愛機で参拝に行く!(萬蔵稲荷神社編、刈田嶺神社編)
投稿日 : 2019年07月08日
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白石市にある『萬蔵稲荷神社』を参拝して来ました。
主祭神は、宇迦能魂命です。
萬蔵稲荷神社
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駐車場から境内までの参道は、鳥居が続きます。
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鎮座年代は不詳ですが、奥州山中七ヶ宿街道の此所の地名をとり賀良明貴稲荷と称しました。
現社名は、熊谷家15代目 羽黒派修験者大阿闍梨金剛院祐観こと熊谷萬蔵の名が付いたものです。
萬蔵は、羽州街道の難所の一つの小坂峠を行通う人々を助け賀良明貴稲荷の宮守として修験者として難行苦行を重ねました。
修験者としての修行と業績は出羽三山の認めるところとなり、大阿闍梨金剛院祐観の院号を授与されました。
熊谷家は、鎌倉時代からの金剛院修験の家柄であり、萬蔵は15代目でした。
萬蔵は、神仏の信奉生活と社会への奉仕に明け暮れ生涯を終えたました。
1847年6月27日、81歳でした。
遺言により3年3ヶ月後に墓は開かれ、萬蔵は即神即仏の姿となって村人の前に再現され爾来、金剛院祐観の高徳を尊び慕う村人、信者達は萬蔵の信仰し守りつづけた賀良明貴稲荷様をいつしか萬蔵を含め萬蔵稲荷様と崇め称えるようになりした。
明治時代に入り萬蔵稲荷神社と改称、村社と成り現在に至ります。
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御朱印いただきました。
御初穂料は300円でした。
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蔵王町にある『刈田嶺神社』を参拝して来ました。
主祭神は、天之水分神、国之水分神です。
刈田嶺神社
https://miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?sortmode=&chinzachi=%E5%88%88%E7%94%B0%E9%83%A1%E8%94%B5%E7%8E%8B%E7%94%BA&jinja_name=&jinja_kana=&jinja_sort_key=t_shrine.kana%2C+t_shrine.address&jinja_sortdesc=&per_page_def=15&page_jinja=0&jinja_cnt=13&code=310010164&PC=1
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「開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇二代綏靖天皇を奉祀せしこと」が地方伝説等に残されています。
社伝では、役小角が白鳳8年に大和国に蔵王権現、即ち、天之水分、国之水分、二柱の御神霊を鎮座した吉野山から、「其後文武天皇の御宇」、不忘山に蔵王権現を奉還して、山名も「蔵王山」と改めるに至りました。
この時代は、仏教の最も盛んなる時で、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し、行基出でて神仏習合説を唱い、空海、最澄の二僧出ずるに及び、本地垂跡説を説きし頃には、いつしか神社名も忘られ、「蔵王大権現」と称するに至りました。
平安時代後期の前九年の役の頃になると、安倍氏が当社を己が氏神として神殿の改築したと云われています。
戦国時代に至り、当地方は出羽領に属し、最上出羽守厚く尊崇し五十町歩を寄進して、当社の神田としました。
上杉氏は家臣甘糟氏に守護させました。
その後、伊達氏に代り陸奥に覇を握るや、己が守護神として家臣片倉小十郎に守護させ、伊勢神宮に倣って21年毎の改築を始めました。
伊達政宗が仙台藩をたてると、仙台城の鬼門除けを金華山、病門除けを当社と見なして重要視するようになりました。
明治維新で神仏分離が行われると、明治5年4月に「水分神社」と改称し、更に明治8年に「刈田嶺神社」を称するようになりました。
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こちらで御朱印をいただけます。
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御朱印いただきました。
御初穂料は300円でした。
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