私のバイク遍歴40年を軽くまとめてみました。もし、お暇でしたら軽く読んで下さね。
40年前、当時中学校を卒業して家庭の事情で高校は定時制に進学、同級生とはちょっと違った高校生活を送る事になった私は、社会の事は右も左も分からない16歳でした。
中学生の時、一部の同級生の間でバイクの話が盛り上がって(俺、カワサキのFX400がええなとか、いや俺はスズキのGS400Eがええなとか、ホンダCB400Tホークやなって)夢を語っていました。その頃でしたかね?映画マッドマックスを見てバイクの魅力にハマってしまいました。乗るなら大きいバイクやなって密かに思っていたような記憶があります。
高校は原付迄ならバイク通学を認めていたので、通勤と通学の為バイクの免許証を取得しなければと個人の自動車学校に入校しました。自転車で職場と夜間高校に加えて自動車学校と通って結構きつかったですね(笑)
何故個人の自動車学校?実は当時、自動二輪大型免許取得が出来ると宣伝していた学校は此処しか無く甘い考えで入校しました。担当の教官に原付から取って行った方がいいよ、どれ位の時間がかかるか分からないよって言われました。教習車はカワサキRS750(通称Z2)見るのも乗るのも初めてで、最初は教官のお尻に載せてもらい感覚を養っていました。操作はそれ程難しく無かったのですが、身長が低いせいか短足のせいか足付きが悪く立ちゴケを数回してしまいました(笑)
今は認定自動車学校であれば限定解除は段階を踏んで取得出来ますが、当時の限定解除は県免許センターで月2回試験を行っていました。いわゆる一発試験ですね。学科試験は一回でパスしたのですが、適性検査(重いバイクで八の字を押したり、倒したバイクを起こしたりとヘロヘロになりました。)これもパス!次は予め覚えておいた三コースの内一コースを使っての実技試験、これはやはり不合格、それも途中退場でした(笑)その後、免許センターでバイク貸出制度を利用して練習、練習、練習と練習を重ねて迎えた2回目の試験、やはり一本橋で脱落して途中退場。それにもめげずにまた練習、迎えた3回目の試験、何とか完走でも減点多くて不合格。4回目の試験を受ける前には免許センターの教官に顔まで覚えてもらい(次頑張れよって)励まされた記憶があります。迎えた4回目の試験、無事完走、自分では手応えあり受験番号はドキドキ・・・読んでくれました。ヤッターガッツポーズ!晴れて二輪が乗れる様になりました。
最初に乗ったバイクはボロボロのホンダダックス70初期型!5000円、それでも初めてのバイク、自転車より楽ちんでしたよ。
休日は、見様見真似で部品を外して自分好みにスプレーで塗装したり磨いたりしました。エンジンの構造何て分からないからバラシ方も分からない、転がっていたエンジンどうなっているのだろうって、ハンマーで割った思い出が(;’∀’)知らないって凄いですね。
就職して仕事が慣れた頃、バイク屋なんて知らない私は、自転車屋でCB750FAを注文しました。自転車屋の親父に、きちんとローンを払えよって言われムカつきましたね。言われなくても、きっちり払いました。今思えば修理も出来ない自転車屋でよく買ったものだと反省、知らないって怖いですよね(笑)
最初の転倒は、香川県から徳島県に抜ける国道32号線の猪鼻峠でした。近所のおっさん連中とツーリングに行く途中、カーブを曲がれずガードレールに激突、痛かったですね。擦り傷と打撲程度でしたが、バイクの損傷は酷いものでした。
その時の思った事は、他の人はバイクを操る様に乗っているのに私はただ単に乗っている?怖さを知らない無知な小僧でした。
その後は、単に乗るだけではなく楽しく操れる様に地元、五色台スカイラインで楽しく練習?しましたね。いわゆる峠族(ローリング族)かも。それでも二輪、転倒は付き物でした。都度擦り傷打撲、痛い思いをしましたが、転倒する事もなくなってきた頃には、小さい体で重量車を操って気持ちよくツーリングを楽しんでいました。
私が負った瀕死の事故は高校2年の時でした。土曜日の夜、カワサキAR80で学校からの帰り道バイク屋に寄って帰ろうとした時でした。事故当日は雨が降っていました。商店街のアーケード入り口の小さな交差点に差し掛かった時でした。優先道路を走っていた私は、横から光が飛び込んで来たのでブレーキを掛けましたが路面は濡れていた為、スリップして体制を崩し相手の車にぶつかって体を押され対向車線に投げ出されました。気が付いた時、腹を強打し息が出来なくて「このまま死ぬのかな」って思いましたが、時間が経つに連れて徐々に息が吸える様になって体が楽になった事を覚えています。その時は誰か分かりませんでしたがヘルメットを脱がしてくれて介抱してくれた方がいましたが、後で聞くとバイク屋のお客さんだったそうでありがたかったです。
今までのブログに書いている腸閉塞の発端となった事故でした。
意識不明の重体が数日、その後のリハビリ等で3カ月余り学校には行けず、もう一度二年生をやり直しました。つまり高校生を5年間やりました。
二年生を2回目つまり高校生活3年目、レーシーなフォルムに惚れてVF750Fを購入。これは速かった!CB750Fと比べるとVF750Fは恐ろしくパワーがありました。その頃、ドゥカティSSに乗っている知人の誘いでドゥカティオーナーズクラブのツーリングに参加したのがきっかけでドゥカティの魅力にはまり、マイクヘイリーウッドレプリカ(MHR)が欲しくなって来たのはこの頃からでした。欲しいMHRは、中古車しかなくて状態の良い車両は値段も高い。夢は、やはり夢と思って諦めていた頃、嫁さんと知り合い付き合う様になり、できちゃった結婚に。我武者羅に働いてバイクも売却、子供が生まれて親父になって何だか不思議な感じでした。バイクはもういいかって思っていた頃、悪魔の囁きが(笑)知人がCB750FCを買わないかって、眠っていたバイク欲しい病が・・・買ってしまいました。嫁には250だからと言って説得しましたが、後でばれてもう大変!
それから1年、行きつけの喫茶店のマスターが「ジュンペイ、俺のMHR買わんか」の一言に憧れのMHRが手に入る?嫁にバレルとどうなる?CB750より排気量は大きい!幸いMHRの車体には排気量を示すステッカーは無く車両自体はCBより小振り?何とか説き伏せて購入。購入後に分かった事ですが、状態は非常に悪く私の手元に来て暫くしてエンジンの腰上オーバーホール等で手痛い出費が掛かりました。所有しているうちに自分好みにカスタマイズする事で手放せなくなってしまい早34年、これからも私が元気なうちは乗ってやろうと思っています。
ご清聴ありがとうございました。
Posted at 2020/05/03 23:40:02 | |
トラックバック(0) | 日記