
久々の廃隧道ブログです。
そして初の京都府南部ネタでもあります。
今回記事の「
奥山田第三隧道」・「
奥山田第二隧道」は京都府綴喜郡宇治田原町の国道307号線脇にある明治時代竣工の廃隧道です。
そしてそのネーミングから判ります通り、「
奥山田第一隧道」と呼ばれる廃隧道もあり、これら3箇所の隧道はまとめて「
奥山田隧道群」と呼ばれています。
なお、第一隧道は到達・通り抜け共に困難。第二隧道は第三隧道経由ならば東側坑口のみ到達可能。第三隧道は到達・通り抜け共に容易・・・となっています。
近畿圏の廃隧道ではかなりメジャーな物件で、ネット上にはその訪問記や画像が多数存在します。
↑国道307号線の「
大福隧道」(1967(昭和42)年竣工)。
この脇(画像左側)に「
奥山田第一隧道」が眠っております。ちなみに全体的にコンクリート補修が施され、両側の坑門付近は激藪にガードされ、内部は水没しているという状況だそうです。
なので今回はスルーです。
↑同じく国道307号線の「
奥山田隧道」(1961(昭和36)年竣工)。
大型車同士のすれ違いが困難である事と、隧道の東にある奥山田の集落内に狭隘区間が存在する為、現道の南側に新トンネルを含むバイパスが建設中です。
この「奥山田隧道」の北側に目指す「奥山田第二・第三隧道」が存在します。
↑今回はアクセス容易な第三隧道よりアプローチ、可能であれば第二隧道まで行ってみる事にします。
国道307号線の奥山田隧道の東に「
奥山田新道」と呼ばれる旧道への分岐があり、旧道に入ってすぐの所に第三隧道があります。
国道から隧道の姿がチラッと見える為、ドライブやツーリングの途中でフラっと吸い寄せられるように訪れる人も多いとか。
ちなみに画像左側の小屋は奥山田地区の炭焼き小屋で、小屋の前辺りまで舗装されています。
↑旧道から見た現道の「奥山田隧道」。
前述のバイパスが開通すれば、ここは明治・昭和・平成の三世代の隧道・トンネルが存在する所になります。バイパス開通後のこの昭和隧道の処遇については不明ですが・・・。
↑鬱蒼とした切り通しの奥に佇む奥山田第三隧道。
この道「
奥山田新道」は明治末期に地元有志の出資により建設された、宇治田原と奥山田地区を結ぶ道路です。それまでは奥山田地区に至るまともな道路がなく、正に「陸の孤島」状態でした。
特記すべきは資金面でお上に頼ることなく自力で整備したインフラであるという点で、開通後は奥山田地区と外部との往来・交流が活発になったのは書くまでもないでしょう。
その後奥山田新道は改良・ルート変更を重ねつつ京都府の府道を経て国道307号線となりますが、この第三隧道を含む旧隧道群は国道指定前に廃隧道化しています。
↑「異世界への入口」という感じの「
奥山田第三隧道」南側(奥山田側)坑門。
古風な煉瓦積みのポータルで「
いかにも」な雰囲気満点。しかも雨が上がった直後で坑口からは白い靄を吐き出していました。
↑この奥山田第三隧道は1912(明治45)年竣工、延長96m・高さ4.5m・幅員3.8mというスペック。そして土木学会選近代土木遺産Bランクの物件でもあります。
ちなみに第一隧道・第二隧道も煉瓦積みのポータルでしたが、後年の改修や崩落により、原形を保っているのはこの第三隧道の奥山田側のみとなっています。
↑各部に装飾が施され、一見凝った造りのポータルですが、迫石(アーチ)部は煉瓦二層積みとやや貧弱な感じがします。
↑画像では判りにくいですが扁額には右横書きにて「
幽谷窃然」と刻まれてあります。
直訳すると「山奥深くにある静かな谷のひっそりとした様子」・・・となります。
ちなみに扁額が掲げられているのは第一隧道の宇治田原側とこの第三隧道の奥山田側のみだそうです。
↑ポータルの左側に埋め込まれたプレート。
横浜からこの地に招かれ、奥山田隧道群の工事の指揮を執った青木市太郎の名が刻まれてあります。
↑右側には竣工年月を刻んだプレートが。
「明治四十五年 三月竣工」とあります。
↑振り返ると雨に濡れた奥山田新道が。
名は「新道」ですが、この区間が旧道落ちして結構な時間が経過しています。
それにしても雨上がりの旧道って風情があって良いものです。
↑いよいよ洞内へ。
坑口付近には先程の炭焼き小屋関連と思われる丸太等の資材が置いてありました。
坑口付近のみが煉瓦積みで洞内の大部分は素掘り区画です。
↑洞の中程にて。
靄が立ち込めています。路面は未舗装ですが泥濘はなく、意外に綺麗。
↑天井もなかなか綺麗です。
↑さらに進むと巨大な水溜りが。
長靴を履いてこなかったので、思いっきり壁際に寄って進みます。
↑北側坑口付近に到達、所謂「○○○○映え」な画像を撮ってみました。
洞外には先程の扁額の「幽谷窃然」という文言そのものの、実に幻想的な光景が広がっていました。
↑北側の坑門。こちらも煉瓦積みのポータルでしたが大部分が崩落し、何とも無残な姿です。
そしてここからも白い靄を吐き出していました。
↑第三隧道を抜けて100mの所にあるという第二隧道、周囲を見渡してみましたが、そこに至る道筋らしきものは見当たりませんでした。
第二隧道があると思しき方角にはちょっとした藪があり、その先に怪しげな物体が・・・。
藪を漕いでその物体に接近してみます。
↑第三隧道と第二隧道の間に存在し、諸先輩方の訪問記に必ず登場する廃車体です。
ひっくり返った状態で半ば土砂に埋もれていました。
↑こうした「草ヒロ」との邂逅が、廃道・旧道巡りの楽しみの一つと言えるでしょう。
廃車体の先に「奥山田第二隧道」と思しきコンクリートのポータルの姿がチラッと見えています。
↑フロント部分は土砂に埋没。
パックリと開いたリアゲートには木の枝や落ち葉等の堆積物が積もっています。
↑エンブレムがしっかりと残っています。
↑「土に還る」という表現がピッタリの光景。
この廃車体にもピカピカの新車だった時があり、その後どのような車生を送ってどのような経緯でこの地にて眠りに就いたのか、いろいろと思いを巡らせてみるのも楽しいものです。
↑廃車体の先に倒木があり、その先に「
奥山田第二隧道」の姿がありました。
隧道の手前は開けていてかなり意外な感じがしました。
↑「奥山田第二隧道」東側坑門。元は煉瓦積みのポータルだったそうですが、後年にコンクリートで補強されています。
↑生い茂るシダに囲まれて、洞内に廃タイヤを積まれてひっそりと眠る第二隧道。
第三隧道と同じく、土木学会選近代土木遺産Bランクだそうです。
・・・にしても、廃隧道とはいえ近代土木遺産の物件に対するこの仕打ち、ちょっと酷くないですか!?
↑洞道を埋め尽くすタイヤ、タイヤ、タイヤ、さらにタイヤ・・・
これが「たい焼き」の山だったらどんなに素晴らしい事だろうか・・・などとアフォな事を思ってしまいましたが(笑)、さすがにこのタイヤだらけの洞内に入る気にはなれず、第二隧道についてはこの東側の坑門を見るだけに止めておきました。
ちなみに第二隧道の西側は現在私有地になっていて、一般の立ち入りは不能です。西側には半壊しながらも立派な造りの煉瓦積み坑門があるそうですが・・・。
↑第二隧道前から見た第三隧道方面。ストレートの緩やかな下り坂で、突き当たりを右に曲がった所が第三隧道です。
廃道になってからかなりの年月が経過していますが、今も手入れされているのか、道筋はしっかりと残っていました。
↑もと来た道を通って第三隧道の北側に戻ってきました。
↑ポータルの上部は見事なまでに崩壊。隧道の構造がよく判る姿になってしまっています。
天井に残った煉瓦が今にも落ちてきそうです。
↑崩落を免れた翼壁。
↑装飾が施され、かなり凝った造りのポータルだった事が窺えます。
↑見るも無残な姿ではありますが、先程の廃車体と併せて
「廃」の美というものをひしひしと感じる事の出来る空間でした。
↑北側坑口から撮った洞内。
先程の巨大な水溜りがある以外は、特に泥濘んだ所もなく、概ね乾いた路面でした。
↑工事の鑿(のみ)の跡が残る素掘りの壁面。
↑「幽谷窃然」とした異世界から現実の世界に無事戻ってきました。
この先は国道307号線、この辺りまで来ると国道を行き交う車の走行音が聞こえてきます。
↑一仕事(?)終えて、峠を下った所にある奥山田会館前の自販機で缶コーヒーを購入、そして一服。
↑背後に見える高架は建設工事中の「奥山田バイパス」。
↑さて訪問の三日後の11月11日、動画を撮りに第三隧道を再訪、三日前とはまた異なる表情を見せてくれた奥山田第三隧道でした。
雨上がりの廃隧道もなかなかの風情でしたが、穏やかな木漏れ日を浴びる廃隧道もなかなか良い感じです。
↑第三隧道で撮った動画です(2017年11月11日撮影)。
国道307号線脇にひっそりと佇む「奥山田第三隧道」。
その姿はまるで「異世界」への入口のように感じられる、そんな物件でした。
※末筆ながら、もし訪問される場合は自己責任にてお願い致します。