今回はいつものように旅の話ではなく、
ちょっと個人的な話をします。
3月から4月にかけての2か月間、
私の身の上にちょっと重大なことがありました。
なにがあったか、今回包み隠さず
お話ししたいと思います。
じつは、会社辞めたんです。
【1】 会社辞めました。
私は12年間旋盤工として働いた会社を、3月20日付けで退職しました。
これだけでおそらく皆様は、私の年齢を思い出そうとされたにちがいありません。
と同時に、私の向こう見ずな決断に対し、
(馬鹿なことを)
と、画面のむこうのことながら嘲笑されたことでしょう。
私もまったくその通りだと思います。
自分でも何度も自問自答しました。
ですが、一個の男が会社を辞める理由など、社会経験に長じた皆様にはおそらく察しがつくかもしれません。それほど全国共通、ある意味普遍的な内容であり、その一方で私の個人的な感情と判断が入り混じったある意味個別の事件なのです。
その事件とやらを、今回つぶさにかいてみたいと思います。
私の身になにがおこったか、私が何を考えどう行動したかを詳細につづっていきたいと思います。
ただ単に「会社やめました。おわり」だとみなさまの興がそがれて「つまらない」と言われそうですし、なにより私自身が今回のことを記録として文章でのこしておきたいのです。
和歌山には大きな製鉄所があります。

(※写真はすべて拙撮です。画像の転載はいっさいありません)
私がいた会社は、その関連会社です。本社は30人くらいの人数で、製鉄所構内の保守・修繕を行ってます。これが本隊だとすると、その部品の供給、金属部品の精密機械加工の工場が別にあり、そこが私の職場でした。工場はわたしを含め3人という小所帯であり、まさに小隊でした。以前はもうすこしいましたが、私がいた12年間で新卒や中途をふくめ4人がはいっては辞めています。そういう会社なんです。今回私もそのやめるひとりになるということです。
辞めた理由は大きくふたつです。
まず第一に、仕事が大幅に減ったこと。
製鉄所が合併・再編したのち予算がカットされ、仕事が減ったというのがまずありますが、それよりも大事なことは、そういった逆境にたいし、会社の「上に立つひと」が何も策を講じなかった、という点にあります。そうです、理由の第二は、
会社にたいする不満なのです。
職場には、私より一回り年齢が上のベテラン技術者がいました。わたしの仕事の師にあたるひとです。もう一人、工場長がいました。50代の小太りなひとです。このひとの嫁が社長のむすめであり、要するに社長の娘婿です。ただその社長も高齢により勇退し、その息子が2代目社長に就任してます。つまり現社長の姉が工場長の嫁であり、ようするに、親族経営なのです。
高齢な元社長は、初代社長といっても創業者でなく、ただのみかん農家です。本当にみかん農家です。これには理由がありますが、ここでは話柄がそれるので書きません。息子の現社長は若いうちから同会社でふつうに働いていましたが、社長になってからは「社長業」としてはその資質にかけていたようです。本来なら本社に常駐し、本隊を指揮する立場のはずでしたが本社には別に有能な「所長」が社のすべてを仕切っており、社長は居場所がなくなってわたしのいる工場になぜか「出勤」してました。姻戚がいるから気が落ち着くのでしょう。ただ基本的に「何もしない」ので、毎日8時すぎに出勤しては喫煙をし、昼にカップ麺をたべ定時にかえります。

私にとってそれが問題なのではなく、社長の姻戚関係にある工場長でした。
わるいひとではないのですが、無能でした。
愚痴になるので多くは書きませんが、入社したときからこの人は、
(工場長としての自覚はあるのか)
と疑問視してましたし、それが最終的には、
(このひと、会社潰したいんじゃないか?)
と思うようになってきました。
父に相談すると、どうやら本当にそうらしく、ほんとうに工場長は工場を畳みたいらしく、それをきいたときはわたしは慄然としました。なぜここで実父が登場するのかは後でのべます。そしてなぜ工場長が工場を畳みたいのかは、話が煩瑣になるのでさけます。
とにかく、工場長が無能だと、シワ寄せがくるのは下っ端の私です。(一緒にはたらいていたベテラン技術者も火の粉をかぶるどころか、煮え湯をのまされることが度々あったので、そのことについて師は工場長に対しかなり不満はあったようです)
工場長がなにか業務において失態を演じても、社長は身内をかばいます。責任の所在をうやむやにしてしまいます。ときにはそれが、矛先が私に向かう場合があります。社長もけっして悪い人間じゃないのですが、
「そこはRico君がうまく立ち回って仕事してくれないと」
と、なるわけです。むろん私にとってはたまったもんじゃありません。
彼らには愛想が尽き果てる思いでしたし、なによりこんな親族経営ではこの工場もいつかは立ち行かなくなっていくことでしょう。50代で転職するのはむずかしい。辞めるなら40代の今のうちではないのか。一年前から私は会社を辞めたいと思うようになってきました。
ちょうど去年のGWに愛媛・松山を旅したとき、現地の親しいみん友さんに会って話したとき、
「会社を辞めたい」
と、つい漏らしたのはこのころです。みん友さんに酒の席で漏らすほど、私は追い込まれていました。
私はなにも悪くない。辞める必要などどこにもない。でも辞めなければならない。
そして今年3月、勤続満12年を節目に私は退職しました。
もちろん私に妻子がいて、まもるべき家庭があればこんな決断はできなかったかもしれません。
ですが、幸か不幸か私は独り身。じぶん独りくらいなんとか食っていけるでしょう。
47歳にして私は無職になりました。

【2】 引っ越ししました。
アパートから実家に引っ越しました。
もともとアパートの部屋は、会社に近いから借りていたのでその会社を退職すればいる必要はありません。
したがって、みんカラのプロフィールも、
和歌山市 → 有田郡有田川町
に変更しました。
実家と言っても、父が母の療養に建てた新築で、母の没後わたしもそこに住む予定でしたが、なにぶん高速道路で通勤せねばならず、私は父とはなれてアパート暮らしをしていました。
つまり有田川町はわたしにとって新天地であり、その新天地での職探しとなります。
新しいことづくめ、というほどではないですが、道をおぼえることからはじめたのは新鮮でした。
有田川町は、かつて金屋・吉備という古い地名が合併した新しい町です。高速のインターが設置されると町の開発が爆発的にすすみ、かつて一面のみかん畑だった土地に大型量販店が立ち並び、人口も増加しました。
(※近所の風景。南から北をのぞむ。奥の白い大きな建物は、いまの騒動ですっかり全国に知れ渡ったあの病院、済生会有田病院である。)
このことを、私はブログでむかしにチラッと書いたことがありますが、みなさんお忘れで当然ですが3年前にSLのD51が動態保存されてて走ってるのを撮ったときです。有田川町について書いたのは、じつは実家があったからなのです。
(※近所のみかん畑から今度は東から西をのぞむ。ひだり奥はもう、海である)
(↓その海を大橋から。3枚とも本日撮影)

実家で父と二人暮らし、ですがじつはふたりでありません。もうひとりいます。
じつは父に内縁の妻がいて、3人で暮らしています。
内縁の妻といっても、70歳です。いまドラマっぽい妄想を膨らませた方は、すみやかにその妄想を中止してください。正直、私と父とでは家事などままならず、生活に窮してたでしょう。まあ、本来なら私が結婚しててしかるべきなのでしょうが。
そのひとと、父はふたりで家の敷地内に別棟をたて、カラオケ喫茶を経営してます。看板もないような店で、一見さんおことわりで常連だけのお店です。父は大阪ナンバでコーヒーの淹れ方を修行したきたそうで、店のメニューは本格焙煎コーヒーだけでもてなすみたいです。

店には最新式の「DAM」が設置され、売り上げのほとんどは「第一興商」に持っていかれるのでぜんぜん儲からず、収支はトントンだそうです。まあ、世すぎで店をやってるので、父の生きがいみたいなもんです。
【3】 地獄の求職活動
引っ越し後、私は近所のハローワークに行きました。
失業保険の給付と求職の手続きをするためです。
ハローワークは湯浅にあります。最近醬油ですっかり有名になった湯浅です。
車ですぐそこで、車で行くほどの距離ではないのですがアシが車しかないので車で行きます。
それにしても、無職がアルファロメオでハローワークに行っていいものでしょうか。
(バイクがいるな)
私はひそかに、アルファロメオを降りることを考えるようになりました。
みんカラもやめなければなりません。
私がみんカラに属しているアイデンティティは、アルファロメオに乗ってることだと私は思っています。
片方だけというのは、成立しません。
ハローワークの2階で給付の手続きをします。
書類の束をわたされ説明をうけますが、職員が何を言ってるのかさっぱり理解できません。
私の頭が悪いのでしょうか。
離職後7日間の待機期間という意味不明な設定プラス、3か月間の給付制限。
私が知りたいのはいつお金がもらえるかであり、しかし職員はいっさいお金の話はしてくません。
そもそも自己都合退職と懲戒免職がおなじ扱いというのも納得がいきません。
だいたい7日と3か月後も無職とは、考えただけでもぞっとします。
この国の「公共の福祉」というのは、どうしようもない人間にしか享受されず、これからがんばろうとするひとにはなにもしてくれません。
わたしもべつに、いますぐお金に困っているわけではありません。
ただ、いままで給料からしこたま失業保険料を天引きされ、いざ給付を受ける立場になったら1円もでない。
私は国から、「失業したんか。まあこれでエエもんでも食って、がんばりや」といってほしいだけなのです。
「7日と3か月後も無職やったら金やるわ。まあそんときはおまえの人生、終了やけどな」というのではあんまりです。
(なんだ。結局1円ももらえないのか)
わたしは職員の冗長な説明をききながら、呆然となりました。
みんカラのみなさまのなかで、ハローワークに通った経験のある方はおられるでしょうか。
経験のあるかたはご存知でしょうが、ハローワークは一回だけ行くものではありません。通うものです。
私は人生でこれで2度目です。なんの自慢にもなりません。
スーパーの文房具売り場で履歴書を買いました。
この年になってこんなものを書かなきゃならんのかと思うと、見栄も体裁もプライドもなにもかも1枚づつ剥がされて、むきだしになった精神をカンナで削りとられていく気分です。
無職はやばいです。
ドロップアウト人生はこたえます。
近所の犬がワンワン吠えるたび、「おまえは無職だ。人間のクズだ」と言われてる気がして、心身がもちそうにありません。
ちょっとまえのニュースで会社のパワハラで自殺したひとがいたでしょう。世間では、「自殺するまえにどうして会社を辞めない?」っていうんですよね。そういう人って、それこそハローワークに通ったことのない幸せな人生を送ってるひとだと思います。私にはわかるんです。気持ちが。会社やめたら、社会人じゃなくなるんです。会社やめるイコール社会人としての死なんです。この国では。

季節はめぐり、春になりました。
花の季節です。私の精神状態に関係なく、花は咲きます。
ですが、花をめでてる気分じゃありありません。
どちらかというと、枝ぶりに目が行きます。
そんなとき、私の身にとんでもないことがおきます。
ひとを好きになったんです。
【4】 ひとを好きになった話
眼鏡を買いにいきました。
恥ずかしながら、老眼鏡です。
近所にある、全国チェーンの眼鏡屋さんにいきました。
サングラス以外のメガネを買ったことがないので、全国チェーンなら安心だろうと思ったんです。
店内に入ると、女性店員がみかん農家のオッチャンの接客をしています。
やがて終わったらしく、女性店員が、(どんなメガネがご入り用ですか?)みたいな感じできました。
そのひとをみて、わたしは
(おや)
と思いました。
全体的な雰囲気がすきなような感じがする。
そのあと、彼女と視力をはかる装置などで相対しました。映画「ブレードランナー」のあのシーンみたいな装置です。わかる人だけわかってもらえばいいです。
その間、ずっと彼女のことを観察してました。
やはりこのひとはオレの好きなタイプだ。
まず顔立ちが好みだ。マスクで顔半分わかんないけど。
なによりメガネがいい。わたしはメガネスキーなので、メガネかけてると魅力が2倍増しになる。2割じゃない。2倍である。
髪型も好きだ。吉岡里帆みたいな、あるいは河合奈保子が「スマイル・フォー・ミー」を歌ってたころの髪型に似ている。
そしてになにより、高すぎない声が好きだ。

気が付けば、2万円のメガネを予約してました。いえ、はじめからそのつもりだったんです。既製品ではなく、視力をはかってちゃんとしたものを買うつもりだったんです。彼女の色香に迷ったわけじゃありません。
一週間後に来店する約束をして、店をでました。そしてすぐ近くのスーパーにいきました。家人からお使いを頼まれ、鶏肉を買うためです。
駐車場に車を停め、エンジンを切り、半時間ほど考え込みました。
どうやらおれはあのひとが好きらしい。
女(ひと)を好きになるって、何年ぶりだろう。
むかしタイ・チェンマイで二泊三日のトレッキングに参加したとき、同行した日本人男女8人のパーティーのなかのひとり、鶴田真由似の女性を好きになり、告白してフラれたとき以来だ。
あれが25歳のときだから、22年ぶりです。
もう長いこと、ひとを好きになるってなかった。
そもそもひとを好きになり方すら忘れていた。
久しぶりです。ああ、このひとだ。このひとなんだ!って真に思えるひとにとうとう出会えたような気がします。
ですが、彼女はそもそも既婚者かもしれません。
むろんその点ぬかりはないつもりです。視力をはかってもらいながら、彼女のそのすこし荒れた手を視界にひろい、結婚指輪のなしを確認していたのです。もちろん、結婚していながら指輪をはめていない可能性もあります。ですが、彼女には所帯じみた雰囲気がみじんも感じられなかったんです。こればかりはわかりませんが、もしかしたらと思いました。
私はどうしたいか。やはり告白したい。思いを告げなければならない。
恥もなにもありません。ふられたら、ブログに書けばいい。ブログのために告白するんじゃないです。そうして「逃げ場」をつくっとかないと、精神が崩壊しそうでたまらないんです。
私は確認せねばなりません。自分の気持ちを確認するのです。
ですが今度店にいくのは一週間後。私はあたまをこねくりまわし、理由をこじつけ店に行きました。店にいくまえに鶏肉は買いました。駐車場に車をとめ、店のガラス越しに彼女はいて、(おや?)ともせずふつうの表情でわたしをむかえました。自動ドアがあいて彼女をまえにしたとき、その華奢で抱きしめれば折れそうなくらいの細身のからだをまえにしたとき、
(ああ、おれはやはりこのひとが好きだ)
と思いました。

翌日、べつの用件で眼鏡屋のまえをとおりました。
一週間後の告白にそなえ、わたしは彼女がその日に出勤するかどうか、彼女のシフトを想定しなければなりません。でもこれって、
(おれはストーカーでは?)
と思うようになりました。
でも、恋愛ってストーカーじゃないでしょうか。
映画「耳をすませば」の聖司君だって立派なストーカーです。
なにもしなければ、なにもできないんです。
それとも、いますぐ彼女に告白すべきでしょうか。
一週間を待たずに?段取りもなにも考えずに?
そんな無茶な勇気など持ち合わせてません。
彼女が勤める眼鏡屋は家から直線距離でわずか500m。
すぐそこ。ほんとうにすぐそこなのに、
彼女との距離は月よりも遠い。
一週間後、雨の中を車をとめ、店に入りました。
彼女の姿はなく、べつの女性店員がいました。
「どんなご用件で?」みたいにいわれたので、私は気もそぞろに、
「眼鏡を受け取りに」とこたえたあと、
(しまった)
と後悔しました。眼鏡を受け取ってしまえば終わりだ。
ところがさいわいにも、その店員はきこえなかったらしく、
「すみません、メガネをお探しですか?」
といわれたので、
そうだ、リセットすればいい。なにもバカ正直に言う必要はない。だれもおれが今日来た理由などしらないのだ。リセットすればいい。
そうおもうとにわかに思考がよみがえり、「すみません、また来ます」と踵を返し、店をでた。
さぞかし変な客だと思われただろう。
さらに一週間後、ふたたび眼鏡屋を訪れました。
ちなみにこの日が4月8日。最初の来店日が3月25日となります。
店内に入ると、ちょうど彼女のすがたが見えましたが、ふいっとカウンターの奥に引っ込んでしまいました。
(そんな)
殺生な。ここまできて、それは困る。べつの女性店員が用件をきいてきます。私はよれよれと椅子に腰かけながら、それでも頭を働かせ、
「このひとはおられますか」
と、最初の来店時に彼女がくれた名刺をさしだしました。
すると、その名刺をうやうやしく受け取ると、店員は奥に引っ込みました。
(よかった)
指名制とかアリなんだ。わたしは生き返る気持ちでした。

やがて彼女は私のメガネを手にしてあらわれました。私のことをおぼえているのか、あるいは思い出そうとしてるのか、その表情からはうかがい知ることができません。
そのあと眼鏡について説明をうけましたが、さっぱりきいてませんでした。
その間、私は一計を案じました。
店内で彼女に思いを告げることは、人目もあることだし、さけたい。ていうか、できない。
なんとか彼女を店外に連れ出したい。
そこで、私はかぶっていた帽子をとなりの席のおくに押し込みました。退店後、聡明な彼女は忘れものに気づき、駐車場まで追いかけてくれることをねがいました。
説明が終わると、彼女は眼鏡をケースにいれ、さらに洋菓子屋がショートケーキでもいれそうな小さな紙袋にていねいにしまい、
「店のそとまでお持ちしますね」
とカウンターを立ちました。どうやらわたしの小細工は必要なかったようです。
店のそとにでました。晴れ渡った青空の下、紙袋を受け取ったあと私は通常のあいさつのかわりに大きなため息をつき、
「あのですね」
とはにかみながら、緊張したときのくせで頭に手をやりました。ここで店員と客、という関係性をすこし崩さねば、このあとが言えそうになかったからです。あるいは、いまから重大なことを云おうとしている自分におかしみを感じたせいかもしれません。
「いきなりとつぜんで、びっくりさせたらわるいんですけど」
わたしは一言ひとこと区切るようにしてそういい、
「プライベートで会ってもらえませんか」
するとさすがに驚いたようすで、彼女の瞳がわずかに揺れました。でもすぐに、
「あの、わたし、結婚してるんです」
(あっ)
やはりそうか。
「指輪してなかったので、てっきり」
ようやくそれだけを言いましたが、心が折れ崩れるのをけんめいにかばいながら、
「あなたの旦那さんはしあわせな人ですね」
「いえ、そんな」
彼女は目を伏せました。その顔を見ずに、わたしは最後のあいさつをして車にのりこみました。
キーをひねると、間髪いれずに走りだしました。
こんなとき、彼女に店員として見送られるのはいやだなと思い、左右の確認のさい店を見ましたが、彼女は私の気を察したのか、そこにはもういなかったように思います。
終わった。やはり神様なんていやしない。いるのは悪魔だけだ。私のなかでうごめくのは、ダニのように巣くう無数の悪魔だけだ。そしてそっと、耳元でささやくのだ。
『おまえはそうやって一生、地べたを這いずりながら、だれも愛し、愛されずに孤独にひとりで生きてろ』
そう、言われた気がした。
【5】 私の職業経歴書
私には、12年間の旋盤工のまえに、スーパーの精肉で11年間はたらいていたという異色の経歴があります。異業種で職種もちがう二つの経歴の持ち主です。
この異常といってもいい経歴には理由がありまして、もともと東京のスーパーではたらいてました。スライサーと包丁で毎日お肉切ってました。そのなかで転職の経験もあり、自分ではそれなりに腕におぼえがありましたが、ある日父から、
「和歌山にもどってこい」
といわれたので、せっかく身に着けた技術で惜しかったですが、捨てることにしました。虫のしらせもあったのかもしれません。和歌山にもどった2年後に母が病を得、さらに翌年に鬼籍にはいりました。わたしは母を看取るために仕事をやめ、和歌山にもどったようなものです。
転職先へは父のコネで入りました。
父は製鉄所の人でした。定年後、関連会社に民間だから天下りじゃないですが、顧問みたいなかたちで入り製鉄所と関連会社とのパイプ役をつとめました。

その会社にわたしは転職しました。父と同じ会社に勤めるわけですが、本社と工場がべつだったので、さいわい顔を合わせずにすみました。ただ、入社後の安全教育でほか大勢と教室みたいなところで講習をうけたとき、壇上にたったのが父で、(ああ、こういうことってあるんだ)と思いました。むかしみたTBSのドラマ、「ママはアイドル!」で三田村邦彦が父で担任で、後藤久美子が娘で生徒というシーンをすごく思い出しました。当時は、こんなことあるかい!と思いましたが、似たような感じで起こりうるんだなと思ったものです。
私は35歳で旋盤の仕事をゼロからはじめました。
いままでお肉屋さんで包丁ふるってたのが、まったくちがう職種に就いたのです。
それこそ血のにじむ思いで仕事をおぼえました。
人間、死ぬ気でやればなんでもできるんです。年齢なんか関係ありません。
南紀白浜アドベンチャーワールドでイルカと曲芸やってこいといわれたら、できるんです。まあ、ちょっときびしいですが。
ただこのことは、私が求職するうえでの大いなる自信にもつながりました。
ここで、旋盤のしごとを簡単に説明してみましょう。
みなさまもごぞんじのようでごぞんじじゃないと思いますから。
旋盤とは、鉄のかたまりを、円筒形の鉄を「つめ」とよばれるねじや油圧によって固定し、モーターで回転させ工具で削りとる機械です。
『Heavy Metal Breaker 』

(※カタログ写真ぽいですが、拙撮です。三脚買ったら、撮りたかった一枚。しごとの合間に三脚立てて、機械操作しながらの一枚。2017年撮影。誰にも見せないつもりで撮ったが、まさかブログで公開する日が来ようとは思わなかった)
この削りとるイメージは、さながら大根のかつらむきやリンゴの皮むきを横倒しにしたのを想像されたらいいでしょう。
これを手動でやるのが「汎用旋盤」で、コンピューター制御におきかえたのが「NC旋盤」というものです。

コンピューター制御といっても、これはみなさまよく誤解されるのですが、なにかセンサーがついてるわけじゃありません。加工する鉄じゃないところにたとえば機械の部品に工具が当たれば事故ですし、ドカンとすごい音がして機械や工具がぶっ壊れます。交通事故とおなじです。
でも、それをコンピューター制御で自動でチェックし、勝手によけてくれるわけではないのです。あくまでも人間がやるんです。削りとる部分、座標象限を指定し、精緻なプログラミングによって自在に機械をあやつり金属加工をおこなう。

私はこの「汎用旋盤」と「NC旋盤」の両方に従事しました。
汎用旋盤をあやつるのが旋盤工。NC旋盤も旋盤工ですが、プログラミングが必要なこからこうした「工作機械」を操作する人をひっくるめて、「機械オペレーター」とよばれています。

(※写真だとわかりにくいが、手のひらサイズ。手前よりもじつは、奥の品のほうが見どころ。わかる人にはわかるが、端面に球面仕上げが施されている。しかも、素材はハステロイ。航空宇宙用の難削材で、加工は困難をきわめる。何に使われるかは、ここでは書けない。上の写真の品も同様。製鉄所構内向けの加工品ではない。そして言うまでもないことだが、加工者は私である)
以上の経歴から、私はハローワークに「スーパーの精肉」と「旋盤工」のふたつの求職を登録しました。
ただ、どちらかというとスーパーの仕事よりも旋盤工、あるいはおおざっぱに工業系の業種から優先して求職しました。
なぜなら、スーパーは労働時間が長く、しんどいというのが私の経験であったからです。いまはすこし改善されてるかもしれませんが。
私は、旋盤工として辞めた前の会社にはいって、はじめて正月休みというのを経験しました。スーパーでは正月に休んだことなどなかったからです。盆休みやGWもそうでした。それどころか、お昼休みにゆっくり昼飯がくえる、というのもはじめて経験しました。だからはじめのうちは、こんなにゆっくりメシなど食っていいいものか、不安になったものです。むかし金融で営業のしごともやっていたことがあるので、なおさらでした。営業のころは数字がでてないと昼飯など食わせてもらえませんでした。
【6】最終章 『SURVIVE』
近所に大きな鉄工所があり、求人があったのでハローワークの紹介状とともに履歴書、職業経歴書をおくると面接に来いと言われたので行きました。
ちなみにこの紹介状というのは、ハローワークがだすただの何の役にもたたない紙切れです。
ハローワークの正式名称は公共職業安定所です。斡旋所じゃないんです。しごとをあっせんしてくれるわけじゃないんです。「安定したらええなあ」とほざいてるだけの本当に何の役にも立たない施設なんです。
私はまだ近所のことをしらないので、面接にいってはじめて知ったのですが、鉄工所といって大きな会社で従業員数は100人ちかくいるらしいです。
豪奢な応接室に通され、副工場長と面談しました。
面接の途中、副工場長は、「仕事にこだわりはありますか?」ときくんですね。
これは慎重に答えねば、と思いあえて反問してさぐりをいれると、これがトラップ、罠でしてこだわりがあるほうがダメでないほうがいい。私は「機械オペレーター」の求人をみて応募したのですが、会社はそれ以外にも多くの職種で募集をかけている。なんでもできる、あるいはしたいという人を求めてるらしいのです。
すると副工場長は、
「資材管理のしごとに興味はないですか?」
といいました。機械オペレーターの応募にかかわらず、私の経歴といまの面談のようすをみてそう判断したそうです。
わたしは人生でこれほどうれしかった瞬間はありません。あんたはこの仕事にも向いているなんて、はじめて言われたからです。
そのあと、私がGコード、Mコード(いずれも工作機械の制御系)を熟知していることを知った副工場長はかなりおどろいたらしく、資材管理と加工部門とどちらかで検討したいとたいへん色よい返事をもらいました。
私は天にも昇る気持ちでした。家に帰って家人に、ぜったい受かった。まちがいなく採用される、と話しました。
ところがこれが不採用になるんですね。
一週間たっても電話が来ない。
不採用なら郵便で履歴書が送り返されます。無職なので毎日家にいます。郵便のバイクの音がして、ポストに投函されると、いやな予感がします。自分あての社名入り封書をみつけ、心臓がバクバクいうんです。
(なぜなんだ?)
なぜ落とす。年齢なら書類で落とせばいいではないか。なにか面接でまずいことでも言ったか?それとも私の本質的な問題でも露見されたのか。
そしてなにより副工場長の言ったことはあれはすべてウソだったのか。
私は人間不信になりそうでした。
この時点で、私はかなりやばいことに気づきます。
年齢的にもそうですが、仕事は選ばなければたくさんありますが選ぶと、てんでない。
近所に工場がたくさんあります。大阪・東京に本社をもつ工場です。
そこで働けばいいや、とタカをくくってました。
再就職先などたくさんある、と楽観視してたんです。
ところがそこの求人情報を集めてみると、そういう工場には夜勤があるんですね。
わたしは知らなかったのですが、世の中の工場には2種類あり、日勤だけの工場と夜勤がある工場があることを、私はこの年になるまで知らなかったんです。
私はいままで夜勤で仕事した経験がありません。
父は製鉄所勤務のころ夜勤があったので、そのたいへんさはよく知っています。
わたしは夜勤業務にたえうる体力に自信がありません。
私がえらべる選択肢がじつはほとんどないことにきづき、焦り始めます。
ちょうどこのころ、くしくもみんカラのみん友さんが「SURVIVE」というタイトルでブログを上梓されました。
「生き残れ」
この言葉は私のこころに突き刺さりました。
おれは生き残れるのか?

近所、というほどでもないですが、車で15分のところにある工場に面接に向かいました。
なんの製造かここでは書けませんが、従業員数は70人くらい。
俳優の笹田高史似の社長から面接をうけましたが、途中でわたしは、「ああこれも落ちたな」と思いました。
社長から肝心なことを聞かれません。志望動機とかなぜ前の会社を辞めたかなど。採用するつもりなど、はなからないようです。しかも決定的だったのは、加工部門のチームリーダーが40歳の若さということ。
社長が常識人なら、そこにわたしを入れるはずがありません。
落胆はなはだしく、帰って求人票をやぶって捨て次を考えました。
むろん連絡もなく、ところが一週間がすぎた夕方6時ごろ、みんカラをみていたスマホがにわかに鳴り、出てみると社長から、
「Ricoさんを採用したいと思います」
といわれ、私は躍り上がってよろこびました。「おっしゃあー、受かった!」とさけびながら家じゅうを走りました。

・・・いま入社後一ヶ月がたち、その間私は年齢をひとつ重ねました。
入社後もさまざまなドラマがありましたが、それはまた別の機会に。
今回の話は以上で。こんなところです。みなさまありがとうございました。
本来ならいつもさいごに決まり文句を書き添えて終わるのですが、じつはそれには後日談といいますか、いまだから言える話がありまして、
いつもブログの最後は、
「またお会いしましょう」なのですが、この確信めいた文句のときは自信があるときで、
「お会いできればさいわいです」のときは、言い方がなんとなくネガティブといいますか、じっさい精神的にかなりやばく、もうみんカラもやめようかと思ってるときで、ブログの最後の一文でそのときの私の精神状態がわかるようになっています。
(そんなの知るかよ!)と言われそうですが、まあこの1年間、ずっとそういう感じだったんです。
まあ、そういうわけでして。ありがとうございました。
またお会いしましょう。