![君の瞳が涙で曇ると視界不良で事故るから 君の瞳が涙で曇ると視界不良で事故るから](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/039/260/712/39260712/p1m.jpg?ct=e04505854eda)
せっかくなので、
他の荷物と一緒にポチって買った、
映画『君の名は。』のサウンドトラックCDをカーオーディオで聴いているのですけれど。これはヤバい。聴いていて、いちいち映画本編の名場面の数々浮かんできて、涙腺に来て前方視界がヤバい。事故ります。あぶなかった。
映画館で集中して見ている間は正直「音楽で話題になった映画だと聞いていたけれど、案外普通の劇伴じゃね……?」なんて(ハンカチを握り締めつつ)思っていたのですが、改めてサウンドトラック単体で聴いてみると、印象的な場面の曲を別の場面で繰り返したり、ここぞという場面でじわじわ音圧をかけてきたりと、思った以上に音楽で泣きを取りに来ているなあと。密かに本編の引き立て役に徹していた劇伴に、気がつかないうちにまんまと泣かされていたことに気がつきました。映画本編が苦難の展開を迎える、サウンドトラック15曲目(図書館)辺りから特にそうですね。
感動して泣くのは人類普遍の本能であって、その状況を再現されて涙が出てくるのは生理現象でもあります。
「創作とは別の人生を疑似体験させるものなので、生理的に泣くしかない状況を正確に、あるいは大げさにシミュレートしてやれば、(受け手は)自ずと涙をこぼすことになる」というのはギャルゲーシナリオライターの
涼元悠一氏(『
Planetarian』原作など)による著書『
ノベルゲームのシナリオ作成技法』(秀和システム、2006年)に出てくる話なのですが、この本ではいわゆる「泣きゲー」に用いられる具体的な手法を4ページに渡って紹介していて、自分なりにかいつまんでざっくり内容をまとめると、
「肉親や親しい人が苦しんでいる状況では、人間は誰でも悲しくなって泣いてしまう。物語序盤の楽しい日常から一転し、悲劇的な展開によってかけがえのない日常を奪われ、肉親や親しい人が苦境に陥る展開が続けば泣きそうになるし、その状況に何らかの形で(ハッピーエンドかバッドエンドかは問わず)終止符が打たれると、プレイヤーは伏線の回収や印象的な楽曲に背中を押されて、緊張が解けると同時に涙してしまうのである。
そのような状況を作り出すために重要なことは、悲劇の内容でも、その結末でもない。それは悲劇に突入する前の平穏な日常パートの段階のうちに、後から不幸に陥る人物の存在を、プレイヤーにとってかけがえのない人物として感情移入させ、楽しかった想い出を強く印象づけることにある」
といった趣旨です。……という話をすると、「作家の手の内や感動の正体がわかってしまってがっかり」という方もいるのですが、個人的にはそうは思いません。それに、このことって言い換えれば、人間の心には他人に寄り添って共感し、涙を流す能力が備わっていて、相手のことを強く思いやれば思いやるほどその能力は強まるということなのですから、それってやっぱり尊いことなのです。そうした心の働きは、社会性動物としての人類が、進化の過程で他人の繋がりを持つために獲得した、本能的な情動でもあるのでしょう。そもそも手法が分かっていても、実際にお話で他人を感動させるのは言うほど簡単ではないはずです。涼元氏の論旨を言い換えるなら、要するに物語の中で不幸になる人物は誰でもよいわけではなく、受け手の共感を呼ぶような登場人物でなければならないはずですが、それは誰にでも創造できるものではないでしょう。
さて、
前のエントリにちょっと書いたように「かけがえのない恋人の苦難とその決着を描く」という括りでは、ゼロ年代のギャルゲーもケータイ小説もあんまり大差なかったと思います。前述の涼元氏が著書で紹介している手法は、悲劇を起こす前に魅力的なヒロインとの日常を時間をかけて描写し、ヒロインに萌えさせるというギャルゲーの手法(=萌やし泣き)ですが、ケータイ小説だと「今まさに読者が小説を読むのに使っているガラケーデバイスが、そのまま劇中で登場同士が愛のやり取りに使うツールとして登場する」といったことが、読者を感情移入させるための手法でしょう。翻って
ギャルゲーと比較されることもある映画『君の名は。』の場合だと、入れ替わりのギミックを活用しつ、苦境に陥ってからしばらく登場しなくなるヒロインを序盤に集中して描写するなど、だいぶアクロバティックな方法を用いつつも、(二人の交流が描かれるのは、挿入歌「前前前世」が流れている間だけにもかかわらず)ごく短い尺の中、ヒロインを観客にとって魅力的な人物として印象づけていたように感じました。冷静に考えると歪な構成にも思えますが、そこを映像作家としての新海監督の手腕と、RADWIMPSの音楽で押し切って成功させていたと思います。
さて、映画『君の名は。』韓国でも日本映画の観客動員数の記録を更新し、日韓関係が視界不良で先行きが見えない中にもかかわらず
大ヒットになっていることが報じられています。そういえば、ゼロ年代に日本での韓流ブームを牽引した『冬のソナタ』も「恋人たちに降りかかる苦難」の括りの話ですし、韓国人も日本人と同じように泣ける話が好きなんだなあ、感性が似ているのだなあと感じます。
そもそも現在、日韓関係が冷え込んでいる原因だって、大まかに括れば両国の「共感する同胞に降りかかった苦難」に対する、愛ある感情移入の現れなのでしょう。韓国の人々がいわゆる従軍慰安婦のエピソードに共感の涙を流し、帽子やマフラーを被せたりしているのも感情移入の現れであるなら、他方で日本人が「捕虜のアメリカ兵士が苦しんでいるのを見かねて善意でゴボウを出したら、後の戦争裁判で、木の根を食わされて虐待されたと証言されて不当な判決を受けた」という話に悔し涙を流したり、「アジア解放の戦いと信じて大勢の兵士が命をなげうって戦ったのに、戦後に中国人や韓国人から掌を返された」という言説に感じ入って靖国神社に参拝したりするのも感情移入からの行動で、どちらも大意では戦時中の悲劇に若者が感情移入しているという括りでありましょう。ただ、その一方の物語における感情移入の対象は、他方の悪役でもあるという状況が、互いの目から見た相手の人々を、歴史の犠牲者をいまなお虐げている、邪悪な悪役の支持者のように見せているわけです。
前述の通り、涙を流して感動するためには感情移入が不可欠で、共感を得られない相手が不幸に陥っても他人事にしかなりませんし、ましてや感情移入の対象に害をなす悪役の不幸は、同情どころか痛快な出来事になってしまうわけで。そもそも人間はフィクションの登場人物に対して涙を流すことができるのですから、いくら両国の人々が
「その逸話には嘘や誇張や誤解が含まれている!」などと主張し合っても、罵り合っている当人たちの心には届かず、逸話を聞いて感動し物理的に涙を流したという強烈な実体験の方が優先されてしまうのでしょう。こうして他人に共感する美しい心を持った人々が争い続けている状況を、自称サヨクであるところの私は悲しく思っていたりするのですが、それでもやはり、他人に共感し相手を強く思いやる人間の心は尊いし、人間として生まれた以上は、感情がもたらす負の側面にも付き合っていかなければならず、「共感する心こそ諸悪の根源」という結論には至れないわけで。それでも、それだからこそ、『君の名は。』が韓国でもヒットしているという報道には、一縷の希望を感じてしまいます。
……ええとまあ、長くなりましたが要するに、感動しすぎて目先の問題が見えなくなって事故らないように注意しなければならぬ、運転でも国際問題でも……などと、運転中にサウンドトラックを聴きながらつらつら思った話でした。
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Posted at
2017/02/02 21:22:04