金網だけであり、言い換えれば、視界にせよ音にせよ、遮るものは何もなかった。

そして、小学校の校庭から道を見た時の向こう側、道路を挟んだ対岸には大きな建物があった。それが有名光学メーカーで、例の邸宅(注1)から社長を乗せて這い出した“鋼鉄の生き物”は、朝の役目を終えたら、この建物内のどこかで休息を取っていたのだろう。

* 

校庭と接したその「いい道」が「環七」(かんなな=環状七号線の略)と呼ばれていることを、ある日、少年は知った。これは大人から聞いたのではなく、同年代の友が教えてくれたことだったと思う。そしてこの「環七」は、少し南方向に行くと、同じような「いい道」の「第二京浜」(国道1号線)と交叉していた。二本の幹線道路は立体交差で交わっていて、当時の日本の道路ではこのような交差の方式は稀であり、ここが唯一の例だったと、少年雑誌のどこかに書いてあった。(立体交差があるサーキット、あの《鈴鹿》はその竣工が1962年である)

さて、そんな「環七」だったが、実はこの道、当時の自動車とそのドライバーにとっては貴重な“ライブ・ステージ”であったようだ。校庭で金網を掴んで道を見ていたコドモたちには、そこまでの事情は見えていなかったが、1950年代後半から60年代前半、環状七号線と第二京浜国道(国道1号線)は「いい自動車」を持っている人々が好んで走りに来ていた道らしいのである。

このような状況はさっそく、新聞の連載小説にも採り上げられた。阿川弘之・作の『ぽんこつ』がそれで、これを原作とした映画も1960年に製作されている(注2)。この物語では、主人公の青年がようやく手に入れた一台のポンコツ車で、この「環七」に、わざわざ走りに来るのだ。

ただ、この環状七号線がよく整備されていたのは、この光学メーカーのあるあたりから第二京浜国道と交叉する部分に限られていた(はずである)。片側二車線が続く“夢の道路”は、ここから東南方向(大森方面)に向かうと、ある場所でブツッと、その短い夢が終わる。

「環七」道路がとりわけ狭窄になっていたのは、貨物専用の線路(注3)をくぐるガードの部分で、そこは自動車のすれ違いすら困難なほど、道幅が狭かった。(小説『ぽんこつ』の主人公は、このガードで悲劇に遭うことになる……)コドモのくせに何でこんな狭窄部分のことを知っていたかというと、環七~第二京浜~貨物線というくらいの距離と範囲なら、小学校高学年なら、自転車でもあれば十分に行動可能の範囲だったからだ。

(つづく)

注1:「例の邸宅」
https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c921160/
『小指とスポーツカー』《2》より。
「その頃の『乗用車』とは、少年やその遊び仲間たちとはまったく掛け離れた場で棲息している“鋼鉄の生き物”だった。(略)“黒色の巨大生物”はそこから静々と這い出て、そのリヤビューを見せつけながら去って行った。少年が小学校に通う道すがらにそんな邸宅はあり、噂ではその家は、そこからさほど離れていないところにある有名光学メーカーの社長宅ということだった」

注2:映画『ぽんこつ』
1960年の東映映画。監督は、これがデビュー作という瀬川昌治。主演は江原真二郎で、ヒロインは佐久間良子。脇役陣は、山茶花究、沢村貞子、上田吉二郎、山東昭子、清川虹子、東野英治郎、十朱久雄、小沢栄太郎らが顔を揃える。(未見)

注3:貨物専用の線路
これは当時の「品鶴線」(ひんかくせん)で、品川と鶴見を結んでいたため、この名が付けられていたという。1964年に東海道新幹線を通す際には、この品鶴線の線路(敷地)を使うということがニュースになった。

(タイトルフォトは、キャデラック・シリーズ62セダン1959年型。トヨタ博物館・刊「BIG3の時代」より)

Posted at 2015/01/11 14:24:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2015年01月08日 イイね!

アメリカン・テイストの中での新味、フォード・トーラスを解析する

アメリカン・テイストの中での新味、フォード・トーラスを解析する§日付けのある Car コラム
§『アクション・ジャーナル』selection

そんなにも、このクルマは“革命的”だろうか……? しばし、こんな思いにとらわれる。フォードを再生させたというヒット・モデル、トーラスである。このクルマは、そんなに、GM車などの他のアメリカ車と「違う」のか?

けっこうアヤフヤな高速直進安定性。コーナーはべつに楽しくなく、ハード・コーナリングではそこそこの勇気も要る。そもそも、タウン・ライドでの乗り心地さえ十分ならばそれで良しとして作られたとしか思えない、足のセッティング。もちろん、その目的にとっては十分な足にはなってはいるが、それ以上でも以下でもない。

つまり、極めてティピカルなアメリカ車であって、走りのテイストにおいて、何ら新鮮な驚きはない。“ニュー・アメリカン”というなら、たとえばGMのポンティアック6000STEや同グランダムのタイトな足まわりのフィーリングの方が、よほど「国際的」であるし、また、いくつかの「日系アメリカ車」の出現や存在の方が、われわれにとっては、はるかにニュース性を感じる。

ただ、若干の想像をまじえて言えば、おそらくは、よくあるアメリカ車というこの点が、フォード・トーラスをして、彼の地においてベストセラーになる要因になったのだと思う。そして、アメリカの普通の人々にとって、トーラスの何が新しかったかと言えば、その造型と、その仕上げと“作り込み”(トヨタの用語だけど)の良さであろう。

一見して十分に新鮮な、それこそ国際的なエアロ・フォルムが、ある日、ショールームに出現する。このディーラーは取り扱い車種を変えたのか?……と、建物の屋根を見上げて確認すれば、そんなことはない、相変わらずのFORDのマーク。インポーテッドではない、あくまでドメスティック。

「フォードのニューカマーってのは、これかね?」と、そこらを試乗してみれば、乗れば変わらぬ、われらの国のプロダクトを実感する。田舎道を一本入った、納屋の脇のいつものパークスペースに着けば、ニューであること、いままでとは絶対に違うことを日々示し続ける、その造型。5マイル離れた隣の住人も、わざわざ見に来るかもしれない……と、想像はどんどん逞しくなってしまったが、でも、たぶんこのようにして、トーラスはじわじわとアメリカ市場に浸透したのだと思える。

フォード・トーラスはアメリカにおいて、明らかに新しくて、そして適度に“そのまま”だった。見事な体制内革命である。ベストセラーの作り方のサンプルみたいなもんだ! 決して、これまでヨーロッパ車をわざわざ買ってきたようなアメリカ人に売るためのクルマではなかったのだ。これが、フォード・トーラスへの、ここでの結論である。

さて、日本市場というのは、国産車がその視界のすべてという大多数の日本人と、欧州製であればほとんど盲目的に賛美して享受する極く少数の日本人の、この二種類で、ほぼ、そのシェが埋まってしまっていると思われるのだが、そのような中で、フォード・トーラスは、どう生きるのか。この結論は、まだ見えない。

ただ、今後の展開は、トーラスの孤軍奮闘によってではなく、米国車の全体が、このニッポン市場をどう切り拓くのかという点にかかっていると見るべきで、その時にカギとなるのは、アコードやプローブなどの「日系アメリカ車」の動向なのではないか。いま読めるのは、ここまでだ。

(1989/04/18)

○89年末単行本化の際に、書き手自身が付けた注釈
フォード・トーラス・ワゴンLX(89年~  )
◆アメリカは年間一千万台を買う大マーケットで、その巨大さで、これまで十分に三大メーカーを生存させてきた。つまり、輸出などを考えなくてもよかった。いま、日本車に浸食されたビッグ・スリーは、さまざまなかたちでの対日輸出の拡大をめざしているが、その先兵となりそうなのが「日系アメリカ車」だというのは皮肉な現実ではある。現時点での対日輸出ナンバーワンは、アコード・クーペという、ビッグスリーとは何の関連もないホンダ・オブ・アメリカの製品なのだ……。

○2015年のための注釈的メモ
90年代以降、日本市場は「米車」は買わなかったかもしれないが、しかし「米国的クルマ文化」は受け入れて、そして展開した。米国のクルマ用語である「ミニバン」と「SUV」という分類のための用語は、そのまま日本に入り、日本のその頃の現状に、その米国での用語を“被せた”ように思う。たとえば、90年代半ば以降の日本市場を激変させた「ワゴンR」は、軽自動車サイズの「ミニバン」だっただろうし、80年代の「RV」は、いつの間にか(あんまり検証もされずに)米語の「SUV」として“ひとくくり”にされるようになったのではないか。

ジャーナリズム上では、クルマ文化における「欧州 vs 米国」は、何故かいつもヨーロッパの圧勝なのだが、わが国の実際の市場では、そして多くのカスタマーは、アメリカ的なるものを(その後の「クロスオーバー」も含めて)アメリカ生まれとは意識せずに受容し、そして十分に活用している。それが90年代以降の、この国のクルマ状況であると思う。
Posted at 2015/01/08 14:57:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 80年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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