
2018年 夏 母島旅行 2です。
母島に無事(?)に到着したのですが、実はこの旅行はもう一つ懸念することがありました。
それは、帰りの船が欠航しないかということでした。
いまは台風19号の影響を受けていますが、このあとすぐに台風20号がやってくるため、旅程は8月17日(東京発)~23日(東京着)の7日間なので、良く24日(金)からは会社に出社するつもりでした。
欠航したらどうするべ・・・。
・・・まぁ、どうしようも無いです(笑)
出航の可否はギリギリまで検討するでしょうし、気長に待つしかありませんね。
母島に上陸して3日目、義父の家で食事をしていたところ島内放送が流れました。
内容は以下のとおりでした。
・8月21日の”おが丸(東京発)”は欠航だよ(台風20号の影響)
・当然8月22日の”おが丸(父島発)”は欠航だよ(おが丸は一隻しかありません)
・ということなので、8月26日に”おが丸(父島発)の臨時便を出すよ。
・”はは丸(母島発)”も臨時便をだすよ。
・21日便のチケットを持っている人は、臨時便に乗れるから安心してね!
とうことでした。
まじかー!!
”おが丸”が東京を出港する直前まで検討すると思っていたら、こんなに早く欠航を決定するとは。
前回と打って変わって、潔すぎです(笑)。
まぁ、台風のすることなので、離島に来る時点で負わねばならないリスクですし、会社に状況を説明して休みが長くなると伝えることにしました。
私 :「すみません、帰りの船が台風で欠航になってしまい、帰るのが予定より4日遅くなってしまいました。」
上司:「えー、そうなんだ。宿は大丈夫なの?」 ←電話口で周りが爆笑している
私 :「宿代が凄い金額になってしまうので、義父の家にお世話になる予定です。」
上司:「了解しましたー。まぁ、ゆっくりしてきなよー。」 ←引き続き爆笑している
私 :「・・・てか、なんで爆笑してんですか?」
上司:「だって面白いじゃん!(笑)」
おこ(怒)だよ、俺はオコだよ!!
というわけで、
7日間旅行から11日間旅行に変更になりました(爆)。
ちなみに、全く同じ時期に沖縄旅行中だった上司がいたのですが、こちらは予定通り帰れそうとのことでした。
・・・そっちも欠航してしまえ(飛行機)。
こんな状況ですので、いつものブログのように日付ごとに書いていると枚数が二けたいってしまい心が折れるので、今回はテーマごとにギュッと絞って書くことにしました。
とうか、もう2年経ちそうなので、なんとかこのブログを終わらせたい。。。というのが本音です。
〇母島の戦跡巡り
まず、今回旅行の主目的である戦跡巡りについて書きます。
母島の戦跡巡りはやり方があります。
先に”父島”の話をしますと、専門のガイドに案内してもらわねばならず、山に勝手に立ち入ってはいけません。
これは、生態系の維持・環境保全のための措置であり、必ず守る必要があります。
母島も方針は変わりないのですが、ガイドをつけなくてよく、好きに見て回っても良いことになっています。
ですが、私は今回の戦跡巡りではきちんとしたガイドに案内してもらいました。
この経験から思ったのですが、母島で戦跡巡りや自然に立ち入る際もガイドにお願いした方が良いと思いました。
というのも、一人じゃわからないルールが沢山あるのです。
母島も生態系の保存に取り組んでおり、自然に立ち入る際は靴底を消毒する必要があり、勝手に散策すると知らないうちにルールを破ってしまいます。
このため、ガイドと一緒に散策すればこのようなことが無いため、
ガイドにお願いすることを強くお勧めします。
さて、戦跡を巡った感想を徒然なるままに。。。
ネットで調べると母島の戦闘状況について色々書かれているのですが、正直どれが本当か分かりません。
激戦と書かれていたり、大きな戦闘はなかったと書かれていたり様々です。
ですので、私はガイドから受けた説明を信じることにします。
母島は大きな戦闘はなかったとのことですが、飢えにより多くの兵士が亡くなったようです。
これは現在の母島の食糧事情からも簡単に推測できます。
戦跡は至る所にあり、全部を回ろうとすると車で移動する必要があります。
整備された遊歩道沿いにあったり、道路のわきに残置されていたり、もしかしたらいまだに発見されていない戦跡もあるかもしれません。
今回は写真多めです。
〇砲台
島内の数か所で見ることができます。
遊歩道を少し歩くとみられるのですが、第一印象は「ジブリの世界」でした。
全体がさびていて、ところどころ破損していて、地面にも部品であろう物が散見されて、不思議な景色でした。
ですが、これは兵器なんですよね。
領土と家族、自分を守るために相手のそれを破壊する兵器です。
そう考えると、非常に恐ろしいものだということを再認識させられます。
素人の私の考えですが、これで船に砲弾を当てるのって相当難しい気がします。
過去の軍人さんが同じことを考えたか分かりませんが、一発外せば場所がばれて複数の砲弾が反撃してくるのです。
その緊張感はすさまじいものだったと思いますし、一発に込める覚悟もすごかったのではないでしょうか。
〇トーチカ
これも各所で見ることができます。
暗くて長いトンネル(?)を進んだ先に割と広い空間があり、朽ちた大砲が横たわっていました。
鉄筋コンクリート造の天井が各所で剥がれ落ちていて、経年劣化が非常に激しかったです。
私が見る限りは非常に危険な状態ですので(崩れ落ちませんが、落下したコンクリート片で大けがします)、近い将来立ち入り禁止になる気がしました。
トーチカは外側から容易に発見できるので、待機していた軍人さんの緊張感は砲台のそれより大きかったかもしれません。
トーチカの開口に力尽きたように砲筒を乗せた大砲をみていると、いつそうなったか分かりませんが、戦時から長い時間経過したというか、力尽きたというか・・・役目が終わったように見えました。
〇弾薬庫
島内に入り込んだ遊歩道沿いにありますが、小さな島ですのでどこでも潮風が吹いているためか、鋼鉄製の壁は完全に朽ちていました。
奥行きもそれほどなく、小規模の割には分厚い壁で仕切られており、万一爆発した際にも隣に誘爆しないようにしているのでしょう。
おそらく、扉は吹っ飛ぶと思いますが。。。
〇こちらも弾薬庫
中に入ると、当時使用していたと思われるものが残置されていました。
〇探照灯
防空壕の中にありまして、非常に大きい探照灯でした。
移動させるための電気軌道車(?)らしきものも一緒にありました。
こちらも林の中にあったため、この場所から海を照射できたのか不明です。
ガイドさんに案内されて色々な場所を見ましたが、
生々しく残っている戦跡をみて色々なことを考えてしまいました。
まずは、本州からこんなに離れた島にも日本の軍人さんがいたということです。
歴史の授業でシンガポールやガダルカナル島などの遠方に日本が進軍したと習いましたが、正直全然ピンと来なかったんです。
ですが、東京から船で26時間南下した母島で実際に戦跡を見て、一気に過去の戦争のリアリティが増しました。
一般の日本国民は母島より南下できませんが、この先には硫黄島があります。
硫黄島の玉砕も、ようやく自分の中で”実際に起きたことだった”と、42歳の今頃衝撃を受けました。
いや、もちろん真実なのですが、地球が青いことに感動できるのは宇宙飛行士だけじゃないかと、私も今回はそっち側の立場に立てたから衝撃を受けたんじゃないかと、そう思うのです。
私の勝手な考えですが、今の日本人はこういう歴史というか、自分の祖先が過去にどのような世界を生きて、どのような境遇だったのかをもっと知ったほうが良いと思うんです。
それは、歴史授業のような〇〇〇〇年に何があったとかではなく、
要するに二度とやってはならないことなどを歴史から学ぶべきだと思うのです。
最近は、簡単に「国交断絶」や「戦争しても負けない」など口にする人がいますが、意味わかってますか、と。
これを口にする9割の人が戦地に赴く一兵卒で、命令があれば生身を危険にさらして戦う立場なんですよ、と。
自衛隊が戦ってくれるなんて妄想で、人口が少ない小さな島国が、その逆の国と戦うとはそういうことですよ。
どうも、今時のコメントやらを見ていると、自分のことはおいといて、という意見が多すぎて不安になります。
戦時はモラルなんてありません、そういうことも過去や紛争国を見れば学べるはずです。
歴史は繰り返されると言いますが、最近の日本を見ていると確かに繰り返されてきたな、と深刻に感じるのです。
さて、これで母島の戦跡巡りは終了しました。
見終わって思ったことは、見てよかった、ということです。
母島に行くことを相当渋っておりましたが、
この戦跡を見られただけでも、この旅行に来た価値がありました。
次回も続く、、、
まる。