
5月6日
九州放浪の帰り道。。。
神戸に朝方に到着しますので
この日はそこから帰路に就く(移動日)のですが
・・・・そのまま直行で帰るのは
なんかもったいない気分が(貧乏性。。
ですので
最後に
以前
京都旅行した時にちょこっと南にあるので
行きそびれて^^。
・・・・そのまま若干(いったつもりになって)放置しちゃっていた
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう
へと行ってみることに
こちらはうぃきによりますと
・・・
平安時代前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請した神社で、京都の南南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座された[1][2][3]。創建年については『元亨釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)としている[2]。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたともいわれる[1]。
都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受けて、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けるようになった[2]。さらに平安末期には白河天皇の殊遇を受け、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった[2]。
また、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられた[3]。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は当社で7歳の時に元服し「八幡太郎義家」を名乗った[1]。そのため武神として信仰され、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
石清水八幡宮は僧侶を中心に創建され、当初から宮寺形式をとり、境内の神宮寺である護国寺と一体とされるだけでなく、その要職は創建時から僧行教の系統である紀氏一統が長きにわたり務めた[2]。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話[4]で知られる。その後、幕末から明治維新にかけて神仏分離で仏式は排除され仏堂や仏塔は姿を消した[3]。仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。
2012年(平成24年)1月の官報告示で境内は国の史跡に指定され[5][3][6]、大きく分けて本宮のある山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本社10棟の建物が国宝に指定されている[7]。「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。
・・・
となっていまして・・
京都の南西側の裏鬼門を守護する
・・・ラスボス(失礼な

社格等 国史見在社
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
今回の旅のラスボスにふさわしい社格。。。です。。

そんなわけで初めて来たのですが
・・・なにこれ・・要塞?
おまけにここまでの間の放浪中は
奇跡的にほぼ晴模様でしたが
この日は流石に結構な大雨;;
流石ラスボス・・道中が厳しい・・(←悲しいゲーム脳
ま・・・10日以上も行動してすべてが順調とは・・・流石にいくまいて^^;
ケーブルカーも興味はあったけれども

(時間に余裕があればこっちの参道をのんびりしたかったけれども)
今回は上のほうまで車で行っちゃって

気力も体力も余裕がないので

こちらから・・

とぼとぼと・・・
流石にね・・
社務所が開く前の朝方ですし
雨ですし
誰もいないですね( *゚д゚)*。_。))ウンウン
さて

こちらの楼門側からお参りをしまして
無事記帳してもらいました
そして再び高速に乗って後は群馬へ直行
今回の御朱印放浪は無事終了しました
Posted at 2025/08/03 20:11:47 | |
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