
い〜つまでも いつ〜までも〜♪
は〜しれ はしれ いすゞのトラック〜♪
ど〜こぉ~までも どこぉ〜までも〜♪
は〜しれ はしれ いすゞのトラック〜♪
い〜つまでも〜 どこ〜までも〜♪
さて、国内自動車メーカー8社(トヨタ、日産、ホンダ、ダイハツ、スズキ、マツダ、三菱、スバル)の紹介をしてきましたが、ここからは更に広げていきます☆
第9回になります今回は、いすゞを調べてみよう〜語ってみよう〜♪です。
いすゞと言えば今はトラックですが、昔はピアッツア、アスカ、ビッグホーンなんてありましたね。
しかし、いすゞと言えばやはりこれでしょう♪
『街の遊撃手』ジェミニが有名でしたね~☆
CMがヤバかった(笑)
いすゞ自動車株式会社(いすずじどうしゃ、英: ISUZU MOTORS LIMITED)は、主にトラック・バスなどの商用車を製造する日本の自動車メーカーである。
1916年(大正5年)創業。
日経平均株価の構成銘柄の一つ。

本社が入居する横濱ゲートタワー
「いすず」ではなく、「いすゞ」が正式な表記である。
中国語圏では「五十鈴」(繁体字: 五十鈴、簡体字: 五十铃)という漢字で表記する。
【いすゞの歴史】
いすゞの前身は、1893(明治26)年に設立された(株)東京石川島造船所にさかのぼります。
1916(大正5)年、自動車生産に関する調査研究を始め、試作を開始、当時好況だった造船業で得た収益で自動車生産に乗り出すことを計画。
1918(大正7)年、英国のウーズレー自動車会社と製造権および販売権に関して提携を結び、クルマづくりをスタートさせました。
1922(大正11)年ウーズレーA9型乗用車の国産化に初めて成功。

ウーズレーCP型第1号トラック
1924(大正13)年にはウーズレーCP型1.5トン積みトラックを完成し、軍用保護自動車の資格を得るという成果をあげました。

ウーズレー乗用車と深川分工場
1927(昭和2)年東京石川島造船所はウーズレー社との提携を解消し、独自に純国産車の生産に乗り出しました。
この時、隅田川畔の工場から生まれるクルマの発展を願って、車名をウーズレーから「スミダ」に改めました。

《撮影 内田俊一》 スミダ M型バス

《撮影 内田千鶴子》 スミダ M型バス

《撮影 内田千鶴子》 スミダ M型バス
車名変更にあたっては、一般から懸賞募集したことで大きな反響を呼び、多くの人々に国産車の認識を広める役割を果たしました。
そして1929(昭和4)年に開発したA6型・A4型エンジンを搭載したクルマは、他社の追随を許さない出力と燃料消費率を実現し、スミダ号の名声を一躍高めました。

P型トラック
(A6型エンジン搭載2トン車)

M型1号バス
(A4型エンジン搭載1トン車)
1929(昭和4)年東京石川島造船所から自動車部門が独立し、(株)石川島自動車製造所を設立しました。
当時の社会情勢は1923(大正12)年の関東大震災以降、破壊された鉄道や市電にかわってクルマが震災復興に大活躍し、日本の自動車保有台数は伸び始めていました。
そこで国はクルマの国産化を振興し、商工省標準形式自動車の開発を奨励しました。
石川島自動車製造所はこうしたニーズにいち早く応え、1933(昭和8)年商工省標準形式自動車をつくりました。

商工省標準形式自動車
TX35型トラック
このクルマは、伊勢神宮の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名(現在の社名はこれに由来します)。
材料から電装品、計器類に至るまで国産品を使用し、日本のクルマづくりの礎を築きました。
また、その後の改良により、戦後、いすゞの5~6トントラックへと発展し、日本を代表する中型トラックの原点となりました。
1933(昭和8)年石川島自動車製造所はダット自動車製造(株)と合併して、自動車工業(株)を設立しました。
ここで思い出すのが日産自動車のルーツ。
1933年(昭和8年)に軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることとなり、ダット自動車製造は石川島自動車製造所(現在のIHIから独立、後のいすゞ自動車。)と合併して自動車工業となった。
つまり、ダット自動車製造と石川島自動車製造所(いすゞ)が合併して自動車工業となり、これがいすゞのルーツ。
そして、ダット自動車が開発していたダットサンの商標および旧ダット自動車製造大阪工場を手に入れ、戸畑鋳物自動車部として存続。
これが日産のルーツということである。
さて、自動車工業は、国内マーケットを席巻していたアメリカ車に対抗できる生産規模の拡大と、技術水準の向上にまい進しました。
なかでも、まだ欧米先進国においても技術が完全に確立されていなかったディーゼルエンジンの開発に注力し、1936(昭和11)年空冷式ディーゼルエンジンDA6型・DA4型の開発に成功しました。

DA6型ディーゼルエンジン

DA4型ディーゼルエンジン
これは、いすゞディーゼルエンジンの基礎となる画期的な出来事でした。
1937(昭和12)年4月9日、自動車工業(株)は東京瓦斯電気工業(株)を合併して、東京自動車工業(株)を設立しました(いすゞの創立)。
東京自動車工業は圧倒的な技術力で、各種ディーゼルエンジンの開発に成功。
1941(昭和17)年ディーゼル自動車専用許可会社となり、商号をヂーゼル自動車工業(株)と改称。
翌年には日野製造所を分離し、日野重工業(株)(現在の日野自動車(株))を設立するなど、ディーゼルエンジン技術の開発に中核的な役割を担いました。

戦後の本格的なディーゼル・バスBX91型

TX80型トラック

《撮影 内田千鶴子》いすゞ TX80型トラック

《撮影 内田俊一》いすゞ TX80型トラック
さて、ここで今度は日野自動車の存在。
これは、全て国が絡む国策によりややこしくなっていることがわかった。
ちなみに次回は日野自動車を予定しているので詳しくは書かないが、1930年代、大型車両生産を強化する国策により、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部と自動車工業株式会社、および共同国産自動車株式会社とが合併し、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車、設立当初は東京自動車工業株式会社)を設立した。
つまり、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部が日野自動車のルーツといえる。
そして、自動車工業株式会社がいすゞであり、簡単に言えば(現)日野自動車と(現)いすゞ自動車が国策により合併させられたということらしい。
その後、戦時体制下の国策により、総合車両メーカーのヂーゼル自動車工業から特殊車両製造部門の日野製造所が分離独立されて、日野自動車の元となる日野重工業が設立された。
つまり、5年後また、国策により(現)日野自動車が分離独立したということだ。
1949(昭和24)年商号を現在のいすゞ自動車(株)に変更しました。
トラック需要は、日本経済が朝鮮戦争による特需ブームを迎えると、うなぎ登りに増加しました。
いすゞは、こうしたマーケットニーズを的確にとらえるため、生産ラインの統合による合理化を行なった。その結果、ディーゼル車の販売台数は急上昇しました。
そして1959(昭和34)年、現在も小型トラックナンバーワンを誇る「エルフ」の販売が始まりました。
エルフは斬新で使い勝手に優れたCOE型ボディを採用により、小さいながらもボンネットトラックに比べて多くの荷物を積載できるということから、瞬く間に小型トラックのベストセラーカーとなりました。

初代エルフ
COE:キャブオーバーエンジン(キャブがエンジンの上にあること。エンジンが運転室や車室の下に置かれているタイプの総称)。ボンネットがないため、荷台を長くできる。

《撮影 内田俊一》 いすゞ エルフ(初代)

《撮影 内田俊一》 いすゞ エルフ(初代)
この時期に軍需用として開発された一連の水冷DA型エンジンは、戦後民需用としてTX80型トラックなどに搭載され広く普及。
「ディーゼルのいすゞ」の名声を不動のものとしました。
まとめるといすゞ自動車は、トヨタ自動車・日産自動車とともに、日本国内で日本企業による自動車の本格的な量産が始まった1930年代から四輪自動車を生産している自動車メーカーで、ディーゼル自動車および船舶・産業用ディーゼルエンジンを得意とした。
現在、国内における小型トラックの販売台数では20年連続で第1位となり(2001年~2020年)、中・大型トラックの販売台数は第1位(2022年)である。
世界市場ではバンを除いたGVW3.5トンから15トンまでの中小型トラック分野での販売台数は世界第2位となり、大型トラック部門では世界第14位である(2018年)。
合併や社名変更などの変遷を経ながらも、太平洋戦争直前から戦時中にかけ、大型車両とこれに搭載する高速ディーゼルエンジンの分野で、国策企業として開発をリードした。
太平洋戦争後はトラック・バスなど、大型ディーゼル自動車の生産で日本を代表するメーカーとなった。
1942年に国産高級乗用車についての検討依頼があり、いすゞ自動車の前身であるヂーゼル自動車工業が約6か月で試作車を完成。低燃費で乗心地も良く、路上試験等の結果は良好であった。

1943年
いすゞPA10型乗用車
ガソリンエンジントラックTX80型をベースとしたBX80型バスをディーゼルエンジンに変更したのが、BX91型ボンネットバス。大型ディーゼルバスとして、最大で50名以上の定員を確保できた。

1948年
BX91型バス
BX91型ボンネットバスをベースに運転席を前方へと移動し、いすゞ初のキャブオーバーバスとして設計された。スタイルも一新され、丸みのある流麗なデザインとなっている。

1949年
BX92型バス
1953年(昭和28年)以降はイギリス車のヒルマンのノックダウンで乗用車生産にも進出し、総合自動車メーカーを目指した。
イギリスのルーツ社との技術援助協定により、いすゞにおいて完全ノックダウン方式で組み立てられ、販売された乗用車。
その4年後には、部品の完全国産化が完了した。

1953年
ヒルマンミンクス

いすゞ・ヒルマンミンクス
1963年、ベレットを発表。当時、乗用車用としては画期的な小型高速エンジンで、ディーゼルエンジン技術の卓越性を示した。

1600GT Type-R(1970年)
1966年、TY型4t積みトラック発表
1968年、ジウジアーロのデザインによる117クーペがデビュー。
エレガントなスタイルでありながらスポーツマインドを存分に感じさせる117クーペは、高級パーソナルカーの代名詞となった。

いすゞ・117クーペ
PA9型
1970年、TR型4t積みトラック「フォワード」発表
1972年ファスター発表。
GM社との提携具体化の輸出車第1弾として開発された1t積みトラック。
乗用車フローリアンをベースとしたスタイルに加え、低い全高と広いトレッドによって安定性の良さを印象づけている。

フロント(タイ仕様)
そして。。。
はい!
出ました☆
1974年、ジェミニ発表。
ベレットの後継車として、1971年に提携したGM社と共同開発した小型乗用車。
オーストラリアやアメリカなどにも輸出され、各地で高い評価を受ける。

いすゞ・ベレットジェミニ
いすゞ・ジェミニ(初代1974年-1987年)
PF50/PF60/PFD60型セダン LD 1974年11月発売型

セダン ZZ-R 1981年10月改良型

いすゞ・FFジェミニ
いすゞ・ジェミニ(2代目1985年-1990年)
JT150/190/600型セダンC/C FFジェミニ
1985年5月 - 1987年2月

ハッチバックC/C

セダン 1987年改良型
1987年2月 - 1989年2月

2代目ジェミニJT190に搭載の4XE1エンジン

いすゞ・ジェミニ(3代目1990年-1993年)
JT151/191/641型
セダン イルムシャーR フロント

セダン 1.5C/C リア
1979年、アッソ・ディ・フィオーリ発表。
1979年のジュネーブショーで発表されたジウジアーロデザインによるプロトタイプ。流麗なボディを持つクーペとして高い評価を獲得。
1981年に、いすゞ ピアッツァとして量産化された。

いすゞ・ピアッツァ(初代1981年-1991)
JR120/130型

リア

インテリア

いすゞ・ピアッツァ(2代目1991年-1995年)
JT221型
ピアッツァ・ネロ

インパルス(北米仕様)
1993年、自社製乗用車の生産終了
かつてはトヨタ自動車、日産自動車とともに日本自動車業界の御三家とも言われていたが、乗用車部門は長らく不振であり、1990年代から経営危機に陥りリストラを繰り返すようになった。
1993年(平成5年)にはワンボックスカーとSUVを除く乗用車の自社開発・生産から撤退し、日本国内では本田技研工業(ホンダ)などからOEM供給を受けて販売を続けた。
これは乗用車用ディーゼルエンジンやSUV、ミニバンについてはホンダと相互協力関係にあったためで、2002年(平成14年)に自社生産していたビッグホーンやウィザードなどのSUVを含む乗用車の販売から撤退するまで、ホンダからのOEM供給を受けていた(ただし、撤退後も販売していた初代コモワゴンは8人/10人乗りの乗用車として販売された)。

いすゞ・ロデオビッグホーン
いすゞ・ビッグホーン(初代1981年-1991年)
UBS17/52/55型
初代4ドア
写真は北米向けトゥルーパー

初代ショート イルムシャー

いすゞ・ビッグホーン(2代目1991年-2002年)
UBS25DW/UBS69/73GW型
初期型 ロング

中期型 ロング

後期型 ロング

いすゞ・ミューウィザード(初代1990年 - 1998年)
UCS69GW型
ホワイトリミテッド

タイプX

いすゞ・ウィザード(2代目1998年 - 2005年)
UER25FW/UES25FW/UES73FW型

いすゞ・コモ(初代2001年-2012年)
E25型
初代 前期型バン LD

いすゞ・コモ(2代目2012年-2017年、2018年-)
E26型
また、関連企業との合併による拠点の集約などを
行う一方、1万人規模となる極めて大規模な人員削減などを行った。
株価が一時、自動車メーカーとしては最低の31円まで落ち込むなど事態は極めて深刻であったが、みずほ銀行やゼネラルモーターズ(GM)の大掛かりな支援があり、加えてディーゼル自動車の排気ガス規制強化(いわゆるNOx規制など)を発端とする商用車(トラックやバスなど)の買い換え特需もあり、再建に成功することができた。
米国ではGMからSUVとピックアップトラックのOEM供給を受けて販売を続けていたが、2009年(平成21年)1月31日をもって販売を終了した。
その結果、販売ディーラーは既存ユーザーのためのアフターケア・サポート事業のみ存続していくことになった。
現在、主に個人向けとして販売が行われている車種には、東南アジアや南アフリカなど向けのピックアップトラックとSUVに加え、東南アジアとインド専売のMPVがある。
1971年(昭和46年)から2006年(平成18年)まで米国・ゼネラルモーターズ(GM)が一部のいすゞ株を保有しており、GMの関連会社であったが、同年4月にGMとの資本関係を解消した。
GMとの資本提携解消後は、同年11月7日にトヨタ自動車と資本・業務提携を行うことを発表した。
すでにトヨタグループ入りしていた日野自動車とはバス事業を統合してジェイ・バス株式会社の発足を行っており、今後については乗用車用ディーゼルエンジンの開発や環境技術での連携(景気後退により一時凍結)、トラック部門での連携強化の可能性が考えられていたが、2018年(平成30年)8月にトヨタとの資本・業務提携を解消した。
しかし今後のトラックの電動化を視野に入れて、2021年(令和3年)3月24日に、トヨタ自動車と再度資本・業務提携することが発表された。
2019年(令和元年)12月、ボルボ・グループ(以下、ボルボ)と商用車分野での戦略的提携に向けて覚書を締結し、ボルボ子会社のUDトラックスの全株と、UDブランドで展開する海外事業を取得すると発表した。
2020年(令和2年)10月30日には戦略的提携に関する基本契約を正式に締結し、UDトラックスを2,430億円で買収することを発表。
2021年(令和3年)4月1日までに取得手続きを完了し、UDトラックスはいすゞグループ企業となった。
2022年(令和4年)5月9日には、東京都品川区南大井の大森ベルポートA館から、神奈川県横浜市西区高島にある横濱ゲートタワー(5-15Fの11フロア)に本社や関連会社などを移転した。
なお、近隣にはUDトラックスの元親会社だった日産自動車(日産グローバル本社)、および有力取引先の京浜急行電鉄・京浜急行バス(京急グループ本社)が本社を構えている。
ここまでがいすゞ自動車の簡単な歴史になります☆
【街の遊撃手ジェミニ】
ここからは感動のCMジェミニの特集を。
是非ともYoutubeで見て頂きたいです。

「街の遊撃手」というキャッチコピーを見事に映像化した2代目ジェミニのTV-CF
「街の遊撃手。」をビジュアル表現するために、ストレートにヨーロッパの街角にFFジェミニを置いて、質感そして本物感を表現しました。
当時は現在のようなCG合成などの技術が未熟で、質感を実現するためには現地ロケを行うことがマストということで実際にパリで撮影を行った。
この前、昭和のCMのテレビ特集していましたがこの撮影メイキングも凄かったですよ。
これは、実際にフランスのパリの街並みを走って撮影しております。
しかも地下に入り地下鉄に並行して走るシーンもあります。
柱を壊してまでの撮影をパリが許してくれたそうです。
これは芸術の街『パリ』がこのCMを芸術として捉えてくれたことからだとテレビでやってました♪
このCMは非常にインパクトを残し私も非常に覚えています☆
ちなみに2代目いすゞジェミニは、いすゞの設計によるFF車として生まれ変わり、ボディタイプは4ドアセダンと3ドアハッチバックを設定。
公言はされなかったが、スタイリングはG・ジウジアーロとされる。
2台がピッタリ並走してドリフトするなどのCMが話題を呼んだこともあって、日本国内では74万8216台を売り上げる人気車種となりました。
1990年に3代目となるジェミニが登場します。
1.5Lのインタークーラー付きターボエンジンは、HIGHモードならネットで120psを発生した。
ボディサイズを2代目よりも拡大し、フルタイム4WDを採用した「イルムシャーR」は、当時いすゞがラリーに参戦していたという背景もあって設定されたグレードですが、実際、この3代目ジェミニは全日本ラリー選手権Bクラスにて、1990年〜1992年の間3連覇を飾ることになります。
この輝かしい成績とは裏腹に、いすゞは世界的な自動車不況も重なって1991年には大きな赤字を出すことになり、乗用車生産から撤退し、現在のトラックなどの商用車中心の経営へと移っていきました(泣)
【ヨーロピアンテイスト満載の名車ピアッツア】
1981年6月に誕生したいすゞピアッツァは、G・ジウジアーロによるデザインで、約40年経った今でも色褪せていない名車だ。
駆動方式はいわゆるFRで、当初の搭載エンジンは直4のG200型。
上級グレードのXEにはジェミニZZ用1.8L、直4DOHCを1.9Lに拡大したDOHCが搭載され、それ以外のグレードには117クーペ用2L、直4SOHCを改良したユニットが搭載された。
1984年6月には最高出力180psの2L、直4SOHCターボを追加している。
トランスミッションは5MTまたは4速AT。

ピアッツァの原型となった「アッソ・デ・フィオーリ(Asso di fiori=イタリア語でクラブのエース)」。
写真はいすゞ藤沢工場に保管されているレストア済みの実車を撮影した時のもの。

1981年6月にデビューしたピアッツァ。
FRジェミニのプラットフォームを流用した4シーターの2ドアクーペとして登場。
ボディサイズは全長4310×全幅1655×全高1300mm。
ちなみにピアッツァの意味はイタリア語で広場(正確には都市のなかにある広場)

テールランプやガーニッシュなどリア回りのデザインも高い評価を受けている

ステアリング左右に配置されたサテライトスイッチなど斬新で未来的なデザインのコクピット
続く1985年11月には、ドイツのチューナーであるイルムシャーに足回りのチューニングを依頼した、イルムシャーが登場。

ドイツのチューナー、イルムシャーとコラボして生まれたピアッツァイルムシャー
イルムシャーが手かげた、しなやかな足回りに加え、MOMO製ステアリングとレカロ製シート、専用デザインのフルホイールカバーなどが特徴だった。
ホントにいすゞ車は名車中の名車ですなぁ♪
普通車のライナップが少ないながら圧倒的な存在感を残したのがいすゞ自動車だと思います☆
さぁ、最後に本家のトラックに何も触れていないのでちょっと紹介します(笑)
と言ってもいすゞ自動車ホームページまんまですが。。。
『小型トラック エルフ
ELF』

1959年に誕生した、日本を代表する小型トラック。最新技術の継続投入により、経済性・安全性・耐久信頼性のすべてにおいて高い評価を得ているトップブランドです。海外仕様はNシリーズと呼ばれ、世界の多くの国々で小型トラックのベストセラーとしての地位を確立しています。
『中型トラック フォワード
FORWARD』

幹線輸送、都市内配送、様々な工事・作業など、幅広い用途に対応する中型トラック。高品質輸送を実現する4バッグエアサスペンション車、積載効率を高めたショートキャブ車など、豊富な車種バリエーションを設定しています。海外仕様はFシリーズと呼ばれ、特にアジアやオーストラリアで好評です。2007年のフルモデルチェンジにより、環境性能・安全性・経済性ともに大幅に進化しました。
『大型トラック&トラクタ ギガ』
GIGA

大型トラック&トラクタシリーズ。4バッグエアサスペンションや機械式フルオートマチックトランスミッション「スムーサーGx」、先進視覚サポート技術「VAT」の採用等によって、コスト低減や安全性向上に率先して対応しています。海外仕様は単車系はCシリーズ、トラクタ系はEシリーズと呼ばれ、オーストラリアやニュージーランドでトップシェアを獲得。中国や香港でも実績を重ねています。
は〜しれ はしれ〜♪
いすゞのトラック〜♪
それではまた(笑)
参考資料
web car-top
撤退が残念すぎる! 惜しまれ愛され続ける「いすゞ」の名乗用車4選
GQjapan
今はなきいすゞの名車5選
Response
いすゞ歴代車両の撮影会…石川島スミダ、エルフ などトラック・バス編[写真蔵] 41枚目の写真・画像
この名車は、やはり外せないでしょう…いすゞ ジェミニ【懐かしのカーカタログ】
ベストカーweb
誕生から約40年経っても色褪せないピアッツアは最後の購入チャンスか!?
いすゞジェミニ 街の遊撃手のCMで話題になった名車が今や絶滅寸前危機!!!
グーネットマガジン
スタントがすごい!「街の遊撃手」いすゞ ジェミニのガチCM【クルマのCMプレイバック】
いすゞ自動車HP
いすゞ自動車中部HP
Wikipedia