お久しぶりです。広島シロッコです。
本日はマツダ・エチュードという車のデザインの源流というものを探っていきたいと思います。
時を遡る事約半世紀。1960年代の話です。極東の島国日本ではメーカーが雨後の竹の子の如く乱立した自動車業界も落ち着きを見せ始め、各社がデザインというものに目を向け始めた時期でした。
当時のトレンドは大きく分けて二種類。
一つはプリンス・グロリア (2代目)や三菱・デボネア(初代)に代表されるアメリカ調のデザイン。
敗戦後、大柄なアメリカ車に大柄な進駐軍兵士が乗り、我が物顔で街を走る姿は衝撃的だったのでしょう。
その「おこぼれ」に与るようなデザインはかつて珍しくありませんでした。
日本車がアメリカ車の地位を脅かし、巨人GMがXカーやJカーと呼ばれた小型車のシリーズで一台攻勢をかけるのは、それから十余年後のことです。
もう一つのトレンドは日産・セドリック(2代目)やダイハツ・コンパーノ・バン、日野・コンテッサなにど代表されるヨーロッパ調のデザイン。
こちらは本物志向で、ピニンファリーナやヴィニャーレなどのカロッツェリアやジョバンニ・ミケロッティなどのデザイナーに依頼して生み出されたボディを纏っていました。
近年の経済発展と先進国メーカーの自社デザイン化の進行に伴い、中国ではカロッツェリアの手掛けた車両が数多く見られますが、日本にもこれと似たような時代が存在していたのです。
日産・セドリック(2代目前期型)。同時代のフィアット製上級車に似たフロントマスク。
そして主力商品を軽自動車と三輪トラックからより上のクラスへと移行しようとしていた広島の小さな自動車メーカー、東洋工業もまた、後者の道を選びます。
パートナーとして選んだのはベルトーネ。一品制作の工房から、自動車メーカーへのデザイン提案から小規模な生産も行うメーカーへと発展する途上でした。
第一弾となったのはファミリア。スペイン語で「家族」を意味する名を冠した小型セダンであり、個性的なフロントマスクと実用性でまずまずの評判を得る事になります。
この流れに続けと生まれたのが、イタリア語で「光」を意味するハイオーナーカー、ルーチェでした。
かつて天からの光に全てを奪われた広島の人々がこの名を授けたことには、一方ならぬ思いがあったのやもしれません。
デザインを手がけたのは、当時ベルトーネの若手デザイナーであった一人の青年。彼は17歳でダンテ・ジアコーザに見出され、その4年後にはベルトーネ中興の祖ヌッチオ・ベルトーネにスカウトされベルトーネのチーフスタイリストに転身したという経歴の持ち主でした。
その名はジョルジェット・ジウジアーロ。自動車デザインのみならず、様々な工業デザインにその名を残す生ける伝説とも呼べる人物です。
ルーチェのプロトタイプは1963年にお披露目された後、非公開のデザイン検討用モデルとして同じくジウジアーロが手掛けた400cc×2のFFロータリーセダン、S8Pのデザインも取り入れ当初の予定から2年遅れの1966年に発売されました。
ルーチェプロトタイプとS8P。発売時はプロトタイプよりボディサイズが拡大されていた。
市販版の丸目四灯はS8Pの影響か。
またこのデザインに範をとった自社デザイン作、ルーチェ・ロータリークーペも世に送り出され、商業的成功は得られなかったものの、デザインで国内他社の先を行くメーカーという路線は現代にまで引き継がれています。
当時のマツダ社内では、デザイン能力の育成が社の発展には不可欠との認識があり、ベルトーネとの関係はここで一度途絶えることとなりますが、二つの敗戦国の小さな会社の物語はここで終わりではありませんでした。
1979年、ボルボから1台のコンセプトカーが発表されました。
ボルボ・ツンドラ。セダンベースのクーペ、262Cのデザインと生産を請け負っていたベルトーネの手によるコンセプトカーでした。このデザインはボルボとの間では実を結ばなかったものの、ベルトーネ退社直前のマルチェロ・ガンディーニが最後に手掛けたシトロエン・BXに大きな影響を与えたことはよく知られています。
しかしこのコンセプトカーの影響は、別の車両にも波及していました。
マツダMX-81“アリア”。「赤いファミリア」として一世を風靡し、オイルショックという大きな痛手を負っていたマツダを救った名車をベースにしたコンセプトカーとして生まれました。
1981年の東京モーターショーを皮切りに、翌82年春のモントリオールから83年末のフィンランドまでの長期に渡り数多くのモーターショーやクリニックに展示され、高い評判を得たと言われています。
ボルボ・ツンドラ
マツダ・MX-81“アリア”
さて、このコンセプトカーは80年代後半の「新しいライフ・スタイルのスポーティー・スペシャリティ・カー」のトライとして生み出された訳ですが、このコンセプトにピッタリ当てはまる市販車が一台存在します。
そう、何を隠そうマツダ・エチュードこそMX-81の実質的な市販ヴァージョンであるのです。
エチュードは商業的に成功したとは言えませんでしたが、その遠縁であるシトロエン・BXがマツダの5チャンネル戦略の一環としてユーノスディーラーで売り出され、“日本で最も売れたシトロエン”の座に今もなお留まり続けているというのは、まさに運命の悪戯と呼ぶべきでしょう。
そこからさらに20余年。マツダがCX-5を皮切りにスタートした“魂動デザイン”で世界を席巻する中、この小さな自動車メーカーを大いに刺激したカロッツェリア、ベルトーネは2015年3月、2度目となる倒産という形でひっそりとその歴史に幕を下ろしました。
しかしかつての同盟国の優れたアーティスト達から受け継いだデザインの志は、今もこの国に息づいています。
ベルトーネの終焉と同じ年にマツダから発売されたSUV、CX-3は量販コンパクトカーのコンポーネンツを使用したスペシャリティーカー。
発売後1ヶ月でエチュードの総販売台数に並ぶ販売台数1万台というスマッシュヒットを達成し、“アリア”に着想を得た“練習曲”は漸くその役目を果たしました。
CX-3。“魂動デザイン”の中で唯一ブラックアウトされたCピラーを持ち、エチュードに似た印象を与える。
そしてその陰にはベルトーネという稀代の“作曲家”がいたことも、どうか心に留め置いて頂きたく思います。
それでは、次回の更新もお楽しみに。
Posted at 2017/07/17 12:50:15 | |
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