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ATSUP_HARDのブログ一覧

2022年07月16日 イイね!

【光照寺・法輪寺・馬頭院・乾徳寺】寺社仏閣・史跡・城巡り

【光照寺・法輪寺・馬頭院・乾徳寺】寺社仏閣・史跡・城巡り忘れ去られていた4ヶ月以上前のブログ放出😅

両親👴👵を連れて栃木〜茨城の寺社仏閣巡りへ🚐💨

「関東八十八ヶ所霊場第二十六番札所」
「ぼけ封じ関東三十三観音霊場第二十一番札所」
「那須三十三ヶ所観音霊場第三十三番札所」
「八溝七福神弁財天札所」
の4タイトルをもつ高野山真言宗吉利倶山玉泉院光照寺へ🚐💨

1726年建立の山門👏

手入れが行き届いているのか🤔300年の歴史をあまり感じさせないな😅

銅葺入母屋造り七間四面の本堂☺️
光照寺は1533年、僧 宥全により開基🤔
この地は神田城🏯の東北に当り鬼門鎮護の寺としての役割を果たしていた🤔

関東八十八ヶ所の御本尊は阿弥陀如来座像だが、右端に鎮座し、中央には那須三十三ヶ所観音霊場の御本尊十一面千手観音菩薩が輝く✨
ぼけ封じ関東三十三観音霊場の御本尊は阿摩提観音菩薩と複雑だ😳
那須三十三観音霊場の結願寺でもある🤔

移動中🚐💨に偶然見つけた素敵な寺院「法輪寺」に立ち寄る☺️

法輪寺の直ぐ脇を流れる御行川(岩川)の中に建つ「光丸山奥之院一の鳥居」⛩
古来からの神仏習合を留める寺院だが、普通の川に鳥居⛩とは珍しい😳

「関東九十一御薬師霊場六十二番札所」
「那須三十三所観音霊場二十三番札所」
「八溝山麓十宝霊場」
「八溝七福神大黒天霊場」
で、東国花の寺百ヶ寺のひとつにも選ばれる天台宗光丸山法輪寺は、860年比叡山延暦寺第三世座主円仁慈覚大師が霊夢により創建したのが始まりだ🤔

石燈籠の中に恵比寿様と大黒様が座している☺️

東国花の寺百ヶ寺のひとつに数えられるだけあって、手水舎には紫陽花😳

大日如来を安置する光丸山の本堂「大日堂」☺️

唐獅子の彫刻が素晴らしい👏

美しい龍🐉の彫刻があしらわれた「光丸山」の扁額👏

天狗堂👺

大天狗面👺は高さ2.14m、幅1.5m、鼻の高さ1.3m、重さ1tと、寄木造りとしては日本一の大きさを誇る👏

天井に描かれた絵も歴史を感じさせる☺️

珍しい天狗達磨👺

巨大な下駄😳

中の院へと続く参道☺️

勅額門👏
1245年、後嵯峨天皇の勅願所となった際に靈雲法親王の直筆で書かれた「正覚山」の立額は文字の跡しか見えない😳

樹齢八百年の「西行桜」
西行法師が陸奥行脚の折ここに杖をよせて、「盛りには などか若葉は 今とても 心ひかるる 糸桜かな」と詠じたと伝えられる👏

釈迦三尊を安置する法輪寺中の院の本堂「釈迦堂」🤔

五色の光を放ち苦難を取り除くと言われる玉持観音を安置する「観音堂」

阿弥陀如来を安置する「無量堂」

薬師如来と十二神将を安置する「薬師堂」

法輪寺を後にし、次なる目的地へ向かう途中に「唐御所横穴」の看板を発見し、また寄り道🚐💨

7世紀頃に造られたと考えられる横穴墓群で、丘陵の南斜面に掘り込まれた横穴墓の精巧さでは全国屈指だと云う🤔

「唐御所」の名称はすでに江戸時代初期に当時の領地だった水戸藩に提出された地誌書『那須記』に見られ、当時は横穴を高貴な人の住まいと考えられていたと云う🤔

また平将門の娘がこの地に逃れ、この横穴で娘を生んだという伝説が残されている🤔

厩穴はかなり立派なモノだが、崖崩れで近づけなかった🥲

昼食どきだったので、道の駅「那須与一の郷」へ🚐💨

マンホールにも那須与一の「扇の的」の一幕が😊

那須与一騎馬像👏
昼食を食べ、水戸光圀公縁の寺「武茂山十輪寺馬頭院」へ🚐💨

馬頭院は、関東八十八ヶ所 第二十七番札所、那須三十三観音 第三十番札所になっている🤔
延命地蔵菩薩・弘法大師像・興教大師像を安置する本堂(金堂)
1217年に開創した「勝軍山十輪寺地蔵院」は、1692年に徳川光圀公により、本尊を「馬頭観世音菩薩」、寺名を「武茂山十輪寺馬頭院」に改められた🤔

御本尊馬頭観世音菩薩・勝軍地蔵菩薩・不動明王像・毘沙門天像が納められている観音堂☺️

白い唐獅子と龍の彫刻が見事だ👏

乾徳寺に行く途中、また寄り道🚐💨

別雷神社⛩

この地は日本特有の葉煙草🚬である「達磨葉」の発祥の地であり、「煙草神社」とも呼ばれる😳
取り敢えず一服🚬😁

創建は1312年🤔

武茂城主 武茂泰宗の像🤔
ここ乾徳寺は鎌倉時代末期(1288~1299年)に築かれた武茂城🏯の跡地の一角に鎮座する寺だ😳

武茂三十三観音霊場という聞き覚えのない霊場のひとつらしい🤔

小川のせせらぎを横目に参道を進むと沢山のお地蔵様が並ぶ😳200年以上前のモノらしい👏

参道には寿命を終えたサワラの木を彫った立木観音と小さな百体の木彫りの像が並ぶ😳

山門は銅板葺き一間一戸の四脚門🤔
安土桃山時代の様式を取り入れた千鳥破風造りで、400年前の武茂城🏯の大手門を移築したものとも武茂家の武家屋敷の表門を寄贈したものとも伝わり、両側には武茂家の家紋(三巴紋)が掲げられる👏

八溝七福神の福禄寿を祀る🤔

八角堂☺️

もうひとつの門を抜けると…

本堂☺️
龍沢山大渓院乾徳寺の創建は1499年、宇都宮正綱の子 兼綱が武茂家の名跡を継ぎ居城である武茂城🏯を大改修した際、舜芳和尚を招き開山したのが始まりと伝わる🤔

優雅な鳳凰と眼光鋭い龍の彫刻が見事だ👏

Google mapで見ると武茂城🏯の中の谷間に乾徳寺がある感じだ🤔
まぁ、攻城したってことで😅
Posted at 2022/11/24 00:44:56 | コメント(2) | トラックバック(0)
2022年07月09日 イイね!

【伊予 大洲城】四国出張ついでに城めぐり⑤

【伊予 大洲城】四国出張ついでに城めぐり⑤四国城めぐりのラストは日本百名城のひとつ大洲城🏯へ🚙💨

立派な佇まいのトイレ🚻の横に駐車して、攻城開始‼️

大洲城🏯は、かつての肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ嶽に築かれた梯郭式平山城で、鎌倉時代末期の1331年、守護宇都宮豊房が築城した地蔵ヶ嶽城🏯が始まりとされ、戦国時代には小早川隆景傘下の支城となるも、築城名人の藤堂高虎、賤ヶ岳七本槍の一人、脇坂安治などが入城し、天守の他19の二重櫓や多聞櫓などが建ち並ぶ近代城郭へと進化を遂げ、加藤貞泰が入って以降は加藤氏が12代に亘り大洲藩主として治め、明治維新を迎えた🤔

大分、地形が変わってしまっているが、かつての櫓下御門を通り、二の丸南曲輪へ🚶‍♂️

現存する「下台所」👏
建築年代は不明だが、1692年の絵図には既に描かれていることから、それ以前の建築と推定される😳

床下を覗くとその歴史の深さを垣間見れる🤔

二の丸南帯曲輪と本丸の二段の石垣の上に聳え立つ大洲城天守🏯

二の丸御殿跡の石垣👏

二段の石垣が弧を描く👏

大小様々な石を用いた乱積みの本丸石垣😳
表面を揃えた打込接ぎの石垣は乱積みながら、荒々しさよりも技術の高さを感じさせる👏

門番が詰めていた御門番長屋🤔
絵図に従い外観復元が行われている☺️

大洲城天守🏯
明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されたが、1888年、老朽化により惜しくも天守は解体された😭

2004年に復元された四層四階の複連結式天守は、古写真や現存する江戸期の木組み模型「天守雛形」など豊富な資料を基に往時の姿を忠実に再現したモノだ👏

二の丸北曲輪から見る天守は、井戸丸石垣の更に一段上の天守台に聳え立つ👏

戦後の復元天守の中では、日本初の四層四階木造天守は、天守台からの高さは19.15mと日本一の高さを誇る😳
本来なら建築基準法では認められない規模であったが、2年近い折衝を経て、建築基準法の適用外となる保存建築物として、かつての複連結式による天守群の復元に到った👏

二の丸北曲輪の鉄砲櫓跡🤔

本丸の井戸丸側に廻る🚶‍♂️
天守手前は現存する高欄櫓👏
大棟には鯱を置き、上層の屋根には軒唐破風、ニ階には廻縁に擬宝珠の付いた高欄を奢っている😳
天守に次ぐ高い格式の櫓だった様だ👏

安政の地震で大破後、1860年に再建された高欄櫓だが、西南隅には袴腰形石落としが設けられている🤔

大洲城🏯本丸は上下段に分かれていて、井戸のある下段の曲輪は井戸丸と呼ばれていた🤔
井戸の直径は3.8mと国内最大級の本丸井戸だ😳

大洲城🏯は黒をベースにした天守だが、破風の内側と軒下の白さが独特のアクセントを利かしている👏

天守の黒と渡櫓と高欄櫓の白のコントラストが美しい☺️

本丸上段の虎口、暗り門跡☺️

本丸上段☺️かつては東端に廻り櫓だ建っていた🤔

再建された天守を挟み「複連結式天守」を成している台所櫓と高欄櫓は現存する櫓だ👏

現存台所櫓は、江戸前期に創建されたものだが、高欄櫓と同じく地震で大破し、1859年に再建されたモノだ👏

籠城に備え、台所機能を持つ珍しい櫓で、一階の三分の一が土間となっており、排煙用の格子窓なども取り付けられている🤔

台所櫓は渡櫓で天守へと繋がっている☺️

台所櫓のニ階は立入禁止🚧だ😢

階上には太い梁が顔を覗かせている👀

格子窓から見える肱川には悲しい伝説がある🤔
難航していた大洲城🏯築城にあたり、人柱に選ばれた16歳の少女「おひじ」の最期の願いから、大洲城🏯は別名「比志城」、麓を流れる川も肱川(ひじがわ)と名付けられた😢

2004年再建の天守はまだまだ真新しい感じだ☺️

大洲城🏯築城のジオラマもある🤔

高欄櫓一階😆
やっぱ歴史の重みが違うなぁ👏

高欄櫓西南隅の袴腰形石落としを内部から👏

ニ階へ🚶‍♂️

高欄櫓ニ階☺️

高欄櫓からの眺望👀
画像中央のテニスコートあたりに、現存する三の丸南隅櫓の屋根が見える😳
実は今回、三の丸南隅櫓を見るのを忘れるという痛恨のミスを犯してしまった😱

天守へ🚶‍♂️

大洲城天守🏯の特徴とも云える吹抜け😳

階段が多い😅

心柱👏
使用された木材はすべて国産材で、迫力ある造形美に圧倒される😳

武者隠しも忠実に再現されている👏

天守最上階😆
大洲城🏯では、日本初の天守閣を貸切宿泊出来る「キャッスルステイ」が開始された🤔
天守閣貸切宿泊に加え、城主加藤貞泰に扮して甲冑を身に纏い馬に跨り、鉄砲隊や幟隊を率いての入城体験、伝統芸能の鑑賞、加藤貞泰が食したであろう献立などなど城主気分を味わえる体験だ😆
1日1組限定、1泊110万円(税込)だ😳

天守から望む肱川の流れ☺️

「頭上ちょんまげにご注意くだされ」😆

再び、「複連結式天守」をパチリ📸

本丸から見る天守は、井戸丸から見るイカツイ印象と異なり、ソフトな印象だ☺️

二の丸西帯曲輪へ向かう🚶‍♂️💦

二の丸石垣👏上に建つのは御門番長屋☺️

苔生す石垣がタマらん😆

水の手曲輪を進み、肱川に突き出た櫓跡☺️

橋を渡り🚶‍♂️

どこに自分が居るのか分からなくなってしまったが、肱川の辺りの石垣は古城の雰囲気が色濃く遺っている👏

二段石垣👏

二の丸南曲輪土塀の脇を進んで行くと苧綿櫓が見えて来る👀

現存苧綿櫓👏
肱川に面し、川の上下流を鉤の手に眺められる要所として、城の東の防御を担っていた櫓で、創建年代不明だが、1843年に再建されたモノだ👏

外隅に袴腰形石落としを備えている👏
洪水の被害をたびたび受けたために腐朽が著しく、1959年には解体修理が行われ、その際、櫓台が約2.6m嵩上げされている🤔

ここで、時間も無く大洲城🏯を後にする🚙💨

大洲城🏯遠景📸

肱川に架かる予讃線🚃の橋越しの大洲城🏯
電車🚃が通ってくれることを期待したが、叶わず😢

愛媛空港に到着☺️みかんジュースタワー🍊

最後に、伊予水軍が船上で食べたのが発祥ともされる「宇和島鯛めし」を食し、ビール🍺で一人で乾杯😁
新鮮な真鯛の刺身を、生卵入りの特製だしに混ぜ、温かいご飯にかけて食べる☺️旨し👍

無事、羽田空港に到着🛬

丸亀城🏯→松山城🏯→河後森城🏯→宇和島城🏯→大洲城🏯と、現存十二天守3城・日本百名城1城・続日本百名城1城を巡った今回の四国出張🧳(ほぼ城めぐり😅)実りのある大満足な出張でした👏
Posted at 2022/08/11 07:39:39 | コメント(2) | トラックバック(0)
2022年07月09日 イイね!

【伊予 宇和島城】四国出張ついでに城めぐり④

【伊予 宇和島城】四国出張ついでに城めぐり④河後森城🏯を後にし、次なるは現存十二天守のひとつ宇和島城🏯へ🚙💨

宇和島市に入るとトンネル入口の壁には迫力ある「牛鬼」が描かれていた👏
牛鬼とは、古くは枕草子にも登場した、頭が牛🐮、体が鬼👹という恐ろしい妖怪だが、有名な宇和島の「牛鬼祭り」のルーツは、朝鮮出兵の際に加藤清正が考案した戦国時代の装甲車「亀甲車」で、牛革で堅板の箱を包み、棒に刺した牛の生首🐮を先端に掲げていたのだとか😱
その亀甲車を藤堂高虎が宇和島に伝えたのが「牛鬼」の始まりと云われている😳

センスが光る✨宇和島城🏯天守閣を簡略化したデザイン👏

1601年、築城の名手として名高い藤堂高虎によって築かれた宇和島城🏯は、標高74mの城山山頂の本丸を囲むように二之丸と帯曲輪、北に藤兵衛丸、一段下に長門丸、西に代右衛門丸、東に井戸丸、北東の麓に三之丸を配した梯郭式平山城でありながら、日本三大海城のひとつにも数えられる😳

かつての宇和島城🏯は、城の西と北が海に面する海城であった🤔
不等辺五角形の縄張は「空角の経始」と呼ばれ、実際には五角形の縄張を、四角形の城と錯覚させる設計で、幕府の隠密🥷が江戸に送った密書には「四方の間、合わせて十四町」と、誤って記されていたと云う😳

江戸中期のものと伝わる「桑折氏武家長屋門」は、桑折氏屋敷にあった長屋門を移築したものだ🤔

門の先には石垣が迎えてくれる😳

立派な石段だ☺️

三之丸跡👏
かつての御殿は住宅に姿を変えてしまっている😥

天守へと向かう登城道は3ルートあるが、全部舐めるつもりなので、体力があるうちに井戸丸へと通ずる急な石段へ🚶‍♂️💦
幟には「宇和島ココロまじわうトコロ」とある🤔
U・WA・JI・MAを反対から読むとMA・JI・WA・Uになる😳センス良いなぁ👏

ゴツゴツでかなり急な石段💦
井戸丸の石垣が見えてきた👀

井戸丸門虎口石垣👏

無骨な乱積みがタマらん😆

井戸丸矢倉の石垣👏

水の手を護る直径2.4m、深さ11mの現存井戸👏
幟には伊達家の家紋「竹に雀」がある😳
1614年、伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が宇和島に入り、仙台伊達家の別家として宇和島伊達家が9代に渡り幕末まで城主となる🤔

「竹に雀」の家紋も宇和島笹の方が凝っていて、仙台伊達宗家の下風に立ちたくないという秀宗の強い意志が表されている様だ🤔

藤兵衛丸は城山郷土館になっている🤔
1845年建造の現存例の少ない武器庫で、三之丸から移築されたモノだ👏

藤兵衛丸にあるもうひとつの移築建築物、
明治時代、法学者として活躍した穂積陳重・八束兄弟の生家の長屋門🤔

雷門跡と奥は藤兵衛丸の石垣👏

藤兵衛丸脇の石段を降る🚶‍♂️

石段と帯曲輪の石垣👏

長門丸は公園になっている🤔

長門丸から見る藤兵衛丸西角矢倉の石垣👏
藤堂高虎による野面積みの高石垣は高さ10mを超える😳

野面積みがタマらん帯曲輪の石垣👏

代右衛門丸の石垣👏

古代遺跡状態の代右衛門丸南角矢倉👏

式部丸の虎口☺️

左手を見上げると、三段石垣の一番上が代右衛門丸矢倉の石垣👏
古い時代と新しい時代に築かれた石垣が織りなす見事な造形美だ👏

式部丸の野面積みの石垣👏この無骨さが好きだ😆

式部丸脇を通り、もう一つの登城道、上り立ち門側へ降って行く🚶‍♂️💦

搦手口にある現存の門「上り立ち門」は、本瓦葺きの薬医門型式で、桁行3.64m、梁間2.15mと国内に現存する薬医門としては最大級の規模を誇る👏

軒丸瓦には、伊達家の家紋である「九曜紋」があしらわれている🤔
この「九曜紋」は細川忠興が織田信長から拝領したものを伊達政宗が所望したことに由来する😳

搦手からの攻城開始‼️
既に山⛰二つ登った気分だ😅

式部丸の角の取れた打込接ぎの石垣☺️

式部丸脇の搦手口は複数の折れを刻む👏

式部丸の井戸☺️

煙硝矢倉へと続くのは、巨石を用いた見事な打込接ぎの石垣👏

圧巻の代右衛門丸の高石垣👏

その脇の坂を登り、天守を目指す🚶‍♂️💦

井戸丸の方に周り、天守への石段を登る🚶‍♂️💦

左手前には二之丸の御書物矢倉の石垣、その上には本丸石垣が見え、疲れも吹き飛ぶ😆

石垣を右に折れると三の門跡‼️
正面の本丸石垣が来る者を威圧する😳

御書物矢倉側から見る本丸石垣の威容👏

また右に折れて本丸石垣脇の坂を登る🚶‍♂️💦

北角矢倉の石垣と二の門跡👏

二之丸御算用矢倉跡🤔

二之丸から見た本丸一之御門(櫛形門)跡👏
本丸への唯一の門は櫓門の形状であるが櫛形窓をもっていたため櫛形門と呼ばれていたと云う🤔

かつては左に北角矢倉、右に櫛形門矢倉を従えていたと云う☺️

二之丸からの眺め👀
現在は埋め立てられて海から離れているが、築城当時は城の約半分が海に面した海城だった😳

本丸‼️
かつての本丸には、南角矢倉・櫛形門矢倉・北角矢倉・御弓矢倉・轆轤矢倉・御休息所矢倉・御鉄砲矢倉・右髪矢倉が置かれていた😳

キターッ👏現存十二天守 宇和島城天守閣🏯
当初は藤堂高虎による複合式望楼型三重三階天守が建っていたが、1671年、宇和島藩2代藩主伊達宗利によって現在の独立式層塔型三重三階の天守に建て替えられた🤔

白壁の総塗込造の天守は、土台から棟までの高さは15.8m、正面最上層から唐破風、千鳥破風、二つの千鳥破風、更に玄関の唐破風と威圧感の無い上品で優美な姿を魅せてくれる👏

天守を南側から見る👀
有事を意識しない泰平の時代に建てられた天守には、鉄砲狭間・矢狭間、石落しなど防御の備えが無い😳

南東から👀
防御の代わりに全ての面を唐破風・千鳥破風で飾り、全方位に領主の威容を示すことに重点が置かれている🤔

北側から👀
最下層は六間四方、二層は五間四方、三層は四間四方と順次同比率で小さくなっており、どの方向から見ても美しい👏

正面の唐破風の玄関から、いざ天守内部へ🚶‍♂️
長押に置かれた家紋は、伊達家初代朝宗が1189年、源頼朝より拝領した幕紋二引両を、後代、竪三引両に改め輪郭に入れて図案化し定紋としたもので、伊達家の家紋では最も古いものだ👏

唐破風の天井も上品な印象だ🤔

巨大な矢😳上棟式に使われたモノだろうか🤔

武者走り☺️
戦闘色の薄い天守内部には、障子が張られている😳

甚大な被害を齎した1854年の「安政の大地震」の修復工事の際に作られた1/10サイズの精巧な現存模型👏

現存天守の階段と言えば、急角度の直階段だが、ここ宇和島城🏯ではL字に折れる「かね折れ階段」だ😳
2階へ🚶‍♂️

通常、天守の破風の内側には、鉄砲を撃つための「破風の間」があるものだが、宇和島城🏯の破風は全て、外観を飾っているだけで、破風の構造が屋内に少しも反映されていない😳

茂本ヒデキチ氏の武者墨絵が飾られている🤔

3階へ🚶‍♂️

最上層には竿縁天井が張られ、穏やかな雰囲気☺️

宇和島城下絵図屏風のレプリカ☺️

武者窓から覗く紺碧の空と海、そして眩しい緑☺️

武者窓の柱は五角形になっていて、矢や鉄砲をより広角で狙えるようにするための工夫だ👏

改めて見る宇和島城天守閣🏯
ポツンと建つ独立式の天守は何か場違いな印象を受けなくもないが、やっぱカッコイイわ👏

天守台は見事な切込接ぎの石垣だ👏
後ろ髪を引かれつつ、天守を後にする🥹

二之丸から本丸石垣越しに見る天守👏

長門丸まで降り、「宇和島城」の碑☺️

何かの遺構かと思ったら配水池だった😅

もうひとつの登城道を降り、桑折氏武家長屋門へと向かう🚶‍♂️

長門丸西角矢倉の石垣が見えてきた👀

城内一長い長門丸の石垣は総延長110m、高さ7~8mある👏

50m近い石垣は圧巻だ👏

山上部に曲輪が散在する中世山城の縄張りを色濃く残しながらも、時代ごとに変遷する石垣、山麓部の曲輪など近世城郭の姿、更に海城の一面も魅せる宇和島城🏯
戦国から泰平の世への移り変わりを示す現存天守は350年の歳月を経ても尚、往時の優美な姿を現在に遺す😆宇和島🏯お見事でした👏

⑤へと続く
Posted at 2022/08/05 08:18:32 | コメント(4) | トラックバック(0)
2022年07月09日 イイね!

【伊予 河後森城】四国出張ついでに城めぐり③

【伊予 河後森城】四国出張ついでに城めぐり③もう一泊追加で松山の夜🍺🍾👯‍♀️を楽しんだ後は、レンタカー🚙を借りて城めぐり😆

本日の愛車、ホンダN-WGN🚙
飛行機✈️の時間も限られているので、タバコ休憩🚬を短縮するために喫煙車🚬を選択😅

先ずは続日本百名城のひとつ、伊予 河後森城🏯へ🚙💨

河後森城🏯は、伊予と土佐の国境地帯、四万十川の支流広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた比高88mの独立丘陵の中央、風呂ヶ谷を馬蹄型に囲むように階段状の郭を配した中世連郭式山城で、日本城郭大系によれば1196年、源頼光四天王筆頭の渡辺綱から6代目に当たる渡辺源七兵部少輔源連という者が河後森城🏯に入城した記録があると云う🤔

風呂ヶ谷駐車場から攻城開始🚶‍♂️
昨夜の雨☔️で地面はビチョビチョ😥

周囲270度を高い切岸と郭で囲まれた風呂ヶ谷😳

戦国時代、宇和郡で勢力を誇っていた西園寺氏配下では最大の豪族となっていた渡辺氏だったが、土佐中村城🏯の一条氏から迎えた養子、渡辺教忠は伊予へと侵攻してきた長宗我部軍との徹底抗戦を主張したことで家臣と意見が対立し、1581年には、家臣に河後森城🏯を追い出されてしまった😳

先ずは左手の西第十曲輪へと通じる道を進む🚶‍♂️💦

右手に井戸がある様だ😳

岩場の井戸は今でも水を湛えている👏

地元の小学生が作成した案内板を見ると、深さは2〜11mある様だ😳

更に登っていく🚶‍♂️💦

ジグザグに登ると…

曲輪群の虎口には門がある🤔
急斜面の虎口には、かつて門が建っていた跡が発掘され、門の左右には土塁が築かれその上には矢来があったと云う🤔
往時の雰囲気がよく再現されている👏

西第十曲輪❗️
最前線の曲輪らしく、右手には低めの土塁がある😳

掘立柱建物が復元されている👏

厩にはペーパークラフトの馬🐴がいる🤣

西第十曲輪から階段状に連なる曲輪群を見上げる☺️

やっぱり夏の城攻めは、木々が生い茂っていて見づらい😅

曲輪群の切岸脇を抜けていく🚶‍♂️💦

人一人がやっと通れる道幅💦
これは大群では攻められないな😳

西第五曲輪😊

さらに曲輪群脇を進む🚶‍♂️💦

西第四曲輪❗️
草ボーボーで入れない😅

西第三曲輪と西第二曲輪を隔てる堀切👏

左は曲輪の切岸、右は崖😳ずっとこんな道だ💦

下を覗くと深い谷になっている🥶

やっと本郭😆
渡辺教忠に代わって河後森城🏯に入城した芝源三郎も戸田勝隆に放逐され、豊臣秀吉による四国攻め以降、南予を治める大名は戸田勝隆、藤堂高虎、冨田信高と短期間で交代し、この間も河後森城🏯は大洲城🏯や宇和島城🏯の支城として位置付けられていた🤔

堀切と土橋がある👏
草でほとんど見えないが、右手の堀切には石垣も遺る👏
本郭の周囲には織豊系城郭の特徴を示す遺構や遺物が多く発見され、聚楽第で出土した金箔瓦と同様の瓦も多く出土したらしい😳

平面復元の建物跡が並ぶ🤔
奥に建物らしきモノが見える👀
ちょっと行ってみよう🚶‍♂️

なんじゃこりゃ〜🤣
主殿舎を復元したものらしい😅
河後森城🏯にはかつて天守があったとされるが、これだけの広さなら、それも頷ける🤔
当地を治めた藤堂高虎が河後森城🏯の天守を移築して宇和島城🏯の月見櫓にしたと云われている😳

古城へと向かう💦

本郭の切岸脇を抜けていく🚶‍♂️

東第二曲輪❗️

東第三曲輪‼️

東第四曲輪と古城第二曲輪の間には堀切が遺っているのがはっきり見てとれる👏

大堀切👏

発掘調査の結果、大堀切には簡易的な門が設置されていたらしい🤔

古城第二曲輪から古城を見ると、一段高くなっているのが見てとれる😳

古城は河後森城🏯の中で最も古い時代に築かれた曲輪らしい🤔

続いて新城を目指す🚶‍♂️💦

新城まで行く人が少ないのか?他の道よりも草が凄い😅

木のトンネルをくぐる☺️

またまた木のトンネル〜と思いきや、蜘蛛の巣🕸のトンネル😱

新城の虎口を登り💦

新城に到着🚶‍♂️💦

切岸がまさに崖なのだが、写真では伝わらない😥

新城から見る階段状の西曲輪群👏

ズームすると、西第十曲輪の切岸の急峻さが際立って見える👏

帯曲輪から見る新城の切岸👏

どの曲輪の周囲も崖の様で、河後森城🏯の防御力の高さが窺える😳

風呂ヶ谷を降って行き攻城終了☺️

本郭から西は西第二〜西第十までの九つの曲輪が、東は東第二〜東第四、そして古城〜古城第四の七つの曲輪が、階段状に連なる特徴的な縄張を持つ河後森城🏯
自然の地形を活かし、中央の風呂ヶ谷を取り囲む様に曲輪が展開するまさに戦う城でした👏

④へ続く
Posted at 2022/07/29 22:01:38 | コメント(2) | トラックバック(0)
2022年07月08日 イイね!

【伊予 松山城】四国出張ついでに城めぐり②

【伊予 松山城】四国出張ついでに城めぐり②前回の攻城では、年に一度の大掃除🧹に当たってしまい、天守閣に入れなかった伊予松山城🏯にリベンジ攻城😎
前回のブログも良かったらどうぞ🙇‍♂️

2021年12月15日の伊予松山城めぐりを参照


「伊達真鯛のあら炊き」美味しゅうございました🙏
新居浜の夜🍻👯‍♀️を楽しみ、翌日もきちんとお仕事を終えて、松山に戻ると松山城🏯天守の営業時間にギリギリ間に合いそう🤩
ダッシュで松山城🏯へ🏃‍♂️💨

松山城🏯は標高132m、比高90mの勝山(味酒山)に築かれた連郭式平山城で、現存十二天守のひとつに数えられ、日本三大平山城や日本三大連立式天守にも名を連ねる👏
築城は1602年、賤ケ岳七本槍の一人、加藤嘉明が、勝山山頂に五重天守🏯を持つ本丸を置き、山麓に二之丸を設けたが、城の完成を見ることなく国替え、その後蒲生氏郷の孫の蒲生忠知が入り二之丸を完成させた🤔
伊予松山城🏯には5つの日本一があり、この着工から完成までに26年という歳月をかけた築城期間は、日本最長と云われている😳

三之丸水堀🤔

三之丸から眺める二之丸と頂上の連立天守👏
伊予松山城🏯の日本一の第ニは、本丸と二之丸の高低差が90mもあることだ😳

二之丸史跡庭園にも行きたいが、時間がない💦

県庁裏登城道から攻城開始‼️
天守入場締切まであと30分🏃‍♂️💦

二之丸から山頂に向かって延びる南登り石垣👏
一番高い部分で高さ10mに達する😳

南登り石垣の上に櫓台が見える👀
古絵図を見ると入道櫓(二之丸巽櫓)のようだ🤔

伊予松山城🏯の日本一の第三は最も規模の大きい登り石垣👏
登り石垣を有した城は、洲本城🏯(現存なし)・彦根城🏯・伊予松山城🏯の3城のみで、伊予松山城🏯の南登り石垣は完全な状態で保存されていて、長さ233mの規模を誇る😳

二之丸の南と北の端から斜面を登る二本の石垣が山頂の本丸まで延びる「登り石垣」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、倭城築城で採られた防備手法と云われ、安骨浦城🏯(倭城)を拠点としていた加藤嘉明は、その経験から松山城🏯築城に際しても、二之丸〜本丸間の防備として「登り石垣」を用いたと云う🤔

長者ヶ平に出て本丸へ向かう🚶‍♂️💦
聳え立つ本丸高石垣にテンション爆上がり⤴️⤴️⤴️

前回の攻城では工事中だった巽櫓😆

本丸で最も高い17mの高石垣の上には隠門続櫓が見える👏

高石垣を右に折れると左手には大手門跡👀

正面には太鼓櫓が聳える☺️
櫓台の石垣の勾配がタマらん😆
大手方面からの敵の来襲を太鼓を鳴らして知らせたことから太鼓櫓の名で呼ばれている🤔

本丸正面の筒井門に敵を誘い込むために扉がないことから名付けられた重要文化財「戸無門」🤔
左上には筒井門続櫓が見える👏
大手門から南→北→南とジグザグに進むことになり、松山城🏯の防御力の高さが窺える🤔

筒井門続櫓と隠門続櫓👏
このトラップが凄い‼️

戸無門から雪崩れ込んだ敵は東に折れて手前の筒井門で足止めをくらう🤔

その隙に櫓台の裏側にある隠門から敵の背後を襲撃する😳
隠門の名の通り、両側の続櫓に隠れる様に口を開け、隠門続櫓と共に重要文化財に指定されている👏
仮に筒井門を突破したとしても…

筒井門を抜けた正面には高さ6.9mの石垣が立ちはだかる😳西には太鼓櫓が聳え、東には太鼓門と巽櫓が迎え撃つ👏
太鼓門は東側に口を開けており、寄せ手からは見えないため、ここで勢いを失った敵は、太鼓櫓と太鼓門を繋ぐ24.4mの太鼓門西塀に備えられた21ヶ所の鉄砲狭間からの攻撃に晒され一網打尽となる😱

隠門も内側から📸

幾つものトラップ🪤が仕掛けられた筒井門が、本丸の最終防衛ラインとして如何に重要な位置を占めていたかがわかる🤔

巽櫓は、高さ約5mの石垣上の一線に構築される太鼓門・続櫓・太鼓櫓と防御単位をひとつにする😳

太鼓門をくぐり、いざ本丸へ🚶‍♂️
天守入場時間に間に合った〜💦

現在も残る本丸井戸は深さ44m😳
松山城🏯の本丸の削平地は、勝山の南北2つの峰を埋め立てて築いたもので、谷底にあった泉を井戸として残したらしい👏
当時の技術では掘ることができない深さらしいが、もっと古い時代の丸亀城🏯の井戸は65mだったなぁ🤔

屏風折れの石垣上に威容を誇る連立天守👏
伊予松山城🏯の日本一の第四は美しい石垣🤔
美しさは個人の感じ方にもよるが…😅

Google Earthで「屏風折れの石垣」の美しさを見ると、なるほど納得☺️

山頂の本丸北には本壇という天守曲輪を持ち、大天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓で連結した連立式天守を成している👏

紫竹門・小天守・大天守・一ノ門南櫓のお馴染みのショット👏
かつては、五層六階であった天守は、落雷⚡️による焼失🔥を二度経て、1852年、黒船来航の前年に竣工した連立式層塔型三重三階地下一階の天守へと姿を変えた🤔
伊予松山城🏯第五の日本一は、日本史上最後に建築された天守、つまり現存十二天守の中で最も新しい天守だ👏

南隅櫓・多聞櫓・小天守を見上げる🙄

搦手を防御する乾門東続櫓〜乾門〜乾櫓👏
重要文化財「乾櫓」は築城当初の二重櫓で、城内最古の建造物だ😳
壁の中に小石や瓦を詰め、弾丸が壁を貫けないように太鼓壁構造となっている👏

左から北隅櫓・十間廊下・南隅櫓👏
北隅櫓は戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓で、桁行10間の十間廊下が両櫓を連結している☺️

野原櫓(騎馬櫓)は、乾櫓同様に城内最古の建造物であり、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、天守の原型とも云われ、重要文化財に指定されている👏

本壇の 北側の石垣👏

天神櫓西折曲塀下の美しい曲折を魅せる石垣👏

本壇の鬼門にあたる艮門東続櫓と艮門☺️
不浄門とも云われている🤔

本壇の縄張☺️
6棟の櫓、7棟の門、7棟の塀、大天守の計21棟の現存建造物が国の重要文化財に指定されている伊予松山城🏯の中で、16棟が本壇に集中している😳
また、小天守をはじめとする22棟が木造復元されている👏

いざ念願の天守閣🏯へ😆
正面の紫竹門東塀と右上の一ノ門南櫓は現存建造物で、重要文化財に指定されている👏

来るものを圧倒する小天守・大天守・一ノ門南櫓👏
魅せるだけでなく、そこはそれ戦う城なので、矢狭間・鉄砲狭間はもちろん、正面の筋鉄門東塀は「腰袴式」、左右には「戸袋型」の石落としも設けられている😳小天守以外は全て現存建造物だ👏

右に折れて一ノ門へ👏
ここからは目に入るモノ全て現存建造物ばかりの重要文化財ゾーンだ😆
左上には三ノ門南櫓👏

一ノ門をくぐると、正面にはニノ門南櫓👏

振り返ってみる👀
四方を囲まれ、絶対に突破出来んわ😰

左に折れるとニノ門👏

もう一回振り返る👀一ノ門東塀には沢山の狭間があり、外にも内にも防御力の高い仕組みになっている👏

ニノ門をくぐると左手には大天守と三ノ門東塀👏

三ノ門はニノ門からUターンする様な位置取りだ👏
天守閣まで攻め込まれても簡単に大天守まで来ることが出来ないように「七曲り」という仕掛けが施されている😳

三ノ門をくぐり右に折れると天守閣入口正面に石落としを備えていた筋鉄門東塀の内側が見える👏
筋鉄門から先の小天守〜多聞櫓〜南隅櫓〜十間廊下〜北隅櫓〜玄関多聞櫓〜内門は、昭和八年の放火によって焼失🔥
現在は、木造復元されている☺️

筋鉄門をくぐると四方を囲まれた天守広場に出る😳

ここまで青い➡︎を通って来たが、赤い➡︎からの狙い撃ちに何百回死んだろ🥶

大天守内部へ🚶‍♂️

大天守地下一階穴蔵の天井☺️

現存天守の階段はやっぱりこの角度😊

大天守一階☺️

北隅櫓側から十間廊下を通り南隅櫓へ🚶‍♂️

小天守二階☺️
右手にあるデッカい矢は上棟式に使用されたモノらしい🤔

小天守から見降ろす天守広場😳
ここに誘い込まれたら、全方位からの一斉射撃を喰らい、一網打尽だ🥶

小天守から見る大天守👏

鬼瓦には久松松平家の「三つ葉葵」の家紋が入り、軒丸瓦には蒲生家の「左三ツ巴」の家紋が入る🤔

連立式天守の内部は迷路の様で、自分がどこに居るのか分からなくなる😅

武者走り☺️

鉄砲狭間😊

大天守三階👏
天守としては、珍しく天井が張られ、襖を入れるための敷居もある🤔
右手の部分は、なんと床の間だ😳

大天守からの眺望👀

久松松平家初代藩主、松平定行所用と伝わる「鉄赤漆塗連山桶側胴具足」👏

初代藩主、加藤嘉明所用と伝えられる「角頭巾形鳥尾飾兜・漆塗佛胴六間草摺素懸縅鎧」👏

ん〜カッコええわ👏

天守広場に出て大天守を見上げる👏

内門の先に見えるのは、現存する仕切門内塀👏

内門を出ると、こちらも現存する仕切門👏

仕切門をくぐった先にある天神櫓👏
本壇の鬼門にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祀ったことに由来する🤔

大天守と仕切門👏
後ろ髪を引かれつつも閉門の時間になり、本壇を後にする🚶‍♂️

帰りは大手門側から黒門口登城道へ🚶‍♂️

「さすが大手門」という大迫力の石垣👏

本来の登城口である大手門だが、こちらまでは整備の手が回らないのか😥

黒門口登城道は古城の雰囲気漂う道が九十九折に続く👏

石畳部分は江戸時代からのものらしい👏
だいぶ麓まで降りてきた💦

二之丸が見える👀

二之丸奥門☺️

石垣が見事だ👏

二之丸四足門☺️

二之丸多聞❗️閉門してしまっている🥲

西大砲台石垣👏

伊予松山城🏯最大の門「槻門」の櫓台👏

槻門は、本丸大手への登城道と二之丸搦手への道の分岐点に位置する重要な門で、全国的にも例の少ない三階構造だったと云う🤔

背後の西大砲台の石垣は「北登り石垣」に接続していたと云う🤔

栂門☺️
槻門との間は複雑に屈曲している👏

三之丸から大手道の起点となる黒門👏

今回、念願の天守閣に入り、その蟻一匹通さない防御力に、ただただ圧倒された👏
賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明が朝鮮出兵の経験をも活かし、二十年以上の歳月を掛けて築き上げただけあって、圧倒的な防御力、堅牢さは、まさに戦国の戦う城‼️
松山城🏯お見事でした👏

自腹でもう一泊するので③へ続く
Posted at 2022/07/24 10:09:34 | コメント(3) | トラックバック(0)

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「@はらペコ星人 さん
こんにちは♪
長距離ドライブお疲れ様です☺️
松井田城🏯の近くですね😊」
何シテル?   05/15 11:41
ATSUPHARD改め、ATSUP_HARDです。よろしくお願いします。
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