
前回の「庶民は馬車に慣れており、移動手段の馬が原動機に変わるという変化を無理なく受け入れた」という「 THE FORD CENTURY 」の指摘は興味深い。アメリカには、庶民でも馬車を扱い、さらにそれに慣れていた。そんな「馬車の時代」があったということが、ここで明らかになった。実はこれは欧州大陸や英国でも同様であり、これらの地域では17世紀の半ばくらいから各種の馬車が使われはじめ、18~19世紀は「馬車の時代」だったといわれる。
そして本書「 THE FORD CENTURY 」は、「庶民は馬車に慣れており……」に続けて、「T型はアメリカの社会を均質化し、文化的・物理的な障壁を打ち壊した」というドン・ワーリング(ヘンリー・フォードの伝記を書いた)の言葉を紹介している。これまた刺激的な言で、言い換えれば、もし20世紀の初頭にT型が登場しなかったら、そうした「均質化」社会は来なかったし、そうなるとしてもずっと時間がかかったはずということであろう。
ワーリングは、さらに言う。「農村の人々にとって、T型の登場は一生に一度というほどの大事件だった。農民たちは仕事が楽になり、思い立ったらすぐにでも気軽に遠くの街へ出かけられるようになった。きわめて現実的な意味で、T型はひとつの社会革命であった」(T型の登場は)「体力の点で厄介な馬や馬車を扱えなかった女性を解放することにもつながった。この仕事は、それまで彼女たちの父親や夫のものだったのだ」
……なるほど! 「馬と馬車の文化」は、このような意味では限界があったということであろう。「馬車の時代」では、仮に乗り物(馬車)の“性能”を上げようとすれば、馬車を引く馬の数を増やすしかなかった。また、長距離走の場合は、馬はある距離ごとに「交換」しなければならない。そもそも宿場というのは、そうやって馬をプールしておいて、必要に応じて交換する場という意味だった(はず)。「馬車の時代」には、そうした“兵站”にも似たシステムを作って、それを維持しなければならなかったのだ。
それから、多頭数の馬が引く、速くなった馬車を扱うことができるのは、体力の点からも、ある限られたプロフェッショナルだけだっただろう。西部劇映画でも、六頭立てなどの速い馬車を御しているのは屈強な男たちであり、そして女性は、たとえば「西部開拓史」でも「シェーン」でも、温和しそうな馬が一頭で引く小さな馬車を操っていた。
つまり「馬車の文化」である限り、乗り物を用いての人の行動には、速度にせよユーティリティにせよ、ある限定された範囲にとどまる。もし、そうした状況を打開しようとするなら、ビークルを動かすためには、馬以外の「原動機」を見つけるしかない。蒸気機関にせよガソリンエンジンにせよ、そうした原動機があることを知った当時の人々が、欧米の各地で“新種の馬車”作りにのめり込んだのは、その意味では当然のことだったのではないか。
ただ、そのような状況の中で、おそらくヘンリー・フォードだけが、その「馬から原動機へ」という新潮流に、社会の中の「誰でも」がその新しさを享受できるようにしたいという“デモクラシー”性を盛り込もうとした。……というか、エンジンとそれを積んだクルマであれば、さまざまな意味で「馬+馬車」を超えられるとイメージした。そのことを直感して、ヘンリーはまず「クワドリサイクル」を作り、さらに、そのコンセプトを発展させて「T型」として具体化した。この洞察と展望、そしてその実行力には、やはり偉大という言葉を捧げるしかない。
……ところで、終盤までこの書「 THE FORD CENTURY 」を読んできて、ようやく気づいたことなのだが、この本は、ラス・バナムというひとりのジャーナリストによる著作物であった。フォード社がその「百年」を記念して刊行した……という触れ込みだったので、社内データや社内報を100年分まとめたような、そして一種のPR本でもあろうと勝手に思い込んだのだが、それは大きな間違いであったようだ。
ひとりの著者が、そのジャーナリストとしての視点で、あるメーカーの「百年」を考察して記述した。だから、内容にしても文章にしても血が通っていて、無味乾燥でもない。構成や細部に、個人(著者)の息吹が感じられる、そんな書物になっている。
もちろん、フォード社やフォード家、さらに広告代理店などは、写真や記録を提供するなど、この書と著者にはかなりの協力をしていると思う。しかし、そうであっても、彼らは、著者が何を書いて何を書かないかということについては立ち入っていないのではないか。(だから、労働争議の際に会社側の警備員に殴られて鼻血を出した労働組合幹部の写真が載っていたりする)
そして、ここでも話題とした、フォードにとっての重要な「25台」というのも、フォード側が決めたのではなく、著者ラス・バナムによるセレクトだっただろう。世界中に子会社をどんどん作り、いろいろなメーカーと提携し、時には傘下に収めてきた。フォードという会社には、そういう歴史もある。これが著者の「フォード観」であり、ゆえに、マツダの軽三輪やレンジローバーが堂々と登場していたのだ。
さて、そのラス・バナムは、ヘンリー・フォードのパーソナリティというか、彼がどんな人であったのかということについて、この「 THE FORD CENTURY 」では、どう描いているか。「ヘンリー・フォード:非凡な一般人」という章があるので、そこから引用してみる。
「ヘンリー・フォードは、器用で仕事中毒の実業家であり、いったん決めたらやり通す厳しい独裁主義者でもありました。また、社会的な慈善家であり、自然主義者であり、すぐれた民俗学者でもありました。非常に多様性に満ち、奥の深い人柄から、これまでに百を超す数の伝記で、ヘンリーの人物像が描かれていますが、いくつかの側面を強調する一方で、全体像があいまいとなってしまっています」
「明らかなことは、実業家としてのヘンリー・フォードと、ひとりの人間としてのヘンリー・フォードという二つの人物像は、必ずしも一致はしていなかったということです。彼は自動車にとどまらず、国際政治、農産物の工業利用、環境保護、仕事を通した人間的成長などに興味を持っていました」
「ヘンリーは、シンプルで素朴なものを好み、見栄や人混みを嫌いました。上級階級の人々と付き合うよりは、むしろ自宅で家族や友人たちと過ごしていました」「酒、賭け事、タバコを嫌い、いたずらが大好きでした」
「彼は流行に合わせて自分の意見を変えることはなく、タバコや贅沢な食事、酒類を嫌いました。とくにタバコについては小冊子の中で、『白い奴隷商人』と呼ぶほどでした。禁酒法が施行されていた1929年に、彼は『米国に酒が戻ってくることがあれば、私は製造業を止めるだろう』と公言していましたが、これは実現しませんでした」
(つづく)
○タイトルフォトは、ヘンリー・フォードとトーマス・エジソン。「 THE FORD CENTURY 」より。
Posted at 2016/03/28 12:41:31 | |
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