
大洗海楽フェスタに行く前日の土曜日、東京で開催中の美術展4展を梯子で観てましたが、1日で4展も観て回ると正直言って物凄く疲れますが巨匠達の素晴らしい名画の数々は、その疲れを忘れさせる程に見惚れました。
回った4展は、次の通りです。レオナルド・ダ・ヴィンチ天才の挑戦展、ボッティチェッリ展、カラヴァッジョ展、フェルメールとレンブラント展の4展で、最初にボッティチェリ展からの説明に入ります。
サンドロ・ボッティチェッリ、初期のイタリアルネサンスいやフィレンツェルネサンスの礎を造り上げた巨匠です。皆さま方も1度は目にした名画『ヴィーナスの誕生』を描いた巨匠です。今回開催中のボッティチェッリ展は初期フィレンツェルネサンスを牽引した。ボッティチェッリとその師匠、フィリッポ・リッピとその息子にしてボッティチェッリに師事し後にライバルとなる。フィリッピーノ・リッピこの3人の作品が多数展示されており、特にボッティチェッリの初期の作品『ラーマ家の東方三博士の礼拝』は見応え充分です。ボッティチェッリの作画スタイルはテンペラ画と呼ばれる物です。テンペラ画、キャンバス変りの板に鉛板から作った鉛白にニカワもしくは卵白を混ぜ合わせた白色を板に塗って下地を作ってから絵を描きますが、この時に下地に塗った白色を計算に入れて絵を描かないと下地の白が目立つ過ぎる為に塗った絵の具が目立たなくなる可能性が有りますので、下地の白と上から塗る絵の具のバランスを絶妙な迄に使い分けたのがボッティチェッリです。そしてボッティチェッリを語る上で欠かせないのはメディチ家との関係とメディチ家を一時的でもフィレンツェから追放し神権政治を行った修道士ジロラモ・サヴォナローラの2つが挙げられます。
メディチ家の繁栄と共にボッティチェッリの名声が上がります。最初に書いた『ラーマ家の東方三博士の礼拝』はラーマ家からの依頼で描かれました。当時のラーマ家はメディチ家に付くか、反メディチ家の立場を採るかの判断に迫られていました。結果ラーマ家はメディチ家に付くという事を選択しますが、その際にメディチ家に付くという明確なメッセージとしてメディチ家の重要人物が描かれた絵をボッティチェッリに依頼します。当時のボッティチェッリは独立して自分の工房を持っていましたが、ボッティチェッリの工房は開店休業状態で食べる為に父親が営んでいた皮工房の手伝いをしていたそうです。そんな状況のボッティチェッリに依頼したのはメディチ家から多大な支援と制作依頼を受けていたフィリッポ・リッピの弟子という事と細々ですがメディチ家からの依頼も多少なりとも有った事がボッティチェッリへの依頼理由だった模様です。依頼を受けたボッティチェッリは、ラーマ家が望んだ様なメディチ家に付くというメッセージを込められたプロパンガンダの要素を含んだ初期の傑作『ラーマ家の東方三博士の礼拝』が完成しメディチ家の重要人物、祖父、父親、息子等が東方三博士の様に産まれたはがりのキリストの周囲を囲いキリストを敬う絵に仕上がり結果、メディチ家のフィレンツェによる立場はより磐石に成り、これを皮切りにボッティチェッリの元に依頼が殺到し冒頭で紹介した『ヴィーナスの誕生』、『プリマヴェラ』等の世界的な名画を描き。更にシスティーナ礼拝堂の壁画も手掛けこの当時がボッティチェッリの最高潮でしたが次に紹介する人物がボッティチェッリの画風に大きな影響を与えます。
それが、修道士ジロラモ・サヴォナローラです。当時のフィレンツェで絶大なる権勢を思いのままにし独裁的な統治をしていたメディチ家の汚職と腐敗を批判し弾劾した結果、同じ思いを寄せていた。フィレンツェ市民からの絶大な支持を集めたジロラモ・サヴォナローラがメディチ家を追放し汚職と腐敗を一掃し強いリーダーシップの元で神権政治を行いボッティチェッリも、サヴォナローラの神権政治に触発され今まで描いていた画風、絢爛豪華な華美な画風を捨て、質素倹約、質実剛健な地味な画風に変化し更に今まで描いていた華美な絵も自らが破り捨てました。結果、晩年のボッティチェッリの絵は古臭くて地味な絵と一蹴され、更に新たな新勢力ミケランジェロ、ラファエロ、ダ・ヴィンチ等が台頭してくるとボッティチェッリの名は人々から忘れられましたが、19世紀末~20世紀にかけてボッティチェッリはルネサンス期の巨匠の1人として再評価される様に成りました。
そして、次に紹介するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ天才の挑戦展です。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、芸術に詳しくない人でも名前は聞いたことがある。ルネサンス期を代表する巨匠であると同時に万能の天才として名を馳せ、誰もが知っている代表作『モナリザ』、『最後の晩餐』を描きましたが、それ以上に描いていたのは聖母子の絵を多数手掛けています。実際、ダ・ヴィンチの現存する絵の半分は聖母子の絵というのは、意外と知られている様で知られていません。
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチ天才の挑戦展にはダ・ヴィンチが描いた最高傑作の聖母子画『聖アンナと聖母子』を描く前に手掛けた『糸巻きの聖母』が出展されており、構図、表情、筆のタッチ等など流石レオナルド・ダ・ヴィンチと観る物を黙らせる。迫力、いや魂を感じてしまい、そして『糸巻きの聖母』の後に『モナリザ』の制作を始めますので、それらの事を考えて観ると『糸巻きの聖母』も『モナリザ』を描く為の矛盾する言い方かも知れませんが習作だった可能性も有りますが、『糸巻きの聖母』は名画の1つと言っても過言では有りません。
そして、カラヴァッジョ展とフェルメールとレンブラント展の説明に移りますが、カラヴァッジョとフェルメールに関してはメカについてのss アフターパーツプレミアムパーティその4で触れていますので、そちらをご覧になってください。と言いたいですが、敢えて書くなら次の事を書かせてもらいます。
カラヴァッジョ、ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョが明暗方の使い方を具現化し確立しなければ、レンブラント、ルーベンス、ベラスケス、ラ・トゥール、そしてフェルメール等が存在しなかったかも知れません。それ程迄にカラヴァッジョが後世の画家に与えた影響力というのは絶大な物が有ります。カラヴァッジョ展の謳い文句『ルネサンスを越えた男』は嘘偽り有りません。
尚、今開催中のカラヴァッジョ展で世界初のカラヴァッジョの絵が公開されています。その絵はカラヴァッジョが様々な諸事情によりローマに戻る際に有力貴族に贈る為に描き、カラヴァッジョが病に倒れた後、行方不明になっていた絵が2014年に発見され。鑑定の結果カラヴァッジョの真作と鑑定された『法悦のマグダラのマリア』は光と闇、特に闇が絶妙な迄に表現されており、闇の部分はより深く表現されて、光の部分は光が照らされているにも関わらず、暗く観えてしまうのに変な言い方ですが闇の中で光が生きているとしか言い様がない表現力で描かれていますので、息を呑み、食い入る様に見入ってしまいました。カラヴァッジョ展、絶対に観て損は無いです。
因みに、バロックの意味はラテン語で歪んだ真珠もしくは宝石という意味が有り。絵画に於けるバロックの意味は宗教画の1種だと考えて下されば理解しやすいと思います。例を挙げるなら十字架を背負いゴルゴダの丘に向かうキリストの絵や、列聖に奉じられた聖人が起こしたとされる奇跡を描いた絵等がバロック絵画です。物凄く乱暴な説明ですが、宗教画の1種だと思っていただければ判りやすい筈です。
最後にフェルメール、ヨハネス・フェルメールは自分が一番好きな画家でフェルメールの生涯を知ると未々不明な点が多すぎます。
フェルメールは誰に師事して絵を学んだのか?それとも独学で学んだのか?これに関しては未だに不明ですが、少なくとも当時からフェルメールの絵の腕前は相当な腕があったのは間違いないようです。実際、画家の組合である。聖ルカ組合に入っています。聖ルカ組合はそれ相応の腕前がないと入れなかった組合で、そこでフェルメールは当時としては最年少で理事を務め、暫くしてから理事長も務めています。
他にも、カメラ・オブスキュラをどんな発想で絵に採り入れたのかも判明していません。
更にフェルメールは、当時大変貴重なラピスラズリをふんだんに使い青色を表現しましたが、どうして値が張るラピスラズリに拘ったのか?これも判明していません。実際、フェルメールの死後多額な借金が残された家族に残り、借金が返済できずにフェルメールの死後半年も経たずに破産宣告を受けており、その際フェルメールが手元に残した絵画の多数は代金の代わりに差し押さえられました。例を挙げるなら、デルフトでパン屋を経営していたヘイデン氏に未払いのパンの代金として絵画を数点パンの代金として差し押さえられています。
他にも色々と有りますが、フェルメールとレンブラント展で展示されている『水差しを持つ女』は、フェルメールが自分の画風、スタイルを確立しつつ時期に描かれている名画でこの後に『真珠の耳飾りの少女』、『絵画芸術』、『真珠の首飾りの女』そして1990年にアメリカ、ガードナー美術展から盗難され未だに行方知れずの『合奏』等の傑作を描いています。それらの切っ掛けになった『水差しを持つ女』は本当に観て損は有りません。東京では今月の31日までの開催でこの後は福島に行きますので、東北地方でフェルメールが好きな人、もしくは芸術に興味のある人、そして自分の拙いブログを見て興味を持った方はフェルメールとレンブラント展をご覧になってください。
Posted at 2016/03/29 23:29:14 | |
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