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2023年08月11日 イイね!

第10回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜日野編♪

第10回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜日野編♪トントントントン日野の2トン♪





さて、前回いすゞを紹介しましたので今回は日野自動車です♪


第10回 個人的に自動車会社、好きな車を調べてみよう〜語ってみよう〜日野自動車編です。

と言っても実はデュトロとかレンジャーとかしか知りません😅

すみません。
普通自動車免許しかないもんで。。。

とは言え、日本の自動車の歴史を語る上ではやはりやらないわけにはいかないでしょう。




日野自動車株式会社(ひのじどうしゃ、英: HINO MOTORS, LTD.)は、東京都日野市に本社を置く、主にトラック・バスといった商用車を製造するメーカーである。通称「日野」、ローマ字表記は「HINO」。

トヨタ自動車の連結子会社でトヨタグループ16社のうちの一つ。

日本のトラック・バス製造業界の最大手。

日経平均株価及びJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。


本社・日野工場


主にトラックやバスなどの商用車の生産を手がけ、トヨタブランドの小型乗用車や小型、普通トラック、SUVなどの受託生産も行っている。

親会社のトヨタが陸上自衛隊へ納入する73式中型トラックやトヨタ向けディーゼルエンジンの生産、あるいは軍用ハイブリッドシステムも共同開発している。

2004年3月期に、連結決算で売上高が1兆円を超えた。2019年も1兆9,813億円で過去最高益を更新している。

日本国内の大型・中型トラックで2021年現在、48年連続で販売台数が1位、大型トラック顧客満足度調査で11年連続で1位、小型トラックも6年連続で1位である。

2007年に海外向け販売台数が国内向けを上回り、現在は総販売台数の7割以上を海外向けが占めている。

世界93カ国で販売しており、台湾やタイ、インドネシア、マレーシア、パキスタン、ペルー等では市場シェアが首位である。

2013年に世界で初めてハイブリッドトラック・バスのグローバルでの累計販売台数が1万台を超えた。全世界の大型トラック製造メーカーの中でも毎年生産台数トップ10にランクしている。

1966年にトヨタ自動車の傘下に入り、2001年にトヨタが株式の過半数を取得して子会社化した。

合理化のためにバス部門はいすゞ自動車と経営統合して2004年10月に日野自動車・いすゞ自動車共同出資の新会社(ジェイ・バス)に移行し、いすゞと共通の車両がジェイ・バスから供給されている。



日野は観光バス、いすゞは路線バスを開発して相互供給する。

いすゞは日野の母体になった会社で、2006年から2018年までトヨタ自動車との資本提携関係にあったため、日野との関係も深い。

いすゞガーラ

※2022.3.4
大型観光バス「いすゞ ガーラ」は、いすゞと日野とのバス事業協業スキームの下、開発を担当する日野製のエンジンを搭載。いすゞは、同日、日野がエンジン認証手続きに於いて社内で不正を確認し、国土交通省へ報告したことに伴い、その出荷を停止した。
なお、出荷の再開時期は、現時点では未定とのこと。




同時に、西日本車体工業(西工)へのシャシー供給を取りやめている。

2006年から一部の路線車に限り、西工へのシャシー供給が再開したが、それも2010年西工の解散と共に終了した。

また、2018年4月には商用バス・トラックの分野でドイツのフォルクスワーゲンと包括提携することが発表されている。

2022年3月に発覚した日本国内向けエンジン不正問題により、2022年3月期は約847億円の赤字となった他、2022年3月以降、日本国内向けの製品は発売停止となった製品が相次いでおり、2022年8月現在で日本国内で発売されている車種は3車種のみとなっている。

東京都八王子市の日野自動車21世紀センター内にトラック主体の企業博物館である日野オートプラザが設けられている。




【日野自動車の歴史】


東京瓦斯電気工業株式会社(瓦斯電:がすでん)が今日の日野自動車の母体とされている。

東京瓦斯電気工業はその名の通り、明治時代末期から大正時代にかけて、普及期にあったガス・電気器具を生産した。

第一次世界大戦時には海外から薬莢の大量受注などにより業績を伸ばし、航空機用国産エンジン「神風」なども生産している。

「TGE」(Tokyo Gas Electric Engineering Co. の頭字語)のブランドで、日本でも初期の自動車量産に取り組んだ。


TGE-A型

TGE-MP型・省営バス

1930年代、大型車両生産を強化する国策により、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部と自動車工業株式会社、および共同国産自動車株式会社とが合併し、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車、設立当初は東京自動車工業株式会社)を設立した。

その後、戦時体制下の国策により、総合車両メーカーのヂーゼル自動車工業から特殊車両製造部門の日野製造所が分離独立されて、日野自動車の元となる日野重工業が設立され、九七式中戦車などの軍需車両の製造を行わせた。

企業系譜としてはいすゞ自動車の分派ではあるが、日野製造所が星子勇ら瓦斯電系出身の技術者を主軸とした製造拠点であったことから、日野自動車では自社のルーツを瓦斯電に求めている。



この辺が前回のいすゞでも紹介しました日野自動車といすゞ自動車との関係性ですね。



そのほか、瓦斯電を母体とした会社にはトキコ、小松ゼノアなどがある。

終戦後の1946年には民需転換により日野産業に改称。

ディーゼルエンジン技術を生かして当時としては異例の超大型トレーラートラック・バスを開発、次いで1950年以降は通常シャーシ(単車)の大型ディーゼルトラック・バスの生産も開始して、母体企業のいすゞと競合する大型車両業界の有力メーカーとなった。

1953年には、フランスのルノーの技術供与を受け、小型乗用車ルノー・4CVのノックダウン生産を行い、後に完全国産化を果たした。

その後自社開発のリアエンジン(RR駆動)小型乗用車「コンテッサ」、ピックアップトラック「ブリスカ」、前輪駆動で4輪独立懸架のワンボックスカー「コンマース」など、先進的な自動車を開発・生産していたが、1966年のトヨタ自動車との提携以後は、再びトラック・バスの開発・生産に特化して現在に至る。


日野・コンテッサ900(初代)
PC10型(1961〜1965)

日野・コンテッサ1300(2代目)
PD100/300型(1964〜1967)

※コンテッサ(イタリア語:Contessa )は、日野自動車がルノー・4CVのライセンス生産で得た経験をもとに開発し、1961年から1967年まで生産した、リアエンジン・リアドライブの乗用車である。



日野・ブリスカ FG30
(初代・海外仕様)


1961年、初代コンテッサから流用した893 ccのGP20型エンジンを搭載する。
駆動方式は、ルノー流を踏襲したコンテッサのRRに対し、ブリスカでは荷台架装が容易で過積載にも強いFRを採用した。

1966年(昭和41年)10月に始まったトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)との業務提携で、日野は大型車に専念することとなり、翌1967年(昭和42年)5月からブリスカの販売権がトヨタに移行した。



コンマース

コンマースリア

1960年(昭和35年)8月にPB10型発売。キャブオーバー車では珍しく、日野・ルノー 4CV用から発展した、GP10型・836cc/28psエンジンをフロントに縦置き搭載する前輪駆動方式を採用した、当時としては先進的なモデルである。




正直、日野自動車から乗用車が作られていたとは全然知りませんでした✨



【現在のライナップ】



日野プロフィア


長距離・大量輸送を支える大型トラック



日野レンジャー


短、中距離、多様なニーズに応える中型トラック



日野デュトロ


「ヒノ丿ニトン」でおなじみ街で活躍する小型トラック



日野デュトロ Z EV


より静かに、クリーンな走りを実現する小型BEVトラック



【エンジン認証不正問題】


国内2位の日野は昨年3月にエンジン不正が発覚。

信用は失墜し、国交省からはエンジンの量産に必要な型式指定を取り消された。

リコール費用や顧客、仕入れ先への補償といった認証関連特損がかさみ、2021年度は847億円、2022年度は1176億円と3期連続の赤字に沈む。

現在も、国内向けのトラック・バスのうち2割相当(不正発覚前を母数)を生産できないままでいる。




日野自動車は7月28日、2023年上半期(1~6月)の生産・販売・輸出実績を発表。
国内販売はエンジン認証試験での不正による出荷停止が影響し、同21.3%減の1万9618台で4年連続のマイナスとなった。

日野自動車は7月28日、2023年6月の生産・国内販売・輸出実績を発表。
国内販売は、同16.6%増の3723台で20か月ぶりのプラス。
ただしエンジン不正問題前の2021年6月(5492台)と比較すると32.2%減となる。




【経営統合で日野はトヨタの連結子会社外へ】


トヨタ自動車は5月30日、世界的な商用車大手のドイツ・ダイムラートラックと電動化や自動化など「CASE」技術開発での協業とともに、それぞれの子会社である日野自動車と三菱ふそうトラック・バスの統合で基本合意したと発表した。

日独自動車大手の協業、かつ商用車の国内2位と3位の経営統合という自動車業界で久しくなかった大型再編計画が動き出した。

関係者を駆り立てたのは、カーボンニュートラルへの対応と不正問題からの立て直しである。








【ダイムラーとトヨタとの水素技術の協業】


カーボンニュートラルの圧力が強まる中、重い荷物を運ぶ商用車では電池の搭載量が多くなりすぎるためEV(電気自動車)では対応しきれない。

その点、タンク容量を増やしやすく、充填時間も短くて済む水素は、商用車の脱炭素化には必須の技術と目されている。

水素エンジン車を開発してレースの場で鍛え上げているトヨタはまさに水素のトップランナーである。



トヨタ水素エンジンカローラ


グループで早くからFCV(燃料電池車)に力を注いできたダイムラーから見てもトヨタと組むことは魅力的だ。

一方でトヨタは商用車世界トップ級のダイムラーが商用車の水素シフトを進めてくれれば強力な援軍になる。

運行ルートが限られる商用車向けなら水素インフラの整備も進みやすい。

水素を用いる燃料電池(FC)はトラックの電動化で有望視され、また水素を軽油あるいは天然ガスの代わりに使う水素エンジン(H2 ICE)も、カーボンニュートラルを実現する技術として注目されている。

しかし、FCをトラックで使う場合、乗用車よりもはるかに高い出力と、高稼働・長距離走行に応じた耐久性が求められるが、現時点ではディーゼルエンジンの性能に遠く及ばない。その一方で非常に高価で、まだまだ開発途上の技術といえる。




トヨタと日野の共同開発による大型FCトラック・プロフィアZ FCVプロトタイプ


ダイムラーで開発中の大型FCセミトラクタ・メルセデス・ベンツGenH2。非常に高度なFCパワートレイン制御技術も搭載している




水素エンジン車は、従来のエンジン技術・排ガス浄化技術が応用でき、積載性も同等となるものの、水素燃料に対応した燃料噴射システムや燃料タンクなど、こちらも開発中である。

また、現在は気体の水素を用いているが、将来的にはエネルギー密度の高い液体水素の利用(航続距離や補給時間がディーゼル車なみ)が考えられている。

しかし、超低温断熱高圧タンクなど、さらに特殊な燃料供給系が必要で、自動車で使う燃料としては未知の部分が多い。

このように水素エネルギー車の実用化・普及にはクリアすべき課題が山積しており、とても自動車メーカー1社でブレークスルーできるレベルではないのだ。

さらにいえば、水素燃料そのものの安定供給も確立されていないが、これは別の問題である。


トヨタとダイムラー、そして三菱ふそうと日野の4社統合でどのような化学反応が生まれるのか見ものである。




それではまた(笑)




参考資料


asahi-net
日野ブリスカ

Response
日野の国内販売、4年連続マイナス 2023年上半期

日野の国内販売、20か月ぶりのプラスも不正前の水準には届かず 2023年6月実績

東洋経済Online
日野と三菱ふそうが経営統合へ向かう2つの要因
親会社のトヨタとダイムラーがCASE技術で協業

日本経済新聞
トヨタとダイムラーが提携、協力の具体策は?

fullload web
なんと日野と三菱ふそうが2024年内に経営統合! 水素技術の投入など次世代商用車の開発・生産で親会社トヨタとダイムラーが合意!

日野自動車HP

Wikipedia
Posted at 2023/08/17 00:46:44 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年08月10日 イイね!

第9回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜いすゞ編♪

第9回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜いすゞ編♪い〜つまでも いつ〜までも〜♪
は〜しれ はしれ いすゞのトラック〜♪

ど〜こぉ~までも どこぉ〜までも〜♪
は〜しれ はしれ いすゞのトラック〜♪

い〜つまでも〜 どこ〜までも〜♪






さて、国内自動車メーカー8社(トヨタ、日産、ホンダ、ダイハツ、スズキ、マツダ、三菱、スバル)の紹介をしてきましたが、ここからは更に広げていきます☆


第9回になります今回は、いすゞを調べてみよう〜語ってみよう〜♪です。


いすゞと言えば今はトラックですが、昔はピアッツア、アスカ、ビッグホーンなんてありましたね。

しかし、いすゞと言えばやはりこれでしょう♪

『街の遊撃手』ジェミニが有名でしたね~☆

CMがヤバかった(笑)




いすゞ自動車株式会社(いすずじどうしゃ、英: ISUZU MOTORS LIMITED)は、主にトラック・バスなどの商用車を製造する日本の自動車メーカーである。



1916年(大正5年)創業。

日経平均株価の構成銘柄の一つ。


本社が入居する横濱ゲートタワー

「いすず」ではなく、「いすゞ」が正式な表記である。

中国語圏では「五十鈴」(繁体字: 五十鈴、簡体字: 五十铃)という漢字で表記する。



【いすゞの歴史】


いすゞの前身は、1893(明治26)年に設立された(株)東京石川島造船所にさかのぼります。

1916(大正5)年、自動車生産に関する調査研究を始め、試作を開始、当時好況だった造船業で得た収益で自動車生産に乗り出すことを計画。

1918(大正7)年、英国のウーズレー自動車会社と製造権および販売権に関して提携を結び、クルマづくりをスタートさせました。

1922(大正11)年ウーズレーA9型乗用車の国産化に初めて成功。

ウーズレーCP型第1号トラック

1924(大正13)年にはウーズレーCP型1.5トン積みトラックを完成し、軍用保護自動車の資格を得るという成果をあげました。

ウーズレー乗用車と深川分工場

1927(昭和2)年東京石川島造船所はウーズレー社との提携を解消し、独自に純国産車の生産に乗り出しました。

この時、隅田川畔の工場から生まれるクルマの発展を願って、車名をウーズレーから「スミダ」に改めました。

《撮影 内田俊一》 スミダ M型バス

《撮影 内田千鶴子》 スミダ M型バス

《撮影 内田千鶴子》 スミダ M型バス

車名変更にあたっては、一般から懸賞募集したことで大きな反響を呼び、多くの人々に国産車の認識を広める役割を果たしました。

そして1929(昭和4)年に開発したA6型・A4型エンジンを搭載したクルマは、他社の追随を許さない出力と燃料消費率を実現し、スミダ号の名声を一躍高めました。

P型トラック
(A6型エンジン搭載2トン車)

M型1号バス
(A4型エンジン搭載1トン車)

1929(昭和4)年東京石川島造船所から自動車部門が独立し、(株)石川島自動車製造所を設立しました。

当時の社会情勢は1923(大正12)年の関東大震災以降、破壊された鉄道や市電にかわってクルマが震災復興に大活躍し、日本の自動車保有台数は伸び始めていました。

そこで国はクルマの国産化を振興し、商工省標準形式自動車の開発を奨励しました。

石川島自動車製造所はこうしたニーズにいち早く応え、1933(昭和8)年商工省標準形式自動車をつくりました。

商工省標準形式自動車
TX35型トラック

このクルマは、伊勢神宮の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名(現在の社名はこれに由来します)。

材料から電装品、計器類に至るまで国産品を使用し、日本のクルマづくりの礎を築きました。

また、その後の改良により、戦後、いすゞの5~6トントラックへと発展し、日本を代表する中型トラックの原点となりました。

1933(昭和8)年石川島自動車製造所はダット自動車製造(株)と合併して、自動車工業(株)を設立しました。




ここで思い出すのが日産自動車のルーツ。

1933年(昭和8年)に軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることとなり、ダット自動車製造は石川島自動車製造所(現在のIHIから独立、後のいすゞ自動車。)と合併して自動車工業となった。

つまり、ダット自動車製造と石川島自動車製造所(いすゞ)が合併して自動車工業となり、これがいすゞのルーツ。


そして、ダット自動車が開発していたダットサンの商標および旧ダット自動車製造大阪工場を手に入れ、戸畑鋳物自動車部として存続。
これが日産のルーツということである。




さて、自動車工業は、国内マーケットを席巻していたアメリカ車に対抗できる生産規模の拡大と、技術水準の向上にまい進しました。

なかでも、まだ欧米先進国においても技術が完全に確立されていなかったディーゼルエンジンの開発に注力し、1936(昭和11)年空冷式ディーゼルエンジンDA6型・DA4型の開発に成功しました。

DA6型ディーゼルエンジン

DA4型ディーゼルエンジン

これは、いすゞディーゼルエンジンの基礎となる画期的な出来事でした。

1937(昭和12)年4月9日、自動車工業(株)は東京瓦斯電気工業(株)を合併して、東京自動車工業(株)を設立しました(いすゞの創立)。

東京自動車工業は圧倒的な技術力で、各種ディーゼルエンジンの開発に成功。

1941(昭和17)年ディーゼル自動車専用許可会社となり、商号をヂーゼル自動車工業(株)と改称。

翌年には日野製造所を分離し、日野重工業(株)(現在の日野自動車(株))を設立するなど、ディーゼルエンジン技術の開発に中核的な役割を担いました。

戦後の本格的なディーゼル・バスBX91型

TX80型トラック



《撮影 内田千鶴子》いすゞ TX80型トラック

《撮影 内田俊一》いすゞ TX80型トラック



さて、ここで今度は日野自動車の存在。

これは、全て国が絡む国策によりややこしくなっていることがわかった。

ちなみに次回は日野自動車を予定しているので詳しくは書かないが、1930年代、大型車両生産を強化する国策により、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部と自動車工業株式会社、および共同国産自動車株式会社とが合併し、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車、設立当初は東京自動車工業株式会社)を設立した。

つまり、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部が日野自動車のルーツといえる。

そして、自動車工業株式会社がいすゞであり、簡単に言えば(現)日野自動車と(現)いすゞ自動車が国策により合併させられたということらしい。

その後、戦時体制下の国策により、総合車両メーカーのヂーゼル自動車工業から特殊車両製造部門の日野製造所が分離独立されて、日野自動車の元となる日野重工業が設立された。

つまり、5年後また、国策により(現)日野自動車が分離独立したということだ。




1949(昭和24)年商号を現在のいすゞ自動車(株)に変更しました。

トラック需要は、日本経済が朝鮮戦争による特需ブームを迎えると、うなぎ登りに増加しました。

いすゞは、こうしたマーケットニーズを的確にとらえるため、生産ラインの統合による合理化を行なった。その結果、ディーゼル車の販売台数は急上昇しました。

そして1959(昭和34)年、現在も小型トラックナンバーワンを誇る「エルフ」の販売が始まりました。

エルフは斬新で使い勝手に優れたCOE型ボディを採用により、小さいながらもボンネットトラックに比べて多くの荷物を積載できるということから、瞬く間に小型トラックのベストセラーカーとなりました。

初代エルフ
COE:キャブオーバーエンジン(キャブがエンジンの上にあること。エンジンが運転室や車室の下に置かれているタイプの総称)。ボンネットがないため、荷台を長くできる。


《撮影 内田俊一》 いすゞ エルフ(初代)

《撮影 内田俊一》 いすゞ エルフ(初代)


この時期に軍需用として開発された一連の水冷DA型エンジンは、戦後民需用としてTX80型トラックなどに搭載され広く普及。

「ディーゼルのいすゞ」の名声を不動のものとしました。





まとめるといすゞ自動車は、トヨタ自動車・日産自動車とともに、日本国内で日本企業による自動車の本格的な量産が始まった1930年代から四輪自動車を生産している自動車メーカーで、ディーゼル自動車および船舶・産業用ディーゼルエンジンを得意とした。




現在、国内における小型トラックの販売台数では20年連続で第1位となり(2001年~2020年)、中・大型トラックの販売台数は第1位(2022年)である。

世界市場ではバンを除いたGVW3.5トンから15トンまでの中小型トラック分野での販売台数は世界第2位となり、大型トラック部門では世界第14位である(2018年)。



合併や社名変更などの変遷を経ながらも、太平洋戦争直前から戦時中にかけ、大型車両とこれに搭載する高速ディーゼルエンジンの分野で、国策企業として開発をリードした。

太平洋戦争後はトラック・バスなど、大型ディーゼル自動車の生産で日本を代表するメーカーとなった。



1942年に国産高級乗用車についての検討依頼があり、いすゞ自動車の前身であるヂーゼル自動車工業が約6か月で試作車を完成。低燃費で乗心地も良く、路上試験等の結果は良好であった。

1943年
いすゞPA10型乗用車

ガソリンエンジントラックTX80型をベースとしたBX80型バスをディーゼルエンジンに変更したのが、BX91型ボンネットバス。大型ディーゼルバスとして、最大で50名以上の定員を確保できた。

1948年
BX91型バス

BX91型ボンネットバスをベースに運転席を前方へと移動し、いすゞ初のキャブオーバーバスとして設計された。スタイルも一新され、丸みのある流麗なデザインとなっている。

1949年
BX92型バス

1953年(昭和28年)以降はイギリス車のヒルマンのノックダウンで乗用車生産にも進出し、総合自動車メーカーを目指した。

イギリスのルーツ社との技術援助協定により、いすゞにおいて完全ノックダウン方式で組み立てられ、販売された乗用車。

その4年後には、部品の完全国産化が完了した。

1953年
ヒルマンミンクス


いすゞ・ヒルマンミンクス



1963年、ベレットを発表。当時、乗用車用としては画期的な小型高速エンジンで、ディーゼルエンジン技術の卓越性を示した。

1600GT Type-R(1970年)


1966年、TY型4t積みトラック発表



1968年、ジウジアーロのデザインによる117クーペがデビュー。

エレガントなスタイルでありながらスポーツマインドを存分に感じさせる117クーペは、高級パーソナルカーの代名詞となった。

いすゞ・117クーペ
PA9型


1970年、TR型4t積みトラック「フォワード」発表



1972年ファスター発表。

GM社との提携具体化の輸出車第1弾として開発された1t積みトラック。

乗用車フローリアンをベースとしたスタイルに加え、低い全高と広いトレッドによって安定性の良さを印象づけている。

フロント(タイ仕様)


そして。。。

はい!
出ました☆


1974年、ジェミニ発表。

ベレットの後継車として、1971年に提携したGM社と共同開発した小型乗用車。

オーストラリアやアメリカなどにも輸出され、各地で高い評価を受ける。

いすゞ・ベレットジェミニ
いすゞ・ジェミニ(初代1974年-1987年)
PF50/PF60/PFD60型セダン LD 1974年11月発売型



セダン ZZ-R 1981年10月改良型



いすゞ・FFジェミニ
いすゞ・ジェミニ(2代目1985年-1990年)
JT150/190/600型セダンC/C FFジェミニ
1985年5月 - 1987年2月

ハッチバックC/C

セダン 1987年改良型
1987年2月 - 1989年2月


2代目ジェミニJT190に搭載の4XE1エンジン




いすゞ・ジェミニ(3代目1990年-1993年)
JT151/191/641型
セダン イルムシャーR フロント

セダン 1.5C/C リア



1979年、アッソ・ディ・フィオーリ発表。

1979年のジュネーブショーで発表されたジウジアーロデザインによるプロトタイプ。流麗なボディを持つクーペとして高い評価を獲得。

1981年に、いすゞ ピアッツァとして量産化された。

いすゞ・ピアッツァ(初代1981年-1991)
JR120/130型

リア

インテリア



いすゞ・ピアッツァ(2代目1991年-1995年)
JT221型
ピアッツァ・ネロ

インパルス(北米仕様)




1993年、自社製乗用車の生産終了


かつてはトヨタ自動車、日産自動車とともに日本自動車業界の御三家とも言われていたが、乗用車部門は長らく不振であり、1990年代から経営危機に陥りリストラを繰り返すようになった。

1993年(平成5年)にはワンボックスカーとSUVを除く乗用車の自社開発・生産から撤退し、日本国内では本田技研工業(ホンダ)などからOEM供給を受けて販売を続けた。

これは乗用車用ディーゼルエンジンやSUV、ミニバンについてはホンダと相互協力関係にあったためで、2002年(平成14年)に自社生産していたビッグホーンやウィザードなどのSUVを含む乗用車の販売から撤退するまで、ホンダからのOEM供給を受けていた(ただし、撤退後も販売していた初代コモワゴンは8人/10人乗りの乗用車として販売された)。


いすゞ・ロデオビッグホーン
いすゞ・ビッグホーン(初代1981年-1991年)
UBS17/52/55型
初代4ドア
写真は北米向けトゥルーパー

初代ショート イルムシャー

いすゞ・ビッグホーン(2代目1991年-2002年)
UBS25DW/UBS69/73GW型
初期型 ロング

中期型 ロング

後期型 ロング




いすゞ・ミューウィザード(初代1990年 - 1998年)
UCS69GW型
ホワイトリミテッド

タイプX

いすゞ・ウィザード(2代目1998年 - 2005年)
UER25FW/UES25FW/UES73FW型






いすゞ・コモ(初代2001年-2012年)
E25型
初代 前期型バン LD

いすゞ・コモ(2代目2012年-2017年、2018年-)
E26型



また、関連企業との合併による拠点の集約などを
行う一方、1万人規模となる極めて大規模な人員削減などを行った。

株価が一時、自動車メーカーとしては最低の31円まで落ち込むなど事態は極めて深刻であったが、みずほ銀行やゼネラルモーターズ(GM)の大掛かりな支援があり、加えてディーゼル自動車の排気ガス規制強化(いわゆるNOx規制など)を発端とする商用車(トラックやバスなど)の買い換え特需もあり、再建に成功することができた。

米国ではGMからSUVとピックアップトラックのOEM供給を受けて販売を続けていたが、2009年(平成21年)1月31日をもって販売を終了した。

その結果、販売ディーラーは既存ユーザーのためのアフターケア・サポート事業のみ存続していくことになった。

現在、主に個人向けとして販売が行われている車種には、東南アジアや南アフリカなど向けのピックアップトラックとSUVに加え、東南アジアとインド専売のMPVがある。

1971年(昭和46年)から2006年(平成18年)まで米国・ゼネラルモーターズ(GM)が一部のいすゞ株を保有しており、GMの関連会社であったが、同年4月にGMとの資本関係を解消した。

GMとの資本提携解消後は、同年11月7日にトヨタ自動車と資本・業務提携を行うことを発表した。

すでにトヨタグループ入りしていた日野自動車とはバス事業を統合してジェイ・バス株式会社の発足を行っており、今後については乗用車用ディーゼルエンジンの開発や環境技術での連携(景気後退により一時凍結)、トラック部門での連携強化の可能性が考えられていたが、2018年(平成30年)8月にトヨタとの資本・業務提携を解消した。

しかし今後のトラックの電動化を視野に入れて、2021年(令和3年)3月24日に、トヨタ自動車と再度資本・業務提携することが発表された。

2019年(令和元年)12月、ボルボ・グループ(以下、ボルボ)と商用車分野での戦略的提携に向けて覚書を締結し、ボルボ子会社のUDトラックスの全株と、UDブランドで展開する海外事業を取得すると発表した。

2020年(令和2年)10月30日には戦略的提携に関する基本契約を正式に締結し、UDトラックスを2,430億円で買収することを発表。

2021年(令和3年)4月1日までに取得手続きを完了し、UDトラックスはいすゞグループ企業となった。

2022年(令和4年)5月9日には、東京都品川区南大井の大森ベルポートA館から、神奈川県横浜市西区高島にある横濱ゲートタワー(5-15Fの11フロア)に本社や関連会社などを移転した。

なお、近隣にはUDトラックスの元親会社だった日産自動車(日産グローバル本社)、および有力取引先の京浜急行電鉄・京浜急行バス(京急グループ本社)が本社を構えている。



ここまでがいすゞ自動車の簡単な歴史になります☆




【街の遊撃手ジェミニ】


ここからは感動のCMジェミニの特集を。
是非ともYoutubeで見て頂きたいです。

「街の遊撃手」というキャッチコピーを見事に映像化した2代目ジェミニのTV-CF


「街の遊撃手。」をビジュアル表現するために、ストレートにヨーロッパの街角にFFジェミニを置いて、質感そして本物感を表現しました。

当時は現在のようなCG合成などの技術が未熟で、質感を実現するためには現地ロケを行うことがマストということで実際にパリで撮影を行った。




この前、昭和のCMのテレビ特集していましたがこの撮影メイキングも凄かったですよ。

これは、実際にフランスのパリの街並みを走って撮影しております。


しかも地下に入り地下鉄に並行して走るシーンもあります。


柱を壊してまでの撮影をパリが許してくれたそうです。

これは芸術の街『パリ』がこのCMを芸術として捉えてくれたことからだとテレビでやってました♪

このCMは非常にインパクトを残し私も非常に覚えています☆



ちなみに2代目いすゞジェミニは、いすゞの設計によるFF車として生まれ変わり、ボディタイプは4ドアセダンと3ドアハッチバックを設定。

公言はされなかったが、スタイリングはG・ジウジアーロとされる。

2台がピッタリ並走してドリフトするなどのCMが話題を呼んだこともあって、日本国内では74万8216台を売り上げる人気車種となりました。

1990年に3代目となるジェミニが登場します。

1.5Lのインタークーラー付きターボエンジンは、HIGHモードならネットで120psを発生した。

ボディサイズを2代目よりも拡大し、フルタイム4WDを採用した「イルムシャーR」は、当時いすゞがラリーに参戦していたという背景もあって設定されたグレードですが、実際、この3代目ジェミニは全日本ラリー選手権Bクラスにて、1990年〜1992年の間3連覇を飾ることになります。

この輝かしい成績とは裏腹に、いすゞは世界的な自動車不況も重なって1991年には大きな赤字を出すことになり、乗用車生産から撤退し、現在のトラックなどの商用車中心の経営へと移っていきました(泣)




【ヨーロピアンテイスト満載の名車ピアッツア】


1981年6月に誕生したいすゞピアッツァは、G・ジウジアーロによるデザインで、約40年経った今でも色褪せていない名車だ。

駆動方式はいわゆるFRで、当初の搭載エンジンは直4のG200型。

上級グレードのXEにはジェミニZZ用1.8L、直4DOHCを1.9Lに拡大したDOHCが搭載され、それ以外のグレードには117クーペ用2L、直4SOHCを改良したユニットが搭載された。

1984年6月には最高出力180psの2L、直4SOHCターボを追加している。

トランスミッションは5MTまたは4速AT。

ピアッツァの原型となった「アッソ・デ・フィオーリ(Asso di fiori=イタリア語でクラブのエース)」。
写真はいすゞ藤沢工場に保管されているレストア済みの実車を撮影した時のもの。


1981年6月にデビューしたピアッツァ。
FRジェミニのプラットフォームを流用した4シーターの2ドアクーペとして登場。
ボディサイズは全長4310×全幅1655×全高1300mm。


ちなみにピアッツァの意味はイタリア語で広場(正確には都市のなかにある広場)



テールランプやガーニッシュなどリア回りのデザインも高い評価を受けている

ステアリング左右に配置されたサテライトスイッチなど斬新で未来的なデザインのコクピット


続く1985年11月には、ドイツのチューナーであるイルムシャーに足回りのチューニングを依頼した、イルムシャーが登場。

ドイツのチューナー、イルムシャーとコラボして生まれたピアッツァイルムシャー

イルムシャーが手かげた、しなやかな足回りに加え、MOMO製ステアリングとレカロ製シート、専用デザインのフルホイールカバーなどが特徴だった。



ホントにいすゞ車は名車中の名車ですなぁ♪

普通車のライナップが少ないながら圧倒的な存在感を残したのがいすゞ自動車だと思います☆



さぁ、最後に本家のトラックに何も触れていないのでちょっと紹介します(笑)

と言ってもいすゞ自動車ホームページまんまですが。。。



『小型トラック エルフ
ELF』

1959年に誕生した、日本を代表する小型トラック。最新技術の継続投入により、経済性・安全性・耐久信頼性のすべてにおいて高い評価を得ているトップブランドです。海外仕様はNシリーズと呼ばれ、世界の多くの国々で小型トラックのベストセラーとしての地位を確立しています。



『中型トラック フォワード
FORWARD』

幹線輸送、都市内配送、様々な工事・作業など、幅広い用途に対応する中型トラック。高品質輸送を実現する4バッグエアサスペンション車、積載効率を高めたショートキャブ車など、豊富な車種バリエーションを設定しています。海外仕様はFシリーズと呼ばれ、特にアジアやオーストラリアで好評です。2007年のフルモデルチェンジにより、環境性能・安全性・経済性ともに大幅に進化しました。



『大型トラック&トラクタ ギガ』
GIGA

大型トラック&トラクタシリーズ。4バッグエアサスペンションや機械式フルオートマチックトランスミッション「スムーサーGx」、先進視覚サポート技術「VAT」の採用等によって、コスト低減や安全性向上に率先して対応しています。海外仕様は単車系はCシリーズ、トラクタ系はEシリーズと呼ばれ、オーストラリアやニュージーランドでトップシェアを獲得。中国や香港でも実績を重ねています。





は〜しれ はしれ〜♪
いすゞのトラック〜♪



それではまた(笑)






参考資料


web car-top
撤退が残念すぎる! 惜しまれ愛され続ける「いすゞ」の名乗用車4選

GQjapan
今はなきいすゞの名車5選

Response
いすゞ歴代車両の撮影会…石川島スミダ、エルフ などトラック・バス編[写真蔵] 41枚目の写真・画像

この名車は、やはり外せないでしょう…いすゞ ジェミニ【懐かしのカーカタログ】

ベストカーweb
誕生から約40年経っても色褪せないピアッツアは最後の購入チャンスか!?

いすゞジェミニ 街の遊撃手のCMで話題になった名車が今や絶滅寸前危機!!!

グーネットマガジン
スタントがすごい!「街の遊撃手」いすゞ ジェミニのガチCM【クルマのCMプレイバック】

いすゞ自動車HP

いすゞ自動車中部HP

Wikipedia

Posted at 2023/08/11 03:33:19 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年08月07日 イイね!

第8回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜スバル編♪

第8回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜スバル編♪さて、トヨタ、ダイハツ、スズキ、ホンダ、日産、マツダ、三菱と来まして今回はスバルです☆


第8回、個人的に自動車会社、好きな車を調べてみよう〜語ってみよう〜スバル編です♪


スバルと言えばスバル360、サンバー、ヴィヴィオ、プレオ、レガシィ、レオーネ、フォレスター、BRZいろいろありますね☆


しかし、スバルと言えばやっぱり1番最初に思い浮かぶのはインプレッサWRX STIでしょう!

抜群の四駆システム、軽量で高剛性、低重心、ショートストローク、DOHCターボでその優れた資質で高回転・高出力を可能にするSUBARU屈指の水平対向エンジンEJ20だ☆


1992年登場の初代インプレッサにWRCを含めたモータースポーツ参戦ベース車として設定されたWRX。

ランエボとの死闘もあり、STIバージョンはVIまで進化 WRCで1995年のダブルタイトル獲得など、輝かしい成績を残した。



ランサーエボリューションIII

エボIIから大幅な変更はないものの、エンジンの冷却性能や空力性能の向上を果たした マキネンは9戦中5勝という圧倒的速さを見せつけ、その年のドライバーズタイトルを獲得した。


そして三菱もスバルもWRCから撤退。
今はトヨタだけが頑張っている☆

WRカー規定に合わせ、1.6Lターボ+4WDで開発したヤリス。

WRCにて、2017年からWRCに復帰。



モリゾウことトヨタの豊田章男社長(現会長)が2018年にこんなことを言っている。



「トヨタは、WRCに参加している唯一の(日本の)メーカーです。以前は、三菱やスバルが我々と共に参戦していました」

「トヨタの挑戦は、すべてのラリーファンを刺激しています」

「多くのファンが、トヨタ、スバル、そして三菱のことを覚えています。私は、日本に戻ってくるWRCにトヨタだけが出るのではなく、それらのメーカーが戻ってくるのを見たいと思います」

「私は、彼らの復帰をサポートしたいと思います。それは、GAZOO Racingがやろうとしていることです。我々はトヨタのことだけを考えているわけではありません。このスポーツのために働いているんです」


取材にてトヨタの豊田章男社長(現会長)は、三菱とスバルのWRC復帰を期待し、そのためにはGAZOO Racingとしてサポートすることも可能だと示唆しました。



なんとも男気あるなぁ~☆




しかし、スバルは全日本ラリーに復活したのでまだ可能性はある。

チームSUBARU RALLY CHALLENGE

今季2023年シーズンの全日本ラリーに向け、『FA24型』2.4リットル直噴ターボエンジンを搭載する新型スバルWRX S4をベースとする新型ラリーカーを開発。



しかし、先日ショッキングなニュースが飛び込んできた。

5月31日に群馬サイクルスポーツセンターで行われていた車両テストの最中に起きた事故により、鎌田卓麻選手と同乗していた自動車部品メーカーのエンジニアの両名が負傷する事態に。


鎌田卓麻選手は、ベテラン中のベテラン。プロ中のプロのトップドライバーです。

スバル/STIは、アクシデントに見舞われた鎌田卓麻選手が重症、同乗していたテインのエンジニアさんが重体であり現在も治療中であることと、事故原因の究明が必要であることを踏まえ、次戦丹後での新車投入を見送る決断を下した。

あわせて同ラウンドでの鎌田卓麻選手と新井敏弘選手の両選手の欠場もアナウンスされている。



その後の報道がない為わからないが1日も早い回復をお祈りしております。



スバルと言えば三菱同様、「ラリーのスバル」として有名です!

是非ともWRCに戻って来てもらいたいが三菱のランサーエボリューションもスバルのインプレッサWRX STIもすでに生産終了しており復活する見込みもないみたいです(泣)




さて、スバルの会社紹介をして行きましょう♪


SUBARU(スバル)は、株式会社SUBARU(旧・富士重工業)が展開する自動車製造部門・航空機製造部門のブランド名である。

ちなみに富士重工業株式会社は、2017年4月1日付で、社名を「株式会社SUBARU」(英文表記:SUBARU CORPORATION)に変更しました。


スバル本社

SUBARU STAR SQUARE(エビススバルビル1階ショールーム)


【概要】

SUBARUは太平洋戦争までの航空機メーカーである中島飛行機を源流に持ち、創業期に百瀬晋六をはじめとする元航空技術者たちが自動車開発に携わってきたという歴史から、航空機に通じる機能性・合理性優先で、既成概念にとらわれないユニークなメカニズムを特徴とする自動車を多く送り出してきた。

特に走行性能に特化した技術志向が強く、四輪駆動車と水平対向エンジンはスバルの技術の特徴となっている。

そのため、スバルというブランドをこよなく愛するスバリストと呼ばれるエンスージアスト(熱心なファン)も少なくない。

近年、北米市場で、悪路走破性と衝突安全性の面からスバルの評価が高く、販売台数を急速に伸ばしているが、SUBARUは年間販売台数が100万台未満の国内大手自動車8社中で最小の自動車メーカーで、著しく国内生産比率が高いこともあり、北米市場で恒常的な供給不足が続いている。

北米市場における供給不足と技術志向の高性能プレミアムイメージによる車体販売価格の高値推移により、SUBARUの営業利益率は、高級ブランドBMWを超える13%を記録している。

2014年には累計国内生産台数が2000万台を突破した。

安全性に関し、日本では自動車事故対策機構からインプレッサSPORT/G4およびSUBARU XVが2016年度自動車アセスメント「衝突安全性能評価大賞」を、北米では米国道路安全保険協会から2017年型インプレッサが2017年安全評価で最高評価「トップセイフティピック(TSP)+」を受けている。

2018年現在、国内主要自動車メーカーで軽自動車・商用車・OEM車を除く国内販売の現行車種が全て3ナンバー車種である唯一の自動車メーカーである。




ちなみにマークの六連星の意味は、1953年に富士重工業株式会社として新しくスタートしようとする際に、旧中島飛行機から5社を吸収合併することとなりました。

そこで、富士重工業をマークの中心として、残りの5社が周りを取り囲むようなマークを作ることになったそうです!


『昴(すばる)』


”6社を統合する”

”空に輝く六連星のように業界を統べる企業になれるように”という意味を込めて社名をスバルに変更しています。

昔の日本ではプレアデス星団のことを「六連星(むつらぼし)」と呼ばれており、日本最古の随筆と言われている「枕草子」にも「むつらぼし」として出てきました。




【スバルの歴史】


その初期の製品は、航空機開発によって培われた設計指針により、軽量かつ操縦性に優れ、空間実用性をも満たした高度な設計がなされ、市場を先導した。

1954年(昭和29年)に試作されたスバル・1500では、日本製乗用車として初のフル・モノコック構造を採用している。

1958年(昭和33年)発売のスバル・360は、「国民車構想」の内容に近い水準の自動車を、高度な技術で具現化したもので、「大人4人が乗れる初めての軽自動車」リアエンジン・リアドライブ(後ろ置きエンジン・後輪駆動)方式として、日本人にとって自動車を身近なものにした。

1958年 スバル・360

1966年(昭和41年)発売のスバル・1000では、縦置き水平対向エンジンによる前輪駆動レイアウトを採用し、以後、四輪駆動車を含む現行主力モデルに至るまでこれを踏襲している。

1966年 スバル・1000


またこのスバル・1000では、前輪駆動車にとっての重要部品である「等速ジョイント」の完成形、ダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J.)を東洋ベアリング(現・NTN)と共同で開発、同車の成功の要因となり、1970年代から本格化した、小型車の前輪駆動化の世界的な潮流に先鞭をつけた。

スバル初の四輪駆動車は、1972年のレオーネエステートバン1400 4WDで、本格的な量産ラインで生産される自動車としては世界初の四輪駆動乗用車となった。

自動車の運動性能にもたらす四輪駆動の効に世界が注目する端緒となったドイツのアウディ・クワトロの発売は1980年であり、富士重工業は四輪駆動乗用車開発・生産の経験ではアウディをも上回る。

そのため、四輪駆動システムについても、その初期から様々な試みがなされており、世界の自動車メーカーのベンチマークとなっている技術も数多い。

レオーネの四輪駆動車は一般的なセダン・ワゴンの外見でありながら、優れた悪路走破性を持つ独自の特徴が降雪地域の利用者などから高い評価を得た。

1980年代からはよりオンロード色が強まり、後継のレガシィやインプレッサではさらに顕著になった。

2021年現在、軽自動車を含む全車種(BRZを除く)に四輪駆動が展開されているが、特にレガシィ、フォレスター、レヴォーグ、XV、VA型WRXは全モデルが四輪駆動である。

四輪駆動の技術を活かし、アウトドアを嗜む社員の視点から、レオーネ/レガシィ・ツーリングワゴンのような四輪駆動ステーションワゴンやレガシィ・アウトバック、フォレスターのようなクロスオーバーSUVといった新規市場を開拓した。

1989年10月発売のレガシィ・ツーリングワゴンGTは高出力4WDワゴンという特徴が市場に好評を博した。

社団法人自動車技術会の委員会が「後世に語り継ぐべき特徴を持つ故実」として選定した「日本の自動車技術330選」にスバル・レオーネ4WDバンとセダンがそれぞれ選ばれている。

1989年 スバル・レオーネ GL 4WD

1981年、後輪駆動用トランスファーに、世界で初めて流体式の電磁式油圧多板クラッチを実用化したフルタイムAWDオートマチックを発売。

また、この電磁式油圧多板クラッチを発展させ、前後不等・可変トルク配分とエンジン出力制御、ABSとの統合制御による高度なアクティブセーフティ(予防安全)技術である車両制御システムVDC(Vehicle Dynamics Control System、横滑り防止機構)も実用化している。

このVDCは、すでに実用化されている自動運転支援システムADA(Active Driving Assist)や防衛関連事業で培った高度なロボット技術との統合制御による、完全自律運転システムへの発展が期待され研究が続けられている。

なお、2008年6月、このADAから前車との車間計測のために備えていたミリ波レーダーを廃して、2台のCCDステレオカメラで車両周辺の状況を解析・判断、車両制御技術としては世界初となる、車速が15 km/h以下での衝突被害軽減ブレーキ制御や障害物検知、さらに全車速追従型クルーズコントロールなどの機能を備えた「EyeSight(アイサイト)」システム搭載車を発売。

従来の安全技術などと比べ高機能ながら割安で、戦略的な価格設定であった。

その後EyeSightは2021年現在で新世代アイサイト(Ver.4相当)にまで進化し、とりわけVer.2以降は市場の認知も広がり、他社銘からの乗り換え需要をも取り込み爆発的な人気を博した。

その後他社からも衝突被害軽減ブレーキ搭載車種が増えるなどASV普及の起爆剤となっているが、NASVA公式発表映像においても衝突回避の可否においてEyeSightと他社製品との雲泥の差を見せつけるなど性能の高さを実証した
(ただし2017年現在、少なくとも定められた試験条件の中ではEyeSightに迫る性能を備えた他社製品も増えてきている)。

2020年現在広く使われている金属ベルト式無段変速機を「ECVT」の名で「ジャスティ」向けに世界に先駆けて量産車に導入した(オランダ、VDT(Van Doorne's Transmissie BV)との共同開発)。

ECVTは自社小排気量車および日産・マーチ(K11型、「N-CVT」の名称で搭載)、イタリアFIAT社のプント、パンダに搭載された。

CVTの技術はその後日産自動車に使用許可が与えられ、日本メーカー各社が主にコンパクトカーなどに採用しているジヤトコ社製「ハイパーCVT」の基となったといわれている。

スバルのCVT搭載車は2009年当時、サンバーを除く全軽自動車に搭載していたが、2009年5月20日にレガシィ、レガシィアウトバックにも金属チェーン式のバリエーター(主変速機機構)を採用した「リニアトロニック」CVTを新たに設定した。

公益社団法人自動車技術会「日本の自動車技術330選」変速機・駆動系部門に、ECVTとリニアトロニックが選ばれている。

リニアトロニック(東京モーターショー2009出展)

現行の主力モデルでは、水平対向エンジンを車体前方に縦置き搭載して四輪を駆動するSYMMETRICAL AWD(シンメトリカルAWD)構造を特徴としている。

水平対向エンジンは、かつてはトヨタ車にも採用車種があるほど普及したエンジン形式だったが、横置きやロングストローク化に適さないことから徐々に採用メーカーが減り、2019年現在、量産型の乗用車用エンジンとしてはSUBARUとポルシェのみとなっている。

また、フルタイム四輪駆動機構を展開する自動車メーカーとしてはドイツのアウディ等が有名であるが、前置き水平対向エンジンとフルタイムAWDの双方を組み合わせた製品を展開するのは、世界でSUBARUのみとなっている。

EG33型水平対向6気筒エンジン

水平対向エンジンは、質量の大きなシリンダーヘッドがクランクシャフトと同じ高さとなるため、直列エンジンやV型エンジンに比べ重心が低い。

また、向かい合うピストンのクランクピンが180°の位置にあるため、互いの一次振動を打ち消し合い、本質的に直列よりもエンジンの振動が少ない。

パッシブセーフティ(衝突安全)の面では、前面衝突時に水平対向エンジンの形状が問題となる。

水平対向エンジンは横幅が広いため、前面衝突を制御するサイドメンバーを適切な位置に通すのが難しい。

この問題は、前面衝突時にエンジンとトランスミッションを床下に潜り込ませる「苦肉の策」により乗り越えている。

電気自動車(EV)の開発については、1960年代後半に国産メーカー各社の開発競争があり、1971年第18回東京モーターショーに、スバル・ff-1 1300Gバンを基にソニー製燃料電池を採用した「スバル・エレクトロワゴンX-1」を参考出品している。

その後、あまり目立った動きはなかったが、突如2002年5月、NECと富士重工業との共同出資による合弁で 「NECラミリオンエナジー」 を設立し、自動車用マンガン系リチウムイオン組電池の開発開始を発表した。

2005年6月、東京電力と共同開発による軽自動車「R1」をベースにしたEV、「R1e」を公開、すでに2007年春から納入を開始した。

2009年 スバル・R1e

2009年6月4日には、電気自動車「プラグインステラ」を発表、同年7月より2年間400台限定でリースの納入を開始。

軽自動車から撤退と共に生産中止し、トヨタと共同開発するハイブリッドカー (HV) に注力。

2013年、初のHV「SUBARU XVハイブリッド」を発売[14]、2015年には「インプレッサスポーツハイブリッド」を投入した。

ハイブリッドシステムは2L水平対向エンジンにCVT、1モーター、パナソニック製0.6kWhニッケル・水素充電池を組み合わせた独自のもの。

過給機(ターボチャージャー)によらず、動力性能の向上と環境性能との両立を志向している。

同一車種の非HV仕様と比べ、燃費がJC08モードで3割程度向上しているが、自動車雑誌による評価では実際の道路状況下における燃費の向上は限定的で、むしろ走りの良さであったり4WD設定があるHVであることが美点とされた。

このハイブリッドシステムは2018年発売のフォレスター以降「e-BOXER」(イーボクサー)と命名された。

e-BOXERエンブレム(フォレスター)


これとは別に、トヨタ・ハイブリッド・システム(THS)をベースにしたプラグインハイブリッドシステム「SUBARU StarDrive Technology」の開発も進められており、2018年に米国市場へ投入したクロストレック(XVの米国名) ハイブリッドに初めて搭載された。

また、2005年に開発を発表した「水平対向ディーゼルエンジン」が2007年3月、スイス・ジュネーヴ・モーターショーで公開され、2008年3月、ドイツを皮切りに順次EU各国とオーストラリアに向けて発売が開始された。

世界初の水平対向4気筒・ターボディーゼルエンジンは「EE20」型 と名付けられ、DOHC・16バルブヘッドのほか、1,800気圧の噴射圧を持つデンソー製コモンレール用インジェクター、IHI製可変ノズルターボを装備。

1,998 cc の排気量から最高出力150 ps /3,600 rpm、最大トルク35.7 kg-m /1,800 rpmを発揮、CO2排出量も148 g/km と現代的なディーゼルに相応しい性能であるが、排ガス値は発表当初「ユーロ4適合」に留まり、より排出ガス規制(特にNOx)の厳しい日本や北米市場への導入は行われていない。

発表当初の予定では、これらの市場へは2010年までの導入を目指していた模様であり、事実、2015年にはユーロ6bに適合させたものの、国内に関しては導入時期の延期および搭載予定車種が数度発表されるに留まっていた。

しかし2017年9月、欧州での販売不振を主因として、ディーゼル車の製造・販売から2020年度をめどに撤退の方針とする報道がなされた。

なお、このEE20型エンジンは、2009年(平成21年)に第6回新機械振興賞「機械振興協会会長賞」を受賞している。



と、まぁ、ここまで第2回のダイハツ編の時と同様あまりに重要な事柄が多くまた、ほとんどWikipediaをコピペする形になってしまった。。。

ここからは第7回の三菱編と同じくレース競技の歴史と共に名車を紹介していこう☆




【スバルの名車とラリーの歴史】


スバルの正式名称は「株式会社SUBARU」。

スバルの2017年までの旧社名は富士重工業株式会社で、その前身は中島飛行機株式会社です。

中島飛行機株式会社は1917年に創業し、世界有数の航空機メーカーとして高い技術を誇った企業でした。

社名を2017年の創業100周年を機に、「富士重工業」から自動車ブランド名として浸透していた「SUBARU」に変更。

現在、北米市場では供給が追い付かないほど人気が過熱しています。


1960年代の名車は何と言ってもこれ。


1958年式スバル360 K111型

てんとう虫の愛称で知られたスバル360

本格的に自動車開発をスタートした富士重工業(現SUBARU)が最初に生み出した傑作といえば、やはりスバル360でしょう。

政府の「国民車構想」の要件をほぼ満たし、日本にマイカー革命をもたらします。

現在は軽自動車開発を中止しているスバルですが、360の大ヒットにより、長期にわたって「軽自動車開発の老舗」として国内で存在感を発揮していました。


「くちびるサンバー」の愛称がついた初代サンバーバン

2代目サンバー 前期型


富士重工業は、乗用車開発に乗り出して間もない1966年発売のスバル1000から現在まで、水平対向エンジンを採用しています。

水平対向エンジンのメリットとしては、重心が低くとれるため、高い走行性と安定性が維持できることが挙げられます。

一方で水平対向エンジンは、使用する部品の数が多いため生産コストが高くなる、エンジンルームの横幅を広くとる必要があり、小型車には向かないなどのデメリットもあります。

現在、自動車メーカーで水平対向エンジンを採用しているのは、スバルとポルシェのみです。

採算性を考えると、水平対向エンジンは大衆車ブランドには不向きで、経営危機の際にはV型や直列エンジンへの切り替えも検討されたほどでした。

それでもスバルは「水平対向エンジン」という軸を持ち続けたことで、高い技術力を持つ独自性のある自動車メーカーとしての評価を確立していったのです。

スバル1000 4ドアバン


そしてスバルが世界的なラリーに挑戦し始めたのは古く、1970年からだといわれています。

1970年、スバルはスバルff-1 1300G スポーツセダンで世界的なラリー・バハ500に挑戦。

スバルff-1 スポーツセダン

バハ500は、メキシコで行われるラリーで、スバル・ff-1 1300Gはクラスで3位、総合で20位に輝きました。

スバルff-1 1300G スポーツセダン


砂漠地帯を疾走するこのレースでのスバルff-1 1300G スポーツセダンの活躍によって、スバルが世界のラリーに通用すると知らしめました。

1972年、スバルはレオーネでサザンクロスラリーに参戦。
スバル・ff-1 1300Gの後継車ともいえるレオーネは、当時FRがレースの主流でしたが、FFでした。


1970年代の名車はこれ。


R-2 デラックス 1970年式

R-2 GLリア

初代レオーネ ハードトップ1400GF

初代ジャスティ アメリカでも「燃費が良い車」として高評価



国際自動車連盟(FIA)は、1973年から世界各国で独立して行われていたラリーを統合する。

これが世界ラリー選手権(WRC)で、各国で行われたラリーイベントの成績によって年間チャンピオンが決められるようになった。

最初はマシンの製造メーカーが競うマニュファクチャラーズタイトルだけだったが、1979年からはドライバーズタイトルも設けられた。




1980年代後半といえば日本はバブル景気で、国産自動車ラインアップがもっとも華々しい時代ですが、スバルは別でした。

当時のスバルは、米国輸出を軸としていましたが、1985年のプラザ合意により急激な円高が進みます。

米国での販売が著しく落ち込み、一時は倒産すら囁かれましたが、起死回生のヒットカーとなったのがレガシィです。

その後、もう1つの看板車種インプレッサも発売され、経営の建て直しに成功します。




1980年、サファリラリーでスバル・レオーネのスイングバック4WDで出場しましたが、WRCで、初めて登場したAWDカーがレオーネでした。


1988年にレガシィが誕生し、STIとプロドライブが協力してレガシーをベースにしたラリーカーを1990年にWRCに投入。



1980年代の名車はこれ。


アルシオーネ 2.7VX

MTもフルタイム4WDになった三代目レオーネ

初代レガシィ

初代レガシィの走りの良さを紐解くには、やはりSUBARUのラリー参戦活動の歴史を振り返る必要がある。

70~80年代の前半頃のSUBARUのモータースポーツ活動は、おもに旧富士重工業の群馬の実験部が関わっていた。

ラリーのなかでもとくに耐久性の高さが求められるイベントにスポット参戦し、極限的な状況下で得られるデータを市販車にフィードバック。

レオーネの悪路走破性能や機械的信頼性の向上に活かされてきたが、80年代の中盤からその目は世界を向くことになる。

SUBARUモータースポーツ活動の大レジェンドである小関典幸さんや、小関さんに抜擢されてラリードライバーや監督として活躍した高岡祥郎さん、そして、のちにSTI初代社長となる久世隆一郎さんらの思いがひとつになって「世界の走り」を目指すようになり、次世代モデルであるレガシィの開発コンセプトに大きな影響を与えた。

浅間山のダートコースや、当時はまだ未舗装だったエビスサーキットをブルーバードやファミリアなどの他社のクルマで走ると、当時のSUBARU車よりも速くて安定していることにショックを受け続けたという。

当時のスバル車との決定的な違いは動力性能で、スバルは悪路走破性を重視するあまり、高速域で求められる動力性能の向上が遅れ、シャシーの性能も高速走行時代についていけない状態だった。

四駆の性能では絶対的な自信があったが当時ファミリアターボに負けた悔しさとショックが、のちの初代レガシィや初代WRXの痛快な走りにつながったそうです☆

初代レガシィ

初代レガシィ

そして1993年、コリン・マクレーがドライブするレガシィが、ニュージーランド・ラリーにおいて初優勝しました。




ちなみに1993年、トヨタは念願のマニュファクチャラーズタイトルを獲得する。


1990年にドライバーズタイトルに輝いた、カルロス・サインツのドライブする「トヨタ・セリカ」。


これが日本のメーカーとしては初のWRC制覇だった。

トヨタは翌年もWRCを制し、ドライバー部門でも1993年、1994年とトヨタのドライバーがタイトルを獲得。

WRCでの日本車の存在感は強まり、世界の強豪として認められるようになる。

このころになると、ライバルはヨーロッパ車ではなくなり、日本車同士がしのぎを削る状況が生まれていた。

当時、ラリーで活躍していたもう一つの日本車メーカーが、富士重工業(スバル)である。




1990年代の名車と言えばこれ。


3代目レックス(1986~1992年)前期型

2代目ドミンゴに追加されたキャンプ仕様車アラジン

人気車となった2代目レガシィツーリングワゴン(1993~1998年)

初代 WRX type RA STi

初代プレオ 前期型

ヴィヴィオ レックスの後継車種



1993年、WRC終盤を迎え、1000湖ラリーでインプレッサが満を持してデビュー、アリ・バタネンが2位を獲得する華々しいスタート。


1993年の1000湖ラリーから投入されたニューモデル「インプレッサ」


1994年、C.サインツが加入し、アクロポリス・ラリーで優勝、マニュファクチャラーズポイントでも2位を奪取します。


1995年のシーズンは、モンテカルロでのサインツ圧勝で幕を開けた。

幸先のいいスタートだったが、次戦のスウェーデンでは全車エンジンブローという最悪の結果が待っていた。

この年からエンジン性能を制限するエアリストリクターの内径が38mmから34mmに縮小されており、それに対応したパーツの軽量化が耐久性に問題を生じさせていたのだ。

スバルの不運をしり目に、スウェーデンで1位、2位を占めたのが三菱である。

「ランサーエボリューション」の成熟を進めてきた三菱は、WRCの有力チームとして急速に力をつけつつあった。

一方、急ごしらえの対策パーツに不安を抱えたまま戦い続けることになったスバルだが、エンジニアの努力のかいもあって、その後同様のトラブルは発生しなかった。

ラスト2戦は3位までをインプレッサが占めるというパーフェクトな勝利を収め、スバルはマニュファクチャラーズタイトルを獲得。

ドライバー部門でもマクレー1位、サインツ2位という結果で、スバルはダブルタイトルに輝いた。



1995年にして5勝を挙げてマニュファクチャラーズとドライバに参戦してから6年で、世界の頂点に立つことになります。


その後も1996年、1997年とマニュファクチャラーズタイトルを制するなど、スバルは好成績をあげ続ける。


1997年のラリーアルゼンチンにて、互いの健闘を称える三菱とスバルのドライバー。
1990年代のWRCにおける日本車の活躍は、世界中のファンに強い印象を植え付けた。


一方、ドライバーズタイトルは三菱のトミ・マキネンが1996年から4連覇。

1998年にはトヨタも復帰し、WRCにおける日本メーカーの戦いは最盛期を迎えた。

その過程でスバルの名声は揺るぎないものになり、六連星はラリーファンの目に焼き付けられた。

スバル・インプレッサWRX STi第1世代(GC8/GF8)

ちなみにスバル車のラインアップのSTIというモデル。

STIは、スバルのレース活動を支えるチューニングファクトリーであり、パーツ開発を行う子会社で、スバル・テクニカ・インターナショナルの頭文字を取ったものです。



2000年代の名車と言えば。


スバルが自社開発した軽トールワゴン 初代ステラ

ディアスワゴンクラシック  2002年のマイチェンまではクラシックのサブネームがついた

「NEWてんとう虫」と呼ばれたスバルR1

R1 小さいが1~2名なら快適に運転できる

R2 前期型


ちなみにR2は親友のT.OHTANI君のクルマだ(笑)





こんなに変わるもんかね(笑)


エクシーガ 前期型



2008年、世界的な不景気などを理由にスバルはWRCから、2009年末に撤退を表明しましたが、インプレッサはWRCではマニュファクチュアラーズチャンピオンに3度、ドライバーズチャンピオンに3度輝きました。

スバル「インプレッサ555WRC」

スバル「インプレッサWRC」

現在のスバルの人気は、インプレッサのWRCでの活躍による影響もあり、ラリーのスバルを印象付けました。





GRBをベースにチューニングされたWRカー

現在のスバルは、小規模ながら独自のメカニズムを持つ自動車会社として世界中から認められる存在となっている。

今日におけるスバルの人気は、WRCでの水際立った活躍によって確立したのだ。



【1990年代の黄金時代】


かつてWRCはトヨタ、スバル、三菱など日本メーカーがワークス参戦し、1990年代に黄金時代を築いた。

トヨタは1990年と1992年にカルロス・サインツがセリカGT-FOURでドライバーズタイトルを獲得。

1993年にはユハ・カンクネン、1994年にはディディエ・オリオールが、それぞれドライバーズタイトルとマニュファクチャラーズ(製造者)タイトルの2冠を達成。

1999年にカローラWRCが3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した後、トヨタはF1参戦を機にWRCから撤退した。

マニュファクチャラーズの優勝回数はスバルが通算47回でトップ。

トヨタが43回、三菱が34回と続く。

スバルは1995年から1997年までインプレッサWRXで3年連続チャンピオンとなった。

WRCはレーシングカーと異なり、市販車のイメージを強く残すマシンで戦う。

欧州では人気があり、マーケティング効果も高い。

スバルインプレッサの活躍が、欧州におけるスバルのブランドイメージを飛躍的に高めたように、世界を転戦するラリーカーは、走る広告塔でもある。

韓国の現代がWRCに参戦したのは、同じ極東のメーカーであるスバルが欧州で名声を高めたことに習ったと言われている。


そして最近のスバル車と言えば。


WRX STI 2017年マイナーチェンジモデル TypeS

WRX STI ニュル24時間レース参戦車両

元はインプレッサのスポーツグレードだが、2014年に独立。AWD・6速MTのみの設定。2.0Lの水平対向エンジンDOHCターボは最高出力308PS、最大トルク43.0kgf・m。日常でも、サーキットでも、クルマを操る楽しみを心から味わえるハイパフォーマンスセダン!


WRX S4 2017年マイナーチェンジモデル

インプレッサから独立したWRX STIとともに誕生。ほぼ国内専売。STIは6速MTのみだが、S4はCVTのみの設定。2.0L直射DOHCターボで、STIよりは劣るが最高出力300 PS、 最大トルク40.8kgf/mと十分に走りは楽しめる。アイサイトも搭載。


現行型レガシィB4

スバルのフラグシップセダン。3代目BE系よりB4のサブネームがつき、全車AWDへ。6代目は2014年~。米国でのロングセラーのため、2020年に現地生産に切り替える。北米は2019年9月に7代目へ移行した。


SUBARU BRZ 2012年発売初期型

トヨタと共同開発したスポーツカー。Bはボクサーエンジン、Rはリアホイールドライブ(後輪駆動)、Zは「究極」を意味する。兄弟車86とともに生産はスバル群馬製作所本工場。スバルブルーとして知られるWRブルー・パールなどのカラーはBRZのみに設定。


現行型スバルXV(2017年~)

現行型XV 
スバルのクロスオーバーSUVとして人気上昇中

初代はインプレッサXV。2代目GP系よりXVの単独名へ。3代目は2017年発売。フルタイム4WDのコンパクトSUVで、女性にも人気。フォレスターで話題となったハイブリッドシステム「e-BOXER」を搭載したAdvanceグレードを追加したところ、予想を上回る人気車に。


現行型レガシィ アウトバックLimited(2014年~)

レガシィツーリングワゴンをベースにしたクロスオーバーSUV。米国では1994年から発売。現行型は日本仕様車は2.5Lの4気筒ボクサーエンジンのみだが、北米には3.6Lの6気筒も存在。日本の約24倍、米国で最も売れているスバル車の1つ。


フォレスター Advance 2018年に発売し大ヒット中

レガシィアウトバックともに北米で大ヒットしているクロスオーバーSUV。全グレード、スバルが誇るシンメトリカルAWDを採用。5代目は2018年発売で、ハイブリッドシステム「e-BOXER」を初搭載し、話題を呼んだ。


現行型レヴォーグ 全長4690mm×全幅1780mmと日本で扱いやすいサイズ

レガシィツーリングワゴンの後継。エンジンは1.6Lと2.0L、水平対向4気筒の直噴ターボ。MT設定はなし。5代目ツーリングワゴンよりも全長10cm、全高5cmほど短縮し、コンパクトな印象に。ほぼ日本専売車。2017年にはアイサイト・ツーリングアシストを初搭載。


現行型インプレッサスポーツ

インプレッサ4代目以降、ハッチバックは「SPORT」のサブネームがつくことに。5代目は2016年~で、セダンタイプG4とともに日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞。アイサイトや歩行者保護エアバックなど安全性への先進的な取り組みが高評価。


現行型プレオ+ ダイハツ・ミライースのOEM

ダイハツ・ミライースのOEM車。初代(2012~2017)、2代目(2017~)ともに違いはエンブレム程度。上位グレードはダイハツの予防安全機能スマートアシストを装備。トヨタ・ピクシスエポックは兄弟車。


あとは、ジャスティ、シフォン、ステラ、ディアスワゴン、サンバーなどです☆


【ライナップ】









【不祥事】


ちなみに実はスバルも不祥事が結構あります。

①1998年汚職事件

②1996年リコール隠し

③2012年補助金不正

④1984年、2017年不正・無資格検査問題

⑤2018年、燃費・排ガス・ブレーキ検査のデータ書き換え

⑥2018年、軽自動車用を除くエンジン不具合に伴う大規模リコール

⑦電動パワーステアリングの不具合による国内生産工場停止

⑧残業代未払い問題



【まとめ】


長年に亘り信頼性の高さで多くの根強いファンを持ち、新規顧客を多く獲得してきたスバル。

品質や性能を大事にする体制を着実に構築し、ユーザーにもう一度信用してもらうことしかない。

スバルは「水平対向エンジン+AWD」を組み合わせたクルマ作りを行う独自色の強い自動車メーカーでとても好きである。

歴代車種を見ても、他の自動車メーカーとは一味違うスタイリングや技術的挑戦が目立っている。

近年ではEyeSightなどの予防安全システムも高評価です。

高い技術力に安全性、そして何より他社にはないマニアックなクルマ作りを続けている点はマツダにそっくりです(笑)

新たなスバリストを今後どう獲得していくのか。

ただ、それにはやはり走りに徹底したクルマを作り続けてほしいものです。

自動車業界全体が変革期にあるなか、スバルがどのような形で存在感を示していくのか、今後の動向が楽しみです!



それではまた(笑)



※追記

8/8
群サイでの鎌田選手の事故を受けてスバルとSTIは、2023年シーズンの「SUBARU RALLY CHALLENGE」活動休止となりました(泣)

SUBARU WRX RALLY CHALLENGE 2023

新井選手はプライベートチームとして新型WRX S4で全日本ラリー参戦予定だそうです。





参考資料


ベストカーweb
ランエボ対インプレッサ、世界の舞台で両雄衝突!!1990年代に繰り広げられた死闘

auto sport web
スバル/STI、全日本ラリー第6戦ARKラリー・カムイの新井敏弘と鎌田卓麻の参戦を見送り

STREET CHIC
スバルのラリーの歴史 「ラリーのスバル」と呼ばれるまで

web car-top
平成元年生まれの怪物! スバル車の壁を打ち破った「初代レガシィ」の衝撃 (1/3ページ)

Response
スバル インプレッサが駆け抜けた30年、初代から新型までの歴史を振り返る

イキクル
スバル・インプレッサWRX STIの進化の歴史を振り返る!各世代のスペックや装備の違いなど、初代GC8からインプレッサとして最後のモデルとなるGRB/GVBまで徹底比較!

カーセンサー
WRCを席巻したスバル インプレッサ開発者が語る「ラリーカーと市販車に共通するもの」とは?

webCG
第60回:世界を駆けた六連星 WRCに挑んだ日本メーカーとスバルの栄光

car-watch
スバルとSTI、2023年シーズンの「SUBARU RALLY CHALLENGE」活動休止 新井選手はプライベートチームとして新型WRX S4で全日本ラリー参戦予定

広島SUBARU株式会社
【クルマの知識】スバルの六連星の意味を知っていますか

スバルHP

Wikipedia
Posted at 2023/08/09 02:04:39 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年08月04日 イイね!

第7回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜三菱編♪

第7回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜三菱編♪さて、個人的に好きな自動車会社を調べてみよう〜語ってみよう〜第7回は三菱自動車になります☆


ほとんどの自動車会社の紹介が過去のクルマ紹介になって申し訳ありませんが、三菱自動車こそ本当にそうなってしまいます!

誠に申し訳ありません。。。





まず、最初に現在のライナップから紹介致します。

これは現行の販売ライナップです。
ミラージュは生産終了していますので外しております。


【三菱自動車ライナップ】

EV

SUV

ミニバン

コンパクト

軽自動車


商用車

全17台です。




三菱自動車と言えばなんでしょう?

ミニカ、ギャラン、ランサー、コルト、スタリオン、GTO,FTO、ジープ、パジェロ、パジェロミニ。。。


今や何にもありません。
MT車はゼロです。。。


まぁ、ekワゴンとデリカくらいですか。
名前残っているものは。。。


私のかつての愛車。。。
CA4Aミラージュも。

買った当初の我が愛車。





今はみる影もないライナップ😔




それでは紹介しましょう。



三菱自動車工業株式会社(みつびしじどうしゃこうぎょう、略称:三菱自動車(みつびしじどうしゃ)・三菱自工(みつびしじこう)、英: MITSUBISHI MOTORS CORPORATION 略称:MMC)


本社が入るmsb Tamachi 田町ステーションタワーS


三菱自動車工業は、日本の自動車メーカーのひとつであり、1970年に三菱重工業から独立した会社である。

2003年にはトラック・バス部門を分社化(三菱ふそうトラック・バス)。

2016年10月に日産自動車が筆頭株主となり、日産自動車とフランスのルノーと共にルノー・日産・三菱アライアンスを構成している。また、三菱商事の持分法適用関連会社でもある。

2021年の販売台数は93万7,000台で、内訳は北米15万6,000台、欧州13万1,000台、日本7万台、アジア32万1,000台、その他14万7,000台[8]。日本国内での登録台数シェア(≒販売台数シェア)は、2017年で0.9%、2018年で1.1%という企業である。



【三菱自動車の興り】


1870年
土佐藩が九十九商会(のちの三川商会)を開業し、岩崎彌太郎が経営者に就任

1873年
岩崎彌太郎が三川商会を三菱商会と改称し、社長に就任

1893年
岩崎久彌が三菱合資会社社長に就任

1914年

三菱商標(スリーダイヤ・マーク)を登録

1917年
三菱合資会社造船部が三菱造船株式会社(のちの三菱重工業株式会社)として独立

1949年
トラック・バスの販売会社としてふそう自動車販売株式会社を設立

1950年
三菱重工業株式会社が3社に分割

1954年

国産ジープの販売会社として菱和自動車販売株式会社(のちの新三菱自動車販売株式会社)を設立

1964年
重工3社が合併し、三菱重工業株式会社として発足

三菱自動車販売株式会社を設立

1967年

ジープの生産を東洋工機株式会社(現、パジェロ製造株式会社)に全面委託

1970年

三菱自動車工業株式会社が誕生



ここから三菱自動車が始まります。



日本では、1904年に山羽虎夫によって日本車第1号と言われている「山羽式蒸気自動車」が製作され、1911年には東京府東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)に「快進社自働車工場」(日産自動車の源流)が設立され、日本初のエンジンまでも含めた純国産車を開発し、また1916年にはアロー号が製作されたという歴史があるが、三菱は、1917年から『A型』を世に送り出した。

三菱A型
日本初の量産乗用車


A型は1921年までに22台生産され、日本で初めての「量産乗用車」となった。

現在の三菱自動車工業は、三菱重工業とクライスラー社との合弁事業としてスタートし、1993年までクライスラーと資本提携していた。

その後、2000年からドイツに本拠を置くダイムラー・クライスラー(現・メルセデス・ベンツ・グループ)と資本提携関係となったが、2005年に解消。

ジープ
『ジープ』の国産化


なお、クライスラーとの技術提携関係は2009年まで継続されていた。

2003年にはトラックやバスなど大型車事業を「三菱ふそうトラック・バス」として分社化。

2年後、同社はダイムラー(現・ダイムラー・トラック)傘下へ譲渡された。

2008年、プジョー・シトロエン(現・ステランティス)との間で、ロシアでプジョーブランド、シトロエンブランド、三菱ブランドの車両を生産するための合弁事業に関する基本契約を締結した。

2016年10月20日、日産自動車が三菱自動車の株式の34%を保有する筆頭株主となった。

同年12月14日、臨時株主総会で日産自動車会長兼社長カルロス・ゴーンの会長就任が正式に承認された(CEOは益子修社長が継続)。

2018年11月26日に開かれた臨時取締役会で、金融商品取引法違反容疑で同月19日に逮捕されたゴーンの代表取締役会長職の解任を決議した。

三菱自動車は、2009年7月に世界初の量産型EV(量産型電気自動車)となる『i-MiEV』を発売したメーカーである。

i-MiEV(アイ・ミーブ)
量産型の新世代電気自動車



また、サッカーJリーグ・浦和レッドダイヤモンズの親会社でもあった。

日産自動車との資本提携に伴い、新たに三菱重工業が共同で浦和レッズに出資することとなり、三菱自動車の出資比率は大きく引き下げられた。




【レース参戦及び名車の数々】


過去に各自動車メーカーはこぞってレース参戦していたが三菱自動車こそ、レース、ラリー競技なしでは語れないメーカーである。


1962年

マカオグランプリで『三菱500』がクラス1~3位を独占

三菱500
コンパクト・ファミリーカー

1964年

日本グランプリで『コルト1000』がクラス1~3位を独占

コルト1000
初の量産型4ドアセダン


1967年

サザンクロスラリーで『コルト1000F』がクラス優勝(総合4位)

コルト1000F
高速時代に最もマッチ


1971年

日本グランプリで『コルトF2000』が優勝


1973年


サザンクロスラリーで『ランサー1600GSR』が総合1~4位を独占

ランサー
「ラリーの三菱」を強烈に印象付け



ミニカF4
ファミリーを意識した4サイクルエンジンのクルマ


1974年

WRCサファリラリーで『ランサー1600GSR』が総合優勝(WRC初優勝)

サザンクロスラリーで『ランサー1600GSR』が総合優勝

1975年
サザンクロスラリーで『ランサー1600GSR』が総合優勝



ランサーセレステ
『ランサー』のクーペバージョン


1976年
WRCサファリラリーで『ランサー1600GSR』が総合1~3位を独占

サザンクロスラリーでランサー1600GSRが総合優勝


ギャランΣ
「集大成」を意味する「Σ(シグマ)」


1977年
バンダマラリーで『ランサー1600GSR」が総合1~2位獲得、同ラリーを最後に国際ラリー活動休止



デリカ スターワゴン
ワンボックスワゴンとして日本初の4WD車


ランサーEX
ベストクオリティの追求


この車が私のベストカー☆


1981年
『ランサーEX2000ターボ』で国際ラリー活動再開


1982年

WRC1000湖ラリーで『ランサーEX2000ターボ』が総合3位獲得


スタリオン
スポーティカーの第4弾


1983年
ダカールラリーで『パジェロ』が初出場し、市販車無改造クラス優勝


パジェロ
RV/4WDブームのけん引役


ミラージュ
タマゴのカタチから発想


1984年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合3位、市販車無改造クラス優勝



ミニキャブ
レジャーにも使える軽商用車


1985年

ダカールラリーで『パジェロ』が初の総合優勝

1986年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合3位、市販車無改造クラス優勝



デリカ スターワゴン
走るリビングルーム


1987年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合3位(篠塚建次郎、日本人初のトップ3入り)



ギャラン
「インディビデュアル4ドア」


1988年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合2位


1989年

WRC1000湖ラリー、RACラリーで『ギャランVR-4』が総合優勝

ダカールラリーで『パジェロ』が総合3位


1990年
WRCアイボリーコーストラリーで『ギャランVR-4』が総合優勝



ディアマンテ/シグマ
2.5L車市場を創出


GTO
スーパー4WDスポーツカー


エクリプス
個性的なスポーツクーペ


ミニカトッポ
DIY感覚あふれるFUN BOX


1991年
WRCスウェディッシュラリー、アイボリーコーストラリーで『ギャランVR-4』が総合優勝


ダカールラリーで『パジェロ』が総合2位・3位



ランサー
新時代のベーシックカー


ミラージュ
個性的な4代目



ジムカーナでシビックに立ち向かった4代目ミラージュ

出典:http://static.wixstatic.com/

三菱 CA4A ミラージュ(4代目・3ドアRS)のスペック
全長×全幅×全高(mm):3,950×1,680×1,365
ホイールベース(mm):2,440
車両重量(kg):1,010
エンジン型式:4G92
エンジン仕様:直列4気筒DOHC16バルブ
総排気量(cc):1,597
最高出力:175ps/7,500rpm
最大トルク:17kgm/7,000rpm
トランスミッション:5MT
駆動方式:FF




当時の我が愛車♪
マジカッコイイ☆
1.6L NA175馬力♪


5代目ミラージュもシビックと最後まで戦い続けた☆

出典:http://www.jrca.gr.jp/


ワンメイクレース「ミラージュカップ」






家にあるBest MOTORingのVHSビデオは未だに見ちゃいます☆


ちなみに当時、住んでいたアパートの駐車場には私のCA4Aミラージュ、そして隣には下の階にお住まいでダート競技をしていたCJ4Aミラージュ、そしてその隣に私の親友のT.OHTANI君の2シーターのZ32フェアレディZが停まっていたという奇跡的ライナップだった(笑)


懐かしすぎる(笑)





パジェロ
9年ぶりのフルモデルチェンジ


1992年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝


WRCアイボリーコーストラリーで『ギャランVR-4』が総合優勝


はい!

ついに出ました!

ランサーエボリューション
発売後に即完売


1993年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝


『ランサーエボリューション』でWRC参戦

チュニジアラリーで『パジェロ』が総合優勝・2位


アトラスラリーで『パジェロ』が総合優勝


ニューミニカトッポ
スーパースペースランナバウト


1994年

『ランサーエボリューション』でWRC参戦

インドネシアラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝・3位


タイラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝・3位



FTO
『GTO』の弟分


ランサーエボリューションⅡ
実践経験をフィードバック


パジェロミニ
新発想のミニRV


1995年
マレーシアラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝・2位



WRC 2大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝

香港~北京ラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝・2位

ダカールラリーで『パジェロ』が総合2位・3位




エクリプス
丸みのある躍動感に満ちた面構成


ミラージュ
いっそうコンパクトに


ランサーエボリューションⅢ
WRCドライバーズチャンピオン

1996年

WRC 5大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝、ドライバーズチャンピオン獲得

香港~北京ラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝・2位・3位



ギャラン
「GDI」を世界に先駆け搭載


レグナム
プレステージスポーツワゴン



ランサーエボリューションⅣ
第2世代


1997年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝(篠塚建次郎、日本人初のダカールラリー総合優勝)



WRC 4大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝、ドライバーズチャンピオン獲得



RVR/RVRスポーツギア
「楽しさ」「やさしさ」


1998年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝



WRC 7大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝、マニュファクチャラーチャンピオン、ドライバーズチャンピオン獲得



ランサーエボリューションV
初のマニュファクチャラーズチャンピオン



トッポBJ
『ミニカトッポ』の後継モデル


1999年

WRC 4大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝、ドライバーズチャンピオン獲得

ダカールラリーでパジェロが総合2位・3位・4位




ランサーエボリューションⅥ
冷却効率と空力性能を向上


パジェロ
操縦安定性と乗り心地を両立


2000年

WRC モンテカルロラリーで『ランサーエボリューション』が総合優勝



ランサーセディアワゴン
『リベロ』の後継


2001年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝



WRC 3大会で『ランサーエボリューション』が総合優勝



ランサーエボリューションⅦ
完全リメイク



eKワゴン
真に「いい軽(eK)」


2002年

ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝(増岡浩、ダカールラリー初優勝)


WRC スウェディッシュラリーで『ランサーエボリューションWRC』が総合5位



コルト
『コルト』のネーミングを復活


eKスポーツ
「eKシリーズ」の第2弾


2003年

ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝(増岡浩、ダカールラリー2連覇)




ランサーエボリューションⅧ
スーパーAYCを採用


2004年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝


WRC モンテカルロラリーで『ランサーWRC04』が総合6位

WRC スペインラリーで『ランサーWRC04』が総合6位


2005年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝


WRC モンテカルロラリーで『ランサーWRC05』が総合3位


WRC ラリー・オーストラリアで『ランサーWRC05』が総合2位・5位



ランサーエボリューションⅨ
2.0L MIVEC インタークーラーターボ


2006年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝



i(アイ)
未来型スモールカー


2007年
ダカールラリーで『パジェロ』が総合優勝



デリカD:5
ミニバンを骨格から見直した安心・安全の新設計


ランサーエボリューションⅩ
新世代の高性能4WDセダン



2005年
WRCワークス活動休止を発表

2009年
ダカールラリーにおけるワークス活動終了を発表





輝かしい実績と名車の数々☆



さて、過去の話で盛り上がっちゃいましたが、私はね、日産と同じくらい思い入れあるんですよね〜。




当時、三菱と言えばラリー、ダートラ♪





ところが今は三菱と言えば不祥事の印象。。。




2013年に増岡浩がパイクスピークでEVクラス2位を獲得したMiEV Evolution Ⅱ


その後もレース競技には関わっているが、2013年(平成25年)、スズキと軽商用車のOEM供給につき基本合意。

その後、ルノー=日産アライアンスと生産・技術・生産を共用するプロジェクトに合意。

2015年(平成27年)
ランサーエボリューションXの生産終了を記念した限定モデル「ランサーエボリューション ファイナルエディション」をもって、自社開発による日本国内及びごく一部の新興国を除く日本国外におけるセダン市場からの完全撤退を決定した。

これにより、軽自動車(日本国内のみ)、およびSUVを中心としたラインナップ構成になる。

また、ランサーエボリューションXの販売終了をもって、日本国内において三菱ブランドで販売されるMTの乗用車が皆無となった。




悲しいね〜。。。




2018年(平成30年)代表取締役会長であるカルロス・ゴーンが、日産自動車に関する金融商品取引法違反容疑で東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。



2020年(令和2年)子会社のパジェロ製造株式会社(岐阜県加茂郡坂祝町)について、2021年上期をもって全ての車種生産を停止し、その後閉鎖することを発表。


これと同時に2021年(令和3年)以降より欧州向け商品の新型車投入を順次凍結し、ASEAN市場向けの商品投入に集中させると発表。




悲しいの〜。。。






【三菱自動車の高い技術力】



三菱自動車の技術力はとんでもなかったのです。

不祥事が原因で日産に34%の株を売って筆頭株主の座を渡しました。

そんなこともあり、現在はルノー・日産・三菱アライアンスの一員となっています。

しかし、かつての三菱はWRC(世界ラリー選手権)に参戦し、チャンピオンに輝くなど、当時のラリーシーンを席巻していました。

その高い技術力と、当時のRVブーム(ステーションワゴン、ミニバン、オフロードなどの車ブーム)でパジェロが人気になったことで、1994年にホンダからシェア率3位を勝ち取りました。



三菱は4年連続でドライバーズタイトルを勝ち取り、当時はラリーレースの中心にいました。

このラリーという存在が三菱自動車を4WDターボの第一人者とする要因だったのです。

V6 2.0Lエンジンを搭載したFTOはカーオブザイヤーに輝き、ギャランは量産車世界初の直噴GDIエンジンを載せていました。


『三菱GDI』


三菱は1970年代に三菱クリーンエアシステム(MCA)を開発し、80年代からは気筒休止システムや希薄燃焼のリーンバーンエンジンにも挑んでいる。燃費を向上させるリーンバーンエンジンを発展させたのが「直噴」と呼ばれる筒内直接噴射方式のガソリンエンジンだ。

三菱自動車は、これを「GDI(ガソリン・ダイレクト・インジェクション)」と名付け、96年夏にギャランとスポーツワゴンのレグナムに搭載して送り出した。


三菱自動車は低燃費高効率のエンジンを研究開発し、筒内直接噴射方式のガソリンエンジンを「GDI」と名付け、写真のギャランとレグナムに搭載して送り出した


三菱のGDIエンジンは、今につながる低燃費エンジンの先駆けとなった。

三菱は、生産コストがかさむGDIエンジンに惚れ込み、大胆にも「フルラインGDI」戦略をとった。


パジェロやディアマンテにはV型6気筒のGDIエンジンが搭載された


ストイキ(理論空燃比)での直噴も可能となり、2000年以降は均質燃焼方式の直噴エンジンが増えてくる。

また、直噴方式を採用した小排気量エンジンにターボを組み合わせ、余裕ある出力を発生させながら燃費の悪化を防ぐダウンサイジングターボも登場した。

ところが、三菱はGDIエンジンに見切りを付け、2007年に生産を打ち切っている。

京都議定書で温室効果ガス、CO2の排出量を抑える削減目標値が明示される前に三菱は燃費のいいGDIエンジンを実用化し、発売に移した。

三菱の英断は讃えられるべきだろう。

三菱がGDIエンジンを送り出さなければ、直噴エンジン時代の到来はかなり遅くなっていたはずだ。



さらに、1996年で既にセンサーで自動的にブレーキをかけるような現代のクルーズコントロールに当たる安全機能を開発するなど、高い技術力と信頼を持っていました。


『4WDの三菱』


ランサーエボリューションはWRCに出場するために作られたホモロゲモデルとして登場した。

ランエボIIIまでの第1世代を見ると、普通のセンターデフ式フルタイム4WDだったものの、1996年発表の第2世代のエボIVになり、第1世代で得た4WDの知見が入って後輪左右の駆動力を別個にコントロールするAYCという技術を入れてくる。

1996年に登場したランサーエボリューションIV。

全長4330×全幅1690×全高1415mm、4G63型2L直4ターボエンジンは280ps/36.0kgm、AYC(アクティブ・ヨー・コントロール)を初めて採用した。


WRCで鍛えられ完成度を上げた「AYC(アクティブ・ヨー・コントロール)」。


AYCは戦車のように右輪と左輪の駆動トルクを別個にかけるという技術で、アンダーステアの出やすいFF横置きベースの4WDを、まるで後輪駆動車のように「アクセル踏むと曲がるクルマ」とした。

当時、こういった4WD技術を投入したメーカーは世界を探しても三菱自動車だけ。

そしてAYCの能力を拡大していく。

当初、後輪だけだった駆動力配分の制御を前後でも行うようになる。

WRCに出ている車両は、前後の駆動力配分だけでなく、前後輪左右の駆動力配分も電子制御していたと言われており、WRCでトミ・マキネンが圧倒的な速さを見せつけた。

WRCで4WD技術を極めた三菱自動車だったが、不祥事やリーマンショックで大幅自粛モードに入ってしまう。




とは言え、三菱の不祥事はとんでもなくある。




『三菱自動車の不祥事』


1996年 

米国三菱自動車製造でセクハラ。民事訴訟に発展した。

1997年 

総会屋(株主総会で権利を行使し、不当に企業から金品を受け取る組織)への利益供与事件が摘発。

2000年

道路運送車両法違反(リコール隠し)が発覚、河添社長が辞任。

2004年 

またしてもリコール隠し。

2004年 

2002年の、ふそうトラックタイヤ脱落事故捜査により、3度目のリコール隠しと「ヤミ改修」(リコールを隠しながら不具合を改善すること)が発覚。

多くの経営幹部や開発部門関係者が逮捕されて経営的に破綻しかける。

2016年 

燃費試験の不正問題が日産に指摘され発覚。

燃費試験の不正発覚後も不正な方法で試験を行なっていた。

2017年 

日産と共に景品表示法の優良誤認違反で消費者庁に措置命令を下される。

2018年 

技能実習生のフィリピン人に不当な業務をさせる。

2018年 

代表取締役カルロス・ゴーンが金融商品取引法違反容疑で逮捕


リコールに関しては精密機器を製造する上である程度は仕方のないことである。

メーカー各社大なり小なりあることで、人の作るものですから、多少の問題は出てきてしまいます。

しかし、それを隠すというのはいけないでしょう。



相次ぐ不祥事と同時に「速く走るための4WD」も社内的に否定されてしまう。

むしろ、「徹底的に安定感を持たせないとならない」という流れになる。

この益子前社長のクルマ感を100%具現化させた、という車がこちら。

2012年に登場したアウトランダーPHEV。ツインモーターによるS-AWCを初めて採用


これが大失敗。
「曲がらない、運転していてつまらない。」と話題に。


ちなみに益子前社長、噂では運転免許も持っていなく、ランエボが「大キライ!」だったらしい。

ホントかウソか。。。



そこでほかの部署に回されていた駆動力マイスターの澤瀬さんを筆頭にランエボの開発に携わっていた技術者を現場に復帰させた。

それを受けて改良されたのが、2017年以降に出てきたモデル群です。



2021年発売アウトランダーPHEV。

シャシーとサスペンションの性能が向上し、磨きのかかったS-AWC制御を実現した。

このアウトランダーPHEVのツインモーター4WDは前後輪を各々独立したモーターで駆動させるシステムだが、その完成度の高さは他社の開発陣に舌を巻かせるほどのできのよさだったというから興味深い。


当時、あのスバルインプレッサWRX S4の開発陣すらも、


「新型アウトランダーPHEVの4WDはやはり違うなと。最近、RAV4以降に急激にレベルの上がったトヨタさんの4WDに注目してきて、三菱さんはあまり見ていなかったのですが、やはり三菱さんが蓄積してきた4WDの知見は凄いものがあります。」

と絶賛していたようだ。


三菱自動車の4WD技術、いまだに世界TOPクラスだと専門家は言う。


しかしながら素晴らしい技術力よりも世間の印象は不祥事の方に向いてしまうのが今の三菱自動車。

今や市場を国内から海外に移している。



度重なる不祥事により日産に泣きついた三菱自動車。

もう三菱自動車は売れる車を作れなくなったと言われています。

三菱自動車のカーラインアップを見たら、

「こんなに少ないの!?」

と驚いていしまうかと思います。


それが、1番最初に挙げたライナップ(笑)


しかも、そのほとんどが日産などから提供されている車で、1990年代を一世風靡していたランサーエボリューションの姿はありません。

ファンからは、

「三菱はランエボを捨てた。ファンを捨てた。」

と言われています。

かつてはあれほど力を入れていたラリーの中心、三菱の魂であるランサーエボリューションを生産終了させた三菱はファンを失望させました。

もう乗用車のラインアップにはSUV、ミニバン、コンパクトカー、軽自動車しかありません。

しかもそのほとんどが日産やスズキからのOEM供給車です。

SUVこそ三菱自社の車となっていますが、ミニバンやコンパクトカーはOEM供給に頼っている部分が大きいと言えます。

デリカD:3は日産NVバネットワゴンがベースとなっていますし、デリカD:2はスズキのソリオがベースです。

他にも、ekスペース、ekスペース カスタム、ekワゴンは日産との共同開発、タウンボックスもスズキからのOEM供給車です。

さらに、商用車は全てがOEM供給車です。

逆に、日産へはデイズを提供しており、日産の強い販売力で利益を支えているようです。

三菱はもうSUVしか作れないのでしょうか。





去年、ラリーアートが復活しました。

チーム三菱ラリーアートは、2022年11月21日から26日にかけて開催され「アジアクロスカントリーラリー2022」に3台の「トライトン」で参戦。

これが実質的なラリーアートの“復帰戦”となった。

そして、三菱ラリーアートが久しぶりにフィールドで大暴れ。総合優勝した!


ラリーアート復活でもいろんな記事をみるとランエボ、パジェロの復活は当面厳しいらしい。


あと、最近のニュースとして、三菱自動車、新型「トライトン」の概要発表 。

約12年ぶりに日本導入。

新型1tピックアップトラック「トライトン」を世界初披露



少し明るい兆しではあるが、日本でのイメージは非常に厳しい。


かつての勢いのあった三菱に是非とも戻ってきて欲しいものだ!




それではまた(笑)





参考資料


ジョブマガジン
三菱自動車、その失敗と挑戦の歴史

Response
三菱A型からランエボ、eKまでの歴史をたどる…三菱自動車50周年

Ancar Channel
【日本で売れない三菱】三菱自動車はなぜこうなったのか

くるまのニュース
突然の退任! 三菱自動車 益子会長はランエボ嫌いだった? 実際どのような人物だったのか

東洋経済Online
なぜ三菱自動車は芯から腐ってしまったのか

Motors
街乗りでもレースでも大人気の三菱ホットハッチ「ミラージュ」の魅力とは

ベストカーweb
これぞ技術革新だった!?三菱GDIは直噴時代わー切り拓いた圧倒的パイオニアだったのか

伝説の「4WDの三菱」は健在だった!!他社も注目するその技術力とは!?


Car watch
三菱自動車、新型「トライトン」の概要発表 約12年ぶりに日本導入

MOTA
ラリーアート復活で期待するのはパジェロやランサーエボリューションの復活だった【みんなの声を聞いてみた】

webCG
第726回:三菱ラリーアートがついに復活! 総監督の増岡 浩がラリー挑戦の意義を語る

三菱自動車HP

Wikipediaより
Posted at 2023/08/04 12:16:31 | コメント(0) | トラックバック(0)
2023年07月28日 イイね!

第6回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜マツダ編♪

第6回 個人的に自動車会社、好きな車を語ってみる☆〜マツダ編♪さあ、トヨタ、ダイハツ、スズキ、ホンダ、日産と来まして今回はマツダを調べてみよう〜、語ってみよう〜のコーナーです☆


マツダと言えば実はかなり好きな車種が多い♪

ユーノスロードスター、ユーノスコスモ、サバンナRX-7、アンフィニRX-7、デミオ、オートザムキャロル、AZ-1などなど名車揃い☆

ロータリーエンジンを極めた上に何よりデザインが断トツにカッコイイ!


これが私の印象☆


マツダは、ロータリーエンジンを搭載した自動車を量産していたほか、ロードスターは「2人乗り小型オープンスポーツカー」の生産累計世界一としてギネス世界記録の認定を受けている。


そして、1991年には日本メーカーとしては初のル・マン24時間レースでの総合優勝を果たした。




さあ、会社紹介をしていきましょう!


マツダ株式会社(英: Mazda Motor Corporation)は、広島県に本拠を置く、日本の自動車メーカーである。日経平均株価の構成銘柄の一つ。



本社所在地は広島県安芸郡府中町新地3-1で、自動車及び同部品の製造・販売を事業としている、自動車メーカー。


マツダ本社

2018年5月には日本国内生産累計5000万台を達成した。国内メーカーではトヨタ、日産に次ぐ3社目の達成である。

2022年度の世界販売台数は110万台である。




さて、この度マツダの歴史を調べていくにあたり大変苦労してきた企業であることがわかった!

当時の時代背景、タイミング、いろいろな面での紆余曲折があったことをはじめて知りました☆
それではWikipediaと共に捕捉を入れながら紹介しましょう。




『マツダの歴史』



【設立から戦争まで】


マツダの原点はコルク製品の製造である。


1920年(大正9年)1月30日、広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された。

1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任。

松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する。

海軍から大量の受注を得て業績は回復し、東京や大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した。

しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた。


かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう。


「東洋コルク工業の圧搾コルク板」


こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意。

1927年(昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した。

1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注。

同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した。

過去の債務保証から日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた。

第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる。

東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出したが、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあり、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した。

1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手。

オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった。

また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得。

松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した。

コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ(そのためタンクマークには、三菱のスリーダイヤが入っている。

その頃、乗用車やバス〈現三菱ふそう〉を製造していた三菱造船〈現三菱自動車〉は関係していない)。




この辺は現在じゃ考えられないことですね(笑)

三菱のマークがついているのに三菱自動車が作ったんではないと。。。(笑)





1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始。

「マツダ初の三輪トラック、マツダ号DA型(1931年)」


軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した。

改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得。

売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された。

1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島に開発した削岩機を初納入し、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた。

1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した。

この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた。

1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスのオースチン・7を購入して研究を開始。

さらにドイツ車のオペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた。

1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあったが、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた。

「1940年に完成した試作四輪車」



1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された。

自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された。




東洋工業は、海軍関係の兵器や機械、部品の製造、さらに海軍工廠の指定工場となり、航空機のエンジンやプロペラ、軍艦の精密機械などを受注していたことから軍需工場にならざる負えなかったのだ。

自動車製造の夢はここに時代と共に崩れ去る。。。

この辺が今までのトヨタや日産等の他の自動車会社と大きく違ったのではないか。

もちろん戦争がその背景にあってそれは他社も軍用トラックとかであったかもしれないが、東洋工業の当時の存在価値はより深く戦争兵器製造というまさに中心にいたのかもしれない。。。

ちなみに1944年にトヨタも軍需企業に指定されて軍需省の統制下に入って航空機エンジン等を作っていたが、爆弾、水雷、信管などの製造をしていた東洋工業は不本意だったのかもしれない。

もちろん戦時中には当然言えないだろうが。。。





1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった。

陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した。

呉海軍工廠からは爆弾、水雷、信管などの製造の命令を受けた。


「1941年に竣工した小銃工場」


軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された。

しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ。

1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した。

1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業株を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた。

翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った。

同5月には東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した。

同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した。

この年の10月には東洋工業は8,556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており、戦時中に製造した小銃は累計で58万5,646挺に上った。





ここまで見てきて、今の平和な日本で考えた時、当時本当に日本は戦争していたんだなぁ〜とマジマジ思ってしまった。

さらに東洋工業は広島にあったのだ。。。





1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下)。


「原爆による広島市の火災及び爆風被害状況を示す地図。赤色は全焼区域。東洋工業は地図上の最も東を流れる猿猴川下流域の東側に位置する。」



爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した。

しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った。

恒次の弟でマツダモータース(現・広島マツダ)社長の宗弥も全従業員7名と共に死去した。


東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道を東に向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂や寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった。

しかし負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体に油をかけて火葬が行われた。

1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた。



【戦後の復興期】


東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた。

広島県庁は1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした。

日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた。

占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった。

1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3,000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた。

企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市のブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた。

GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた。

マツダ号GA型



三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した。

復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売。

マツダ号CT型(1950年)


1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8mのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた。

東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した。

一斉モデルチェンジで統一された各車種のデザイン



【四輪車市場への参入】


マツダ初の四輪自動車、CA型の試作車

三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた。

1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始。

翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した。

新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった。

1951年(昭和26年)、重次郎の長男で専務の松田恒次が社長に就任。

1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売。

1957年ごろのマツダ(当時は東洋工業)工場、HBR型/MAR型三輪トラック生産の様子


翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた。

1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった。

1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360や三菱重工業の三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた。

このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場に進出するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した。

これは国民の所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった。

この構想に基づき、1959年(昭和34年)4月に軽乗用車の開発に着手し、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した。

マツダ初の四輪乗用車、R360クーペ(1960年)



1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売。

キャロル360


両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車、日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した。





ちなみに戦時中に自動車販売を一元的に統制していた日本自動車配給株式会社(日配)が解体された際、米軍統治に入った沖縄県を除く46都道府県の県内組織のうち7割の32都府県がトヨタの地域ディーラーへ移行し、1947年には全国販売網の形成がほぼ完成した。

つまりこの時代ですでに全国に販売展開をしていたトヨタに販売台数で勝つなんて相当凄いことである☆





次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入。

その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった。

ファミリアセダン デラックス


ファミリアクーペ1000




【ロータリーエンジンの量産化】


1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた。

また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた。

社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた。

こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた。

REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断。

松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった。

NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した。

同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい、当時としては破格の2億8,000万円の特許料を払って技術導入を決めた。

技術提携に関する政府認可がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた。

帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった。

1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置。

山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された。

山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功。

1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した。



そう考えるとマツダ(東洋工業)って凄いのだ。


マツダ初のロータリーエンジン搭載車、コスモスポーツ(1967年)


REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし、それまでの「バタンコ屋」と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった。

企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加。

コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。

ファミリアロータリークーペ


ルーチェロータリークーペ




【オイルショック下の経営危機】


1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った。

マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去。

後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航。

互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った。

1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた。

東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた。

このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定。

増産工事に続いてREの新工場建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ。

この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった。

サバンナGT(1972年)



ところが。。。



1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した。

10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施。

同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した。

需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた。

ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表。

オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった。

研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した。

通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣。

花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった。

同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設。

責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した。

東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却、住友銀行を中心とした協調融資、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向、米国販売会社の分割、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始といった対策が次々と打たれた。

しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り、同業他社の首脳から

「東洋工業は倒産する」

との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった。


コスモAP(1975年)




【フォードとの資本提携】


1976年(昭和51年)1月、住友銀行は本格的再建のために村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣。

東洋工業を「経営形態を成しておらず、町工場に等しい状況」と判断した村井は、有名無実化していた最高意思決定機関である常務会の強化や、社全体の計画立案・調整を担う社長室の新設を実施。

住友銀行式の合議制経営を導入し、それまでの松田ワンマン体制にメスを入れた。

住友銀行は、東洋工業の合理化に成功したとしても単独での生き残りは困難であると考え、開発したREの特許を交渉材料に提携先を探すことにした。

しかしトヨタや三菱自動車との提携を模索するも成就せず、通商産業省も日産に提携を持ち掛けたが、こちらも実現しなかった。

松田耕平も独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いていたが、GMはすでにREへの関心を失っていた上にアメリカの独占禁止法上の問題もあったため、この可能性も消えた。

国内自動車会社との提携は困難であると認識した住友銀行は外資との提携に動き、過去に資本提携交渉は決裂したものの、1971年(昭和46年)6月に業務提携を結び、小型トラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択。

1977年(昭和52年)7月、前月に頭取に昇格した磯田は「東洋工業はフォードとの提携強化を望んでおり、その際、住友銀行は主力銀行として支援を惜しまない」との内容のヘンリー・フォード2世会長宛ての親書をしたため、巽外夫に託し交渉を開始した。

こうした中、経営改革に消極的な松田耕平にしびれを切らした住友銀行は、当初より念頭に置いていた社長解任に向けた動きを始め、1977年(昭和52年)12月に出処進退を迫った。

同月22日、松田耕平は代表権のない会長に退き、後継には住友銀行の後押しで、コストコントロール部を担当していた専務の山崎芳樹が昇格。

これにより3代にわたって57年間続いた松田家による同族経営は終わりを迎えた。

山崎は車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設し、経営トップの意向を反映する従来の車づくりから部署を越えて意見を出し合う体制を構築した。

1978年(昭和53年)に入りフォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年12月には東洋工業がフォードにトランスアクスルを供給する交渉がまとまった。

翌1979年(昭和54年)11月、アジア太平洋戦略の足がかりとして日本車メーカーとの提携を模索していたフォードと東洋工業・住友銀行の思惑が一致したことで、フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現した。

住友銀行から派遣された常務の花岡信平の「アメリカでのスポーツカー需要に応えるためにはRE車が必要」との報告を契機にRE搭載の本格スポーツカーの開発が開始され、1978年(昭和53年)3月にサバンナRX-7として発売。

日米で大ヒットを記録した。

サバンナRX-7(1978年)



オイルショック以降発売した新型車と社員のディーラー出向制度が効果を発揮したことで販売は回復。

1979年(昭和54年)にはトヨタ、日産に次いで生産台数100万台の大台に乗せた。

1980年(昭和55年)には主査室制度になってからの最初の商品である5代目ファミリアを発売し、当時の若者らに支持され大ヒットを記録した。


5代目ファミリア(1980年)



1981年(昭和56年)、東洋工業は新たな卸売会社、オートラマを設立し、マツダが製造するフォードブランド車の国内販売を始めた。

オイルショック後に延期が続いていた山口県防府市の完成車工場の建設も再開し、1982年(昭和57年)に操業を開始した。



【国内販売拡大策の失敗】


1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称。

現在の社名は、事実上の創業者である松田重次郎の姓と、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にちなみ、自動車産業の光明となるよう願ってつけられた。

英語表記は「MAZDA」。





そう考えると社名の「MAZDA」ってつい最近の話なんだって初めて知りました(笑)





同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した。

1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは1年後に150円台にまで急騰。

自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた。

円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開。

他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した。

1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任。

会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下、1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した。

「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1,000億円の経常利益を確保する目標を掲げた。


ユーノス・ロードスター(1989年)




そして、ここからはよく失敗と言われている5チャンネル体制だ(笑)




「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた。

3チャンネル体制時に1,500店余りだった店舗数を3,000店近くにまで増やし、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった。

この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年(平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録。

国内販売台数も60万台と最高記録を更新した。

1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した。


マツダ・サバンナRX-7(2代目)
FC3S(FC3C)型

前期型

後期型

アンフィニ・RX-7
マツダ・RX-7(3代目)
FD3S型

アンフィニ・RX-7(1991年)



後期型(スピリットR)

サバンナRX-3の後継として、サバンナRX-7(SAVANNA RX-7)の名で1978年3月に発表。

1991年に行われた2度目のフルモデルチェンジを機に、マツダが当時展開していたアンフィニブランドからの発売となり、名称がアンフィニ・RX-7(εfini・RX-7)へ変更されたが、1997年10月のアンフィニブランドの廃止で再びマツダブランドに戻している。

2002年8月、自動車排出ガス規制の強化を受けて生産を終了。

累計生産台数は81万台。

3代に渡り一貫してスポーツカーには珍しく、サッシュドアを採用している点も他社の類似車種には見られない特徴であった。

また、3代ともフロントマスクにリトラクタブル・ヘッドライトを採用しており、FD型は日本車で最後にリトラクタブル・ヘッドライトを装備した車種となった。

2004年、米国のスポーツカー専門誌スポーツカー・インターナショナルが選出したベスト・スポーツカー1990年代部門で3代目FD型が第10位に、また同1970年代部門で初代SA22C型が第7位を獲得している。

徳大寺有恒は2代目について「耐久性はポルシェにはかなわないが、その他の性能ではRX-7のできは上々で、総合点ではポルシェ944を凌ぐ」と評した。



この時代のマツダは最強(笑)



【5チャンネル体制】


①「マツダ店」

ファミリアなどの小型車から高級車までを幅広く扱うメインチャンネル

マツダ店は、全チャンネルのなかで最も長い歴史を持つチャンネル。1989年にユーノスが誕生するまで、マツダ系、マツダオート系、マツダモータース系の3系列で展開していた

②「アンフィニ店」

RX-7やMS-9などのスポーツカーを主としたチャンネル

1996年に「マツダアンフィニ店」へと名称が変更に。同時にユーノス店はマツダアンフィニ店に統合されるか、フォード店へと変更となり、消滅した

③「ユーノス店」

ロードスター、ユーノスコスモを扱う人気チャンネル

空前の大ヒット車「ユーノスロードスター」の販売店。

他に、ユーノスコスモ、ユーノス500など、ユーノスの名を冠したクルマが販売された

ユーノス店では実は、シトロエン車も販売されていた

④「オートザム店」

軽自動車、小型車など主としたチャンネル。正規代理店としてフィアットのランチアなども扱う

1989年に営業が開始されたオートザム店はキャロルなどの軽自動車をメインに販売。デミオ、ほかに一部の店舗では、ファミリアも販売していた

ガルウイングという斬新なデザインで注目されたオートザム AZ-1は注目を浴びたものの、販売台数は低迷した……

⑤「オートラマ店」

正規代理店としてフォード車を専用に販売するチャンネル。フェスティバ、テルスターなどを扱う

初のオートラマ店専売車、フェスティバのほか、エクスプローラーなどのフォード車を販売。1994年には、フォード店に名称が変更された




しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した。

5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に同行で取締役を務めた和田淑弘を社長に据えた。

マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上。

1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った。

販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ。

マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した。

拡大策は完全な失敗となった。



【フォード傘下での再建】


住友銀行の巽外夫は、マツダを再び再建させるには銀行主導では限界があり、フォードの世界戦略への編入以外に生き残る術はないと判断した。

巽の要請に応じたフォードは、1994年(平成6年)に将来を有望視されている40歳代の4人の社員を顧問としてマツダに派遣。

同年6月の株主総会後に4人は役員に就任し、これをもってフォードは実質的にマツダの経営を掌握した。

1996年(平成8年)4月、マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定。

これによりフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まり、マツダは正式にフォード傘下に入ることとなった。

合わせてフォードから派遣されていた副社長のヘンリー・ウォレスが社長に昇格し、日本の自動車会社初の外国人社長が誕生した。

ウォレスが社長に就任した1996年(平成8年)頃、マツダの有利子負債は7,000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいた。

財務の専門家であるウォレスら経営陣は、保有株式や不要不急の施設などの資産を売却し、伝統的に資金の面で寛容に扱われてきた開発部門に対しても厳しいコストダウンを要求。

増えすぎた車種の整理と販売チャネルの簡素化や、フォード車とのプラットフォームの共通化を発表し、開発や生産、購買までの全業務のデジタル化により経営効率化を図る「マツダデジタルイノベーション」も導入した。

1996年(平成8年)には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録。

マツダデミオ 前期型(1996年8月 - 1997年9月)


翌1997年(平成9年)9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じた。

1997年(平成9年)11月、副社長で販売が専門のジェームズ・ミラーが社長に昇格。

社長のミラーと技術担当役員のマーティン・リーチの下、ブランドの再興に乗り出し、役員や技術者、海外現地法人との議論を重ねる中で、スポーティさ、走りの良さを全面に打ち出す考えをまとめた。

この新たなブランド戦略を遂行するため、すでに進行していた主要車種の開発を白紙に戻し、車種名から内容まで一新したモデルを改めて開発することを決断。

このため2000年(平成12年)11月から2002年(平成14年)春までの一年半にわたり、新型車が投入されない異例の時期が生じることになった。

1999年(平成11年)12月、専務で新ブランド戦略策定の中心人物であるマーク・フィールズ(英語版)(後にフォード社長)が社長に昇格。

さらなるコストの見直しを図るため、2000年(平成12年)11月、スペインのフォードの工場でのマツダ車の生産、宇品第2工場の閉鎖、早期退職者募集を柱とする「ミレニアムプラン」を発表。

1,800人を募集した早期退職優遇プランには受付開始と同時に申し込みが殺到したため即時に募集が打ち切られる事態となり、最終的に2,210人が会社を去ることとなった。

積立不足だった退職給付債務を一括償却した影響もあり、この年には1,552億円の損失を計上した。




2001年(平成13年)10月、第35回東京モーターショーにて新ブランドメッセージの「Zoom-Zoom」を打ち出すとともに、新生マツダブランドを体現する商品の第一弾である中型セダンのアテンザと、ロータリーエンジンを搭載したスポーツカーのRX-8を公開。

アテンザ(2002年)


RX-8(2003年)


プラットフォームからエンジンまでを一新し、翌2002年(平成14年)5月に発売されたアテンザは国内外で高い支持を受け、生産能力を引き上げるほどのヒット作となった。

新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ、デミオ、アクセラといったモデルの投入によって業績は回復。

アテンザスポーツ


デミオ SPORT 前期型(2002年8月 - 2003年11月)


アクセラセダン(2003年10月発売型)



全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めた。

2003年(平成15年)8月、前年6月に社長に就任したルイス・ブース(英語版)に代わり、井巻久一が社長に就任。

日本人社長としては7年ぶり、生え抜き社長としては山本健一以来16年振りのことだった。

2007年(平成19年)3月期には営業利益が1,621億円と過去最高を記録した。




【「モノ造り革新」への挑戦】


マツダの業績はフォードの下で回復基調へと転じたが、開発や生産部門の中では、フォードグループの軛から離れ、商品の多様性とコスト低減を両立させる戦略を実行したいとの思いが強まっていた。

2005年(平成17年)7月、マツダは好調な業績を背景に長期戦略の策定を始め、10年後の2015年(平成27年)までに全てのマツダ車が世界のベンチマークになるとする目標を設定した。

その実現手段として「モノ造り革新」を立案し、開発から生産にいたるまでの全ての業務プロセスを一新する構想をまとめた。

翌2006年(平成18年)末に親会社のフォードに計画の説明に訪れ、否定的な意見に遭いながらも、最終的に黙認に近い形で了承を得るに至った。

同時にこれはマツダが失敗してもフォードは手を差し伸べないということを意味し、この時にエンジンの開発方針を分けたことが後の提携解消の契機となった。

2007年(平成19年)には技術開発ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」を発表。

走る楽しさと環境安全性能の両立を打ち出し、翌2008年(平成20年)6月には2015年(平成27年)までにマツダ車の平均燃費を30%向上させる目標を公表した。





しかしその直後の2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックが発生。




世界の経済界・産業界は混乱に陥り、自動車産業も深刻な打撃を受けた。

経営が悪化したフォードは同年11月に資金調達のため保有するマツダ株の一部を売却したため、出資比率は13%に低下した。

これと同時にマツダは副社長の山内孝が社長に昇格する人事を発表し、経営陣をマツダ出身者主体に刷新した。

リーマン・ショック後に円相場が急激な円高に振れたことで輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け、2009年(平成21年)3月期には赤字に転落。

さらに2011年(平成23年)にかけて東日本大震災やタイの洪水といった事態が続き、最終的にマツダの業績は2012年(平成24年)3月期まで4年連続の赤字に陥った。

こうした中、2009年(平成21年)に増資と自社株の売却で933億円、2012年(平成24年)には公募増資と劣後ローンで2,142億円を調達し、研究開発やメキシコ新工場をはじめとする設備投資に必要な資金を捻出した。

2010年(平成22年)10月、マツダは新世代のエンジン、トランスミッション、ボディ、シャシーといった一連の新技術を総称した「スカイアクティブ・テクノロジー」を発表。

2011年(平成23年)には新開発したガソリンエンジンのSKYACTIV-Gをデミオに搭載して発売し、他社のハイブリッドカーと同等の燃費性能を実現した。

2012年(平成24年)にはスカイアクティブ技術を全面的に採用した車種の第一弾であるCX-5を発売し、ディーゼルエンジンのSKYACTIV-Dを中心に大ヒットを記録。


CX-5(2012年)


ロシアでも現地企業ソラーズと合弁会社を設立し、CXー5の生産を開始。

この年にはスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換した。

2013年(平成25年)には専務の小飼雅道が社長に昇格した。

この後もスカイアクティブ技術とデザインテーマ「魂動」を採用した一連の車種は人気を集め、2015年(平成27年)に発売した4代目ロードスターは「世界・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。

合わせて日本車としては初の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」も獲得し、同賞設立以来初めての2部門同時受賞を果たした。






マツダ・ロードスター(4代目)
ND5RC/NDERC型



2016年(平成28年)3月期決算では過去最高の営業利益2,267億円を記録し、2018年(平成30年)3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新した。



【現在】


2015年5月にはトヨタ自動車と中長期的な提携関係を結ぶことを発表し、2017年8月には業務資本提携を結ぶことで合意。

相互に500億円分ずつ株式を取得し、トヨタがマツダの第2位の大株主となった。

THS-Ⅱの供給や、EV開発会社と北米工場の共同設立など、両社は急速に距離を縮めている。






しかし、マツダってこんなにも数々の経営難、経営不振を乗り越えてきたとは知らなかった!

正直私の印象ではマツダ車は個性的ではあるが、圧倒的にデザインは他社より良く一貫して「こだわり」を強く感じさせる。

私は昔、マツダ系列の陸送業をしていただけにマツダ車は多数乗っているが、エンジンもよく故障も少ない気がしたし、楽しい車が多かった☆

それはロードスターや、RX-7だけじゃなく、デミオや、MPV、ボンゴフレンディやプレマシーなどなど。。。




ある記事を抜粋します。


かつて周囲の〝クルマ好き〟の間でこの手の話題がよく持ち上がった。
「これがもしトヨタ車だったら何倍も売れただろうに」といった風にだ。
これには主に2つ意味が含まれていたように思う。
まず、圧倒的な販売力を持つトヨタ自動車へのやっかみと称賛。そして、よいクルマは作るが、売る力に乏しい他メーカーへの叱咤と憐憫であろう。
〜東洋経済Onlineより〜



この東洋経済Onlineは非常に面白いことを書いている(笑)


明らかにディスっているんだが、そこにはマツダ愛を感じる記事だ(笑)



「『ユーノス500』がもしトヨタ車だったら、もっと売れただろう」という先輩の話(笑)

〜中略〜

ロードスター(誕生は1989年)、ユーノス・コスモ、ユーノス500、アンフィニRX-7(FD RX-7)と企業規模からすれば考えられないほどの名車を生み出したマツダは1990年代前半の主役だった。

ユーノスは、クルマ大好き人間にとって思い出深い名車をたくさんラインナップしていた。しかし失敗した。その他大勢のそうではない人にとっては、まったく購入検討に至らないラインナップだったからだろう。

〜中略〜

思うに、マツダという自動車メーカーは“うぶ”なのだろう。クルマ大好き人間が何百億円もの開発費をつぎ込んで自分の欲しいクルマを作る。販売サイドから横槍は入らない。販売サイドもまた、販売効率をあまり重視しない。別の言い方をすれば〝商売下手〟。つまり、トヨタとは真逆の印象というわけだ。

おそらく本質は今も変わっていない。

〜中略〜

誰もが低燃費にこだわるこのご時世に、直列6気筒エンジンを新しく作ってしまう。クルマ好きにはたまらないが、そんな人間は免許人口の何%いるのだろうか。ボリュームゾーンの消費者が何を求めているかを一向に考えていない(ように見える)。

100年に1度の変革期を迎えている自動車産業で、しかも大企業の事業の進め方としては大丈夫なのだろうか、と心配になってしまう。しかし、その危うさこそがマツダの魅力なのだろう。

〜東洋経済Onlineより〜





まさにその一部の車好きの私みたいな人間からしたらマツダ車は魅力そのものだ(笑)



【ロータリーエンジン】




マツダはロータリーエンジンの量産化に成功したメーカーであったが、2012年6月にRX-8の生産完了後は、ロータリーエンジン搭載車の生産から遠ざかっている。

2013年には、新型ロータリーエンジンを発電機(レンジエクステンダー)として搭載した電気自動車の試作車「マツダ RE レンジエクステンダー」を公開。

2015年10月には、次世代ロータリーエンジン「SKYACTIV-R」を搭載したコンセプトカーRX-VISIONを発表した。

2018年1月にトヨタ自動車が発表したMaaS専用電気自動車のコンセプトカー「e-Palette Concept」では、市販化に向けてマツダが技術パートナーとして参加し、ロータリーエンジンがレンジエクステンダーとして採用される予定であることが発表された。



【スカイアクティブ・テクノロジー】


2011年、自動車を構成する諸要素の全てを刷新し、SKYACTIV TECHNOLOGYとして発表した。SKYACTIV TECHNOLOGYを全面的に搭載した車両は、この取り組みと並行的に進められてきた生産分野の改革「モノ作り革新」により、1ドル77円でも日本国内から輸出して全ての地域で利益を生み出せるコスト競争力を持つ。

SKYACTIV TECHNOLOGYの開発には「モデルベース開発」と呼ばれる手法が用いられており、この手法を用いた開発力については業界随一と他社から評されている。

2017年8月、圧縮着火による燃焼方式を世界で初めて実用化したガソリンエンジン「SKYACTIV-X」を発表、2019年11月にMAZDA3に搭載されて発売された。

マツダは日本の自動車メーカーでも、工業デザインへの意識を早い時期に持った草分けである。

1940年代末期に工業デザイナーの小杉二郎の助言を受けるようになり、1950年以降のオート三輪では、もともとプレスパーツを用いて直線的だったバーハンドルデザインを発展させる形で、オート三輪の風防ノーズ部を鋭角的に仕上げるスタイリングを採用した。

続いて1955年以降はノーズの角をえぐる形で2眼ヘッドライトを配置する精悍な形態を導入、オート三輪デザインの基調とした。

小杉の指導の下、自社デザイナーの手で仕上げられた軽三輪トラックのK360や軽四輪乗用車のR360クーペ(1960年)等までモチーフは引き継がれている。

また、1963年発売の初代ファミリアではシボレー・コルベア風のウエストベルトデザインを取り入れ、1966年発売の初代ルーチェでは、イタリアのベルトーネによるスタイリングを採用するなど、古くから旺盛なデザイン志向を発揮していた。

1980年代後半から1990年代前半に、デザイン本部長である福田成徳の指揮の下、「ときめきのデザイン」をテーマにボディの光と影をコントロールする造形を追求した。

1989年に発表した初代ロードスターのリアコンビネーションランプは、そのデザイン性と機能性の両立が評価され、ニューヨーク近代美術館に展示・永久収蔵されている。


ロードスター(NA型・1989年)


1991年に発表した3代目RX-7は、2008年にイギリスのデイリー・テレグラフ紙が選ぶ「最も美しい車100選」の61位に選出された。

3代目RX-7(FD3S) spirit R type A


また、1991年に発表したユーノス500のデザインは、イタリアのジョルジェット・ジウジアーロに絶賛されたと言われる。

マツダ・ユーノス500
CAEPE/CA8PE/CAEP/CA8P型

1996年にはデザインテーマ「コントラスト・イン・ハーモニー」を制定し、全ての車種のフロントグリルに5角形の「ファイブポイントグリル」を適用することを決定。

2001年にはフォード出身のモーレイ・カラムがデザイン本部長に就任し、デザインテーマ「アスレティック」の下、躍動感のある造形を追求した。

2006年にはローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン本部長に就任。デザインテーマ「NAGARE」の下、流(NAGARE)、流雅(RYUGA)、葉風(HAKAZE)、大気(TAIKI)、清(KIYORA)、風籟(FURAI)といった、自然界に存在する動きの美しさを取り入れたコンセプトカーを発表。

その造形は2010年に発表された3代目プレマシーのデザインに反映された。

マツダ・プレマシー(3代目)
CWEFW/CWFFW/CWEAW型


2009年にはアッカーのルノーへの転職に伴い、デザイン本部長に前田育男が就任。

2010年にデザインテーマ「魂動-Soul of Motion」をコンセプトカー・靭(SHINARI)と共に発表して以来、生き物が見せる一瞬の動きの躍動感や緊張感、美しさを取り入れたデザインを進めている。

2015年に発表したRX-VISIONは、フランスで最も美しいコンセプトカーに選出され、2016年には、4代目ロードスターが日本車としては初めて「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

RX-VISION(2015年)

4代目ロードスター(2015年5月 - )国内仕様
Sスペシャルパッケージ(6速MT)



ちなみに3代目ロードスターは私の兄が乗っている♪

ちなみに3ナンバーになってしまったので本来は2代目までの方が私は好きである(笑)




マツダ・ロードスター(2代目)
NB6C/NB8C型


NAとNBがやはり軽量コンパクトFRスポーツにて軽快にレッドゾーンまで吹け上がるエンジンと簡単に振り回せるボディは最高に魅力的でした♪

とにかくロードスターとFDのRX-7は陸送でやたら乗ったなぁ(笑)



【マツダコネクト】


マツダが開発するカーナビゲーションシステム及びインフォテインメントシステム。

2013年11月発売の3代目アクセラに初めて搭載された。

一部のグレードを除き、ほぼ全てのマツダ車に搭載されている。

「ヘッズアップコックピット」の考え方の下、「センターディスプレイ」、「アクティブ・ドライビング・ディスプレイ(ヘッドアップディスプレイ)」、「コマンダーコントロール」により構成され、脇見運転や不注意運転を最小化するようレイアウトされている。

スマートフォンとも連携し、ハンズフリー通話やSMSの読み上げの他、TwitterやFacebookといったSNS、対応するインターネットラジオの利用も可能である。

マツダコネクトは2DIN規格に対応していないため、他社のカーナビゲーションに換装することはできないが、アルパインからCX-5(2代目)とCX-8専用のカーナビゲーションが登場している。

マツダ車以外では、OEM供給するトヨタ・ヤリスiA、フィアット・124スパイダー、アバルト・124スパイダーに採用されている。


アテンザ(2014年型・海外仕様)に搭載されるマツダコネクト




まーいろいろ長々また、書いてしまったがマツダ車は非常に魅力的である(笑)


ただ、1つだけ。。。

なんで名称無くしたんでしょう。

今じゃ全く何の車かわかりません(笑)









マツダホームページより


どの車がどの系列でなんの特性かわかりません(笑)

今じゃロードスターしかわかりません(笑)



ちなみに昨日のニュースによると2023年上半期、「CX-30」は好調で2年ぶりのプラスらしいです。

あと、マツダ 1~6月の国内生産販売 2年ぶりに増加 CX-60などが好調らしいです。


今後のマツダに期待しましょう☆



それではまた(笑)





参考資料


NOSWEB.jp
ユーノス、アンフィニ、オートザム……バブル期に展開されたマツダ5チャンネル体制とは?

東洋経済Online
マツダが「ユーノス」「アンフィニ」で追った夢
バブルに乗った拡大策はその崩壊で頓挫した

MAZDAブログ
マツダ百年史④ 先進技術で常識を覆せ~エンジンとデザインへのこだわり~(1950年代)

JSAE
日本の自動車技術330選

ベストカーweb
時代に翻弄された当時のマツダ5チャンネル 痛恨の失敗とバブルの真相とは

Response
マツダの世界販売、『CX-30』好調で2年ぶりのプラス 2023年上半期

マツダHP

Wikipedia
Posted at 2023/07/30 02:26:20 | コメント(0) | トラックバック(0)

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