2012年10月16日

ニュースから拾ってみました。
記事の内容はトランクの中に設置してある緊急脱出用のハンドル(レバー)が折れやすいとのこと。
用は強盗に遭ってトランクに閉じ込められたさいにレバーを引いて車内から出られるこの装置、アメリカでは義務化されているそうです。
この装備、アメリカ仕様のレクサスに装備されておりますが、日本仕様のレクサスには付いておりません。
でも、何故かMONO号には写真のように装備されてます(^^;)
それにしても、何かアメリカ的な記事ですね。
Posted at 2012/10/16 20:22:17 | |
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2012年10月11日
平成生まれの方々にはなかなか信じられないと思いますが、昔はこんな感じでした(^^)
全部わかる方は当方の年齢に近いですよ(笑)
1.携帯電話どころか家の固定電話もなく、呼び出しがあった。その電話機自体もボタンではなくダイヤルをぐるぐる回すタイプ。
2.関連して年頃の女性に電話を掛けるにも「父親」が最初に出るので、すごく勇気が必要だった。
3.NTTは電電公社、JRは日本国有鉄道、タバコと塩を扱っているのは専売公社(のみ)だった。
4.お米は食管制度があって国が全部管理していて(政府米/国の検査員が農協に出向き品質管理をしていた)、ゆえに農家といえども農協を通して国以外に売ることは法律違反だった。とはいえ闇で流通しているのが「ヤミ米」とも呼ばれ、政府米以外の自主流通米が近年になって結構流通している。
5.そんなわけで、修学旅行で宿泊する場合、参加者はお米を家から持っていった。
6.自動販売機は未だ無く、食料品店や駄菓子屋などのお店で飲み物を買っていた(今のコンビニみたい)。尚、コンビニが初めて出来たとき、夜の11時まで営業していることに皆さんが驚いた。
7.車、特に乗用車は殆ど開業医師しか乗っていなかった。しかも往診に使うためとか。。。
8.車はマニュアル車だったので、それなりの運転テクが無いと走らせることすらできなかった。
9.エンジン始動時、チョークと呼ばれる濃い燃料(ガソリンと空気の混合の比率)を一時的に供給するレバーがあり、これが無いと始動しにくかった。
10.ガソリンには「鉛」が含まれていて、人体に有害のため、のちに廃止となったものの「有鉛」「無鉛」ハイオクとも呼ばれていた。
11.今ではラジアルタイヤは普通なものの、出てきたとき丈夫で耐久性は高かったものの乗り味が硬かった。
12.ドアミラーはトラックのみで、乗用車はフェンダーミラーが主流だった。
13.自動車の運転免許は役場で申請するだけでOKだった(祖父談)。でも、実は軽自動車しか運転出来ない免許だった。
14.祖父が初めて買った車がスバル360だった。でも本当はホンダのN360が欲しかった。その後にマツダのシャンテを買ったが、子供ながらにカッコいい車だと思った。
15.父親が農作業で使うためトヨペット店で「トヨエース」を買った。その縁で「コロナ」を買ったものの、上級車種でもあるコロナ・マークⅡを買えば良かったとも内心思ったが、父親が嬉しいそうにコロナを買ったことを話していたので、何も言えなかった。後に営業でセールスに来た日産の人に、日産は営業力が弱いと延々と説教していた父親が恥ずかしく思えた。それだけ言うのなら日産車を買えよ。とも思った。
16.祖父が慰霊団で沖縄に行くために「パスポート」が必要で、子供の頃に実際に見せてもらった。
17.かぐや姫の童話ではないものの、洗濯は川でやっていた(子供の頃に目撃)。
18.宅配便が普及するまえ、荷物を送るときと受け取るときには「駅」に行っていた。
19.家の近所にある空き地に大きい穴がいくつもあって、祖父から戦争中にB-29が間違って爆弾を落とした痕だったと聞いて驚いた。
20.近所の川で獲れた「うなぎ」がご馳走だった。
21.当方が子供の頃、小学校の入学前に、保育園や幼稚園に行くのは半分くらいだったし、入園しても1年間だけだった。
22.当地は田舎だったので、肥料を作るための「肥溜め」が随所にあり、子供が悪ふざけなどして、ここに落ちた場合、浅いので怪我したり死んじゃうことはまず無いものの、その強烈な臭さよりも、子供仲間から、その後、何かあるか毎に「肥溜めに落ちたやつ」という、きわめて不名誉な称号が与えられることが耐え難い屈辱だった。ただし、後日、成功したとき○○はやはり「運」が良いなぁ~とも言われ、実際にまんざらでもない思うし、何十年経っても、皆、そいつことを覚えている。
23.炊飯するため「かまど」があって、薪を使いお米を炊いていた。炊飯は経験とそこそこのテクニックが必要で難しかったものの、当時これが出来無いと1人前として認められなかった。
24.家の中で馬がいて、子供がいたずらすると、親から馬小屋に入れると脅かされ、まじでビッビた。
25.子供の頃、我が家を含めた農家では多くのものが自給自足で、味噌や納豆は自家製だったが、実は余り美味しくなかったものの、米粒1つ残してはいけないと厳しく言われていた時代、そのようなことが言えるような雰囲気では無かった。ただし、後日、近所の友達の家でご飯をご馳走になったとき、味噌汁がやけに美味かったので、単に我が家が上手に美味しく製造するスキルが無かっただけだと気がつき結構悔しかった。
26.100円札が使われ、100円硬貨は銀貨だったし、ニッケル製の50円硬貨は磁石に付いたので、当時、これで結構遊んでいた。
27.本当はメチャメチャ貧乏なのに、祖父や父とも馬に食わせるくらいお金(紙幣)を持っていると、誰でも分かるような見栄を張っていたので、子供ながらにすごく恥ずかしかった。
28.家庭のテレビが白黒からカラーになったとき「総天然色」テレビとも呼ばれ、放送自体、白黒放送とカラー放送があった。ゴールデンでやったいたプロレス中継に対して、祖母はカラー放送になったら試合を見ないと言っていた。理由を聞いたら「流血」で血の赤をTVで見るは嫌だからだそうだ。尚、その時代は夜11時頃で放送終了していた。
29.東京タワーを子供頃に見学にいった時、大人たちはこの辺はお墓だったのに、、、とも囁いていた。
30.今は無い後楽園球場に野球観戦に行ったとき、堀内投手が先発だった。その試合、外野のパックスクリーン後ろにある売店付近の観客席で、阪神ファンと巨人ファンが喧嘩していた。
以上、他にも何かれば自由に書き込んでください(^^)
Posted at 2012/10/11 02:01:12 | |
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