• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2015年10月30日 イイね!

スポーツcolumn 【ラグビー】アスリートの見識と矜持

物見高くて貪欲な世間様とメディアは、いつも何かを「ブーム」にしようとする。その意味では、いま最も“旬”なスポーツはラグビーであろうか。ワールドカップで、南アフリカを日本代表が破るという「ラグビー史上最大のアップセット」もあったことだし──。

ただ、何かのスポーツを「ブーム」に仕立てるためには必ず「人」が要る。スター選手という具体例によって、世間様は初めて“萌える”のだ。むしろ「スター」さえ見つかれば、どんなマイナー・スポーツだってメジャーにしますぜ!……というのがメディアや広告代理店のスタンスであるかもしれない。(例:ビーチ・バレー、女子レスリング、カーリング)

そのラグビーで、メディアは格好の人材を見つけたようだ。日本代表のフルバック、プレースキッカーの五郎丸歩選手である。ゴールキックの高い成功率もさることながら、その際に、彼は特有の「儀式」を行なう。ボールを二回投げ、プレースしたら数歩下がり、ひとつ息を吐いて、蹴るべき方向を見ながら両手を合わせ、拝むようなポーズをする。その後、八歩の助走の後でキック! 

ラグビーの場合、この「ショット」(キック)の際は競技場でプレーをしているのがキッカーだけになる。中継のカメラは、その選手だけを映し出す。この特有のルーティンと“祈りのポーズ”で、五郎丸歩選手は一躍、日本で一番有名なラグビー選手になった。

そんなスター選手をほっとかない世間様とメディアは、帰国後の五郎丸歩を、さっそく野球の始球式に引っ張り出した。プロ野球日本シリーズの開幕戦は福岡で行なわれるが、彼の出身地も福岡だったのだ。

五郎丸歩選手は、自らがラグビー選手であることを示すため、また、ラグビーという競技をもっと多くの人に知ってもらうために(日本代表のメンバーは、彼だけでなく、みながラグビーのPRに熱心である)、左胸に「桜の花」を掲げた赤/白のジャージーを着てグラウンドに登場した。

そしてマウンドに上がると、ノーワインドアップで──というより、あっけないほど無造作にボールを投げた。残念ながらストライクではなく、キャッチャーがジャンプして取るというようなボールだったが、しかし、さすがのアスリート。手投げ状態ではあったが、球は速かった。

翌日のスポーツ紙には、「神聖な場所なので」という五郎丸歩選手の言葉が載った。記者のどんな質問に対して答えたのかは書かれていなかったが、「例のあのポーズ、マウンドで出ませんでしたが?」とでも誰かが言ったのだろう。メディア側としては、この種の質問をするのはやむを得ないというか、これはジョブのうち。問題は、こうしたケーハクな(?)質問をされた際に、アスリートとしてどう答えるか。

また、そもそも、その前段階がある。始球式を頼まれたとして、マウンドでどう行動するか。これを決めなければならない。(誰に何といわれようとも、キャッチャーにボールを投げる以外のパフォーマンスはしない……)五郎丸歩選手は、こうした固い決意とともに、福岡ドームのマウンドに上ったのだと思う。(だから、あれほどまでに無造作だったのだ)

そして、一切のパフォーマンスなしに関して聞かれた場合の答え、「神聖な場所だから」というのは、あらかじめ用意しておいたのか。それとも、とっさのアドリブだったか。まあ、どちらであっても、答えとしてはカンペキである。愚問賢答の極致だ。

もちろん、この「神聖」とは、マウンドは野球選手の方々にとって特別な場所ですから……ということであろう。だからマウンドで、始球式の投球以外のことはしません。しかしこの場合、それがオモテとすれば、ウラには、アスリートとしての秘かな主張が込められていたと思えてならない。

──あのポーズは、ゴールキックの際、集中力を高めるために、長い時間をかけて固めてきたルーティンの中の一節です。芝生の上で、遠くにゴールポストがあり、目の下にはボールがあって……という状況でのみ行なわれるべきもの。ラグビーの試合中という“神聖な時間”以外で、あの「ルーティン」を行なうことはありません。

……と、これは私の想像が大いに入っているが、しかし、五郎丸歩選手自身の真意とそんなに離れてはいないと思う。ファンが要請すれば、メディアに頼まれれば、またTVカメラが回ってさえいれば、どんなことでもやってしまう(芸能人のような)アスリートに「美しさ」はない。競技者にとっての「神聖な場所」を大切にした、五郎丸歩選手の行動と態度に拍手する。
Posted at 2015/10/30 00:17:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2015年10月27日 イイね!

初代インプレッサとWRC その3

初代インプレッサとWRC その3STi(スバル・テクニカ・インターナショナル)の向こうには、当然ながらプロドライブがいる。ラリー・フィールドにいる彼らは、「55N」という市販車に対して、どんな要求を出してきたのだろうか。ざっと列記してみよう。

まず、重量軽減である。そして、車体(全長)をもっと短くできないか。ボンネットにはエア抜きの穴を開ける。ターボのタービンはもっと大きくしたい。さらに、グリルもできるだけ大きく開けて、かつブレーキ冷却用の大きな穴も必要。また、燃料の冷却用に第5番目のインジェクターを付けたい。そして、ホモロゲーションに不利になるようなタイヤのサイズやブレーキの装着は絶対に不可──。

インタークーラーについては、「これはどっちが言いだしたのか……。ともかくぼくは空冷にしたくて、30項目ばかり長所を並べた報告書を書いた(笑)」とは小荷田の証言。軽量で、そして初期の応答性がいい空冷のインタークーラーは、こうして生まれた。なお、この第5インジェクターは、市販車でも装備はされているのだが(そうでないとレギュレーション違反になってしまう)市販モデルでは作動はしないようになっているという。

       *

以上のことからわかるのは、今日の「グループA車両」による高度なラリーでは、既に存在するクルマを「ラリー向け」にモディファイするのではなく、どういう素性のクルマでホモロゲーションを取るのが有利か、それがキーになっているということ。市販車からラリーへではなく、ラリーに適した市販車とはどういうものか。そこから企画してクルマ(市販モデル)を作っていく。まさに、ハンパではないクルマ作りである。

そして、インプレッサに加わった高性能仕様「WRX」の開発に、いかにプロドライブが深く関わっていたのかは、1990年の末にできあがった第一次試作車、つまりまったくの初期プロトタイプに、ドライバーのコリン・マクレーが乗ったことを記せば十分であろう。

マクレーはその時、「ハンドリングがすごくいい! 早くこのクルマを出してくれ」と言い、リチャーズは“軽くて小さなスバル”が現実化したことを大歓迎した。そしてこの時点で、クルマにはプロドライブ側の要求はほぼ入っていた。その上で彼らが求めたのは、ボンネット上のエアスクープの穴をもっと大きくすることと、リヤのダウンフォースのためにウィングも大きくということくらいだった。

このフロント・エアスクープの件では、すでにして、スバルの社内基準を超えそうなほどに前の下方視界が悪くなっているので、これ以上は無理。……ということで、サイズは同じのままで効率を上げるからと、彼らを納得させた。また、リヤのスポイラーについては、プロドライブも、そして小荷田も、当時ランチアがやっていた「可変式」を望んだのだが、これはコストの関係で見送られた。

このようなプロトタイプ車に外部のスタッフが乗るというのは、スバルの新車開発の歴史でも初めてのことだった。それは定期的に彼らプロドライブに見てもらうというほどには密接ではなかったが、しかし、事実として第三次の試作車にも彼らは乗っている。そして、この三次試作の段階で、ホワイトボディがプロドライブに渡った。そこから1年後にはWRCにデビューできるようにという準備である。

       *

ただ、「55N」つまりインプレッサは、ダート用のクルマとして作ったわけではないと小荷田は強調している。その証拠というわけではないが、インプレッサは「ニュル」(ニュルブルクリンク・北コース)でも二回のテストを行なった。ドライバーは、アリ・バタネンだ。

ラリーストのバタネンは、1991年の一回目のテストが、彼にとっては実は初めての「ニュル」体験だった。バタネンはドリフトさせながら(!)オールド・コースを攻め、数周回っただけでベストラップを叩いて、トップドライバーがどういうものかをスタッフに教えた。

翌1992年のテストはタイムアタックという趣旨になったが、この時にインプレッサWRXは、全長20km超に及ぶ「ニュル」のコースを、当時開発中だったスカイラインR32GT-Rの「9秒落ち」で周回してスタッフを喜ばせた。

       *

このようにインプレッサは、WRCを明確なターゲットとして開発された。ただスバル側は、レガシィで勝てないからこのクルマを出してきたのだというようには見られたくなかった。これは久世隆一郎も、そしてチーフエンジニアの伊藤健も、まったく同意見だった。

1993年のニュージーランド・ラリーで、レガシィは待望のWRC初勝利を挙げた。伊藤はこの時、やった!……と喜び、同時に(これで、インプレッサがラリーに出られる、そして勝てる!)と思った。強いレガシィの長所を伸ばし、ネガをつぶしていったのがインプレッサWRXであり、もって生まれたその実力の高さは明白だったからである。

インタビューの最後に、伊藤は静かに言った。「インプレッサは、WRCに出ることが目的ではなく、タイトルを取ることが目標でした。ずっとそれを信じてやって来たので、WRCでのインプレッサの成績に驚いたことは一度もありません」

(了)

(文中敬称略)(JAF出版「オートルート」誌 1997年)
Posted at 2015/10/27 15:54:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新車開発 Story | 日記
2015年10月26日 イイね!

初代インプレッサとWRC その2

初代インプレッサとWRC その2デザインについては、実験の小荷田として、今度の「55N」で造型的にやってもらいたいことがあった。それは「ムダな空間を運ばない」デザインにしてほしいということだ。

仮に、かなり「四角なクルマ」を作ったとする。(スバルでいえば、たとえばレオーネはそういう造形だっただろう)すると、居住空間は絶対値としては広くなる。しかし、当然だが人間の身体はスクエアではなく、肩から頭に向けてはすぼまっている。そうすると、乗員の頭の横のあたりに、三角形の“何にも使っていない空間”が残ってしまう。これを小荷田は「ムダ」と言った。

もちろん、狭苦しい室内でいいということではない。大柄な外国人でも十分乗れるようなコンパクトカーにしたいし、またヘルメットをかぶって乗っても、頭上には最低限こぶし一個分くらいの余裕があるクルマにしたい。でも、ムダはいやだ! これが小荷田の考えだった。

人はきちんと収容しつつ、しかし無意味な空間は作らないようにする。そのためにはクルマの上半身は、適切な「R」とともに、ルーフに向けて絞り込まれていてほしい。小荷田のそんな要求を取り入れつつ最終的にまとまったのが、いま、われわれの前にあるインプレッサのデザインなのである。

そしてもうひとつ、小荷田は今度の「55N」でやりたいことがあった。それはドライビングポジション、あるいはドライバーと路面との関係を、もっと“低く”することである。シートにしても、それまでの腰掛けるようなスタイルではなく、足を伸ばす感じで、つまりスポーツカー的なものにしたいと小荷田は望んだ。この「55N」では、一時期のスバルの野暮ったさ(?)を払拭して「若い人がもっとワクワクする、そういうスバルを作りたかった」(小荷田)のだ。

       *

ただ、デザイナーの加藤にとっては一種の「枷」になることであっても、実験の小荷田にとっては、スバルの水平対向エンジンはいいことづくめだった。まず、レイアウト的に、このエンジンなら左右対称にできる。そして、重心が低い。また「縦置き」エンジンであるために、4WD化がシンプルにできる。

さらに、ラリーのようなハード走行を考えた場合に最も注目すべきは、ドライブシャフトが左右等長で、かつ、それが長いということだった。この駆動系であれば、左右不等長から生ずるトルクステアがない。そしてドライブシャフトが長いのは、サスペンションの作動ストロークを長くとっても、ジオメトリーの変化が少ないことを意味した。この点は、市販車の乗り心地の確保だけでなく、ラリーという場でも、その素性という意味では強力な属性となる。

       *

1990年初頭にコンセプトとして「三本の柱」が立ってから半年後、ついに「55N」に2リッター・ターボ・エンジンが載ることが正式に決まった。1.5~1.6リッター級のコンパクトなボディに強力なエンジン、そして4WD。これこそ、今日のWRC戦線での定番というべきウェポンのスペックである。

実は伊藤は、この正式決定より3ヵ月ほど前に、ジュネーブ・ショーの帰りに英国プロドライブに立ち寄っていた。そしてその時、プロドライブ代表のデビッド・リチャーズに「55N」というモデルがあることを話していた。

リチャーズは、既に製作中だった「ラリー・レガシィ」を示しながら、「これよりホイールベースで80mm、全長で200mm、短くできないか?」と伊藤に尋ねてきた。果たしてそれは「55N」のサイズに、ほぼ等しいものだった。スバルの市販車の企画と「ラリー屋」プロドライブとしての願望が、ここでミートしてシンクロした。

       *

そのWRCでは、この年のアクロポリス・ラリーでレガシィが鮮烈なデビューをしていた。結果的に「壊れ」はしたものの、レガシィはデビュー戦のSS(スペシャル・ステージ)1で、何とトップタイムを叩きだしたのだ。スバルは速い! このことは一躍、世界が認める事実となった。そして、この「55N」にターボ搭載が決定した時点で、このクルマがスバルの「次期WRC車」のウェポンとなることは誰の目にも明らかだった。

ただし、後に「WRX」と名付けられることになる強力なバージョンのためだけのプロジェクトチームは、とくに設けなかった。またレガシィのチームが、この「55N」の開発にスライドしたということもなかった。「55N」のスタッフでレガシィに関わっていたメンバーは、唯一、チーフの伊藤だけだった。

そして、このターボ車だけについては、その開発の状況を定期的に、社内のラリーチームである「小関グループ」とSTiに報告するということになった。しかし現実的には、そんな報告をSTiに上げるまでもなかった。それを待つことなく、久世隆一郎の方からビシビシと「55N」についての要求が入りだしたからである。「全体から細部まで(要望が)いっぱい、しかも具体的に来ましたね。ただ、それに便乗して、こっちでもやりたいことを通した。そういう側面もありまして(笑)」(小荷田)。

(つづく)

(文中敬称略)(JAF出版「オートルート」誌 1997年)
Posted at 2015/10/26 22:47:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新車開発 Story | 日記
2015年10月25日 イイね!

初代インプレッサとWRC その1

初代インプレッサとWRC その1コードネーム「55N」──。この名で開発された日本のコンパクトカーが、デビューして2年後には世界の頂点に駆け昇る。このことを予測した人が、果たしてどのくらいいただろうか。1995年、その「55N」、つまりスバル・インプレッサは、ついにWRC(世界ラリー選手権)でメイクスとドライバーの二冠を獲得、世界一のクルマという座に就いた。

ただ、このクルマの開発に携わっていた人々は、その「55N」が「WRC」という世界と密着して生まれてきたことを知っていた。このクルマが世界一になるのは、彼らにとっての目標であり、また必然でもあった。「55N」の開発には、市販車作りの段階から、世界ラリー選手権(WRC)という大きなターゲットが入っていた。

1995年に獲得したその「世界一」というリザルトは、彼らにとっては意外ではなく、むしろ狙いすまして取った快挙であった。世に「これはハンパじゃないクルマだ」と評されるモデルがいくつかあるが、この「55N」(=インプレッサ)もまた、そういう名車たちと同じように、明確なテーマとスタンスのもとに開発が進められたクルマだったのだ。

その企画が始められたのは、1989年の5月。「STi」(スバル・テクニカ・インターナショナル)は、この前年に設立されていて、既にレガシィは街を走っていた。そして、STiの久世隆一郎は英国プロドライブとのコンタクトを始めていた。

ただし、この「55N」の開発初期の段階では、WRC参戦の件は、社外秘というより“社内秘”にされていたという。なぜなら、そのことをあまり早くから明らかにしてすると、その方向にばかりスタッフの意欲と熱情が走ってしまう。そんな恐れがあると、上層部が懸念したのである。見方を変えれば、トップがそういう心配をしなければならないほどに、スバルの開発陣にはラリー好き、コンペティション好きが多いということか。

        *

その「55N」がターゲットとしたのは1.5~1.6リッター級の激戦区。そこで、きちんと通用するセダンを作る。これがメインテーマであり、開発スタッフにはこのことがまず徹底された。ベース車はレガシィで、そのメカニカル・コンポーネンツを使う。そしてレガシィとジャスティとの広い隙間を埋める中間車種とする。これがコンセプトである。

そして、その基本構想は「三本の柱」としてまとまっていた。その構想が明らかにされたのは1990年の1月だった。まず、セダンのしっかりしたものを作る。さらに、新しいワゴンもラインナップに加える。そして、もうひとつ用意するのが「ピュアなスポーツセダン」。新型車「55N」はこの三種で行く。

この最後の言い方に、ちょっとだけ“含み”がある。実は開発スタッフの間でも、WRCに向けての暗黙の了解はあったという。このへんの微妙な事情を、チーフエンジニアの伊藤健は次のように言った。「まだその話(WRC)は出すな、半年は我慢しろと、上からは言われてましたね」。車両研究実験部の小荷田守も言う、「はじめはターボはナシだと聞いていました。少なくとも研究実験には、そういう情報は来なかった」。

        *

ただ、デザイン部の主査である加藤秀文は、早い時期からターボ車の存在を知っていたという。ゆくゆくはターボ、あるいは2.2リッター・エンジンまで搭載するのではないかと読み、そのためのエンジンルームのスペースは取っておこうと考えていた。そして、少なくともその当時のレガシィで使っているエンジンは、すべて収められるようにしてくれ──。こういう内々の要請はあったと加藤は言う。

ただ、スバル独特の水平対向というエンジンは、デザイナーにとってはけっこう制約が大きいものなのだという。加藤によれば、このエンジンでは前部のオーバーハングがどうしても長くなる。それと、左右方向にスペースを食うために、クルマの前部に大きくてスクエアな空間を用意する必要もある。

「つまり、クルマが四角くなっちゃうんですよ、どうしても」と加藤。でもインプレッサは、むしろ丸っこいクルマのように見えるが? 「事実としてカドを切れないクルマなんで、では、それをどう見せるのか。たとえば、ランプの格好なんかを工夫するわけですね」(加藤)

ランプの切り方で、いかにもカドを削ぎ落としたように見せる。また、バンパーも薄くして、かつレガシィと同等の強度を持たせるようにする。それから、エンジンより前に位置する補機類は立てて、かつ短くするよう、エンジニア側に協力を求める。このようにして始まったのが、インプレッサのデザイン・ワークだった。

(つづく)

(文中敬称略)(JAF出版「オートルート」誌 1997年)
Posted at 2015/10/25 22:53:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 新車開発 Story | 日記
2015年10月25日 イイね!

続・クルマとのつきあい方 ~その後の「P10」と日本車 《2》

続・クルマとのつきあい方 ~その後の「P10」と日本車 《2》走行20万キロを超えても、ひとつのモデルにエンエンと乗り続けた。その理由は、やはり「P10」への評価だった。仕事柄、新型車の試乗会などでいろいろな車種に乗っていたが、ことシャシー、つまりサスペンションについては、「P10の足」を超えるクルマにはなかなか出会えなかったからだ。

もちろん1990年代半ば以降、「P10」より乗り心地がいいモデル、そしてロードノイズを抑えたもっと静かな新型車は、内外から続々と登場した。他社もプリメーラはひとつのターゲットにしていたし、こうした快適性も含めた総合的な性能でも、なお「P10」が優位であったと言うつもりはない。

ただ、レーシングカートではないが(笑)、「走って、曲がって、止まって」くれれば、クルマはそれでいい──。こういう単純なスタンスでクルマ状況を見渡した場合に、90年代後半、さらには00年代であっても、「P10の足」にはまだまだ十分な戦闘力がある。それが私の実感と判断だった。新型車の試乗会を終えて、「P10」のシートに収まっての帰り道。ステアリングホイールを通じての、あり余るばかりの前輪の「接地感」に頷きつつ、(おお、この足はまだイケる!)と心の中で呟いていたことを思い出す。

また、ヨーロッパの状況に詳しく、彼の地のメーカーとのコンタクトも密な先輩ジャーナリストのKさんからは、プリメーラをめぐるこんなエピソードを教えていただいた。Kさんがある欧州メーカーを訪問した時のこと。《走り》を担当する旧知のエンジニアがKさんを呼び止め、プリメーラについて、口惜しさを表情に表わしながら、こんなふうに言ったというのだ。「ミスターK、日本に帰ったら、ぜひニッサンの連中に伝えてくれ。やったな、おめでとう、と」

こうして「二台目」でも20万キロ超となった「P10」と私の生活だったが、それは突然に終わった。夜の郊外、一車線の道路。私は「P10」で、信号待ちをしていた。そこに、フッとボンヤリしてしまったのだろうか、ノー・ブレーキでトラックが突っ込んで来たのだ。幸いにもそれが大型トラックではなく、また、私もミラーで(あれ? 何かおかしいな……)と自車を発進させていた(間に合わなかったが)。そんなこともあって、衝撃が緩和されたのだろうか。そのアクシデントは、私のクルマの後ろ半分がつぶれるという物損だけで済んだ。

ただ、パートナーとしていた「P10」とはそれでお別れだった。さすがに「三台目」は冗談がキツいし、それに、時間が経っていて中古車も少ないだろう。この事故で生涯を閉じるしかなかった「二台目」の、その時の走行距離は25万キロ超。とくに不調箇所はなく、トラブルを抱えてもいなかった。

奇しくも、ヨーロッパで「ベルリンの壁」が人々の手(ハンマー)で破壊されたのと、ほぼ同時期。1990年代の初頭に、トヨタのセルシオ、マツダのミアータ、ホンダのNSXといった面々とともに、「日本のクルマ」として世界水準を突き抜けたニッサンのプリメーラ。そんな「P10」と私の長い“併走の日々”がようやく終わった。

(了)
Posted at 2015/10/25 05:18:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 茶房SD談話室 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2015/10 >>

    12 3
45 678910
1112 1314 1516 17
1819 20 21 22 23 24
25 26 272829 3031

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation