東北地方の大震災で被災された方々、心よりお見舞い申し上げます。
このブログに不愉快をもし感じましたら、どうかお許しください、また言葉足らずの部分もございますので、不快感を感じられましたらコメントは入れないでください。
かなり久しぶりのブログとなりましたが・・・
仕事でバタバタと、地震発生後、どうもブログUPする気が起こらず、ずるずると3月末まで過ごしておりました。
上司と仕事中話していると、阪神大震災の被災経験をされた一人で、『当時下の娘のミルクの水を確保するのに大変だった・・』と振り返って話してくれて、私自身その時は西宮におりましたので、あの頃を鮮明に覚えています。
二人して仕事している事に違和感を感じなかなか手につかず、状況のニュースに心を痛めていました、普段から会社無いでは、FMが流れていますが、もしもの為、上司からは出来るだけ常に耳にするようにと指示が出ていましたが、何も出来ない状況の聞くと、行って一緒に放水や、支援が出来ないものかと辛い日々でした。
私は何も出来ないけれど、原子力発電所で命を懸けて放水作業、復旧作業されておられる方々に応援し、本当に敬意を持ちます。
あの頃の復興を思い出すと『よみがえれ神戸』でしたが、どうか被災された方々も、災害に負けず『よみがえれ』で頑張ってください、自分達の出来る範囲で陰ながら応援します。
私自身震災記憶となると、関連URLに乗せてある思い出です、当時某電気工事会社に実習生として西宮の研修所に居り、実家も家が傾きましたが、やっと繋がった電話では父親から『家族は無事だから、帰りたくても帰れない者もいるから帰えらず今出来る事の使命を果たしなさい』と一言・・・一時帰宅が出ましたので帰宅したら家中はぐちゃぐちゃ、水を貰いに自衛隊の給水車に並んでいましたが、会社の車を見ると手伝わなければと思い、寮に帰ると同期のみんなぞろぞろと帰ってきていました。(汗)
地震後近畿各地からニュースを見て、夜明け前に会社からの要請前にありたっけの材料を積み込み走って来て復旧作業に・・・基地となったのは先輩方を送り出した母校の会社の研修学校(私もここに当時いました)ドアに営業所の名前が入っているので、どこから来たのかすぐに分かりました、また復旧作業にあたり最前線戦いクタクタになって帰ってきた先輩方の姿を見て『使命感』って言うものを痛感し、そんな姿を見ていると自分達は同じ会社にいるのに何も出来ないのが、『もどかしく』なってしまい、同期で一丸となり現場作業をと・・・教官に訴えたのを思い出します。
同期の中には家族の方が被災した者もいましたが、現場に出て何か先輩の手伝いがしたいと訴えましたが、18歳未満(この当時、企業の学校が全国的に多く日野自動車、東京電力、関西電力、航空教育隊<航空自衛隊>、と同じ通信制の高校に通いながら半社会人、半高校の生活をしていました)って事があり許可が降りず、何とか許可が降りたのが、食料の積み下ろしの後方支援に、避難所のボランテア活動、正直嬉しかったのを思い出します、また先輩方も灯りが宿って『喜ぶ姿を見て疲れだ飛んだと』話してくれました、その後生徒として最後の現場実習先が芦屋、西宮、川西が担当エリアの西宮営業所で、仮設住宅の電源や家を手直す為の電源工事をしていると復興していると改めて実感しました。
卒業後、実際に災害復旧作業を経験したのは、奈良で台風災害(台風が来ると営業所で待機がかかり帰れません)による奈良支店からの台風からの2日後の応援要請(他支店からの応援は規模が大きい時が大きいです)がかかり現場で復旧させてもらいましたが、奈良の営業所に着くなり久しぶりに卒業以来の同期と出会いましたが彼は『もう2日間寝ていない…』とボロボロ状態、けど…『このエリアの電柱番号はしっかりと頭に入っているから案内奴がいないとダメだ、あの頃のもどかさよりマシ!』と使命感を持って仕事をしていました、先輩や同期とは近畿各地へと配属されていて仕事で会える時は、災害時が多く同期と会えてまた一緒に仕事を出来る喜びとお互いに複雑な気持ちでした。
このエリアでは、木柱(木の電柱)が多く傾いたり、折れていたりと、また幹線が田んぼの真ん中を走って(電柱が田んぼの真ん中に立っていて電線もある状態)いたりとややこしく正直分かりにくい状況でした。
一番感動したのは、夜中の1時頃の要請で向かうと、他の営業所がすで真っ暗の暗闇の中、工事に取り掛かっている最中状況で、暗闇の中から『〇〇上がって来い!』ふと見上げると震災時もどかしいと相談に乗ってくれた先輩の姿…一緒に作業し、最後に若い奴にさせてやると、とうことで…開閉器(電柱にいているスイッチ)投入作業(スイッチをオンにする事)させて頂きました、開閉器を投入すると近くから灯りが付いて、住人の方の歓声と泣いて喜んでくれる姿には本当に感動しました、またどんな夜景より綺麗かったのを覚えています。
寝泊りは営業所のロッカールームの床下、夜中でも要請があれば出動っと大変でしたが早く灯さなければ…と思うと辛くなかった…寝るより行かなければと思う気持ちが強く、班を率いる班長から寝不足で不安全になるからと怒られて、少し仮眠を取った事がありました。
もうずいぶん前に、この会社は退職しましたが、かけがえの無い経験と仲間に出会えて感謝しています。
思い出の町並みはずいぶんと昔の面影が無かったりと綺麗に変わってしまい少し淋しく感じたりと嬉しいようで淋しく複雑です、しかし地震で焼け野原になった場所に鉄人28号が立ったりと復興したんだと改めて実感しつつ、本当に復活した姿を見ると嬉しくなります。
今…精神的にも肉体的にも大変でしょうけど、どうか復興に向けて負けずに頑張ってください!!
また命懸けの復旧作業にあたられる方々も実際に阪神大震災後の復旧、復興作業で作業中に何人もの方が怪我や亡くられています、早くと焦る気持ちもありますが怪我をしては元も子もありませんので、きっと難易度が高く困難で最悪の作業だと思いますが、どうか安全第一で作業されて頑張られて下さい、そして笑顔を戻して下さい
最後にダラダラとした文章になってしまい申し訳ありません、本当に早い復興を心よりお祈り致します。
Posted at 2011/03/30 20:18:26 | |
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