田中城
投稿日 : 2023年01月21日
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「田中城」は1537年今川氏が築いたもので、戦国時代より前の城としては珍しい平城で、如何に今川氏統治時代の駿河は泰平だったかが分かります。行ってみると本当に平坦地にあり、将に「田中」というネーミングがぴったりの場所です。
但し、「田中城」と呼ばれるようになったのは、1570年に武田信玄が城を攻め落としてからの話で、それまでは現愛知県西尾市一色辺りを本貫としていた一色氏の居城で「徳之一色城」などと呼ばれていたそうです。
今は、城跡の一部が庭園に整備され無料開放されています。
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騎馬隊を中心とする機動性の高い兵団による戦法を得意とする武田氏は、防禦に利する要害に在る山城よりも、諏訪原城のような行軍の便が良い城を好んだようです(諏訪原城については2022年1月24及び27日のブタのフォトギャラリーをご覧ください)。
この田中城は諏訪原城よりも周囲が開けた場所にあり、大軍に囲まれ攻められないように、同心円状に三重の水堀を配した珍しい円形の城となっています。
また二の丸、三の丸の外側に「丸馬出し」が6箇所もある、武田氏特有の城郭になっています。
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現在の地図に田中城を重ね合わせた地図があります。これを見ると本丸跡地は西益津小学校、西の三の丸跡には西益津中学校が建っていることが分かります。
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城内の建屋の配置などはこの復元模型を見ると良く分かります。
田中城は、武田臣下依田信蕃(よだのぶしげ)が、7年間もの間家康の攻撃を耐え忍び、(武田勝頼の自害の報で)説得に応じて城を明け渡すまで、戦(いくさ)で建物や資料が失われることが無かったようです。
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田中城は天守もない小城ながら信玄、信長、秀吉、家康、家光という歴史上錚々たる人物達が泊まったことがあるという城で、家康の生前最後の外出(外泊)先ともなった城とのことです。
もう少し宣伝に力を入れれば入場料だって取れるような有名な観光地に出来そうなのに、余り世間に知られておらず(ブタが無知なだけ?)、藤枝市は商売っ気がないですね。
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タイトル画像にある二階櫓は、元は本丸の南東隅にあった物見櫓(わかりづらいですが上の画像の田中城古図の右下角にある建物がそれ)で、廃城後は最後の城主であった高橋伊勢守精一(泥舟)の家臣村山氏に払い下げられ(1870年)、1985年藤枝市に子孫の方から寄贈されて現在は庭園のこの場所に移築されています。
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庭園には家康公手植えと云われる蜜柑の木があります。(樹の大きさ(太さ)から言っても実際には家康公が植えたものとは考え難く、田中城にあった蜜柑(幹)に駿府城の本丸跡にあった蜜柑(枝)を接ぎ木したというもののようです。)
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家康公や藤枝とは何の繋がりもありません(と思います)が、兎年に因んで「エロマンガ先生」(作:伏見つかさ氏、イラスト:かんざきひろ先生)から、「うさ耳」を付けた和泉紗霧ちゃんに藤枝の地酒「杉井酒造」さんの「杉錦 大吟醸」を宣伝して貰います。
(イラストで紗霧の字を間違って沙霧と書いてしまいました、大変失礼しました。)
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