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家村浩明のブログ一覧

2016年03月28日 イイね!

フォードの不在……《8》

フォードの不在……《8》前回の「庶民は馬車に慣れており、移動手段の馬が原動機に変わるという変化を無理なく受け入れた」という「 THE FORD CENTURY 」の指摘は興味深い。アメリカには、庶民でも馬車を扱い、さらにそれに慣れていた。そんな「馬車の時代」があったということが、ここで明らかになった。実はこれは欧州大陸や英国でも同様であり、これらの地域では17世紀の半ばくらいから各種の馬車が使われはじめ、18~19世紀は「馬車の時代」だったといわれる。

そして本書「 THE FORD CENTURY 」は、「庶民は馬車に慣れており……」に続けて、「T型はアメリカの社会を均質化し、文化的・物理的な障壁を打ち壊した」というドン・ワーリング(ヘンリー・フォードの伝記を書いた)の言葉を紹介している。これまた刺激的な言で、言い換えれば、もし20世紀の初頭にT型が登場しなかったら、そうした「均質化」社会は来なかったし、そうなるとしてもずっと時間がかかったはずということであろう。

ワーリングは、さらに言う。「農村の人々にとって、T型の登場は一生に一度というほどの大事件だった。農民たちは仕事が楽になり、思い立ったらすぐにでも気軽に遠くの街へ出かけられるようになった。きわめて現実的な意味で、T型はひとつの社会革命であった」(T型の登場は)「体力の点で厄介な馬や馬車を扱えなかった女性を解放することにもつながった。この仕事は、それまで彼女たちの父親や夫のものだったのだ」

……なるほど! 「馬と馬車の文化」は、このような意味では限界があったということであろう。「馬車の時代」では、仮に乗り物(馬車)の“性能”を上げようとすれば、馬車を引く馬の数を増やすしかなかった。また、長距離走の場合は、馬はある距離ごとに「交換」しなければならない。そもそも宿場というのは、そうやって馬をプールしておいて、必要に応じて交換する場という意味だった(はず)。「馬車の時代」には、そうした“兵站”にも似たシステムを作って、それを維持しなければならなかったのだ。

それから、多頭数の馬が引く、速くなった馬車を扱うことができるのは、体力の点からも、ある限られたプロフェッショナルだけだっただろう。西部劇映画でも、六頭立てなどの速い馬車を御しているのは屈強な男たちであり、そして女性は、たとえば「西部開拓史」でも「シェーン」でも、温和しそうな馬が一頭で引く小さな馬車を操っていた。

つまり「馬車の文化」である限り、乗り物を用いての人の行動には、速度にせよユーティリティにせよ、ある限定された範囲にとどまる。もし、そうした状況を打開しようとするなら、ビークルを動かすためには、馬以外の「原動機」を見つけるしかない。蒸気機関にせよガソリンエンジンにせよ、そうした原動機があることを知った当時の人々が、欧米の各地で“新種の馬車”作りにのめり込んだのは、その意味では当然のことだったのではないか。

ただ、そのような状況の中で、おそらくヘンリー・フォードだけが、その「馬から原動機へ」という新潮流に、社会の中の「誰でも」がその新しさを享受できるようにしたいという“デモクラシー”性を盛り込もうとした。……というか、エンジンとそれを積んだクルマであれば、さまざまな意味で「馬+馬車」を超えられるとイメージした。そのことを直感して、ヘンリーはまず「クワドリサイクル」を作り、さらに、そのコンセプトを発展させて「T型」として具体化した。この洞察と展望、そしてその実行力には、やはり偉大という言葉を捧げるしかない。

……ところで、終盤までこの書「 THE FORD CENTURY 」を読んできて、ようやく気づいたことなのだが、この本は、ラス・バナムというひとりのジャーナリストによる著作物であった。フォード社がその「百年」を記念して刊行した……という触れ込みだったので、社内データや社内報を100年分まとめたような、そして一種のPR本でもあろうと勝手に思い込んだのだが、それは大きな間違いであったようだ。

ひとりの著者が、そのジャーナリストとしての視点で、あるメーカーの「百年」を考察して記述した。だから、内容にしても文章にしても血が通っていて、無味乾燥でもない。構成や細部に、個人(著者)の息吹が感じられる、そんな書物になっている。

もちろん、フォード社やフォード家、さらに広告代理店などは、写真や記録を提供するなど、この書と著者にはかなりの協力をしていると思う。しかし、そうであっても、彼らは、著者が何を書いて何を書かないかということについては立ち入っていないのではないか。(だから、労働争議の際に会社側の警備員に殴られて鼻血を出した労働組合幹部の写真が載っていたりする)

そして、ここでも話題とした、フォードにとっての重要な「25台」というのも、フォード側が決めたのではなく、著者ラス・バナムによるセレクトだっただろう。世界中に子会社をどんどん作り、いろいろなメーカーと提携し、時には傘下に収めてきた。フォードという会社には、そういう歴史もある。これが著者の「フォード観」であり、ゆえに、マツダの軽三輪やレンジローバーが堂々と登場していたのだ。

さて、そのラス・バナムは、ヘンリー・フォードのパーソナリティというか、彼がどんな人であったのかということについて、この「 THE FORD CENTURY 」では、どう描いているか。「ヘンリー・フォード:非凡な一般人」という章があるので、そこから引用してみる。

「ヘンリー・フォードは、器用で仕事中毒の実業家であり、いったん決めたらやり通す厳しい独裁主義者でもありました。また、社会的な慈善家であり、自然主義者であり、すぐれた民俗学者でもありました。非常に多様性に満ち、奥の深い人柄から、これまでに百を超す数の伝記で、ヘンリーの人物像が描かれていますが、いくつかの側面を強調する一方で、全体像があいまいとなってしまっています」

「明らかなことは、実業家としてのヘンリー・フォードと、ひとりの人間としてのヘンリー・フォードという二つの人物像は、必ずしも一致はしていなかったということです。彼は自動車にとどまらず、国際政治、農産物の工業利用、環境保護、仕事を通した人間的成長などに興味を持っていました」

「ヘンリーは、シンプルで素朴なものを好み、見栄や人混みを嫌いました。上級階級の人々と付き合うよりは、むしろ自宅で家族や友人たちと過ごしていました」「酒、賭け事、タバコを嫌い、いたずらが大好きでした」

「彼は流行に合わせて自分の意見を変えることはなく、タバコや贅沢な食事、酒類を嫌いました。とくにタバコについては小冊子の中で、『白い奴隷商人』と呼ぶほどでした。禁酒法が施行されていた1929年に、彼は『米国に酒が戻ってくることがあれば、私は製造業を止めるだろう』と公言していましたが、これは実現しませんでした」

(つづく)

○タイトルフォトは、ヘンリー・フォードとトーマス・エジソン。「 THE FORD CENTURY 」より。
Posted at 2016/03/28 12:41:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | Car エッセイ | 日記
2016年03月27日 イイね!

ダッラーラ F391 《2》

ダッラーラ F391 《2》1991年シリーズのF1、スクーデリア・イタリアのドライバーは、日本のF3000で育ったエマニュエル・ピッロだ。そして、チームメイトがJ・J・レート。エンジンはジャッドV10で、シャシーのコードネームは「ダッラーラ F191」──つまり、フォーミュラ・ワン(1)の“1991”である。

そして、今回本誌が撮影したモデルが、ご覧の「ダッラーラ F391」。コードネームの通りに、F3の最新、91年型。サイズでいうと、ほぼ6分の5のミニチュアのF1ということでもある。

ダッラーラF3の歴史は意外と長く、1981年には、イタリアのフォーミュラ・シーンにその姿を現わしていて、1985年以降は圧倒的なシェアを誇り、イタリアでのチャンピオン・シャシーとなっている。現・F1ドライバーであるニコラ・ラリーニやジャンニ・モルビデリも“ダッラーラ育ち”であり、ラリーニには1986年、モルビデリは1989年のイタリアF3のチャンピオンである。

また、現・ティレルで、中嶋悟のチームメイトであるイタリア人ドライバー、ステファノ・モデナは、カートからF3へと移行したが、そのキャリアの中にイタリアのF3チャンピオンというのが含まれていない。彼がイタリアでF3を闘ったのは1986年で、その翌年には、インターナショナルF3000に闘いの場を移した。

才能溢れるドライバーのモデナが、なぜイタリアF3のトップに立てなかったか? そのワケは、ステファノがF3で乗っていたマシンがレイナードだったから……とは、イタリアでは真顔で語られるエピソードだという。そのくらいに1986年は、イタリアF3でダッラーラ全盛の時であった。

イタリアは、多くのレーシング・ドライバーを世に送り出しているだけでなく、エンジニアやコンストラクターなどの「レースする人々」を生み続けている“熱い国”である。また、一旦フォーミュラに関わると、結果はともかく、何が何でもF1シーンまで駆け上るという傾向も見える。

ビッグ・フェラーリだけでなく、いまイタリア系のF1チームというのは、ミナルディ、オゼッラ(現・フォンドメタル)、コローニ、モデナ(実質的にランボルギーニ・ワークス)、そしてスクーデリア・イタリアと、五指に余る数だ。

そのような風土の中でのダッラーラだが、ここは、頼まれれば何でもするというプロフェッショナリズムを見せる一方で、フォーミュラ・レーシングのベーシックな部分を支えるF3マシンを黙々と作り続けた、そんな“スクーデリア”である。そして、そのダッラーラF3は、単なる走りのためだけを超えて、優美さと造型の妙も盛り込まれた、とても綺麗なフォーミュラだ。

日本へのデビューは、1986年の「鈴鹿」だった。ダッラーラのF3(F388/ニッサン)はほとんどぶっつけ本番で、そして非力なエンジンでありながら、予選7位、決勝でも3位という鮮やかなリザルトを残す。その時のドライバーが、いまや日本のF3000シリーズでトップ・コンテンダーに成長したマウロ・マルティーニだった。(彼は、1988年のイタリアF3では2位)

今年、2台のダッラーラF3が日本のF3レースを走る。この繊細にして美麗な“紅いエレガンス”は、果たして、どんなドラマを刻むだろうか。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/27 06:39:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月26日 イイね!

ダッラーラ F391 《1》

ダッラーラ F391 《1》1991年のF1シーン、その開幕直前を賑わした話題のひとつに「ラルース事件」がある。1990年シーズンをエスポ・ラルース/ランボルギーニとして闘った、このチームのシャシーを作っていたのは、日本のF3000でもお馴染みの、あのローラ──。

もちろんこれは、秘密でも何でもなく、関係者のみならず、ファンの一部でも知っていて、当然、F1の主催者側も了解の上で、シーズンは進んでいたはずだった。そして、記憶に新しい「鈴鹿」での鈴木亜久里の3位入賞など、新興チームとしてはめざましいリザルトを残し、選手権ポイントも獲得して、ラルースは中堅チームへとジャンプ! ……したはずだったのだが、突如、クレームが付いたのである。

理由は、シャシーが「外製」であったこと。F1の場合、基本精神として、シャシー・コンストラクターがそのままエントラントであるべしというのがあり、ラルースはその点に違反しているというのであった。

じゃあ、ベネトンっていうのはどうなんだ? 単なるアパレル・メーカーの企業名じゃないかってことになるが、これはチームの「オーナー名」ということで問題なし。ニッポン資本が絡むマーチ・レイトンハウス、アロウズ・フットワークも、同様の理由でオーナー名であり、これらはシャシーを「内製」しているとみなされている。(こうして見ると、マールボロは“謙虚”だ。ビッグ・スポンサーでありながら、あくまで「マールボロ・マクラーレン」として、シャシー屋を立てている)

「内製」「外製」という一点にこだわれば、意味なきクレームではなかったけれど、しかし、誰もが知っていたことをシーズン終了後に初めて問題にするという奇妙な騒動は、結局は、何でもなかった(!)という不思議な結末で終わった。

F1世界というのは複雑にして怪奇……。あるいは、ヨーロッパ及びヨーロッパ人の奥の深さ……。そんなことをわれわれアジア人に教えてくれたような“事件”ではあったが、さて、もしマジにシャシーの「内製」ウンヌンを問題にするのなら、ラルースのように告発されなければならないチームは、実はもうひとつあった。

それは、フェラーリと同じようなカラーリングの、もう一台の真紅のマシン、スクーデリア・イタリアである。このチームもまた、シャシーそのものを自製してはいなかった。ただ、“イタリアン・ワークス”と英訳できるようなチーム名そのままに、イタリア一色でチームを固めてはいたが。

このイタリアのレース屋の心意気が結集したようなチーム(集合体)で、シャシー部門を受け持っているコンストラクター。それがダッラーラである。(ただラルースと違って、このチームは1990年シーズンでは入賞ポイントを得ることはできなかった)

さて、その「ダッラーラ・アウトモビーリ」を率いるジャンパオロ・ダッラーラの経歴というのが、ちょっと凄い。試みに、いくつかの車名を並べてみる。ランボルギーニ・ミウラ、ランチア・ストラトス、ウルフ/カンナム、BMW-M1、さらには、ランチアのグループCカー……。

エキゾチック・カーの始祖あり、ミッドシップで究極のラリー・スペシャルあり、速さで注目された耐久マシンありと、多彩極まる顔ぶれだが、これらに共通するものがひとつだけある。そう、ここに挙げたモデル/マシンは、すべて、ジャンパオロ・ダッラーラによるものなのだ。

20代半ばという年令で、エンツォ・フェラーリに招かれたのを手始めに、フェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ、デ・ソマソといったメーカーに籍を置き、1970年代には自身のワークショップを持った。そして、求めに応じて、シルエット・フォーミュラ、グループCカー、そしてF1、さらにはラリー車まで。あらゆるカテゴリーのコンペティション(競争)のためのクルマを作ってきた。

「スクーデリア・イタリア」という名でF1シーンに打って出ようとした、イタリアはブレシアのレース好きの実業家、ジュゼッペ・ルッキーニが、この歴史と実力を有する自国のコンストラクターを見逃すはずがない。こうしてダッラーラは、1988年からF1レースに参戦し、今日に至っているのだ。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/26 14:50:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月24日 イイね!

ティレル 019 《2》

ティレル 019 《2》この「ティレル019」のうち、シャシーナンバー「004」を刻んだマシンが、いま日本にある。1990年のカナダGPから、日本人で初めてF1ドライバーの座を得たサトル・ナカジマのために新たにおろされて、それ以後の九つのグランプリを彼とともに闘った、そのクルマそのものである。

「♯004/サトル」の9戦では、デビュー戦のカナダで11位。高速コースで知られるモンツァ、イタリアGPでの6位というリザルトが光る。そして「♯004」の10戦目にあたるポルトガルで、風邪で体調の悪かったナカジマは決勝前のウォームアップ走行でクラッシュ。「♯004」の役目はここで終了となり、以後は「♯007」の「019」がナカジマの愛機となった。したがって、鈴鹿を走ったティレルは7号機ということになる。

ちなみに、ティレル「019」は7台作られた。ラルースあたりの状況を思い起こせば、ティレルというのは資金的にもかなり豊かなチームであることがわかる。

さて、この「019」の開発を指揮したエンジニアの名前は、ちょっと長いが覚えておきたい。ハーヴェイ・ポスルズウェイト。1970年代からF1の世界へ入り、ヘスケスというオリジナル・マシン(ジェームス・ハントが乗っていた)を作った後に、1980年代は、イギリス人でありながらフェラーリに在籍していた。あのエンツォ健在の頃のフェラーリで、そこがイギリス人を雇ったというのはビッグニュースだった。

1982年、1983年と続けて、フェラーリにコンストラクターズ・チャンピオンをもたらし、1988年にジョン・バーナードがフェラーリ入りして、ハーヴェイはチームを去った。そして、仲の良かったミケーレ・アルボレートとともに、ティレルへ移籍。

そのミケーレに代えて起用したジャン・アレジが1989年後半と1990年のシーズンにティレルで大活躍して、1991年にフェラーリのシートを得たのはご存じの通り。ただ、1990年に “ハイノーズ革命” を引き起こしたハーヴェイ・ポスルズウェイトは、その後ティレルで役員までやったが、この「019」を残して、チームを去った。

そして、サトル・ナカジマは1991年のシーズン半ば、ドイツGPで、今年限りでF1ドライバーであることをやめると表明。ロータス、そしてティレルへ。チームメイトは、アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジ、そして今年はステファーノ・モデナ。こうして見ると、トップレンジのチーム/ドライバーとともに、中嶋はF1でずっと仕事をしてきたことがわかる。

1987年に、日本人として初のフル・エントリー・ドライバーとなり、その初参戦の年に早くも入賞して「グレーデッド・ドライバー」の地位を獲得したのは記憶されるべき戦績だ。

そして、はじめから志向がフォーミュラであり、その頂点には「F1」があることを知って、自身のレース活動を行ない続けた。この意味でも、中嶋悟は日本で初めてのレーシング・ドライバーだった。また、日本人でも「F1」が夢だけのことではないことをカラダで示してくれた。この事実も大きい。若いレーサーが、「夢はF1です……」と語ることができるようになったのは “ナカジマ以後” のことだ。

1991年10月の「鈴鹿」は、5年間の中嶋F1生活での、最後の日本でのステージになる。1991年のティレルに載っているのは、ホンダのV10エンジン。グッバイ、ナカジマ! そして、サンキュー・サトル! 

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/24 21:38:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年03月24日 イイね!

ティレル 019 《1》

ティレル 019 《1》この「ティレル019」というF1マシンが人々の目に初めて触れたのは、1990年の春のことだった。これが、新ティレル……! こんな感じで、欧州のいくつかの雑紙を飾ったのだが、しかし、まったく本気にしない人も実はたくさんいた。そう、時は4月だったのである。

エイプリル・フールのための、ていねいなジョーク写真……。ノーズこそ繊細でトレンディだったけれど、それは見たこともないような格好で浮き上がっていて、そしてそのサカナのような鼻には “ヒゲ” がぶら下がっていたのだ。ともかく、これは奇抜であり、「冗談か、あるいは狂気か?」とまで書いた雑誌さえあったものだ。

そしてもうひとつ、「019=ジョーク説」を生んだ理由があった。それは、1989年シーズンを走った前年マシンの「018」が、1990年オープニングの時点でも十分な戦闘力があったことだ。フェニックスでの開幕戦、アメリカGPで、驚異の新人ジャン・アレジが「018」で首位を走り、結果としても2位でフィニッシュ(中嶋悟6位)。そんなティレルが、何もこんなヘンテコなクルマを作らなくたっていいじゃないか、というものだった。

でも、もちろん、このノーズ(アンヘドラル・ウイング)は本気だった。ティレルのテクニカル・ディレクターであるイギリス人、ハーヴェイ・ポスルズウェイトがこの “鼻” とフロントウイングの仕掛け人だが、彼は次のように語っていた。「もし、わがチームにセナとホンダ・エンジンがあるのなら、別のかたちのトライがあったと思う。ただ、現状はそうではない。だから、ラディカルな試みをせざるを得なかった」──

ホンダのV10(1990年)、あるいはフェラーリのV12、ルノーV10……。そのようなメーカー製の最新・多気筒ユニットに対して、ティレルが使えるのは、非力なV8のフォード・コスワースDFR。エンジン・パワー以外の別の何かで、戦闘力を高めねばならない。そのトライが「空力」だったのだ。

たとえば、この「019」は、どこにエンジンがあるのかというくらいに、V8エンジンが巧みにクルマの中に収納されている。印象はものすごくコンパクトだ。そして、エキゾースト・パイプさえも、リヤ・サスペンションの上下アームの間から出すという徹底ぶりで、エアの “流れ” を阻害するものをなくしている。

また、このようにノーズを「上げる」とどうなるかというと、マシンの先端部に最も集中するエアを、無駄なく、ラジエターを抱える両側のサイド・ポンツーン部へ引き込むことができるのだという。

さらには、その部分に流れてくる空気の量が多いため、ラジエターのエア採り入れ口を他車より小さくしても、冷却に支障を来たさない。……ということは、クルマの全体も、よりスリムに仕立てることができ、ここでも空気抵抗を減らせると、このようにハナシは循環する。この「019」とは、パワーのV10/V12勢に対して、究極の “V8エアロ・スペシャル” を作って対抗しようというレーシング・エンジニアの夢なのだ。

この “ポスルズウェイトのジョーク” は、1990年第2戦終了後のイモラのテストで「018」より速いことを実証。実戦でも、デビュー・グランプリの第3戦サンマリノで、ジャン・アレジは予選7位につけ、決勝も6位で走り終えた。マクラーレン、フェラーリ、ウイリアムズの「三強」(多気筒エンジン)に次ぐ実力を発揮し、時にはこれら「三強」を食った。

1990年のモナコでは、ジャン・アレジは予選3位。決勝でも2位で、彼よりも「前」にいたのは、マクラーレン・ホンダ/V10のアイルトン・セナだけ。雨のカナダ・グランプリでは、アレジが2位まで上がり、その後に惜しくもクラッシュした。

“ハイノーズ・レボルーション”が冗談でも狂気でもなく、いかに効果的だったかがわかるが、それは今年(1991年)のF1シーンを見ても明らかだ。ウイリアムズ、ベネトン、そして躍進著しいジョーダン、あるいはダッラーラで走るスクーデリア・イタリア。これらがみな、多かれ少なかれ、持ち上がったノーズと垂れ下がった(?)フロントウイングの組み合わせで、マシンの先端部を構成している。

1990年ティレル「019」は、空力が生んだ “風のF1” であり、その後の、今日のF1マシンのトレンドを創ったのである。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/03/24 11:12:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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