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Hiro.Yのブログ一覧

2022年03月31日 イイね!

桜特集②~鴻神社、慈眼寺編☆

桜特集②~鴻神社、慈眼寺編☆さて、桜特集①の続きです♪

こちらは別の日に訪れたものです☆





埼玉県鴻巣市、鴻巣総鎮守、鴻(こう)神社です!

私には関係のない子育て、安産の神様です(笑)





庚申塔。

見事な桜でございます☆

手水舎。

拝殿。

鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。

その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。
(Wikipedia抜粋)

樹の神とコウノトリと卵かな♪

鴻の宮。
こうのとり伝説の伝わる社。


『こうのとり伝説』

昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。

これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。

ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り卵を産み育て始めた。

すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。

これに対しコウノトリは果敢に挑みこれを撃退させた。

それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。

人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。
(Wikipedia抜粋)



なんじゃもんじゃ稲荷。



幸宮弁財天。

三狐稲荷神社。

御神木。





宿神社。

鴻神社。
旧社格は村社になります。

◎御祭神は6柱

・素戔嗚尊(スサノヲ)

・父:伊邪那岐命(イザナギ)

・母:伊弉冉尊(イザナミ)

・速玉男命(ハヤタマノオ)→以前書いたイザナギの唾。

・事解男命(コトサカノオ)→その唾を掃きはらう神。

別雷命(ワケイカヅチ)→以前書いた賀茂社の祭神。
雷除けの神。



本殿。

御朱印です☆

参道の桜は非常にキレイでした♪

さて、桜特集①の忍城を見た後ご飯にしました!


以前から良く通る道で気になっていたお蕎麦屋さん、どんまいじゃんさんにお邪魔しました☆

おばぁちゃん1人でやっていましたがすごく良かったです!

天丼せいろセットです。
お蕎麦の風味も良くすごく美味しかったです☆

さて、桜特集最後はこちらです。



埼玉県坂戸市、真言宗智山派由城山福聚院慈眼寺です☆

こちらは、しだれ桜と閻魔様で有名なお寺です♪

ネット見て初めて来ましたが良かったですよ!

ちょっと雨と少し時期が早かったようですがなかなかの美しさです♪





雨降ってきましたが、本来は菜の花と垂れ桜が絶景のようです☆

ホームページの写真はこちら!

(ホームページより)
樹齢250年以上とも言われているしだれ桜は坂戸市の天然記念物に指定されています!

しかし、そんなことより本堂の参拝が可能な上に堂内撮影O.K.と言う珍しいお寺でした☆
(ホームページによると堂内拝観は要連絡とのことです)

若いお坊さん曰くSNSに挙げて頂いて広く仏教を知って欲しいとのこと(笑)

であれば出来るだけ詳しく書かせて頂きますとも☆
(Wikipediaより調べさせて頂きましたのでご了承下さいませ!)

まず正面入口に見えます三像。

向かって左から准胝観音。
真ん中が地蔵菩薩。
右が八手観音菩薩かな?(違っていたらすみません)。


『准胝(じゅんてい)観音』

日本の真言系では変化観音とされて真言宗系では「六観音」の一尊に数えられ、日本の天台系では観音ではなく仏母とされる。

真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称す。

天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。

六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。

①地獄道 - 聖観音
②餓鬼道 - 千手観音
③畜生道 - 馬頭観音
④修羅道 - 十一面観音
⑤人道 - 准胝観音
⑥天道 - 如意輪観音

という組み合わせになっている。

悪いことをしたら地獄に落ちる!って良く言われるやつは、天国と地獄の間に6つの世界が存在し、今我々がいるのが人道である☆


『地蔵菩薩』

釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされる。


『八手観音菩薩』

人々を救う8つの道具を手に持った観音様。

外陣からの閻魔様☆
素晴らしい!

こちらが閻魔天。


『閻魔天』

インド神話のヤマが仏教に取り入れられ、天部となったものである。
運命、死、冥界を司る。
密教においては各方位を守護する八方天、十二天の一尊となり、南方焔摩天とも呼ばれる。

真言宗系の曼荼羅の閻魔天は、このようにインド風の服を着た姿(いわゆる菩薩形)で、温和な表情をしている場合が多い。

塗香をし、いざ内陣へ♪

左から順番に、
①大日如来・金剛界
②軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
③大威徳明王(だいいとくみょうおう)


『金剛界、胎蔵界大日如来』

大日如来は真言密教の本尊である。
この辺は難しくてわかりません(笑)
ただ、真言密教では、異なる姿の大日如来を対とし、一体とすることで、その教えもふたつでひとつのものである。


『軍荼利明王』

密教において五大明王の一尊。南方の守護神で、ものごとの発生、持続にあたってさまたげになることを取り除くとされる。


『大威徳明王』

密教において五大明王の一尊。西方の守護神で、六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的である。
阿弥陀、文殊が人々に教えを導く為に恐ろしげな姿をとったと言われる。

④愛染明王(あいぜんみょうおう)


『愛染明王』

真言密教で信仰する明王の一つ。
人間がもっている愛欲をむさぼる心、つまり煩悩も仏の悟りの智慧 (ちえ)に等しいことを意味する。

つまりは愛欲に染まっていても悟りの境地へと繋いでくださる唯一の明王なのではないでしょうか(笑)

⑤阿弥陀如来


『阿弥陀如来』

大乗仏教の仏。 西方の極楽浄土の教主で,生あるものすべてをすくう仏。

⑥聖観世音菩薩


『聖観世音菩薩』

仏教の慈悲の精神、すなわち仲間に対する友情と悩める者に対する同情とを人格化したもの。
すべての事物を自由自在に見ることができる仏様。
観自在菩薩とも言う。

⑦興教大師正覚坊 覚鑁(しょうかくぼう・かくばん)上人


『覚鑁上人』

平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
興教大師と呼ばれる。

⑧虚空蔵菩薩


『虚空蔵菩薩』

知恵が虚空のように広大な菩薩。



⑩本尊/十一面観世音菩薩


『十一面観世音菩薩』

密教系の尊格であり、奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して祀られた。

十一面観世音菩薩は頭上に11の仏面があるもので、四方だけでなく十方を見つめ、すべての人を救うという意味がある。

⑪不動明王


『不動明王』

密教特有の尊格である明王の一尊。 大日如来の化身とも言われる。 また、五大明王の中心となる明王でもある。 真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。

煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。

⑨千手観音菩薩


『千手観音菩薩』

千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。

千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。

ちなみに千本も手がないじゃ~ん!って思いますよね。

日本では合掌手を含め42手で表されるのが一般的である。

左右20手ずつ(脇手)。
と合掌の2手(本手)。
千手観音の手は1本で天上界から地獄界までの25の世界(三界二十五有)を救うと言われております。

40の脇手にて25の世界を40回救う(25×40=1000)ことから千手観音と呼ばれております☆

ちなみに大阪府にある葛井寺(ふじいでら)の本尊、十一面千手千眼(せんげん)観音菩薩坐像(国宝)は、現存する日本最古の千手観音像にして、文字通り千本の手を持つ数少ない「真数(しんすう)千手」の代表作である。

⑩弘法大師空海


『弘法大師空海』

言わずと知れた真言宗の宗祖です☆

弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あり、歴史上の空海の足跡をはるかに越える。
中世、日本全国を勧進して廻った遊行僧である高野聖が弘法大師と解釈されたことも根拠となっているが、寺院の建立や仏像などの彫刻、聖水、岩石、動植物など多岐にわたり、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。
弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼる。

いづれにしても空海が慈善事業や社会福祉活動をしていたという事実は正しくその功績は計り知れないと思います☆

そして奈良時代の行基上人もまた日本の偉大な人物であり、日本の政治家も少しは見習って頂きたいものである(笑)

⑪普賢菩薩


『普賢菩薩』

修業を司り、釈迦如来の慈悲行を象徴し人々を救う賢者の仏である。

⑫釈迦如来


『釈迦如来』

歴史的に実在した仏陀であり、仏教の開祖である釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・シッダールタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を尊ぶ呼び名である。釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊に同じ。

⑬文殊菩薩


『文殊菩薩』

諸仏の智慧をつかさどる菩薩。
その他、非人救済などの慈善事業を司るほか、日本の真言律宗では慈母供養の象徴とされる。

ちなみに釈迦如来の脇侍として文殊菩薩を左に普賢菩薩を右に侍し、形成されることが多く釈迦三尊と呼ばれております☆

⑭馬頭観音菩薩


『馬頭観音菩薩』

観世音菩薩の化身で,六観音の一つ。
馬頭は諸悪魔を下す力を象徴し,煩悩を断つ功徳があるとされる。
しかし一般には馬の無病息災の守り神として信仰され、3面8臂,4面8臂などのものもある。

⑮金剛夜叉明王


『金剛夜叉明王』

密教における五大明王の1人で、北方の守護神。
を襲っては喰らう恐るべき魔神(夜叉)であり人々の畏怖の対象であったが、後に大日如来の威徳によって善に目覚め、仏教の守護神五大明王の一角を占める仏となった。
仏教に帰依した金剛夜叉明王は悪人だけを喰らうようになったと言われ、ここから「敵や悪を喰らい尽くして善を護る、聖なる力の神」という解釈が一般的となり、故に日本においても古くから敵を打ち破る「戦勝祈願の仏」として広く武人たちに信仰された。

⑯降三世明王


『降三世明王』

仏教における明王の一尊。五大明王としては東方に配される。阿閦如来の化身とされる。
ヒンドゥー教の最高神として崇拝されていたシヴァと妻のパールヴァティーは共に「過去・現在・未来の三つの世界を収める神」だったがヒンドゥー教を救う為に仏教に改宗させたという。
降三世明王の名はすなわち「三つの世界を収めたシヴァを下した明王」という意味なのである。

そして最後に
⑰大日如来・胎蔵界の仏像がある。

これが慈眼寺で参拝出来る仏像になります。

凄いですよ☆
調べるの大変でしたが(笑)

しだれ桜を見に行ったつもりでしたが本堂内の拝観が出来るとは思いませんでした☆

また参拝させて頂こうと思います♪

御朱印です☆
いろいろありましたが可愛い閻魔様にしました(笑)


それではまた♪
Posted at 2022/04/22 10:56:22 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年03月31日 イイね!

桜特集①~總願寺、忍城、諏訪神社編☆

桜特集①~總願寺、忍城、諏訪神社編☆今回は桜特集として埼玉県の桜を取り上げます☆

埼玉県の桜といえば、秩父の美の山公園や川越公園、幸手の権現堂桜堤、熊谷桜堤、長瀞などが有名ですが、私の場合は人のいない寺社の桜が大好きであります。
そして桜の木の本数より風景の一貫としての艶やかさを重要視しております☆

その中で毎年訪れるのがこちら。

總願寺黒門。

仁王門。

埼玉県加須市にある関東三大不動、真言宗智山派不動ヶ岡不動尊總願寺です☆
内容は過去あげているので省略します♪



本堂



ちょっと天気が悪く映えてませんが境内にほどよい本数の桜がとてもキレイです☆









抜けも良く境内からの山門辺りもキレイです☆



鐘楼堂と桜。

歴史ある本堂とのコラボレーションはなかなかのものですよ☆





本堂。

仁王門と桜。



本尊は不動明王である。







以上が總願寺の桜です☆
近くの川沿いで撮影しました(笑)



川沿いの桜もキレイです☆

続いて埼玉県行田市にある忍城(おしじょう)にやってきました!

その前に向かいにある諏訪神社と東照宮を訪れました♪

こちらは通称、忍(おし)諏訪神社/忍(おし)東照宮と言われます!

諏訪の大木。



忍東照宮。



忍東照宮拝殿。

社伝によると東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座しました。代々100石の社領を拝領していましたが、明示維新に伴い、明治7年当地へ移っています。

祭神は徳川家康公、松平忠明命、八幡大神です。





摂社:多度社、一目蓮社。



摂社:二の丸稲荷社

忍諏訪神社。

社伝によると忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられます。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したといいます。

祭神は建御名方命、八坂刀売命です。
2神は夫婦になります(笑)



『建御名方神(たけみなかたしん)』

「古事記」に見える神。 大国主命の子。
天照大神の使いの建御雷神の命に服さず力くらべをしたが負け、信濃国(長野県)諏訪湖まで逃れ、同地に鎮まったという。 諏訪神社の祭神。

こちらも大国主神の子供で出雲系になります!
まー簡単に言えば大国主神と天照大神による権力闘争です。
俗に言う国譲りの話ですが天照大神の使いの建御雷神に負けた建御名方神は長野の諏訪湖に逃れました。

これが主祭神の諏訪大社です☆


さてここで社号の話を。

俗に言う『神社』『神宮』『宮』『大社』とは。

『神社』とは特に基準が無いため
10万社あるともいえる全国各地に鎮座する大部分の神社が「神社」と名乗っています。
神社は神道の神をまつる施設の総称であるため『神宮』『宮』『大社』も神社といえます☆

『神宮』と『大社』

いづれも全24社です。

『神宮』は主に皇室と特別な関係性をもつ神社のことを言います♪

平安時代に「神宮」という社号が生まれた当時は伊勢神宮(三重県)、香取神宮(茨城県)、鹿島神宮(千葉県)の三社のみが「神宮」の社号を名乗っていたそうですが現在では神社本庁の許可を得て名乗れるようです☆

『大社』とは祭神と神社名を共有する神社の系列の頂点に立つ神社、信仰の本源となる神社をいいます。

ただ、24社のうちもともと大社とは出雲大社だけで、残りの23社は戦後から名乗っております。

しかし、平安時代の社格制度の「官幣大社」や「国幣大社」という極めて高いランク付けがされていることも「大社」という社号を名乗る基準だといえます☆

ちなみに出雲大社。
本当の読み方は「いづもおおやしろ」です☆

通常神社の参拝方法は2礼2拍手1拝ですが、出雲大社では2礼4拍手1拝をします。
これは「四季を表し実りと繁栄を祈願する」とか「東西南北の4神に敬意を示す」からだと言われております☆

5/14の例大祭では2礼8拍手1拝をするそうです♪
これは無限を意味する8で神様に対して限りない拍手でお讃えする儀式だそうでその日以外は略式で4拍手と言われております☆


そして最後、『宮』とは、親王すなわち皇室の皇子や皇孫を祭神とする神社に与えられるのが「宮(ぐう)」と呼ばれる社号です。

ただし、社号の制度とは関係なく伝統的に「宮」を名乗る神社も数多く存在します。

徳川家康を祭神とする東照宮(栃木県)、菅原道眞を祭神とする天満宮(京都府)などがそれに当たります。

これが社号の簡単な話になります(笑)☆


いづれにしてもこちらの諏訪神社も諏訪大社系列、つまり出雲系といえますね☆



御朱印は書き置きです。


そして入館はせず忍城(おしじょう)一帯を散策してみます。

伝進修館表門。














ちなみに観光客が橋を渡るのをひたすら待ち、この場所で撮影していたら、1組のご夫婦さんが
「ここはベストショットの場所ですね~撮らせてもらっていいですか?」
と話かけられました(笑)

後に3組並んで撮ってました(笑)



『忍城』

室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられております。

数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。

戦国時代には関東七名城の一つ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された。

江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。

明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。

また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている。

2017年(平成29年)4月28日に文化庁が認定する日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産(文化財)のひとつに加えられた。
(Wikipedia抜粋、要約、引用)


『忍の浮き城』

1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。

翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。
河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。

1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。

1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。

しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。

1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。

『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。

豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。

三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。

しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。

このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。


『江戸時代以降の忍城』

徳川家康の関東入部後は、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。

忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。

また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。

廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれたが、その後廃城となって城内の構造物はほとんどが撤去され、城跡は公園(成田公園、後に忍公園)として整備された。

忍公園が拡張され、1988年(昭和63年)2月17日には行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。

周囲には土塁の一部が残存している。
2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。
(Wikipedia抜粋、要約、引用)


ちなみに最初に紹介した總願寺の黒門は忍城の北谷門を移築したものである。

城下町行田の忍城は映画「のぼうの城」の舞台となりました。

文明年間(1469~1486)に山内上杉氏配下の豪族成田親泰が築城したとされ、関東七名城の1つに数えられました☆


『関東七名城』

①太田城(茨城県)
②宇都宮城(栃木県)
③唐沢山城(栃木県)
④金山城(群馬県)
⑤前橋城(群馬県)
⑥忍城(埼玉県)
⑦川越城(埼玉県)




天気良ければもう少しキレイだと思うのだが(笑)

城内に入ります♪









桜がキレイです☆


史蹟忍城の鐘。




キレイですね~☆









お花いっぱいです(笑)

忍城は緑あふれる憩いの場でした♪


以上桜特集①です☆

②へつづく。
Posted at 2022/04/20 20:30:02 | コメント(2) | トラックバック(0)
2022年03月10日 イイね!

頑張ろう!千葉県旭市~真福寺、西宮神社、玉崎神社、防災資料館編☆

頑張ろう!千葉県旭市~真福寺、西宮神社、玉崎神社、防災資料館編☆毎年、この時期には被災地を訪れておりますが、新型コロナによるまん延防止等重点措置により近場しか行けないので今年は3/10に千葉県旭市の方に行かせてもらいました。

その前に寺社巡りも兼ねております。

まず訪れましたのはこちら。







千葉県旭市成田山真福寺です♪
ただ、真言宗智山派の成田山の山号で勝手に勘違いしてましたが、新勝寺の別院ではありませんでした(笑)

この辺の地名は成田と呼ばれていたそうです。

鐘楼堂。



本堂。







開基等、いまいち調べても出てこず、詳細は不明です(..)



大師堂。



ちなみにこちらは幼稚園と公園、神社が併設されておりました。








千葉県旭市西宮神社♪

拝殿。
祭神は事代主命(おえびすさま)のようです。

開基は応永2(1395)年。



御神木、大杉。



本殿。



恵比寿さま。

護国の塔。

そしてさらに公園が隣接しており、金網の中に蒸気機関車がありました☆



C58(シゴハチ)の愛称で知られる旧国鉄車輌らしいです☆



ちょっと真福寺の詳細は不明ですが静かな良いところでした☆


さて、復興支援とゆう名のお食事ですよ☆

ちょっと時間が2時過ぎでなかなかお店がやってなく、探し出しましたのがこちら!

飯岡の味処、幸喜 さんです☆

お刺身の盛り合わせ☆

平目天丼☆

九十九里で水揚げされた新鮮な魚は非常に脂の乗った厚みのあるお刺身に珍しいヒラメの天丼を頂きましたよ♪
平目天丼は身がホクホクで甘みがありどちらもとても美味しかったです☆




ご飯を終えて次に訪れたのは旭市飯岡の玉崎神社♪

竜王の碑♪

日本武尊の東征の折、海上平安、夷賊鎮定のために、玉の浦の東端「玉ヶ崎」に、海神の娘であり神武天皇の母である玉依姫尊を祀ったと伝えられていて、後世「玉ヶ崎」を「竜王岬」と言うようになったのも、海神を竜宮の神に付会して「竜王の鎮まり坐す崎」としたためという。
(Wikipedia引用)

拝殿。

下総国二宮(論社)の由緒ある神社で旧社格は郷社です。

下総国二宮とする説は、上総国一宮である玉前神社が戦火を避けて神体を移したとも伝えられているからでもある。



社伝によると、景行天皇40年の創建。

玉依姫尊を主祭神とし、日本武尊を配祀する。

中世には、三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せられ、武人の崇敬厚く、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝し、それぞれ祈願や報賽のために報幣や社殿の造営にかかわったとされる。

江戸時代に入ってからは、武人の崇敬はもとより、平田篤胤、平田鐵胤、斉藤彦麿、高田与清、大国隆正のような文人が参詣している。

享保14年(1729年)には、地頭らが祈願したところ神験あらたかで浜は大漁にわいた。そこで、時の神祇官領従二位卜部朝臣兼雄に告げて宗源の宣旨を乞われ、神階正一位を賜った。

拝殿内の扁額はその時のもので、将軍徳川吉宗の筆と伝えられている。
(Wikipedia抜粋)



本殿。





玉崎神社の石塁。









天の石笛。

竹久夢二の文学碑。





摂社、八重垣神社。



玉崎神社御朱印。(書き置き)

非常に歴史の深い神社であった。
来て良かったと思います☆


さて、それでは寺社巡りはこの辺に海沿いにある防災資料館に行ってみました。



2011.3.11
14:46 M9.0


こちらでは約30分のDVDで当時の震災から復興までの流れや、パネルにていろいろな情報を公開している。

17:26で止まった時計。
堤防を越え飯岡の町を飲み込んだ津波。
その時を刻み、時計の針は17:26で止まっている…‥。


千葉県旭市においても飯岡海岸に沿う九十九里ビーチライン(県道30 号)と市街地内を走る道路沿いの民家や商店を中心に死者13人、行方不明 2人、全壊427棟、半壊335棟、床上浸水387棟と大変な被害があった。


15:50頃の第1波から16:20頃の第2波にて終息したにみえた17:20頃の第3波にて街を津波が飲み込んだという。


そして震災5日後から15日あまりの間に7.608人ものボランティアに支えられた感謝の言葉。


天皇、皇后、(当時の)両陛下による4/14の訪問。


『岩手県釜石市の奇跡』
市内の小中学生の生存率99.8%。
これは奇跡ではない。

◎防災意識を高める。
・想定にとらわれないこと。
・最善を尽くすこと。
・率先避難者になること。

教育によって子ども達が身につけた防災意識への対応力。

何度も訪れる自然災害に対策を立て立ち向かう町の人々のそれは日本人の強さにもつながっているのだろう。


避難所に身を寄せた人々は最大で2863人。
助けあい、励ましあい、明日を信じた。


復興、そして未来へ




東日本大震災 旭市飯岡津波被災の碑

津波避難マップ






美しい海



千葉県旭市においても地震津波による甚大な被害がありました。
しかしその中にも町の人々の結束や絆の深さ、そして強さ、支えてくれた方々への感謝、更なる防災意識への高みを改めて認識できた貴重な時間でした。



そしてこの度、11年経った2022年3月16日午後11時36分に最大震度6強の「福島沖地震」が発生しました。
また多くの被災者が生まれ大変な思いをしながら生活されていることに心苦しく思います。

亡くなられた方、被災された方々に謹んでお悔やみお見舞い申し上げます。
1日も早いライフラインの復旧、街の復興を願っております。
そして今も余震が続いていると思います。
くれぐれも注意してもらいたいものです。


去年は茨城県大洗町、一昨年は福島県いわき市にも訪れましたが、新型コロナ感染が落ち着いたら福島県北部、宮城県や岩手県にも足を運び、見て学び風化させないこととともに美味しい食べ物食べて地元のおみやげを買っていけたらいいなぁ~と思います☆

それではまた♪
Posted at 2022/03/20 07:57:12 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年03月08日 イイね!

河津桜を見に行く!~浄源寺、鷲宮神社及び青毛堀川、宗吾霊堂編☆

河津桜を見に行く!~浄源寺、鷲宮神社及び青毛堀川、宗吾霊堂編☆長期休暇で特にお出かけもしなかったのだが、小雨の降る中、河津桜を見に出かけました!

もちろん1人で感染対策をしながらになります(笑)

埼玉県さいたま市岩槻区浄土真宗本願寺派嵓月山浄源寺になります♪

まず、山門の前に駐車場があり、親鸞聖人の幼少期の像とともに浄土真宗の教えのパネルがあります。


『明日ありと 思うこころのあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』

親鸞聖人が9歳で得度をし詠んだ句になります。

『明日があると思っていても今は満開の桜が夜中に嵐が吹いて散ってしまうかもしれない』

~私の「いのち」は明日をも知れぬ不確かな「いのち」であること。
限りあるいのちをどのように生きていくかが問題である~


9歳ですって。
すごいですね(笑)


あとは、浄土真宗の教えの紹介。

『善人なほもって往生をとぐ いはんや悪人をや』

これは有名な悪人正機論である。
阿弥陀仏の本願は罪深い悪人を救済することであり、悪人こそ仏の教えを聞いて悟りを得る能力や資質を備えた、往生するにふさわしい者であるという理論である。

但し、ここでいう『悪人』とは悪行をすすめるものではなく真実に背いている悪人を真実に向かわしめようとする阿弥陀仏の教えである。


『他力本願』

他力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力こそが他力である。

本願とは極楽浄土に導きいれる願いです。
つまりは念仏によって阿弥陀如来の本願のはたらきによる救いを得ることである。

このような解説のパネルがあります☆

山門。



河津桜。

これは梅?

本堂。



親鸞聖人像。

念仏法恩塔。



墓地の手前に河津桜があるがまだ五分咲きである。







ちょっとした遊歩道のようになっている。



しだれ桜?
お花詳しくないので大変(笑)





まだ五分咲きだがキレイなところを撮るとキレイに見える(笑)









浄源寺本堂。

浄源寺の創建年代等は不詳ながら、曽我兄弟の末裔河津三郎祐重(釋祐存僧善正)が出家して開基とされる。



ちなみに浄土真宗のお寺はほぼ訪れたことがない。


少し説明をしよう。

日本で一番門徒が多いのが浄土真宗である。

そもそも浄土系には浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗などがあるが
浄土真宗は浄土宗を学んだ親鸞聖人の創始になります。

ただし親鸞聖人はお寺等の建立はせず没後弟子達により教団として成立したと言われている。

もともと古くは一向宗、門徒宗と呼ばれた。

戦後に真宗十派から本願寺派が浄土真宗、他9宗が真宗と呼ばれるようになった。

本尊は、阿弥陀如来一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊としている。

さて、先ほど書いたが浄土真宗には真宗十派と言って、10の宗派に分かれている。

その中でも東本願寺の真宗大谷派と西本願寺の本願寺派が最大のものです。

京都の本山でも「お東さん」(真宗大谷派)と「お西さん」(本願寺派)と京都駅を挟み対極に位置しています。



ここからはネットにて良い解説があったので抜粋します。


『本願寺分裂の話』

実は本願寺は戦国時代までは1つだった。

しかし織田信長が石山本願寺を攻めた石山戦争をきっかけに2つに分かれた。

当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)によって建立された浄土真宗の一大拠点であり、難攻不落の砦でした。

織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできなかった。

しかし浄土真宗との戦いに天下統一の足止めされることを嫌った信長は、当時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)を間に入れて和睦を求めました。

その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、この2つの考えによって本願寺内が2派に分かれたそうです。

これが本願寺が東と西に分かれるきっかけです。

当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張、激しく対立しました。

最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡して准如と共に和歌山の鷺森別院(さぎのもりべついん)に移転したのです。

これで信長と浄土真宗の争いはひと段落しましたが、争いの火種はまだ残っていた。

信長はその火種を完全に消そうと明智光秀に本願寺の攻撃を命じましたが、光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、返って信長を討ってしまいました。
これが本能寺の変です。

この結果、浄土真宗は滅亡の危機から逃れることができた。

しかし顕如と教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如は浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲ったのです。

納得できないのは教如です。時代の支配者は徳川家康に移っていましたが、家康にとっても浄土真宗は目の上のたんこぶでした。

家康はこの勢力を弱めようとして、不満を持っている教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。

この結果、本願寺は東と西に完全に分かれ、敵対してしまったのです。

徳川家康は当時でも大名以上の日本最大の集団で、結束力も強く、武装もして政権に対する大きな抵抗勢力であった浄土真宗の力をそぎ落とすために、画策をして2つに分断しました。

2つに分かれた本願寺は、徳川幕府に抵抗する以前に、浄土真宗内で争うようになり、お互いの力を減少させていきました。

その点で言えば、家康の目論見は見事に当たったわけです。

したがって、江戸時代の初期にはお東とお西は非常に仲が悪くなっていました。
敵対と言って良いほどです。

しかし江戸時代の後半になってくると、その対立は徐々に弱まり、内容によっては共同歩調をとるようになりました。

明治になると、江戸初期の確執も随分と薄れてきたこともあって、お東とお西の間では雪解けムードが広がり、第2次世界大戦以降は融和とも言ってよい関係性になりました。

現在ではお東とお西を含む浄土真宗の10派で真宗教団連合というものを組織し、互いに盛んに交流しています。

しかし一方では、信者間ではあからさまに敵対はしていませんが、たとえばお東の本願寺派系の高校の生徒は京都に修学旅行をしたときに、本山である東本願寺には参っても、西本願寺には行かない、というような潜在的な対抗心は残っているようです。
そういう意味では公式にはお東とお西の敵対はありませんが、心情的な違和感はまだまだ一般門徒の間には存在していると言えるでしょう。
(お墓さがし 浄土真宗より抜粋、引用)

↑駐車場にも宗派の紹介パネル(笑)

まー私は密教系寺院が好きなんですが今回は桜メインで来てみました(笑)

良いところでしたね☆

さて、続いては埼玉県久喜市の鷲宮神社です!

ただこちらは何度も紹介していますので簡単に♪

2018年に木製大鳥居が老朽化のため倒壊しましたが、
久しぶりに来たら鳥居が新しくなってました☆
良かった良かった!







拝殿。

神楽殿。

鷲宮神社の神楽は国の重要無形民族文化財に指定。





本殿。

鷲宮神社は、「出雲族の創始に関わる関東最古の大社」、「お酉様の本社」と称する。

天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命を祭神とする。

このことから出雲系列の神社と言える。

いづれ詳しく出雲大社と伊勢神宮の関係性や出雲王朝と大和朝廷の関係性などを書き記してみようと思う(笑)



光天之(みひかり)池。


境内にある池には、龍神さまがいましたが、雨風などの影響により土砂が流れ込み、長い間池が埋もれてしまいました。
1999(平成11)、古来の御神池に復元しようと、整備を始めたらなんと池から湧き水が溢れ出し、さらには龍のような雲が空を覆ったようです!





御朱印です。


『鷲宮神社まとめ』

社格:准勅祭社
旧社格:県社
現在神社本庁:別表神社

創建:
(伝)神代(別宮・神崎神社)
(伝)景行天皇の時代(鷲宮神社)

アニメ「らき☆すた」の聖地。


鷲宮神社の近くにある青毛堀川の河津桜です!
まだちょっと早かった(笑)

青毛堀川とは埼玉県加須市から久喜市までを流れる河川で、騎西領用水およびその分水となる用水路の農業排水路である。
(Wikipedia抜粋)



この日はあいにくの小雨でまだ五分咲きでしたがそれでもキレイですね☆



さて、少し経って3/14。
晴天に恵まれたこの日再び河津桜を見に行くことに☆



千葉県成田市にある真言宗豊山派鳴鐘山医王院東勝寺です♪

義民・佐倉惣五郎の霊が祀られていることから宗吾霊堂(そうごれいどう)とよばれています。

宗吾様御廟。

お線香をあげます☆

大山門。











鐘楼堂。



大本坊。









大本堂。
非常に珍しいのが真言宗の本尊は大日如来が多いのだが、ここでは佐倉惣五郎の霊が祀られているところである☆



開創年代等については不詳であるが、寺伝によれば桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂が創建したという。
たびたび火災にあって寺地を転々とし、1662年(寛文2年)澄祐により再興され下方字鐘打に移った。1910年(明治43年)火災により焼失し、1921年(大正10年)現在地に再建された。
(Wikipedia抜粋)

宗吾霊宝殿。

宗吾御一代記館。

我が国の代表的義民として有名な佐倉宗吾(本名 木内 惣五郎)様は、今から350年前に佐倉藩国家老による暴政のため領民の救済を4代将軍 家綱公へ直訴し、その罪により公津ケ原刑場で磔刑(はりつけ)に処せられました。
 この時、当山の住僧 澄祐(ちょうゆう)和尚は遺骸を刑場跡に埋葬されました。
現在のお墓がそれで惣五郎様の処刑後、佐倉藩はその失政を悔い、宝暦2年(1752年)、百回忌の時に堀田 正亮(まさすけ)公は宗吾道閑居士の法号を諡号しました。
(ホームページ抜粋)



キレイな庭園です。



大本堂裏。

奥之院。



宗吾殿。



聖天堂。





薬師堂。



この辺りの河津桜がとてもキレイです♪



天気も良いのでピンクが映えますね☆













慈眼閣。

梅?

梅?
お花詳しくないのでお花見ても何の木だかあまりわかっていません(笑)



御朱印。

いつ来てもキレイな境内です!
大本堂裏手に広がる境内には7,000株の紫陽花が植えられていて、6月には紫陽花まつりも行われます。

それはそれはキレイみたいですよ☆


以上河津桜を見に行く編でした(笑)
Posted at 2022/03/25 18:23:22 | コメント(1) | トラックバック(0)
2022年03月03日 イイね!

茨城県寺社巡り②~加波山神社、月山寺編♪

茨城県寺社巡り②~加波山神社、月山寺編♪さて、続いてやって来たのが加波山神社真壁拝殿です☆

まず、Wikipediaによると、

加波山神社(かばさんじんじゃ)は、茨城県の加波山山頂、石岡市大塚に鎮座する神社。筑波山などとともに連峰を形成する加波山に対する加波山信仰に基づく神社だった。旧社格は郷社。加波山山頂からやや北に隔たった尾根筋に本殿が鎮座し、更にその北方に拝殿がある。また東西の両山麓にそれぞれ遥拝殿としての里宮がある。鎮座地には近接して加波山本宮と親宮も鎮座、この両宮を併せて加波山権現と総称され、両宮に対して中宮(ちゅうぐう)(加波山神社中宮・加波山中宮)を称し、一に中天宮(ちゅうてんぐう)とも称す。
(Wikipedia抜粋)

と書いてある。

加波山信仰として加波山山頂に鎮座する神社である。

こちらは、茨城県桜川市にある加波山神社真壁拝殿である。



この看板の下の文章がどうも気になる!

拝殿。





本来山頂の里宮に行けない方の為の拝殿らしい。

御祭神は、

国常立尊
伊邪那岐尊
伊邪那美尊


国常立尊とは日本書記において初めての神。

伊邪那岐尊、伊邪那美尊は日本神話においてイザナギ、イザナミの2人で日本を作ったとされる神である。

ほか加波山山中に737神を祀る。

創建(山頂里宮)は景行天皇朝。

ちなみに景行天皇は日本の第12代天皇。

日本武尊(ヤマトタケル)の父。

考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるらしいが、定かではないらしい。

つまりは西暦301年前期~400年中期ですね。


摂社にたばこ神社がある。

そして隣接して末社として加波山普明神社がある。





昭和39年(1964年)創建。

祭神は明治時代に活躍し、「日本最後の仙人」と称される国安普明。

本殿は加波山の東中腹(石岡市大塚)、拝殿は加波山の西麓(桜川市長岡)に鎮座。

拝殿。


少し先に行くとまた神社がある。







加波山神社本宮。

加波山三枝祇神社(かばさんさえなづみじんじゃ)は、茨城県桜川市の加波山山頂に鎮座する加波山三枝祇神社本宮(本宮)と三枝祇神社親宮(親宮)の通称。総花式に加波山三枝祇神社本宮親宮、または単に加波山神社本宮(親宮)、加波山本宮(親宮)ともいう。
(Wikipedia抜粋)

祭神:
伊弉冊命
速玉男命
事解男命

↑この辺がまた難しい(笑)

『日本書紀』の一書において黄泉国で伊邪那美神と伊邪那岐神が喧嘩別れをした際に、吐かれた唾(速玉男命)を掃きはらう神が事解男命とされている。熊野神社に祀られている事が多く、熊野三山での本地仏は薬師如来。
(Wikipedia抜粋)


上の説明では簡単すぎるので詳しく調べてみた。

そもそも日本の古い書物である「古事記」や「日本書紀」ですが、2つとも歴史書だということです。

「古事記」は現存する日本最古の歴史書で、編纂されたのは712(和銅5)年のことです。

天武天皇が編纂を命じ、稗田阿礼・太安万侶が編纂しました。
その目的は国内に向けて作られた天皇家の歴史書だそうです。

一方の「日本書記」は720年に完成し、編纂を命じた人物は「古事記」と同様天武天皇で舎人親王・川島皇子等が編纂しました。
ただし、その目的は国外に向けて作られた国家の公式歴史書であること。

「古事記」は物語としてドラマチックに描かれているのに対し、「日本書記」は事柄を詳細に年代に応じた歴史書であることが大きな点であるようです。

そして「古事記」は国内向けの私的な本であるのに対し「日本書記」は中国の歴史書をもとに漢文で書かれており国外向けに作られた国家の公式歴史書であることが大きな違いであるといえます。

さて、最初に夫婦になったといわれる「イザナギ(伊邪那岐命)」と「イザナミ(伊邪那美命)」ですが
この2人が大八洲(おおやしま)(現在の日本列島)を作ることから始まります。

この夫婦の神たちは、日本の島々、多くの神々を生みました。

しかしイザナミは、火の神であるヒノガクツチノカミ(火之迦具土神)を生んだ時に火傷を負って亡くなってしまいます。

それを悲しんだイザナギは、妻を追って黄泉の国(死者の世界)へ向かうのですが、そこで妻の変わり果てた姿を見たことによって夫婦の絆は絶えてしまいました。

失意のなか自分の国に戻ったイザナギは、穢れを祓うために禊ぎをし、そこで三貴神が生まれます。

これが、アマテラスオオミカミ(天照大御神)後の太陽神、天の神。

ツクヨミノミコト(月読尊)後の夜の神。

スサノオノミコト(素戔男尊)後の海の神です。

↑いづれこの辺も詳しく書こうと思うが、Wikipediaからの「古事記」や「日本書記」の解説で意味もなく役に立つかわからないがやたら勉強してる自分がいる(笑)


ちなみに出産時に母であるイザナミを死においやった火の神の火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)ですが、父親のイザナギの怒りにふれ十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺されてしまいます。

↑ちなみに刀である「天之尾羽張」も神様(笑)

更に殺された火の神の火之迦具土神
の血から8神、死体から8神の16神の神様が誕生しているようである。

正直ワケわからなくなるくらい神様が出てくる(笑)

もう名前あげればきりがありません(笑)

しかし、愛宕神社や秋葉神社に祀られるカグツチ神(火産霊神の名で祀られていることも多い)は防火の神として有名です。

つまり、自然神として火は人間の社会に文明をもたらす恩恵になるものですが使い方を間違い汚すと脅威になるというものの代表であるということですね。

話がだいぶ飛びましたがこの時イザナミが亡くなり、イザナギは黄泉の国(死者の世界)に行くのだが、見るなと言われたのに変わり果てたイザナミの姿を見てしまった。
このことから離婚となるのだが、これも壮絶な話であるが、その時イザナギが吐いた唾から化成したのが速玉之男(ハヤタマノオ)である。

つまり、唾が神様になった(笑)

黄泉の国の穢れを祓うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれたという。

しかし、『古事記』にはこれに当たるような神は出てこない。


なんだが、1人の神様をたどっていくとワケわからなくなるほどの神話がある(笑)

主祭神の3人の神様を調べただけで大変なことになった(笑)

元に戻そう☆

社格:国史見在社論社・旧村社

加波山五社稲荷。



慎岳不動尊。







八大龍神。




これが加波山神社本宮である。

そこで出てくるのが最初にあったこの看板!


どうやら調べてみると、

加波山に関する神社は大きく加波山神社と加波山三枝祇神社に分かれる。
この2社は対立しており、神社名称についても加波山三枝祇神社が加波山神社本宮を自称するなど複雑である。

両社の里宮は至近距離にある。
山頂本殿も両社至近距離にあり、山頂付近にある加波山神社拝殿と加波山三枝祇神社親宮拝殿に至っては2社が隣同士並んで存在している。

加波山神社真壁拝殿で配布している資料によると、加波山三枝祇神社は元々「加波山」が付かない「三枝祇神社」であったのを、戦後、加波山神社の許可を得て「加波山」の文字を付け加えたとのこと。

その後「加波山神社本宮」の名称を名乗るようになったが、無関係であり、加波山神社は当社だけとしている。
加波山神社は郷社、加波山三枝祇神社には本宮と親宮がありいずれも村社であった。
(加波山神社真壁拝殿ホームページより抜粋)

つまり、「郷社」とはこの地帯一帯の総鎮守、

「村社」とは大字のみの鎮守とのことから区別したのだと感じる。

つまり、今紹介した2社は別物だと言いたいみたいです(笑)

ただ、いづれにしろ神様を祀っている神社同士仲良くしてもらいたいものだが、「古事記」や「日本書記」を調べる限りでも、そして権力争いを当時の天皇家がしてきたことをみても世の中から争い事はなくならないのだろうか?

特に今、現時点のウクライナへのロシアによる軍事侵攻や、インドとパキスタンの緊張関係、台湾問題、アフガニスタン、イランの核問題とサウジアラビアとの内戦問題等々。

日本にとってもロシア、中国、北朝鮮といろいろある。

世界が平和になりお互いの国益に基づく利害関係を上手に世界中の国々が助け合える世の中にならないものか?
本当に願うばかりだ!



さて、もうだいぶ文章書いて疲れたのだが、もう1つ訪れたので簡単に書いときます(笑)



茨城県桜川市にある天台宗曜光山月山(がっさん)寺です♪





本堂。
本尊は薬師如来。

室町時代、月山寺13世・光栄により、天台宗に改められて、江戸時代は天台宗の学問所である関東八檀林の一つとして栄えた。









非常に整備された庭園がキレイです☆



寺伝によれば796年(延暦15年)、徳一によって橋本(現桜川市上城(かみしろ))に創建されたという。1127年(大治2年)、橋本城主・谷中孫八郎将国は月山寺を菩提寺とした。1430年(永享2年)、月山寺13世光栄の時に法相宗から天台宗に改宗された。
1615年(元和元年)、徳川秀忠より朱印地60石を賜り、1616年(元和2年)、恵賢の時に現在の地に移転した。1626年(寛永3年)火災で焼失するが、笠間藩主浅野長重の援助により再建された。1705年(宝永2年)には黄檗宗の了翁道覚により経蔵と鉄眼版一切経が寄進されている。
1998年(平成10年)栃木県二宮町大根田にある、長栄寺(廃寺)から観音堂を移築する。
(Wikipedia抜粋)





那智聖観世音。





布袋尊。





鐘楼堂。



千手室。













実はまだ、3月頭なのでお花は微妙(笑)



それでもキレイ(笑)







とにかく広い敷地で庭園は抜群に素敵です☆


これが月山寺でした!


以上久しぶりに出向いた茨城県の旅でした☆

それではまた(笑)
Posted at 2022/04/02 02:13:09 | コメント(1) | トラックバック(0)

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