【対偶(たいぐう)とは、ある命題が成立する場合に、その命題の仮定と結論の両方を否定した命題も成立するという命題同士の関係性の事を言う。】
(Wikpediaより引用)
よく混同しやすいものとして
「逆」「裏」がありますが、これは上記の例に対応させる場合
逆:「BならばA」
裏:「AでないならBでない」
となるものですね
例えば・・・
x=1、y=3ならば x+y=4である
のですが、
x+y=4ならば、x=1、y=3とは必ずしも言えないですね。
このケースの場合「逆は必ずしも真ならず」と言える状況なわけです。
中学で習いましたよねぇ
懐かしいですねぇ
どうして「逆は必ずしも真ならず」なのか、お子様に説明してあげてみてくださいね^^
さて・・・
ネットが普及して、早20年を数えようかという昨今。
お手軽になり、お気軽になり。
その反動で、不思議な人たちも記事も急増していますね。
ま、おいらもそんな中の一人。
発信側の良識のみならず、受信側の能力も試されているといって過言ではないでしょう。
たとえば
こちら
おいら面白くてちょいちょい拝見させていただいております。
ご存じの方も多いでしょう。
毎度毎度感心します。
一個紹介するとこんなの
【KDDI、次世代炊飯器「INFOJAR」を発表】
さて・・・ネタ元が
【虚構新聞】だとわかっている人は良いのですが、人づての情報というのはとかく一人歩きをしがちです。
さらに、適度に抜粋したり要約したり。
根拠なく、明確な意思もなく、単に文字数の都合だったり、めんどくさいとかだったり。
ふと気づくと、肝心なところが別の話になっちゃってたり。
テレビ番組の「ノンフィクションなドキュメント」だって「そこをかっとしたら、違う話になるぢゃん!!」
そんなこともしばしばあるわけですし。
単語や短文をを伝えるだけの伝言ゲームですら、数人またぐと別の言葉に早変わり。
まして伝わる経路が「通りすがりの善意」だったりするとこれは厄介。
単にジョークの一環として、面白ネタとして伝えたかっただけなのに。
一人の友人、数人の友人にだけ面白がって見せたはずだったのに。
気づいたら、善意の通りすがりによって相次ぐ拡散で世界中に伝搬・・・とか。
ちなみにネタ元のページ。
実際に拝見された方はぜひ試してみてください。
記事タイトル部分でマウスを左クリック→そのまま画面右方向にスライド。
そうすると、そのままじゃ見えないとある一言が目に入りますよね?
何かはあえて言いませんw
さて・・・
誤情報だったり伝聞だったりの「ただのジョーク」を真に受けてしまった場合。
発信者に問題があるのか、それとも受信者に問題があるのか?
私見ですが、おいら的には95%まで受信側の問題だと考えます。
なぜって?
調べりゃすぐわかんぢゃん!!
ネット使って情報にたどり着いたのに、なんでもう一歩を踏み込まないかねぇ。
と素朴に思うわけです。
情報の真偽判断の一つの目安に
【情報発信の正確さは身分を明かしているかどうか】
だと、時代錯誤にも思える主張をされる見解も時折目にしますね。
では、【身分を明かしていれば、正しい情報を発信する】が成立するのかと言えば答えは
否
ですよね。
これまで世の中を騒がしたいくつもの【詐欺投資会社】なんか、基本的には所在も連絡先も何もかも明言して動いていたわけですし。
【不思議理論】を前面に押し出した商品を販売している会社なんかも同様ですね。
自身の正当性を主張するための材料として、自身の情報を手段として使うことはやぶさかではないです。
けれど、ではそれが何の担保になるのかといえば、なりえないのも現状です。
だから信じてってのは、とても独りよがりなことだと思うのですね。
もう一歩突っ込めば、この主張に基づくと
【匿名記事はすべて真っ赤なウソだらけ】
も成立しなきゃいけなくなりますが、そんなことないですよね。
例えば昨今、病院などでもあえて在籍医師紹介を削除したり、責任者のみに限定したりしています。
個人情報保護の観点から、当然の処置でしょう。
では、記載されていない医師は嘘つきなのか?
違いますよね^^
匿名性が匿名性としての意味と意義を持っていたのは、ぶっちゃけインターネットが普及した時点で終了したといっても過言ではないと思うのですね。
今どきの世の中、相当苦労して身元を隠したところで、見つけられないレベルで隠せる人なんざ大していないわけですしね。
それこそ、ネット上の情報に対し議論するに際して身元がどーだこーだ関係ないのですよ。
真偽の判断をするにしてもそう。
昨今の2chなんかいい例だと思いますよ。
確かに書き逃げ的な側面はあるけれど、だからこそ冷静でごくごく一般的、普遍的な判断の記載が多数見受けられるわけですし。
明らかに、ちゃかしだったり、私怨だったりなんてのは冷静に淘汰されますしね。
情報の正確性、重要性。
よく言われることですが、
結局のところどれだけ受け手が多面的に判断するのかではないかと思います。
もちろん、
発信者に善意と誠意があることが望ましいですけれど。
あるのが当たり前だってのは間違いで。
前提として個人の発信情報に、間違いや勘違い、思い込みなんてものが無いはずもない・・・と考えてしかるべき。
以前も書いたことありますが、基本的に誰かの感情を経由して誰かの言葉で語られるものに、厳密な客観なんかないんですから。
そして発信者が示すべきは、会社の所在地ではなく
・・・個人の何かを開示してるわけじゃないのがみそで、そのくせこれを言う人に限って相手に対して個人情報をさらせない弱虫とか言うんだなw・・・
発信情報に対する疑問、異論に対し誠意ある対応をすることではないのでしょうか。
それが、5%の責任部分だと考えるのですね。
悪意をもってデマを発信していれば、それはいずれ淘汰されるもんだろうし。
そこはある意味責任区分から外してもいいのかなとおもったり。
もちろん、発信者責任5%、受信者責任95%ってのはおいらの私見。
人によって異なるでしょう。
けれど、全責任がどちらか一方なんてことは、大戦中の時代ならともかく。
少なくとも現状においてはあり得ないんですよ。
たとえ発信元が雑誌や新聞やテレビであってもね。
俺は身元明かしてるから、全部正しいんだぜぇ!
なんて、間抜けな誘導に乗らないようにしましょうね。
それこそ・・・
偽物の常套句でしょw
「偽物は、本物になろうとする分だけ本物よりも本物だ」
ってな言葉がとある物語にありますが、それはあくまで、本物になろうとする偽物についてのお話で。
偽物であることにすら気づいてないのなら、その限りですらないですしね。
Posted at 2014/02/21 20:24:47 | |
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