始動はなんとかするものの、エンジンが温まるほどに不安定になり、一度止まると再始動が困難な状態になってしまったトラックを、主治医のところまでやっとこさ運ぶ。
不調の原因は、この車によくある「ポイントの劣化」だった。
エアクリーナーボックスに水が入っているのを発見していたこともあって、キャブだと思い込んでいた。
交換で修理完了。
直ってみると、なんと素晴らしい車だったことか。
心が躍り出す。
そして、この車でゴミ拾いを出来ることは、なんと幸せなことだろうと感じた。
そして、この車でなければ続かなかったかもしれないとも思った。
自分はトレーニングをするにあたって、
「快」
の感覚を大切にしている。
「快」のない動きはダメだ。
続かない、それか続けられなくなる。
「快」にも種類がある。
その動作が、「伸びる、ほぐれる」といった肉体的な「快」をもたらすものか、
リズムもそうだし、また乗り物で言えば狙っていたラインをスムーズにトレース出来たように「狙った通りの操作を力まずに出来た」といった時に得られる、精神的な「快」をもたらすものか、
といったことだ。
それらがなければ、難しい。
「普通の人間」には続けられない。
しかし、「普通の人間」ほど「苦」を優先してしまうところが「悲喜劇」を生むわけだ。
「普通の人間」に根性が無いなんて、自分にはとても思えない。
このトラックは、運転がとても楽しい。
操作の一つ一つが楽しく、そして「楽(らく)」ではないけれど「快」を伴う。
またアイドリングのエンジン音も、「快」を伴う。
ゴミを拾って車に戻る時、この音が地獄に吹く涼風のように頬をなでる。
すると、また気力がよみがえるのだ。
4気筒だったら続かなかったろう。
なんと幸せな巡り合わせだったのだろうか。
不調のおかげで、そのことを痛感出来た。
そしてそのことが、こういったことに対する自分の意識をまた次のステージに進ませてくれたと思う。
行為の辛さも、投棄者に対する憎しみもかなり減ったし、こうやって書いておこうという気にもまたなってきたのだった。

それで気になっていたところを一気に綺麗にしていると、ゴミの引受先になっていた公民館からクレームが来た。
何故あんたはいつも公民館にゴミを置いていくのか、と。
7年前に、集めて分別までしたゴミを、公民館のゴミ置き場で保管はしてくれ、といった依頼を自分がした。
当時の館長が一度断ったにもかかわらず、自分が責任取るから置いていけ、と館長より偉いらしい副館長が言ってから続いてきていることだったのだが、時間が経ってその時の事情を知っている人は誰もいなくなっており、引き継ぎもされていなかったらしい。
それじゃあさぞ気味悪かったろうね。
経緯を説明し、拒否しない方が良い理由も伝えたら、翌日すぐに受け入れ許可の連絡が来た。
そして先日からは今まで手を付けないなかったエリアに入った。
パワースポット的な雰囲気があり、見た目からして綺麗な場所だったので、今まで来ていなかった。
しかし、
Posted at 2018/04/18 02:15:15 |
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SUBARU KT2 | 日記