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並平のブログ一覧

2009年07月29日 イイね!

「山桜」と「稲垣潤一」

「山桜」と「稲垣潤一」先日見たDVDと先日借りてきたCDです。
この2作品て、共通するテイストがあるんですよね。
後から気付いたんですが。


「山桜」は私の大好きな藤沢周平原作。
原作は「時雨みち」という短編集に収められています。
時間を経ても尚、忘れられないひとがいる…。過去の縁に翻弄されるひとたち…。
そんな情景を集めた、切ない作品集です。

その中の「山桜」。
本当に短い小作品ですが、感情はふくよかです。

映画作品原作をほぼ忠実にたどっていますが、原作をより美しく静謐にしたようなとても好感を持てる出来上がりだと思います。


ただ、、、藤沢周平ファンとしては、「海坂なまり」じゃなかったことが少々残念でしたが、それは原作ファンの勝手な言いぐさ。

藤沢周平を知らない人でも、「よい映画だった」と感動するなら、それで良いのだと。そう自分を納得させます。

セリフは少ないのに、主人公らの心情がありありと伝わってくる情景は、これは巧いなぁと感心しました。
ある部分では、原作よりももっと美しく心を描写するシーンがありました。

たとえば…。
桜の枝を取ろうとして野江は転び、足袋を土で汚してしまう。

そこへ弥一郎が通りがかり、野江に桜を手折ってくれる。

そのシーンが、ここ、冒頭の大事なシーンなんですが、すごく良かった。
弥一郎は原作では27か28歳ということになってますが、アラフォーのヒガシが演じるのはちょっとなぁ、、という偏見も気にならないほどの良いシーンでした。

自宅に帰っても、野江は弥一郎をふと思う。
それは、汚れてしまった足袋を脱ぐとき、たらいで洗う時、そして干す時にさえ、弥一郎を思う野江の心が表れる。

セリフのない言葉使い。
沁みるものがありました。

テーマとしては、「幸せの回り道」という感じです。

エンディング以降は、見た人の想像にまかせるような終わり方になっていますが、弥一郎の沙汰がどんなものになっても、野江は幸せを感じながら人生を送ると思います。
弥一郎のお母さんを支えながら…。




そしてもうひとつ。

CD「INAGAKI25」
は稲垣潤一さんのデビュー25周年記念アルバム。

懐かしかったです。
昔、この人のヒットナンバーが毎日、テレビCFに乗って流れてきましたねぇ。

昔は、聞いていても意味がよく分からなかったり、「うーん、大人の世界」って人ごとに思ったものでしたが、歌詞の男女の年を通り越してしまった今聞くと、それはそれで胸キュンだったりする。(笑)

それで、稲垣さんのCDがあったコーナーは、「懐メロ」「アラフォー向け」ってなってて。w

ほんと20年前のヒット曲を集めたオムニバスがいっぱい。
ジャケット帯に、「大人になるって悪くない」とか「あれから20回も夏が来たんだ」とか書いてある。

「あれから20回も夏が来たんだ」は、いいキャッチだと思う。

でも、「大人になるって悪くない」は、、。
大人じゃないヤツが書いてると思う。(笑)

そんなふうに人の仕事に文句いいながら、、、

私なら、

「きっとあの人も
この曲を聴く時
私のことを思い出している」

みたいな内容を、もちっと短く整理して作るなぁ。


とか思いつつ借りてきたCD。
これすごいんです。
3枚組でした。

帰り道と翌日の遠出時にHDDナビに覚えさせたんですが、3枚分も稲垣さんのあの声聴いたらさすがに飽きますね。ww



さて〆です。

「山桜」と稲垣潤一さんの「25」。

この2作品は、どちらも「時間を経ても忘れられない人」というイメージが色濃いです。

稲垣さんの曲、半分くらいは別れた人のこと思い出したり、忘れられなかったり、別れたひとと偶然再会したりする曲です。

そういうのって、切ないなぁ。。。

後悔するような、、、何年経っても忘れられないひとが心に棲んでいるって。。。
どんな毎日なんでしょう。

「山桜」の野江なら健気に生きてゆけそうでしょうが、私なら無理ですね。
根気がないので。
自分の想いに押しつぶされて気が触れますね。(笑)

こんな私だから、悔恨の邂逅などなくて良かった。
Posted at 2009/07/30 00:02:52 | コメント(10) | トラックバック(0) | 映画・DVD | 日記
2009年07月29日 イイね!

パワーストーン

パワーストーン
今日、仕事で宝飾屋さんへ行きましたら、そのお店で「パワーストーン」も取り扱っていまして、これまで私はパワーストーンがどういう物がちゃんと聞いたことがなかったので聞いてみました。

すると、その名の通り、「力を持つ石」のようです。
安易な説明ですかね?(笑)

それで、仕事だと思ってズケズケ何でも聞くわけです。
「本当に何らかの効果ってあるんですか? 購買者から効果があったという声は届いていますか?」とか。

すると、「はい!」と、自信に満ちた力強い頷き。

「パワーストーンのブレスレットをはめて帰ったら、帰り道の間に頭痛が治ったとか、すっかりむくみが取れたとか、、。そういう方は多いです」

なんですと?
頭痛にむくみ?

うぅぅむ。。
私の三大悩みのうちのふたつ。

効くの??

考えてみたら石って、温泉と通じるものがありますよね?
どっちも鉱物の範疇ですよね?
だとしたら、温泉だって皮膚から吸収されて血流を促したり血糖値を下げたりするんですから、石から発せられる何らかの鉱物パワーが同様の作用をもたらしても、これは不思議じゃない、、ですよね?

だから、これは否定できない。


そしてあれこれ商品について聞いていたら、どうやら、自分の誕生日(生まれ年と月と日)によって、その人のためのパワーストーンがあるということも聞きました。

その生年月日からその人の性質や性格を測定し、その人をフォローするような「石」を身につけることによって、たとえば、、おとなしい人は積極的になれたり、攻撃的な人は優しくなれたり、、という、そういう効果も得られるのだそうです。

ホントウカ??
と、心の中で疑惑たっぷりでしたが、お守り代わりにはいいかもしれないし。

お店の方に私の生年月日を伝えたら、調べること数分。
写真の「パワーストーン」が私の石だと明言されました。
名前、その時は見たのですが、すぐに忘れちゃった。(笑)

「沈静」効果がある石だそうです。

そっかぁ。
あたしには沈静が必要なんだぁ。。ww

やっぱりね。
すぐに発火して怒るしなぁ。ww

一緒にいた会社の営業さんに、
「今後、私があんまり怒らなくなっていい人になったと評判になったら、それはパワーストーンの効果だと思ってください」と言ったら、

営業さん:「え、並平さん、そんなに怒ります? 今でも別に悪い人とは、、思ってませんよ。。(汗」

並:「時々、Sさんにはちょっときっつい言い方しちゃったりして、後から、あぁ、ああいう言い方して悪かったな、とか思いますもん」


営業さん:「あぁ、Sは、、、人をイラッとさせるタイプの人間ですから。w」

並:「えーー? そっすかーー?」


という会話をしつつ。。。



1番小さいストーンなので1個500円。
購入しようとしたら、プレゼントしていただきました。^^

皆さん、バッグに中に入れたりしているそうです。

私はしばらく手に持っていたんですが、、、。

気のせいか、それまで頭がどんよりしていて背中が痛かったのですが、それがスッキリしたような。。

だもんだから、いつもの夜より元気あって、帰ってきてから洗濯しちゃってます。
まだ元気残ってるから、台所も片付けよう。。。
Posted at 2009/07/29 22:01:37 | コメント(5) | トラックバック(0) | 仕事 | 日記
2009年07月29日 イイね!

函館紀行で箱館を思う<1>

函館紀行で箱館を思う&lt;1&gt;先週末、息子のスポーツ大会観戦のために函館へ行っておりまして。
まちの至る所に掲げられた「開港150周年」の文字をしみじみと見ました。

今から150年前といえば…。
1859年。
「安政の大獄」があった年です。
橋本左内や頼山陽の息子、頼三樹三郎、そして吉田松陰ら。
この国きっての逸材たちが次々と処刑されました。
(かつての、カンボジアのクレール・ルージュと似たようなやり方、、と思ったこともあった)

あ、頼三樹三郎は蝦夷地に見学旅行へ行った際、松前藩で松浦武四郎と知り合い、親友となったそうです。

そもそも、幕末の動乱や風雲児たちの出現は、1853年の黒船来航から始まったわけです。
6年で開港に至り、さらに10年後。
箱館港にたくさんの外国船が入っている1869年春に、五稜郭戦争は激化しそして集結しました。
そしてこの年、蝦夷地は「北海道」と改称されます。
「北海道」。これは、松浦武四郎の雅号が由来となっています。

蝦夷地アイヌの人びとが呼んでいた「かいのくに」という呼称に、「海」という字をあて、「北」と、武四郎が自らの足で歩み、調べ記してきたであろう「道」を組み合わせた名前。

私はとても気に入っています。

その武四郎。

ちょうど箱館港開港のころ、ある文献を書きまとめました。
それは、「近世蝦夷人物誌」というもの。
この中には、いかにアイヌの人びとが和人に虐げられているか、が克明に書かれているそうです。

「アイヌの人びとは松前藩としか交易できないよう不利な立場におかれ、しかも法外なレートで搾取され続けている。だから疲労と栄養不足は深刻。さらにはコタンの男は過酷な労働に連れて行かれ、既婚の女も娘も連れていかれ妾や慰み者にされる。妊婦であっても強姦されるので、無事出産できる者は少ない。運良く出産できても、男児なら和人によってすぐに殺されてしまうので、アイヌの人びとはこの100年間の間に人口が半分にも減っている」

と、このような記述があるそうです。

武四郎はこれを、、目を背けたくなるような非道を、いったいどんな気持ちで書き綴ったのか。
怒りや悲しみを押し殺しながら、この状況をなんとかしたいとその一心で書いたのだと思います。

しかし、この「近世蝦夷人物誌」は松前藩の妨害に遭い、明治45年まで発刊されなかったといわれています。
武四郎自身も命を狙われ、一時隠れたり江戸に戻っていたとも言われています。

そもそも、松前藩はアイヌの人びとからの搾取で成り立ってきた藩でした。
松前藩ができたのは1593年。
秀吉の時代です。コメ至上主義の時代において、コメができない蝦夷地に藩が成立するのは、これは奇想天外な事だったと思います。
ところが、たまたま松前家の当主が秀吉に謁見し、その後たまたま、北辺のどこかで、、津軽だったかな? 秀吉にたてついた藩があって、その時、「松前、おまえ、近所だろうから、ちょっと行って鎮めてこいや」と秀吉が言ったので、気合いを入れて大いに戦いました。

しかもアイヌ民族の雄壮な兵士を連れて行っていて、狩猟民族であった彼らの弓の技術といったらスゴイもので。まず、外さない。あっという間に小競り合いは鎮圧。
松前のその武勇を見込まれ。ついでに北辺の国防にも役立つとでも思われたのか、秀吉から「松前藩開祖」を許されたのでした。

ほかにも道南には「渡」出身で、松前家と並ぶ一族はあったのですが、この秀吉のサプライズで一挙に勢力図は決まりました。

しかし、松前家の来し方は常にアイヌの人びとを苦しませ、それが原因で暴動が起き、戦い、鎮圧、処刑を繰り返してきていました。
だから、松前家はいつもアイヌの人びとの反撃を恐れてたから、好立地の現函館港ではなく、松前に港を開き、福山という辺境の地に城を拠点としたのです。

要は、便利な場所は蝦夷地奥から攻め込まれたらたまったもんじゃない場所だったからあの場所に松前城は存在したのですね。

昔年の恨みを恐れそんな場所に築城していたのでは、国防の要どころじゃなかったのではないかと。。。

話は戻って、松前家の幕開けについて。
1457年に「コシャマインの乱」という、アイヌ民族と和人の衝突がありました。
これは「シノリ事件」という出来事が発端でアイヌたちが蜂起した戦いでした。
道南のシノリという地域で、アイヌの少年が和人の鍛冶屋にマキリ(刀)を作って欲しいと頼んだわけです。当時鍛冶技術は和人しか持っていなかったので。

ところが出来上がったマキリの出来は悪い。そのうえ高額な料金を請求された少年は当然ながら不満を言う。
すると和人鍛冶屋は、「じゃ、斬れるか斬れないか試してやる」といってその場でアイヌの少年を斬り殺したのでした。

それが切っ掛けで、アイヌの英雄コシャマインが蜂起し、その戦いは熾烈を極めます。
が、その紛争を収めたのが、武田信広という若狭出身の人。商人渡りだったのではないかと推測されています。
その信宏の働きが、当時道南で勢力を伸ばしてきた蠣崎家に見込まれ養子に入り、後の松前家となる礎が出来たと。
そういう始まりでした。

その後松前家は相変わらずアイヌの人びとを利用しつつ、小競り合いもしつつ、時は1669年。
有名な「シャクシャインの乱」が起こります。
これは、私、一番大きく有名な蜂起なのに、あまり発生原因を知りません。

シャクシャインの故郷、静内川(シベチャリ川)の利権が関わった内部紛争から始まったのだったかもしれません。
これは北海道各地のアイヌが一斉蜂起し、戦いも長期化しました。
幕府も脅威を感じるほどだったので、このまま長期化すれば松前藩に対する幕府の心証も悪くなる。

ということで、松前藩はシャクシャインに和議を申し入れ、祝宴でもてなし、そして酔わせて殺してしまいました。
アイヌの人びとは本来人を疑わない純粋な正確で、しかもお酒が好き。
この特性を利用しての暗殺、、。

そしてシャクシャインが没した後も、アイヌの人びとは非道に耐えながら時々小規模の紛争を起こしつつ100年を過ごします。

1789年。
蝦夷地アイヌの人びとにとって最後となる蜂起(と言ってもシャクシャインの乱に比べたらほんの小さな蜂起ですが)、「クナシリ・メナシ争乱」が起こります。

これも最後、松前藩が鎮め、首謀者たちを処刑して幕府への体面を取り繕いました。

「クナシリ・メナシ争乱」を描いた本で、船戸与一著「蝦夷地別件(上・中・下巻)」があり、以前長々書いたことがあります。


与一さんが書いたクナシリ・メナシ争乱」。
つまり
「蝦夷地別件」 に私はかなり影響を受けております。

多少史実にない事も書かれていて、すべて真実ではないのですが、これは出会って良かったと思えた一冊です。

そして同じく「クナシリ・メナシ争乱」を書いた人がいました。
それが書かれたのは1862年。アイヌの人びとから聞いた話を克明に記したその記は、「知床日誌」にしたためられました。

「●●日誌」。北海道の人なら、この名称で書き手はすぐに分かることでしょう。

そう。松浦武四郎です。

クナシリアイヌの人たちに、聞いたのでしょうね。


異国の船を迎え入れ、鰊漁期は「江差の5月は江戸にもない」と言われるほど賑やかだった道南の都。

どんな事柄にも明と暗はあり、わざわざこのように松前藩の「暗」を言いっ放しにするのも紳士的じゃないかもしれませんが、函館といえば、松前藩が連想され、そして松前藩といえば、アイヌの人びとの蜂起の歴史を思い出します。

戊辰戦争の時、最初松前藩は旧幕府軍についていたけど、会津とか東北諸藩が降伏し出したら、ちゃっかり新政府軍に寝返って、五稜郭戦争の時は旧幕府軍と対峙し、自ら造った五稜郭を陥落させたという話しは、、、余計な話しだったかも。


明日は、「榎本武揚」の話しがしたいです。
土方歳三の話しもしたいですが、そうそう毎晩夜なべしてブログもできないので、榎本武揚で限界かなぁ。。

Posted at 2009/07/29 01:10:09 | コメント(5) | トラックバック(0) | Thinking | 日記
2009年07月26日 イイね!

今夜のごはんわーい(嬉しい顔)レストラン

今夜のごはん今夜は3家族、9人で食べました~。 昨日より明らかに胃の容量が拡大してました。

(-.-)

やっぱり函館はおいしいです~。(笑)
Posted at 2009/07/26 04:00:45 | コメント(3) | トラックバック(0) | オフ | 日記
2009年07月25日 イイね!

若のチーム

若のチーム上位入賞は逃しましたが、ランキングを上げての入賞ができてホッとしました。^_^
リレーはいつも観るのも緊張します。
明日は気楽に応援します。(笑)
Posted at 2009/07/26 03:52:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | Track&Field | 日記

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