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バーンスタインのブログ一覧

2017年06月10日 イイね!

本日のディーラー巡り(冷やかし編)

今日は天気もよく、なんだか出かけたくなる日でした。

体調も良かったので、先日、BREITLINGを買ってしまったため中止した「外車ディーラー冷やかしツアー」にでも行こうと決めました(笑)

丁度、先日地域のメルセデス販売店からNEW EクラスクーペデビューフェアのDMが来ておりましたので丁度よいと思ったのもあります(^^)

というわけでメルセデスから。
うちにいつもDMをくれるのはヤナセ系の販売店です。
行ってみると・・・
う~ん、他のお客がいない・・・
こちら完全に冷やかし客なので気が引けます。
まぁ、いつも「見てるだけ~」の客なのであちらもご存知の事でしょう(笑)

駐車場に入っていくとスッとセールさんがやってきて「オーライ」が始まります。
さすがヤナセ。
スーツをビシッと着こなしたいつものセールスさんでした。

「今日はEクラスですね。GT-Rからお乗り換え頂いても十分ご満足いただけるいい車になりましたよ」
と店内に入りながら話してきます。
早速、拝見。

カッコいい(笑)

ピラーレスの流麗なボディ、これはいいですね!
そしてボンネットに入った二本のラインがこれまた自己主張しすぎてなくていい感じです。

内装は言うまでも無く質感の高い!
メルセデスはベーシックラインからハイエンドまで、全てのモデルで内装の質感の高さにはいつも感嘆します。
フル液晶メーター、これいいよなぁ・・・と内心思いつつ運転席周りを弄ってました(笑)
「白の革シート、手入れは大変そうだけどいいよなぁ」「エアコンのルーバー形状まで拘っているなぁ」リアからエクステリアを眺めて「(いい意味で)エロいなぁ」とか(笑)

Eクーペ、欲しくなりました(笑)

メルセデスは見たり、触れると本当に欲しくなってしまう魔力があります。
昔はメルセデスの思想や神話めいた安全性からでしたが、今はそれらに加えてエクステリアの美しさ、インテリアの良さが加わってます。

恐らく他のお客さんがいなくてヒマだったのでしょうか、色々と説明して頂けました。
「半自動運転」とセールスさんはおっしゃってましたが私から見れば「自動運転」です(笑)

「GT-Rからお乗り換えとなるとE400位のパワーが無いとご不満を感じられるかもしれません」
というお話が出て
「E400クーペだとおいくらなの?」
「1,037万円です」
・・・
ムリ(笑)

価格表をもらいましたが手が届くであろうE200でも682万円。
はい、当分GT-Rに乗り続けます(笑)

カタログと来場記念品を貰ってサヨナラ~(^^;)

帰宅するにも時間があるのでBMWかAudiでも見に行こうかと思ったのですが今のところ両社の車で欲しい(というか見たい)車も無かったので手持ち無沙汰となりました。

みんカラを始めてLEXUSオーナーの方々と交流する機会に恵まれましたのでLEXUSのディーラーに行ってみようということにしました。

LEXUSのディーラーに行くのは本当に久々です。
クラウンを買う時に当時のGSと迷った時、それとフーガHVを買う時これまたGS HVと迷った時以来、三度目です。

そのLEXUSに行くとオーナー様の車でしょうか。
GSとLS、RCが停まっていました。
そのGSとRCの間に35を入れようとするとやってきましたセールスさん(LEXUSはコンサルタントでしたね)
いつも私が行くと対応してくれたのは女性のコンサルタントさんでしたが、今回もその方が出てきてこれまた「オーライ」(笑)

私の顔を見るなり「あら、○○様ご無沙汰してます。ってGT-R買ったんですか!?私からGS買ってくれるんじゃなかったの~」と笑ってます(笑)
ごめんなさい(^^;)
そーなんです。
クラウンのときもフーガHVのときも「他の車にするからごめんね」だったんです(汗)

「いやね、色々あってGT-Rになってさ。今日はLC見たいから来たよ。買えないけど」(笑)

というわけでLEXUSではLCを見てきました。

これまた日本車離れした美しいエクステリアですし、内装も凝ってますね。
これは現代版「ソアラ」なのかなぁと勝手に思いました。

メーターの表示が切り替えられたり、やはりドイツ勢を意識してます。
外装もブレーキランプ周りが印象深いデザインでしたし、イタリア車のような色香あるデザインです。

「どうですか、LC。とてもいい車ですよ。V8モデルでもHVモデルでも、ご満足いただけることは約束します」と件のコンサルタントのお姉さん(笑)
私は「いいね~いいね~」を連呼(笑)

でもね。

1500万は出せませんがな(笑)

「パワー的にもGT-Rからお乗り換え頂いても不満は無いと思いますよ。装備もお好みで外装とか付けるくらいでしょうから」
「だよねぇ、でもなー買えましぇんよ(^^;)」
「よかったらご試乗なさいますか?」

本音を言えば乗ってみたいのですが乗ると絶対欲しくなることは承知ですし、冷やかし客に時間を取らせるのも申し訳ないのでご辞退申し上げました(笑)

アイスコーヒーをごちそうになりながら色々とLCについてレクチャーを受けましたが先進的過ぎてわけが分かりません(^^;)
でも「流石、LEXUS!」と言える車であることは確かのようです。
いや、本当に乗ってみたい(笑)

お見送りをうけ、店外にでて我がGT-Rを見るとLEXUSに挟まって停まっているGT-Rはやはり異端に見えました。

エンジンをかけると・・・
やっぱりGT-Rのサウンドは勇ましい(笑)
きっとLCのV8も勇ましいのでしょうが、もっとジェントルなんだろうなぁ等と思いながらLEXUSを後にしました。

帰りの車中で今日見た二台の美しいクーペのフォルムを思い出して「どっちもエロいボディラインだよなぁ」と完全に色香に当てられました(笑)

EクーペやLCはモデルさんみたいな色香があります。
GT-Rは・・・肝っ玉母さんのような強さかな(笑)

言い換えればEクーペは戦中のイギリスのスピットファイア戦闘機のような美しさ、LCは震電のような鋭さと流麗。
GT-RはB-29のような重爆撃機。

久々に今日は楽しいディーラー巡りでした。
二台の色香に当てられて今日はいい夢を見られそうです(笑)

本日も乱文・長文となり失礼しました。
最後までお読み頂き、また先日来、沢山のイイね!本当にありがとうございます。
Posted at 2017/06/10 20:45:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2017年06月09日 イイね!

「プロレス」の思い出

今日は車ネタですありません(笑)

つい先日、プロレスのテレビ放送を十数年ぶりで見ました。

いやー今のプロレスは本当に凄いですね。
テクニックやらなんやら・・・

その放送を見ていて子供の頃にプロレス好きだった頃を思い出しました。

時は昭和の末期(笑)

猪木・馬場の両巨頭が君臨し、長州力や天龍、ジャンボ鶴田や藤浪辰巳が大活躍している時代でした。
私の周りも猪木派と馬場派がいて「どっちが強い」でよく喧嘩してましたね(笑)

そんななか、私はなぜか「スタン・ハンセン」が大好きでした。
ウエスタン・ラリアットがバコーンと決まって、相手がマットに沈むシーン、未だに憶えています。

ある日、私の地元に全日本プロレスが巡業でやってくることになり、猪木派も馬場派も皆で見に行こうという話になりました。

当時の全日本プロレスには長州力率いる維新軍が新日本プロレスから離脱して、全日本プロレスに参戦して、それは凄い人気でした。

そして試合当日。
サインを貰おうということになり、各々が目当ての選手が乗ってくるバスを待っていました。
最初にやってきた「ALL JAPAN PRO Wrestling」とデカデカと書いたバスから馬場さん、鶴田さん、天龍さんらが降りてきました。
私の友達はこぞって駆け寄り、サインを求めると皆さん、面倒な顔もせずしてくれていました。

その後、維新軍のバスがやってきて長州さんや谷津さん、アニマル浜口さんらが降りてきました。
今度は長州派の友達達が駆け寄っていってサインをもらいました。

私の目当ては「ハンセン」だったので外人組はいつ来るのだろう?と思って待っていると。
やってきました、三台目のバス。
これに外人組が乗っているのだろうと確信した私はハンセンが降りてくるのを待ってました。

ところが。
バスのドアが開いても誰も降りてこないのです。
「ありゃ、これも違うのかな?」と思った矢先。

奇声が聞こえ、バスから「タイガー・ジェット・シン」と「ハンセン」が降りてきたんです(笑)
シンはトレードマークのサーベルを振り回し、ハンセンはロープを振り回しながらお客さんを威嚇しまくっています(怖)
「こっ、これはムリだ」と思いました・・・
そして他の外人を引き連れそのまま会場の体育館に入っていってしまいました。

ハンセンのサインを貰えずに私は意気消沈。
友人達は目当ての日本人人気選手のサインを貰って喜んでいる中、内心「いいな~」と・・・

やがて開場時間となり、会場の中に入りました。
まだ試合開始までは時間がありました。

私はハンセンにサインを貰うことが叶わず、しょうがないので誰か他の選手のサインを貰おうかと考えました。
会場を廊下をウロウロしていたら「ロッキー羽田」選手がいました。

あまりメジャーな選手ではありませんでしたが、今にして思えば甘いマスクの背のとても高い方で次世代を担う選手の一人だったと記憶してます。

そのロッキー羽田選手に「サインください」と話かけると。
「俺の?俺なんてまだまだ人気も無いし、本当は誰のサインが欲しいんだい?」と聞いてきました。
見透かされていた(笑)

全日本組と維新軍、外人組は対立のアングルでしたのでダメ元で「ハンセンのが欲しいんです」と言ってみました。
「ハンセンか~・・・ちょっと待ってな。」と言いつつグッズ売り場で葉巻を燻らす馬場さんの元に連れて行ってくれました。
すると馬場さんに何か小声で話しているんですね。

すると「OK。ハンセンの所に行こう」となりました。
「は?マジで?」という思いとさっきの怖いシンとハンセンを思い出し、サインなんて言った瞬間に羽田選手もろともぶっ飛ばされるんじゃないかという恐怖にも駆られました。

「外人控室」と書かれたドアを羽田選手がノックし英語で誰かと何かを喋っていたのを記憶してます。
すると・・・

ハンセンが出てきた(驚)

羽田選手がまたもや英語でハンセンに何かいうと「怖いはずの」ハンセンが笑顔で「OK!OK!」言いながら私の手元から色紙をひったくりサインしてくれたのです。
恐らく私は恐怖で震えていたと思います(笑)

しかもそのハンセン、英語で何かを言うと私の色紙とペンを持ったまま控え室に戻ってしまったんです。
何が起きたのか分かるわけもなく羽田さんに「やっぱりハンセン、怒っているんでしょうか?」と聞いたらニヤっと笑って何も言いません。

一分位経ってハンセンが戻ってきました。
そして私に色紙とペンを返してくれました。
色紙を見るとさっきハンセンが書いたサインの他にも二人、サインが増えていました。
羽田さんがそれを見て「こっちはシン、こっちはスヌーカだね」と教えてくれました。
なんとハンセン、他の悪役(笑)外人組のサインも貰ってくれたんですね。
もう感謝感激です(^^)

小学生の私がやっと言える英語「Thank you very much」というと私の頭をゴシゴシとしごき、大笑いしながら何か英語で喋ってました。
そしてまた控え室の中に戻ったかと思うとすぐに戻ってきたのです。

こんどはなんと・・・
あの「狂虎」ことタイガー・ジェット・シン」を連れて・・・・・
しかもシンはトレードマークのサーベル、ハンセンはテンガロンハットとブルロープを持ってます。
これは流石に今度こそヤバいと思いました。

が。

ハンセンが羽田選手に話しています。
「写真を撮ろうって」
願ってもないお言葉ですが、私は怖くて怖くて・・・

そこに丁度「週刊ゴング」か「週刊プロレス」の記者さんがいて、その方が写真を撮ってくれました。

私は怖いのですが写真まで一緒に撮ってくれたシンとハンセンに再度「Thank you very much」と挨拶するとあのおっかない二人が英語で何を言っているのか当時の私では当然理解できませんでしたが「ワハハハ~」と笑いながら手を振って控え室に帰って行きました。

羽田選手にもお礼を言うと「今の事はあんまり色んな人には言わないでね。普段はいい人達なんだよ」と言ってました。

週刊誌の記者さんから写真が出来たら送るよということで家の住所を教え、試合を待つため席に戻りました。

試合が始まっても私は殆ど、夢心地でどんな試合だったか憶えていません(笑)

ただ、いざ試合となったら、あの優しかったハンセンとシンが観客を威嚇しながら入場してきた事だけは鮮明に憶えています(笑)
あんなにいい人達だったのに・・・

このブログを書くにあたって当時の方々は今どうしているのか少し調べました。

言うまでも無くジャイアント馬場さんは1999年にあまりにも若すぎる生涯を閉じました。

ハンセンとシンに引き合わせてくれた「ロッキー羽田」こと羽田光男選手。
惜しいことに馬場さんよりも早く、1991年に43歳の若さでお亡くなりになっていました・・・
この方がいなければ、あの夢心地を経験することもありませんでした・・・
合掌。

スタン・ハンセン。
アメリカで今もお元気のようです(^^)
引退後もプロレス団体の重要な役職を担うなど、その人柄は後輩たちからも慕われているとのことでした。
また日本人を奥様に迎え、大変な親日家だということです。
あの「ブレーキの壊れたダンプカー」と評された凶暴ぶりとは裏腹にやはりジェントルマンのようです。

「狂虎 タイガー・ジェット・シン」
現在もカナダ・トロントでお元気のようです。
様々な事業を興し、大成功を収め、実業家として今は優雅な生活を送られているとのこと。
また、あの「狂虎」のイメージは完全に「創られた」ものであり素顔は紳士、北米インド人社会では尊敬される人物であるとも。

あの時、羽田選手がおっしゃった「あまりこのことは~」はこの二人のギミックを崩してはならないという配慮だったのでしょうね。

極東の地でプロレスに心ときめかせていた少年にその表の顔とは違う本当の顔を少し見せてくれた二人。

また、その一少年の願いを聞いてくれた馬場さんと羽田さん。

私はあの4人こそ、本当の「スペシャリスト」であり「プロ」だったのだとこの歳になって実感させられました。

プロレスは全く見なくなってしまいましたが、この思い出は一生忘れることは無いでしょう。

この時頂いたサインと後日送られてきた写真は実家にこれまた少年時代の英雄であった「高橋名人」から頂いたサインとともに飾ってあります。

今のテクニック、大技全盛のプロレスは勿論凄いのですが私は色々なアングル、ギミックに満ちた「昭和プロレス」がやはり最高だったなとしみじみ思いました・・・

いつものことながら今日も長文・乱文となってしまいました。
いつも最後までお読み頂き、また沢山のイイね!本当にありがとうございます。
Posted at 2017/06/09 20:24:37 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2017年06月07日 イイね!

エアバッグの生みの親

Myファンのゆうz,さんのブログ「Das Beste oder nichts」(ダス ベステ オーダー ニヒテ)英訳「The Best or Nothing」を拝見し感銘を受け、思い出したことがあったので、便乗しつつ本日のブログを書きます。(ゆうz,さん、大変素晴らしいブログ、ありがとうございました)

即ち「最善か無か」

メルセデスの数々の神話を生み出してきたキャッチコピーですね。
私がもっとも車の世界では共感でき、好きな思想・キャッチです。

メルセデスは「エアバッグ」を早い時期に搭載したメーカーですが、メルセデスの偉いところがそのパテント(特許)を無償公開したことです。
このことによりエアバッグは世界中で爆発的に搭載、標準化がなされていきました。

さて、この「エアバッグ」。
ハンドルに頭をぶつけて大怪我、最悪は亡くなってしまうという事に目をつけ、「そのエネルギーを風船のようなもので吸収したらどうか」と考えた方がどのような方か、皆さんはご存知でしょうか?

なんと、日本人なんですね。

その方の名前は「小堀保三郎博士」。

彼はシートベルトが義務化される前の1960年代にこの思想を既に持っていました。
当時はシートベルト着用の義務化は当然のようになせれておらず、また現在のような三点式シートベルトでは無く、二点式が主流だったため、頭を打つ、車外放出等が死亡原因の大きな要因となっていました。

そこで小堀博士は「衝突の瞬間に風船のようなものを膨らませて乗員を保護すればよいのでは無いか」と考えたのです。

開発は困難を極めたようです。
現在のようにミリ波レーダーや認識カメラがあるわけでも無く、衝撃感知センサーの精度も比べ物にならなかったでしょうから、博士の苦労が想像できます。
ついには「事故で亡くなる人を少しでも減らしたい」という博士に熱意から私財まで投入して開発を進めたようです。

実用化の目処が立ち、運輸省(現国交省)にこのアイディアを持って行くと「そんなわけの分からんもん、認可できませんね。欧米で実用化されているのですか?日本では無理です」と一笑に付されたそうです。

ここでも「霞が関」というより「お役所」の「前例踏襲主義」と「事なかれ主義」の悪弊が(怒)
結局、今も昔も変わっていませんね。
チャレンジングなことは絶対やらない・・・

結局、小堀博士の開発した「エアバッグ」は日の目を見る事無く、忘れ去られていきました。
小堀博士の発明について、他に少し調べたのですが、現在でいうところの「歩行者保護エアバッグ」(ボルボやスバルが実用化、搭載してますね)

先見の明が有りながら我が国の官庁の悪弊により実用化されなかった博士の発明。
特許はとったそうですが、日本のメーカーは関心を示すところはなく、その開発に着目したのが欧米メーカー(特にもメルセデス、ボルボ)だったようです。

そして・・・
最悪の結末。

小堀博士はエアバッグの開発に私財を投入してまでやったのですが、その開発費用捻出が厳しくなっていたようです。

そして・・・小堀博士は1975年、奥様と心中されました・・・

その数年後、メルセデスが実用化、市販車への搭載を開始することになります。

これを「早すぎた技術」とか言ってしまうのは簡単です。
しかし言うなればこれは「悲劇」としか言いようが無いと思います。

この話は結構前から知っておりましたが、今回ブログを書くため小堀博士について少し調べていると日本の役人の了見の狭さに怒りを通り越して、本当にガッカリさせられました。

霞が関にも「なんだそれ?おう!面白そーじゃねーか!」という気質の方も確かにいます。
でも、私が先日書いた拙文「忖度」で書いたとおり、そういう方は決定権のある地位に就けないという悪循環。

もし、小堀博士が提案した時に、運輸省が「これは!」となっていれば我が国の自動車産業・安全性、そして何よりも交通事故死する方の数も減っていたことでしょう。

小堀博士の無念を思うと・・・

ただ、教え子であった方の言葉。
小堀先生は「やるべきことは全部やった」とおっしゃってました。というのを見て、少し救われた気持ちになりました。

きっと小堀博士夫妻は天国で自分の作ったエアバッグが世界中で当たり前になり、さらなる安全技術が出てきていることに喜んでいると思います。

偉大なる博士の発明はもう忘れ去られる事はないでしょう。


本日も乱文・長文、失礼いたしました。
いつも最後までお読み頂き、また沢山のイイね!ありがとうございます。

※厳密に言えば、小堀氏は「博士号」を取得していません。しかし、私は崇敬出来る方には「博士」を付けることにしております故、今回の拙文にも「博士」を付けさせていただきました。
Posted at 2017/06/07 13:17:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2017年06月05日 イイね!

そんなに急いで何処に行くんだい?

今日は定例の検査の日でした。
久しぶりに35で病院に行ってきました。

私に行っている病院は外来用駐車場が地下にあるのでフルノーマルの私の35でもマフラー音が響いて・・・
心地よい(笑)
社外品を入れたらもっといい音するんでしょうね。

弄りたい欲が頭をもたげますが、なにせ今月はBREITLINGを買ってしまったので来月は三桁引かれます・・・
我慢我慢・・・・(涙)

さて、帰りは寄る所も特に無かったのと下道で帰るのが面倒になって高速に乗りました。
そこでの出来事。

基本、私は高速に乗ってもメーター読み95キロ位でクルコンをセットして、あとは左車線をのんびりと走っています。
右車線を通過して行く車を見るのも結構楽しみでたまに矢のように飛んでいく欧州車を見ると「やっぱりすごいよなぁ」と実感させられてます。

今日も左車線をノンビリ。
すると前方にタンクローリーが80キロくらいでしょうか。走行しておりました。
「あぁ、これは追いつくな」と思い追い越し車線に移りましたが、私が移る前にトラックが追い越し車線を既に走行しており、その後ろに乗用車数台が連なっている状況です。
トラックは90キロリミッターが付いているからだと思いますがジワジワとタンクローリーに近づいて行きます。
まぁ、しょうがないですね。
私は追い越し車線の最後方へレーンチェンジし、鈴なりの車列にくっついていきました。
(こういう時、全車速追従クルコンなら楽でしょうね)

そうしたら後ろからデイライト?を点灯してエラい勢いで迫ってくる背の高い、黒の車がありました。

現行ト○タ・ヴェ○ファ○ア。

ま、先が詰まっているのは背高な車だから分かるだろうし、タンクローリー抜いたら左車線に戻るから待っててと思っていたのですが、バックミラーで見ると妙に車間が近い(笑)
おいおい、パッシングまで始めたぞ(笑)

うーん、ミニバン乗りは悪い人が多いとは言わないけどさぁ、前方の状況見て抜けないの分からないの?
それにしてもヴェ○ファ○アの顔って怖いなぁ、グリルでけぇなぁ、メッキパーツてんこ盛りだなぁ等と煽られながら観察してました。

で、タンクローリーを抜いて、左車線に戻ると今度はそのヴェ○ファ○ア、並走してこっち見てるんですね。
助手席には奥さんなのか彼女なのか若い女性、ドライバーも若い男性。

「あのー、お宅私と並走しているとお宅の後ろの車迷惑してますよ」(笑)
なにかGT-Rに恨みでもあるんでしょうかねぇ。

そうかと思ったら減速して私の後ろに入りましたが、またもや車間が近い(^^;)
パッシングしても退かなかったから頭にきているのかしら?

さすがに私もちょっとイラッと来まして。
「そういや最近、VR38君にムチ入れてないなぁ。かったるいばかりじゃスラッジも溜まりやすいしなぁ←いつの時代よ(笑)燃焼温度、上げてやるか」

一応、記念写真撮影機が無い区間な事も分かっていましたし、レー探もちゃんと動いているのを確認。
ということでクルコンをOFFにし、追い越し車線に移るとヴェ○ファ○アも案の定ついて来ました(笑)

では。いざ。

やっぱりGT-Rはすげぇと自分の車なのに驚きますね、あの加速。
「ボー・・・グゥオワー!ガシュン!グォワァー!ブシュッ!グオワァー!」
この音だけで十分です(笑)

メーターを見ますと、ヤバイヤバイ(汗)
あれ?ヴェ○ファ○アは?
あー後ろで頑張ってるねー、でもサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ(淀川長治風)

家の方向のJCTが近づいて来たので減速、いつものまったりモードへ。
でも結局ヴェ○ファ○アはバックミラーにもう映りませんでした(汗)
ちょっとやりすぎた・・・

まったりモードで運転しつつ
「あの後、あのカップル、会話無いだろうなぁ、険悪なムードになったかなぁ。ちょっと大人気なかったなぁ」と自省しました(笑)

でも「やっぱりあのスピードでも全然怖くないなぁ。エンジンやらミッションやらブローオフ?やら賑やかだけどいい音だなぁ、でもオーディオが聴こえなくなったなぁ、Rモードにしてみりゃよかったなぁ」と思ったのも事実です。反省してませんね(笑)

でも、フッと思いました。
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」(笑)

どんな怖い顔をした車でも前が詰まっていたら譲ることは出来ません。
前方がオールクリアなのにチンタラ走っているのはそりゃ怒られますが・・・

それに35と言えど私の車にはリミッターついているから外車様には譲ります(笑)
というか追い越し終わったら走行車線(左車線)に戻るのは当たり前の事ですしね。

なんだかミニバンが嫌いになりかけましたが、こういう謂わば「DQN」ドライバーは少数派でしょうから・・・
本来は家族が楽しい時間を過ごすための車ですしね。

まぁ今日のヴェ○ファ○アのドライバーもいい勉強になったことでしょう(笑)

あ、決してミニバンにお乗りの方を攻撃するような事ではありませんよ。

そして今、ブログを書きながら・・・
「リミッター解除したい・・・エアクリ替えたらもっと吸気音ががっつり・・・マフラー替えたらどんな音かしら・・・いや、足回り換えたらフラットライド感がもっと増すかも・・・」
等とどこからか悪魔がやってきて囁いています(大笑)

でも、ノーマルでもまだまだ乗りこなせていませんし、ノーマルの味わいをもっと楽しみみたいと思い悪魔を振り払ってます(^^)

本日も長文、乱文失礼いたしました。
最後までお読み頂き、また皆様から沢山のイイね!本当にありがとうございます。
Posted at 2017/06/05 16:59:33 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記
2017年06月04日 イイね!

忘れ去られた「国際的日本人ミュージシャン」

今日は一日、音楽三昧の日でした。

NHK-FMが一時から見るとクラシック番組が減ってしまったのが残念ですが、FMとCDと一日、聴いておりました。

さて、我が国は世界に誇るミュージシャンといえば皆さんは誰を思い描きますか?

「世界のオザワ」こと小澤征爾、「坂本教授」こと坂本龍一、「ジャズの女王」穐吉敏子、「音響の魔術師」富田勲、「ノヴェンバー・ステップス」武満徹等が「日本人の世界的音楽家」と言えるでしょうか。
(ポップやロックの世界はよく分かりません・・・申し訳ありません)

しかし、もう一人、戦前に世界を股にかけた活躍をしながら、戦後、ほぼ忘れ去られた存在になってしまった一人の音楽家の話です。

その人の名は「近衛秀麿」(このえ ひでまろ)。
オーケストラ指揮者、作曲家です。

近衛という名字でピンときた方もいらっしゃるかもしれませんが、五摂家筆頭の近衛家の御曹司であり、兄は戦前~から戦中に我が国の首相を努めた近衛文麿という華麗なる(というより華麗すぎる)一族の方です。

近衛の功績は現在のNHK交響楽団(日本を代表するオーケストラ)の前身「新交響楽団」を設立し、我が国に「オーケストラ」の先鞭を付けたこと。
因みにこの「新交響楽団」にはあの「黒柳徹子」さんのお父さん「黒柳守綱」さんが重要なポスト「コンサートマスター」として在籍していました。
(コンマスは非常に端折った言い方をすれば団のまとめ役。また指揮者の意図を汲んでオーケストラを統率する役割です。)

しかし、この方、戦前の活躍を見ると凄いのです。

今でも世界最高のオーケストラとして語られる「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」での演奏会を日本人では2番目に行い(日本人最初は作曲で有名な山田耕作)、その後ヨーロッパで八面六臂の大活躍。

その後渡米しアメリカではストコフスキー(古い洋画好きの方ならディズニーの「ファンタジア」、D・ダービン主演の「オーケストラの少女」に出演していた白髪の指揮者と言えばわかりやすいでしょうか。当時のアメリカでは大統領、チャールズ・チャップリン、レオポルド・ストコフスキーが「逢いたくても逢えない男性」TOP3だったそうです)に認められ全米のオーケストラに「近衛を指揮させるように」とお触れが出たり、かのトスカニーニ(言うまでも無く20世紀最高の指揮者の一人)の為にNBC放送が金の力で全世界から有能な奏者を集めた「NBC交響楽団」の副指揮者に指名されたり・・・
最早、音楽家の頂点に近い所まで戦前で到達しちゃってます(笑)

しかし、この輝かしいキャリアは太平洋戦争の機運が高まってしまいアメリカでの活動は全てキャンセル。
仕方無く活動の場を再びヨーロッパに移し、かのベルリン・フィルとの録音や数々のヨーロッパの著名なオーケストラを指揮するなど、その活躍はとどまる所を知りませんでした。

当時、我が国はドイツ(言うまでも無くナチス統治下の第三帝国)と同盟関係であり、しかもその同盟国の首相の弟ということがあったことを割り引いて考えても、このような八面六臂ぶりは戦後の小澤征爾の登場まで待たなければなりません。

ヨーロッパでは「グラーフ・コノエ」(近衛伯爵)として社交界でも華々しく活躍、どこへ行っても大人気だったようです。

ただ、この近衛、同盟国の首相の弟だからナチスの政策に協力していたのではないかと思われる方もいるかもしれません。

しかし、彼は迫害されるユダヤ人の保護地下活動に協力していたのです。
これは2年位前でしたかBS-1で「戦火のマエストロ」として放送されました。
ナチス統治下でのユダヤ人保護と言えば「シンドラーのリスト」で有名になったオスカー・シンドラーや在カウナス領事だった杉原千畝が有名ですが、近衛も「ナチスの人種差別的政策には全く賛同できない」と手紙に残しているとおり、音楽家・同盟国の首相の弟、そして貴族という仮面をかぶりながらユダヤ人の保護に奔走していたのです。
結局、その活動もナチスに露見することとなり警察に勾留されたり(しかしVIPな事が分かって直ぐに釈放)、ドイツ国内での移動を秀麿の活動を快く思わない駐ドイツ大使だった大島浩に禁じられます。

ちょっと話が脱線しますが、当時の我が国はナチス・ドイツと同盟国でした。
ということはユダヤ人に対して厳しい態度を取っていたのではないかと思われる方も多いかもしれません。
しかし実際はそうでも無かったようです。
当時のドイツからユダヤ人が亡命する際、通過地として選んだ国に日本を選んだ方々がかなりあり、ドイツから一旦日本に渡り、その後他国へ亡命する人や、そのまま日本に滞在した人も相当いたようです。
一応「敵性外国人」とはなっていたようですが強制収容所に入れられることも無く、自由の制限こそあれ、ドイツに留まるよりはるかに安全だったそうです。

また「河豚計画」なる当時、日本が統治していた満州にユダヤ人自治区を建設し、そこにユダヤ人を居留させる計画を当時の日本政府が真剣に検討していたことも分かっています。
歴史にifは禁物と言いますが、この河豚計画が実行・実現していたら現在のパレスチナ問題は違ったかたちになっていたのかもしれません。
(勿論、我が国の敗戦により満州国自体が雲散霧消したのですから、パレスチナの地を彼らはどのみち目指したとは思いますが)

話を元に戻します。
やがてドイツの敗戦に第三帝国崩壊。
近衛は自ら進駐してきたアメリカ軍に出頭、勾留・取り調べを受けることになります。
近衛はそこで自らが行った活動を積極的には供述しなかったようです。
貴族のプライドなのか、それともまだ日本は負けていないという意識があったのか・・・

この取り調べにエピソードの中に私が好きな話があります。
取調官に「子供は何人いるか?」と聞かれた近衛。
返事が無く「何故、答えない?」と聞くと。

「待て。今、何人いるか数えているところだ」

と答えたという話(笑)
取調官は絶句したそうです・・・

前述の輝かしい出自、栄光の日々を考えればモテるのも当然ですね(笑)
貴族の娘やら当時人気絶頂だった女優やら、京都一の美貌と言われた芸姑さんやら・・・
「英雄、色を好む」とはまさに。
判明しているだけで7人のお子さんがいたそうです。
まぁ、その他にもいたのでしょうね(^^;)

間もなく日本も無条件降伏し、敗戦を迎え近衛も帰国します。

帰国直後、首相を退いていた兄の近衛文麿と再会した秀麿はこう言われたそうです。

「お前は音楽をやっていてよかったなぁ・・・」と。

文麿自身も学者になりたいと思っていたようですが、近衛家の長男が自分の好きな道に行く事など出来るわけも無く、政治家になったからでしょう。
ですから文麿は自分のできなかった夢を好きな「音楽」の道に進んだ弟にその希望を託すと同時に援助を惜しまなかったのでしょう。

そういう会話をしながら兄弟で久方ぶりの酒を酌み交わした夜、兄・文麿は自決しました。

この後、秀麿は戦後間もないころこそ我が国の音楽文化復興に尽力するのですが、自分が設立に携わったNHK交響楽団にも殆ど招かれず、自分の資産をはたいてオーケストラを作るも資金を持ち逃げされたり、詐欺にあったりと戦前の栄光に満ちた日々とは真逆の日々を強いられることになります。
また、かつて自分が活躍したヨーロッパやアメリカからも戦後の混乱期故か、客演の声もかかることもありませんでした。
そのうち、新進気鋭の音楽家達が綺羅星の如く登場し始め、秀麿の存在は忘れ去られて行きました。

1973年、秀麿はその栄光に満ちながらも晩年は不遇だった人生に幕を閉じました。

最後に近衛の逸話をもう一つ。
小澤征爾が「世界のオザワ」となり世界中を飛び回っていた頃、外国のどこに行っても「お前はここに来た日本人では二人目だ。最初にここに来たのはグラーフ・コノエだった」と言われたそうです。

海外旅行等、夢のまた夢だった戦前。
海外を飛び回り「近衛伯爵」として「世界的ミュージシャン」の嚆矢となり、プレイボーイだった秀麿。

彼がいたからこそ、ジャンルを問わず、現在の日本のミュージシャンの世界での活躍は有るのかもしれません。
晩年は不遇だった彼ですが、きっとあちらの世界で今の日本人ミュージシャン達の活躍を見てニンマリしていることでしょう。

それと・・・
きっと、綺麗な子、かわいい子にもチェックを入れていると思います(笑)

自分の好きなミュージシャンの、その人となりを知ると更に音楽がいい意味で違って聴こえるかもしれません。

相も変わらず、本日も長文・乱文、脱線失礼いたしました。
最後までお読み頂き感謝いたします。
Posted at 2017/06/04 20:59:49 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記

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