
一ヶ月たってしまいましたが^^; 旅の続きです。
今日は一日で被災地を走破しようと計画し、朝7時位に友部のSAを離れました。
途中の塩竈神社はどうしようかなあ・・・。
常磐道を北上し、まずは福島の帰宅困難区域へ。
事前に情報を集めておいた国道6号。
今は通過はできるけど、窓を開けることと立ち止まることを許されない場所。
だから撮影は走りながら窓越し。
いい写真が撮れるとは思わなかったけれど予想外にブレブレ(;´・ω・)。
テレビでよく見かけるファッションセンターしまむらの建物は本当にあのまま。

津波の被害をそのまま残し、修復することも立ち入ることもできないので建物は傷む一方。もちろん暴走族みたいなのも走らないから落書きはない。
そのほかの一般住宅も屋根が壊れたままとか、ブルーシートがかぶっていたりと、時間が止まってました。
もちろん人は歩いてないし、民家の入り口には泥棒除けの鉄格子(テレビでもよく見るやつ)。店だって看板ありながら廃墟同然。カラーで見る景色なのに心の中ではモノクロに見えるの、ほんとに。
こんなに悲しいドライブなんて初めてだね、さっちゃん。
心の中で大号泣しながら、帰宅困難区域を通過し終え、南相馬の道の駅へ着くとやっと呼吸できた気がしたなあ・・・?っ。
道の駅には写真がたくさん貼られていて、忘れたくない思い、伝えたい思いを感じました。
相馬は野馬追の町。訪れたいと思っていたけれど、こんな形で訪問するとはちょっと悲しいなあ。国道を走っているときに勤務している会社の相馬事務所を発見したけれど、こんな気持ちで訪問したくなかったのでパス。
ふたたび常磐道へもどり、次は仙台市若林区荒浜へ。
震災当日のニュースでたくさん人が倒れていると報道していたのをかすかに私は覚えてます。まっつん隊長によると、ここは逃げる間もなく津波に襲われ、その津波は常磐道で止まったんだとか。
常磐道から北上しながら景色を確認。右と左とでは建物の新しさが違うよ。
インターを降りて大通りを通過し、その後荒浜地区へ。
ん?
おかしいぞ、この景色。

道沿いに新し目の家が並んでいたのだけど、ある交差点より海側は草だけ。
はじめは不思議な景色だと思いながら車を進めると曲がったガードレール発見。
つまり、かつて家があった場所を私は見ている・・・
空き地に車を止めて廃墟となった学校を眺めました。
「こんなことって・・・(絶句)」
さらに海側へ行くと慰霊碑と仏像。
私のいる道の両側には家の基礎。そして360度何もない。色は茶色と緑だけ。
やたらと虫の羽音とヒバリのさえずる声だけが聞こえる・・・。
仏像は陸側にお顔を向け、慈愛の笑みをたたえてこちらを見てました。祈らずにはいられません。

カメラをかまえる私は「いったい何しにここに来たんだろう?」と考え込んでしまいました。この空虚感はこの景色を見た人にしか分からない。
そして「この世にあるものは全て必然」という結論に至り、私は亡くなった人のためにも仕事を頑張らなければと思いなおしました。ここに私がいるのは必然だから。
もと来た道を戻り、今度は下道で松島方面へ。
途中道を間違えて150m手前を曲がってしまった先には塩竈神社の看板。
あれ?
やっぱり塩ジイに呼ばれたか・・・(;・∀・)。看板だけ見て通過のはずがしっかり御朱印ゲット。駐車場の隣はインプ(*´ω`*)モキュ。
松島の町だけは観光地の雰囲気をすっかり取戻し、大渋滞。そんな賑やかな場所でも津波が来たという証拠はしっかり残ってるんだよ。
観光地にこの看板って不思議な光景でしょ?
お目当ての松島基地(旧住所表示:桃生郡矢本町矢本)には近づけなかったので飾り物のT-2を撮影してシューリョー(´・ω・`)。

それにしても斜めな電柱が多いなあ。
やっとたどりついた女川。
隊長の話だと、今私がいる町立病院の一階まで波に浸かったんだっけな。そう思って崖の下を見ると10m以上の高低差はあるぞ。
現在の女川は造成がかなり進んでいてもとの地形は分からず。

メモリアルとして残す建物にも近づけなかったけど、このビルが浮力で浮いちゃったなんてすごいなあ。ビルの方向を見ると引き波の方向が想像できるかな。
新女川駅にはすでに新しい線路が敷かれてました。希望の線路。

この中には物産販売所と日帰り温泉。

かなーり温泉に入りたかったのだけれど、今お湯に入ると時間的にも体力的にも今夜中に常磐道に乗れる気がしなかったので断念。

そして現在の女川駅にはたどり着けず。
港の向こうに見えた牡鹿半島は、顔見知りのパイロットが20代半ばで亡くなった辛い思い出の場所。よ~く見ちゃった。
疲れを感じながら再び友部SAまで戻って一夜を明かすことに。
こんな日の夜はさすがに一人だと寂しいよね。つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
私、よく頑張ったよ。
あとはガソリンと高速料金の支払いを頑張らなければ。
被災地を写真に撮ることに賛否両論あるだろうし、私だって悲しい土地を撮影することは非国民なみに非難されることを想像しました。
伝えなければならない真実もあるし、家や楽しかった思い出の地を失った人々の思いはどれほどか、そして何より「安全な場所に家を建ててもらいたい」という仕事への思いから撮影をさせていただきました。
話はそれますが、昨年2014年の広島安佐南区豪雨災害に対する疑問が私の中にあり、家を販売するメーカーや不動産屋の責任について深く考えなければならないという思いが芽生えたのもその災害です。
こんなふうに自分で被災地を見に行くのが物好きだと思われたとしても、私の考えは変わりません。
<後日談>
職場には地震→津波を想定した避難訓練を毎年2回実施。
5月下旬に訓練があり、ビルの屋上へ避難。
南側には太平洋のきれいな景色、その南側には陸地が広がっている。
これって荒浜と同じ。
近くにいた同僚は旦那さんが東北出身者で実家が津波の被害に遭ったのだけど、二人で「津波が来たら何もなくなるね。津波が止まるのはJRの線路だね」という会話。
あまりの景色の良さに携帯で写メを撮ってるノーテンキな人もいたけれど(仕事中ですよ!!)、実際に見た人でないと分からないだろうなあ。