2016年04月18日
私はクルマの運転を代行するアルバイトをやっています。
その日も仕事中でした。
益城町で震度7だった時、私は植木町というところで経験したことのない揺れを
クルマの中で感じました。
とても怖いと感じました。そう思った瞬間、妻と連絡を取りました。
『すごく怖い、早く帰って来て』
そう言われました。
しかし、一刻も早く帰りたいのは繁華街で飲食中であった様々な人たちも同じ。彼らに酒気を帯びたまま運転させるわけにはいきません。
21:26頃の発生から数時間、私は2時ごろようやく妻の元に帰りました。
大きな揺れの後も暫くは震度4~5の余震が続きました。
夜が明けてもなお余震が続き昼過ぎくらいでしょうか、余震が間遠になりました。
幸い、自宅は窓1枚も割れずライフラインも途絶えなかったため、仕事は休みましたが久しぶりにカレーを作って食べました。
それでも余震がなくなってしまった訳ではなく、一抹の不安を抱きつつ妻と別のベッド(私のイビキのせいで毎度の事です)に入りました。
かれこれ30時間余り寝ていなかったにもかかわらず、やはり地震による恐怖感で寝る事が出来ず、なんとなくテレビの地震のニュースをBGM代わりに横になっていました。
間もなく、小さな揺れを感じた瞬間下から突き上げられ、ベッドごと何度も跳ね、
天井の隅にヒビが入るのが目に入ったと同時に停電で暗闇に落とされました。
大きな揺れが続く中、携帯のライトを点けて妻を連れて外に出ようと…
しかし既に玄関が開きません。それでも無理矢理こじ開けてようやく外に出る事が出来ました。外に出られはしましたが、そこも闇。妻が手にしていた懐中電灯をかざして歩を進めようとしますが、電線のようなものが下がってきていて恐ろしい障害物となっています。焦れば焦るほど、200mほど先の広場が遠く感じられました。
正直、死を意識しました。覚悟は出来ませんでした。
少し時間が経って、半そでのTシャツだと気付きましたが家には戻れません。
ただ、家・BMW・GOLFのキーリングを持って駆け出したので、とりあえず妻のBMWを駐車場から出して、実家の両親に連絡を取りました。
両親とも無事で、実家近くで合流する事も出来ました。
1:25の地震から夜明けまで、4人でBMWの中で過ごしました。
その後一旦両親と別れ、自宅で財布や服といった最低限のものを取り出して、再び両親と共に近所の小学校に避難することが出来ました。
完全にライフラインが途絶え、全くの無力となってしまった我々は、周りの人たちとの支えあいで1日を過ごしました。
メールなどで友人や兄弟、親せきから連絡を頂きました。
生きている、という喜びをこれほど感じた事はありませんでした。
そして本日、半壊状態の自宅からパソコンや本業の楽器を救い出し、
ほぼ無傷の実家にてこのブログを書いています。
被災者、またはそうでない方が様々に今回の地震の件で記事を書かれています。
とてもありがたく思います。
物資不足などの報道を見て友人や親せきから
『何か必要なものがあったら送るよ!』
と心強いメールをたくさんいただきました。
ほんとうに感謝しています。
命があっただけでも良かった!と本当に思っています。
ただ、誤解を恐れずに本音を言うと本当に今必要なのは
"安心"です。
あ、ですからメールや皆さんのブログ記事に対するものではありませんから、そこは理解してください。
私が言いたいのは、地震の件での報道で、
どこかのお偉いさんや学者さんが、軽々と『まだまだ強い地震の恐れあり』と電波に乗せて言うのは、"安心"が欲しい一被災者にとって一番拒絶したい"不安"と言えます。生々しい映像は、知る権利の元、理解はしています。
ただ、『今回の地震による阿蘇の噴火はあり得ない』
と言い切った人が何を根拠に『まだまだ』と言っているのでしょうか?
今も余震に恐怖を感じながら、このブログを書きました。
一刻も早く、私が欲しいのは安心です。
誰にも要求出来ません。
頑張ります。
Posted at 2016/04/18 03:29:57 | |
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