
先週末、息子のスポーツ大会観戦のために函館へ行っておりまして。
まちの至る所に掲げられた「開港150周年」の文字をしみじみと見ました。
今から150年前といえば…。
1859年。
「安政の大獄」があった年です。
橋本左内や頼山陽の息子、頼三樹三郎、そして吉田松陰ら。
この国きっての逸材たちが次々と処刑されました。
(かつての、カンボジアのクレール・ルージュと似たようなやり方、、と思ったこともあった)
あ、頼三樹三郎は蝦夷地に見学旅行へ行った際、松前藩で松浦武四郎と知り合い、親友となったそうです。
そもそも、幕末の動乱や風雲児たちの出現は、1853年の黒船来航から始まったわけです。
6年で開港に至り、さらに10年後。
箱館港にたくさんの外国船が入っている1869年春に、五稜郭戦争は激化しそして集結しました。
そしてこの年、蝦夷地は「北海道」と改称されます。
「北海道」。これは、松浦武四郎の雅号が由来となっています。
蝦夷地アイヌの人びとが呼んでいた「かいのくに」という呼称に、「海」という字をあて、「北」と、武四郎が自らの足で歩み、調べ記してきたであろう「道」を組み合わせた名前。
私はとても気に入っています。
その武四郎。
ちょうど箱館港開港のころ、ある文献を書きまとめました。
それは、「近世蝦夷人物誌」というもの。
この中には、いかにアイヌの人びとが和人に虐げられているか、が克明に書かれているそうです。
「アイヌの人びとは松前藩としか交易できないよう不利な立場におかれ、しかも法外なレートで搾取され続けている。だから疲労と栄養不足は深刻。さらにはコタンの男は過酷な労働に連れて行かれ、既婚の女も娘も連れていかれ妾や慰み者にされる。妊婦であっても強姦されるので、無事出産できる者は少ない。運良く出産できても、男児なら和人によってすぐに殺されてしまうので、アイヌの人びとはこの100年間の間に人口が半分にも減っている」
と、このような記述があるそうです。
武四郎はこれを、、目を背けたくなるような非道を、いったいどんな気持ちで書き綴ったのか。
怒りや悲しみを押し殺しながら、この状況をなんとかしたいとその一心で書いたのだと思います。
しかし、この「近世蝦夷人物誌」は松前藩の妨害に遭い、明治45年まで発刊されなかったといわれています。
武四郎自身も命を狙われ、一時隠れたり江戸に戻っていたとも言われています。
そもそも、松前藩はアイヌの人びとからの搾取で成り立ってきた藩でした。
松前藩ができたのは1593年。
秀吉の時代です。コメ至上主義の時代において、コメができない蝦夷地に藩が成立するのは、これは奇想天外な事だったと思います。
ところが、たまたま松前家の当主が秀吉に謁見し、その後たまたま、北辺のどこかで、、津軽だったかな? 秀吉にたてついた藩があって、その時、「松前、おまえ、近所だろうから、ちょっと行って鎮めてこいや」と秀吉が言ったので、気合いを入れて大いに戦いました。
しかもアイヌ民族の雄壮な兵士を連れて行っていて、狩猟民族であった彼らの弓の技術といったらスゴイもので。まず、外さない。あっという間に小競り合いは鎮圧。
松前のその武勇を見込まれ。ついでに北辺の国防にも役立つとでも思われたのか、秀吉から「松前藩開祖」を許されたのでした。
ほかにも道南には「渡」出身で、松前家と並ぶ一族はあったのですが、この秀吉のサプライズで一挙に勢力図は決まりました。
しかし、松前家の来し方は常にアイヌの人びとを苦しませ、それが原因で暴動が起き、戦い、鎮圧、処刑を繰り返してきていました。
だから、松前家はいつもアイヌの人びとの反撃を恐れてたから、好立地の現函館港ではなく、松前に港を開き、福山という辺境の地に城を拠点としたのです。
要は、便利な場所は蝦夷地奥から攻め込まれたらたまったもんじゃない場所だったからあの場所に松前城は存在したのですね。
昔年の恨みを恐れそんな場所に築城していたのでは、国防の要どころじゃなかったのではないかと。。。
話は戻って、松前家の幕開けについて。
1457年に「コシャマインの乱」という、アイヌ民族と和人の衝突がありました。
これは「シノリ事件」という出来事が発端でアイヌたちが蜂起した戦いでした。
道南のシノリという地域で、アイヌの少年が和人の鍛冶屋にマキリ(刀)を作って欲しいと頼んだわけです。当時鍛冶技術は和人しか持っていなかったので。
ところが出来上がったマキリの出来は悪い。そのうえ高額な料金を請求された少年は当然ながら不満を言う。
すると和人鍛冶屋は、「じゃ、斬れるか斬れないか試してやる」といってその場でアイヌの少年を斬り殺したのでした。
それが切っ掛けで、アイヌの英雄コシャマインが蜂起し、その戦いは熾烈を極めます。
が、その紛争を収めたのが、武田信広という若狭出身の人。商人渡りだったのではないかと推測されています。
その信宏の働きが、当時道南で勢力を伸ばしてきた蠣崎家に見込まれ養子に入り、後の松前家となる礎が出来たと。
そういう始まりでした。
その後松前家は相変わらずアイヌの人びとを利用しつつ、小競り合いもしつつ、時は1669年。
有名な「シャクシャインの乱」が起こります。
これは、私、一番大きく有名な蜂起なのに、あまり発生原因を知りません。
シャクシャインの故郷、静内川(シベチャリ川)の利権が関わった内部紛争から始まったのだったかもしれません。
これは北海道各地のアイヌが一斉蜂起し、戦いも長期化しました。
幕府も脅威を感じるほどだったので、このまま長期化すれば松前藩に対する幕府の心証も悪くなる。
ということで、松前藩はシャクシャインに和議を申し入れ、祝宴でもてなし、そして酔わせて殺してしまいました。
アイヌの人びとは本来人を疑わない純粋な正確で、しかもお酒が好き。
この特性を利用しての暗殺、、。
そしてシャクシャインが没した後も、アイヌの人びとは非道に耐えながら時々小規模の紛争を起こしつつ100年を過ごします。
1789年。
蝦夷地アイヌの人びとにとって最後となる蜂起(と言ってもシャクシャインの乱に比べたらほんの小さな蜂起ですが)、「クナシリ・メナシ争乱」が起こります。
これも最後、松前藩が鎮め、首謀者たちを処刑して幕府への体面を取り繕いました。
「クナシリ・メナシ争乱」を描いた本で、船戸与一著「蝦夷地別件(上・中・下巻)」があり、
以前長々書いたことがあります。
与一さんが書いたクナシリ・メナシ争乱」。
つまり
「蝦夷地別件」 に私はかなり影響を受けております。
多少史実にない事も書かれていて、すべて真実ではないのですが、これは出会って良かったと思えた一冊です。
そして同じく「クナシリ・メナシ争乱」を書いた人がいました。
それが書かれたのは1862年。アイヌの人びとから聞いた話を克明に記したその記は、「知床日誌」にしたためられました。
「●●日誌」。北海道の人なら、この名称で書き手はすぐに分かることでしょう。
そう。松浦武四郎です。
クナシリアイヌの人たちに、聞いたのでしょうね。
異国の船を迎え入れ、鰊漁期は「江差の5月は江戸にもない」と言われるほど賑やかだった道南の都。
どんな事柄にも明と暗はあり、わざわざこのように松前藩の「暗」を言いっ放しにするのも紳士的じゃないかもしれませんが、函館といえば、松前藩が連想され、そして松前藩といえば、アイヌの人びとの蜂起の歴史を思い出します。
戊辰戦争の時、最初松前藩は旧幕府軍についていたけど、会津とか東北諸藩が降伏し出したら、ちゃっかり新政府軍に寝返って、五稜郭戦争の時は旧幕府軍と対峙し、自ら造った五稜郭を陥落させたという話しは、、、余計な話しだったかも。
明日は、「榎本武揚」の話しがしたいです。
土方歳三の話しもしたいですが、そうそう毎晩夜なべしてブログもできないので、榎本武揚で限界かなぁ。。