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家村浩明のブログ一覧

2016年09月15日 イイね!

【スポーツ column 】ベースボールは「国際化」しない… 《4》

最初の頃は「ベースボール=野球」という表現をしてきたこの一文だが、ある段階から「ベースボール」と限定的に表記することが多くなった。この球技のアメリカでの歴史などを探っていくうちに、どうも私たちが知る「野球」と、アメリカで行なわれている(らしい)「ベースボール」はかなり違う? そんなことに気づいたからだった。

グラウンドに守備側の9人が散って、打者がバッターボックスに入って、審判が手を挙げて「プレイ!」──。さあ、これからみんなで、ボール・ゲームを遊ぼうぜ! そんなワクワクの時間が始まるのだから、プレイヤーは全員、ココロの中にはスマイル・マーク。ガムだって噛むし、ベンチでひまわりの種は食うし、噛みタバコも止めない。これがアメリカでの「ベースボール」(であるように、私には見える)。

さらには、ここは日曜・朝のチャーチ(教会)じゃないんだ、ボール・パークだぜ!……と、集った全員が思っているから、スタンドでは「街なか」と同じようにホットドッグが売られ、観客はそれを頬張りつつ、バドワイザーなどの軽いビールを飲む。

一方、「野球」の場合はどうか。「プレイボール!」という宣言で日本野球の選手や監督のココロに去来するのは、(さあ、戦闘開始だ)という厳粛な言葉と、一種殺伐なまでに試合と勝負に徹した冷徹モード……なのではないか。そして、これからシビアな闘いが始まるのだから、プレーヤーは誰もスマイルしていない。(観客席ではビールは売っているが)

そういえば日本の場合、球場とそのグラウンドはしばしば「聖地」になる。グラウンドに入る際に、「人」に対してではなく「地」に対して礼をする。これは高校生にとっての「甲子園」以外でも、日本各地で行なわれている習慣であろう。そんな「聖地」に踏み込んだ巡礼者たちが、もし笑みを浮かべていれば、それは不敬である。そういえば“高校球児”がしばしば頭を丸坊主にするのは、「聖地」に入るために身を清めたということなのかもしれない。「球場」は日本人プレイヤーにとって、「街なか」とは異なる非・日常的空間であると同時に、神聖かつ荘厳な場なのである。

そして、「ゲーム」(エンタメ=ベースボール)なのか、「試合」(戦闘=野球)なのか。ともかく実際に競技が始まっても、ベースボールと野球は異なった様相を呈する。私見では、二つの球技で一番違うのは「投手」のコンセプトというか、その姿勢や役割であると思う。

メジャー・リーグなどのアメリカの投手は、「俺の球、打つなら打ってみろ!」と、打者に向かって投げ込む。自身のベスト・ピッチを投げて、それが打たれたのなら、それはそういうこと。そんな雰囲気もある。一方で日本野球の投手は、どうすれば打たれないか、どこに投げれば、自チームの“被害”が一番少ないか。投手はそのことに腐心して、打者に対する。いま投手として、何を一番「してはいけない」かを考えろ。これがおそらく監督のココロだ。(お前のベスト・ピッチ? 何だ、そりゃ?)

ハナシをいきなり具体的にすると、たとえば1球目、打者がストライクを見逃した。2球目は振りに行ったがファールだった。よくある展開だが、これでボールなしの2ストライクになる。さあ、3球目。投手はどういう意図と姿勢で、何を投げるか?

この時に、あと一つのストライクで打者との対決に勝てるのだから、三振を狙って、3球目に勝負に行くのが「ベースボール」。例の、打つなら打ってみろ!……である。そして投手は、もし打者が見逃せば三振になる球、つまり「ストライク」を投げる。

一方、日本の「野球」で、ボールなしの2ストライクになった時、投手が考えるのは(これはつまりチーム監督が考えるに等しいのだが)、「よし、これで三つ、ボールを投げられるな」ということ。とくに「0-2」からの3球目は絶対と言っていいほど、打者が打とうとしても打てない球、つまり「ボール」を投げる。

そして、この「ストライクを投げない」というコンセプトは4球目以降も徹底していて、日本の好投手は「1-2」以後も“打てない球”(ボール)を投げ続ける。何故なら、「3-2」まではフォアボールではないからだ。「0-2」から三つ、ボール球を投げて、そのうちの一球を打者が振ってくれたら儲けもの。こういうカタチの“勝負”をするのが「野球」である。

この時に効果があるのが、日本でフォーク・ボールと呼ばれる「縦に落ちる球」だ。2ストライク後にこの球が来ると、多くの打者は耐えきれずに手を出し、そして空振りする。とりわけ、「ストライクからボールになる球」というのが効果的で、この種の球を投げられる投手が「野球」では高く評価される。

ただし、途中までストライク・コースに来ていて、でも最後にはボールになる球とは、結局は「ボール」なのである。これを平然と見逃せたのが天才打者・落合博満で、ゆえに落合は、一世を風靡した「フォーク投手」佐々木主浩をまったく苦にしなかった。佐々木のフォークには手を出さず、実はそんなに威力はない彼の直球だけを狙い打った。「全部ボールでしょ、あれ(フォーク)は」と笑っていたな、そういえば。

しかし、多くの打者は落合のように天才ではないので、「フォーク投手」は概ね日本で成功する。ほとんどの打者は、2ストライク後に投手が投げてくるワンバウンドするような球、つまり、バットに当てることはほぼ不可能という球を空振りするからだ。

まあ、たまに落合風というか、ちょっとだけ、したたかな打者がいて、2ストライク後の「ボール球」には手を出さず、「0-2」から「3-2」くらいまで粘ることはある。しかし、日本の「優れた投手」は、次は必ず「振る」という自信があるのか、フォアボールを怖れないのか。そうしたフルカウントからでも、やっぱり「ボール」を投げて来るのだ。その時には、さすがの「好打者」もワンバウンドする球を振って、結果としてはやっぱり三振で終わる。

つまり、日本の「野球」における2ストライク後の“見世物”というのは、投手は、バットには当たらない球(ボール)をどう振らせるか。打者は、投手によるそんな誘惑や焦らしに、如何にして耐えるか。要するに、そういう“ショー”になっている。

この見世物でひとつおもしろくないのは、投手の側は「3ボール」になるまで何のリスクもないということだ。だって、どんな打者でも打てないだろうという“ワンバウンド球”を投げてるんだからね! これは、片方だけが絶対優位のショーで、見ていて愉しいものではない。

それに、何より勝負(打者一人からのアウト奪取)に手間が掛かりすぎる。「0-2」から投手が投げる、打者がまず打つことができない三つのボール球は、時間のムダではないのか。そして、結果もミエミエで、サスペンスやワクワク感がない。投手はその間、打者が“打てない球”だけを投げている。さらに言うなら、この間は打球は前には飛ばないので、守備陣が好プレーを見せる機会も生じない。

こうしたこと(2ストライク後の展開)に気づいた時、私は「日本の野球」に対してかなりシラけた。けっこう盛り下がる見世物、間延びしたショーだとも思った。重箱の隅をつつくようなバトルは、監督対監督の心理戦、緻密で高度な“戦争”であるかもしれないが、意外性と解放感には乏しい。スピード感やダイナミズムもない。

(もちろん、どの世界にも例外と驚異はある。日本プロ野球の『江夏豊』は、俺は「三球三振」で打者を片づける!……という野球をした。また彼は、相手打者の全員を三振に取れば、捕手以外の野手は要らないのだと、ココロのどこかで思っていたに違いない。1971年のオールスター戦、責任回数3回・9つのアウトを、江夏は全員三振で決めて、そのことを実証した)

(つづく)
Posted at 2016/09/15 05:23:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年09月14日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.11 スカイラインGT-R

【 70's J-car selection 】vol.11 スカイラインGT-Rスカイライン2000GT-R GC10(1970)

スカイラインGTというモデルが、この時期、つまり1960~70年代の「クルマ作り」で、その方向性や傾向をリードしたこと。これはやはり、歴史的事実であると思う。“スカG”という愛称を得たスカイラインGTは、「コンペティティブな(戦闘的な)クルマは正義である」ことを高らかに主張、「速さ」を重視した“レーシーなクルマ”を作って成功する。そして他メーカーも、このモデルを横目で見ながら、それぞれに「速いクルマ」を作って対抗した。

(日本のクルマ作りで、こうした「コンペティション主義」が一段落して、業界がひと息つき、もっと“ユルい”クルマを作ってもいいのだと気づくまでには、20年以上の時間が必要だった。1980年代も後半になって、あの「Be-1」が世に出た時に、作り手も受け手もようやく、「速さ」や「高性能」だけがクルマではないことを発見したのではないか)

そして、そんな「コンペティション主義」と並んで、もうひとつ、1960~70年代のスカイラインGTが日本の自動車界に与えた衝撃と影響があった。それが「ハコ神話」である。「ハコ」とは、すなわちセダン・ボディ。何故「セダン」であることがそんなに強調されたかというと、その“対語”が純スポーツカーやプロトタイプ・スポーツカーだったからだ。

スカイラインGTは、スポーツカーよりも「速いハコ」があることを体現し、それは同時に、「GT」というネーミングのブームも引き起こした。その結果、1960~70年代のほとんどの市販セダン・シリーズには、たとえそれが大衆車やコンパクトであっても、必ず「GT」やスーパースポーツ・セダンといったグレードやバージョンがある。そんな日本特有の現象も生んだ。

そしてもちろん、その“スカG”の人気を「頂点から」補強していたものは、やはりあった。スカイラインの「GT」は、他社のよくあるGTとは違うという根拠、それが「GT-R」であった。

1960年代中葉の日本グランプリ・レースで、純レーシングスポーツのポルシェ・カレラをサーキットで追い回して肉迫したセダン(ハコ)があった。この熱狂が日本の「ハコ神話」の原点で、そのスカイラインがサーキットを走ったときのレーシングエンジン(S20)そのものをデチューンし、市販車に載せた。この事実が、マーケットをヒートアップさせた。

今日(2000年代)に置き換えると、ホンダがF1用のV10ユニットを搭載したクルマを市販するのに近いものがあるかもしれないが、モータリゼーションの草創期だったとはいえ、そこまでやったのが1970年代の「GT-R」だったのだ。

この「速いハコ」という夢は、ほとんどDNAとして、日本人及びニッサンには深く刻み込まれ、1990年代半ばになっても、直線が長い空力重視のレースである「ル・マン24時間」に、R33スカイライン・改という「超ハコ」で参戦するという“怪挙”を生むに至る。また日本での、アルピナ、AMGといったクルマの根強い人気も、その遠因は、実は1960~70年代のスカイラインGT-Rにあると見る。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)
Posted at 2016/09/14 13:34:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年09月13日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《12》

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《12》夜の田舎道をスバルが行く。車内の二人。フロントウインドーではワイパーが動いている。トシオの横で、語り続けるタエ子。

「アベ君はね、家が貧乏らしくて、体育着も持ってなかった」
「アカじみてて、袖でズズッて鼻こすりあげたり、鼻くそグリンて指でほじくるの」
「それで、ちょっとイヤな顔すると、すぐ『何だよ、ぶっとばされんなよ!』ってスゴむの」

「女の子はみんな、ひそひそ、アベ君のウワサをするの」
「だけど私、その仲間にだけは入らなかった。こそこそ陰口言いあって嫌うのは、いちばん悪いことだって気がしてたから」

そして夏休み前、アベ君は、またまた転校することになった。先生は「みんなとひとりずつ握手してお別れしましょう」という提案をする。仕方なく、それに従う生徒たち。

「アベ君は、みんなの席を回って、握手して歩くんだけど、コチコチに緊張してた」
「最後に自分の席に戻って、私と握手して、終わるはずだった」
「私が手を差し出すと、アベ君が言ったの。『お前とは握手してやんねえよ』って」

運転席のトシオが、横目でタエ子を見た。トシオの左手が、一瞬“何か”をしようとして動いて、でも、結局何もせずにスバルのサイドブレーキを引いた。

「アベ君のこと、いっとう汚いって思ってたのは、あたしだったのよ」
「アベ君はね、そのこと知ってたの。だから、握手してくれなかったんだわ」
フーッと、トシオがひとつ息を吐く。
「私、子どもの頃からそんなだったの。ただ、いい子ぶってただけ。いまも、そう」

灰皿からシケモクを取り出したトシオは、シガーライターでそれに火をつけた。
「だったらバカですよ。そのアベ君は、実はタエ子さんが好きで、別れたくなかったから、握手しなかったのかもしれないじゃないですか」

「まさか。アベ君が好きだったのは、学級委員の小林さんよ。あたしには強がってばっかり。ズボンのポケットに手を突っこんで、ヨタッて歩いてみせるのよ」
「だって、ほかのみんなとは一人残らず握手したのよ。しなかったのは、私だけよ」

小学5年生の時の「アベ君」を巡るタエ子のトラウマは、本当は汚いと思って嫌っていたのに、級友たち(女子)にはそうでないフリをしていたこと( → 偽善)。しかし、当のアベ君には、それを見透かされていた。加えて、もうひとつ。アベ君にタエ子だけが差別され、級友の中でひとり握手してもらえなかった。その屈辱も絡んでいたようだ。

雨の中。スバルの車内で、傲然とトシオは言った。
「これだから困るなあ、女の子は! 男の子の気持、全然わからないんだから」
いつになく“上から目線”のトシオの物言いに、タエ子が口を尖らせる。
「何よ、知ったかぶりして!」

しかし、トシオは余裕たっぷり。そして、タエ子と映画の観客に向けて、あたかもミステリー・ドラマの最終章で探偵が事件を解明する時のような“謎解き”をして見せる。
「じゃあ、当てましょうか」
「アベ君は、そんなに(ケンカが)強くなかったでしょう。男の子にはスゴんだりできなかった。転校生だから、友だちもいない」
「タエ子さんは隣の席だったし、強がりを言ったりしやすかったんですよ」
「いじめることで、タエ子さんに甘えていたんです」

「第一(アベ君が)みんなと握手なんか、したいはずないですよ。(でも)タエ子さん(だけ)には本音が出せたんです。『お前とは握手してやんねえよ』って」

……時制が過去に戻って、タエ子・小学5年生。その視界の中に、アベ君とその父らしき二人連れが入って来た。この時のアベ君はよそ行きを着ているのか、いつもと違って身なりが整っていた。タエ子は本屋の前にいて、胸には雑誌「マーガレット」を抱えている。

しかし、せっかく身綺麗にしていたアベ君は、タエ子がそこにいることに気づくと、急にポケットに両手を突っ込み、肩を揺すって歩いて、ペッ!と唾を吐いた。すかさず、隣の父が息子の頭を殴る。「汚ねえことすんな!」

目の前を通り過ぎて行くアベ君父子の後ろ姿を見送ったタエ子は、急に姿勢を変えて背中を丸め、ペッ!と唾を吐いた。さらに、その姿勢のまま商店街を歩いて、そこかしこに唾を吐いていった。ペッ、ペッ、ペッ!

それは、タエ子なりの「贖罪」だったのだろう。少女タエ子は小学5年生の時点で、自身の「偽善」に気づいていた。(10歳って、実はそんなにコドモではない)

「私……。アベ君に悪くて後ろめたくて。必死に、アベ君の真似をしたの」
「でも、手遅れよね。そんなことしたって」
「アベ君をイヤがって苦しめたことは、取り返しがつかないもの」

停めていたスバルの車内から、トシオが空を見上げた。
「あー、雨やみましたよ」
ドアを開けて、外に出た二人。月は満月だった。

辛い記憶から話題を変えようとしているのだろう、トシオは「このへん、夜走ってると、タヌキやテンによく出くわすんですよ」と笑った。そして、ふたたびクルマに乗り込み、「そろそろ帰りましょうか」と、タエ子に言った。

トシオは「田舎の音楽、かけますか」と、車内に、例のハンガリーの民族音楽を流す。田舎の夜道を、二人を乗せたスバルが走っていく。

車内のタエ子。(ナレーション)
「私は、自分がトシオさんを、どう思っているのか。トシオさんは、私のことをどう思っているのか。初めて、考えようとしていた」
「偶然とはいえ、私のひねくれた心を、当のトシオさんに解きほぐしてもらうなんて」
「どうして、これほどトシオさんに甘えることができたのか、不思議だった」

「トシオさんが、私より年上に思えた」
「私がいま、握手してもらいたいのは、トシオさんだった」
そして、自分にだけ聞こえる声で、タエ子は呟く。(握手だけ?)

目を閉じたタエ子は、空想の世界へ飛んでいた。チロル風とでもいうのか、そんな牧場に囲まれた景色の中で、タエ子は馬車に乗っていた。荷台には干し草が満載で、その上にタエ子とトシオがいる。この時のタエ子は、これまで見せたことがない穏やかな笑顔をしていた。

ナレーション。
「この気持ちは、何なんだろう……」
「トシオさんを、そばに感じながら、私は一心に考え続けた」

(つづく)

○フォトは山形・高瀬地区の紅花畑。web「やまがたへの旅」より。

◆今回の名セリフ

* 「アベ君のこと、いっとう汚いって思ってたのは、あたしだったのよ」(タエ子)

* 「タエ子さん(だけ)には本音が出せたんです。『お前とは握手してやんねえよ』って」(トシオ)

* 「私がいま、握手してもらいたいのは、トシオさんだった」(タエ子)
Posted at 2016/09/13 12:44:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年09月12日 イイね!

映画『おもひでぽろぽろ』の「スバルR-2」が絶妙だ! 《11》

本家を飛び出して、夜の田舎道を歩きながら、タエ子は言っていた。「農家の嫁になる。思ってもみないことだった。そういう生き方が私にもあり得るのだというだけで、ふしぎな感動があった」

しかし、こうした「歓び」以上に、この時のタエ子には「羞恥」があったであろう。彼女は、とにかく(自分が)恥ずかしかった。だから、縁談話のその場にいることができずに、外へと走り出た。

(ナレーション)
「自分の浮わついた田舎好きや、真似ごとの農作業が、いっぺんに後ろめたいものになった」
「私には何の覚悟もできていない。それをみんなに見透かされていた」「いたたまれなかった」

この時の自分自身について、タエ子はこのように説明する。ただ、ここで彼女が言うように、「みんな」、つまり本家の人たちが彼女を「見透かしていた」かどうかはちょっと疑わしい。農家の嫁として農繁期の忙しさがわかってるの? 山形の冬の寒さに耐えられるの? あの時の彼らはタエ子に対して、たとえば、こんな問い詰めをしていたわけではなかった。

そもそも、ばっちゃんや本家のお母さんは、そんなに意地悪ではない。それにタエ子は、「嫁に参ります」とは言っていない。だから「何の覚悟」も(まだ)「できてない」のは当たり前であり、そしてタエ子は前にも見たように、相手が山形の農家であれ東京の会社員であれ、「結婚」を具体的にイメージしたことがない。

したがって、この時の彼女の「説明」(ナレーション)には、ちょっと「?」な部分があるのだが、ただ、タエ子が「縁談」「農家への嫁入り」というキーワードに触れた際に、自分自身についてはこういう解釈をした。ここでは、その点が重要なのだろう。

あるいは、以下のような見方は可能かもしれない。私(=タエ子)が山形に来て、農村はいいところ、農家の仕事は大好きです、というフリをしてしまった。だから、本家の人たちは、それなら「ここに、嫁に来なさいよ」と親切にも誘ってくれた。でも、実は自分にはそんな「覚悟」なんてない(正確には、想像したことがない)。私の軽率な行動が、みなさんに誤解を生じさせた。私は何ということをしてしまったのか……。

ただ、どちらであっても、突然の縁談話によって、タエ子の中に浮上した言葉はひとつであった。ナレーションには登場しない、つまり彼女自身はこの言葉を使ってないのだが、それは「偽善」である。

タエ子は自問していた。私は、自分に対して正直だったか。自分自身にウソをついてないか。さらには、私はいつだって「偽善者」で、今回もまた、こんなに良いところで、こんなに良い人たちに、またまた偽善的な行動をしていたのではないのか。

そして、この「偽善」という言葉が、タエ子が最も思い出したくないことのひとつ、ココロの奥底にずっと封印していたトラウマを掘り起こすことになる。それが雨の中に突如出現した小汚い少年と、彼の一言だった。「お前とは、握手してやんねえよ!」……

夜の路上で、タエ子が雨に濡れ始めた時に、折りよくヘッドライトを光らせて、トシオのスバルが走ってきた。
「どうしたんですか、こんなとこで」
「何でもないの、ちょっと歩きたくて」
「濡れちゃってるじゃないですか、とにかく、早く乗って」

スバルの助手席にタエ子を導き、さらに、お袋が作ったというお土産の入ったビニール袋を見せるトシオ。今夜はタエ子の最後の晩なので、本家にそれを届けに来たのか。

車内で、タエ子は、慌てて言った。
「あの、本家には行かないで」
「え、どうして?」
「お願い! どこでもいいから走って」

クルマの中でトシオと肩を並べたタエ子は、堰を切ったように、小学5年生の時の“おもひで”(トラウマ)を語り始める。

「私の友だちに、アベ君ていう男の子がいたの」
「転校してきたの。私の隣の席になったの」

(つづく)

◆今回の名セリフ

* 「お前とは、握手してやんねえよ!」(アベ君)
Posted at 2016/09/12 11:36:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年09月12日 イイね!

【 70's J-car selection 】vol.10 カリーナ1600GT

【 70's J-car selection 】vol.10 カリーナ1600GTカリーナ1600GT TA12(1971)

1960年代後半から1970年代、ハードウェアとしての日本のクルマはまだまだ発展途上で、また、それ故にマーケットもホットだった。DOHCエンジンとか「四独」(四輪独立懸架)といった新メカはニュースであると同時に、装着車ともども「新しさ」は常に歓迎された。その一方で、メカ的にはそんなに先鋭でなくても、コンベンショナルな方式を採りながら、その「まとまり」の良さや総合バランスで、好感とともにマーケットに受け入れられるモデルがあった。これもまた、当時もいまも変わらぬ図式である。

このカリーナも、「新メカ」よりも実質性能において「良し」とされた機種のひとつだった。とりわけ「足」については「四独」ではなかったが、そのステディなフットワークが高い評価を得た。まあ「足のいいヤツ」という巧みな広告コピーに、マーケットやカスタマーがリードされたという側面は多分にあったかもしれないが。

スタイリングは、流行の「四つ目」ヘッドランプというトレンドを採り入れつつ、どこかクラシカルな雰囲気もある“オトナ”のフィールでまとめられ、ひと味違うセダンとして、当時のちょっと「うるさ型」のカスタマーに好まれた。シャシー的には同時期のセリカと同じで、ただ日常車としては派手なクーペボディ(セリカ)ではなく、目立たぬセダンに乗りたいという層にも、このクルマは浸透した。

ただ、そうはいっても爆発的に売れたクルマというわけではなく、そしてテールランプは「縦型」で、今日にまで至るトヨタのジンクス、「縦型ランプのクルマは売れない」というデータの確認に、このカリーナもやっぱり“貢献”することになったようだ。

基準車の登場(1970)から一年後にGTが追加され、セリカGT系と同じ1600ccのツインカムエンジンを搭載。足のフィールだけでなく、動力性能的にも十分以上のものがあるグレードとして、改めて注目と評価を受けた。

(ホリデーオートBG 2000年3月より加筆修整)(フォトは基準車)
Posted at 2016/09/12 10:37:59 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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