◆2024/8/31 コメント書き加えました。
もともと父のクルマで1988(昭和63)年6月10日私の中学校3年の誕生日に納車されました。
R31スカイライン4ドアとラングレーとどっちにするかかなり悩んでた記憶が残ってます。たぶん私が将来運転する事で小さめのラングレーにしたのだと思います。
高校卒業後免許取得の約4000キロ時点で譲ってもらいました。
まず「オートバックス」の処分品レーダー探知機が投げ売り数千円で売ってたので買いました。この探知機は自動ドアに反応したり自動車電話みたいな無線を拾い使えなかった。
マフラーを買うお金が無かったのでマフラーカッターを何本か買い直しながら、その中でも長く使ったのは音色が低いビビリ音に変わる黒いマフラーカッターがお気に入りでした。今も売っていたら欲しいです。
最後の数ヶ月はφ100のアルミ製のを着けました。これは出口の削り仕上げがとても綺麗でした。内側をプラモ用艶消しブラックで塗り、また純正マフラー出口が後ろから見えにくい様に、純正を金鋸でかなり切り落とし艶消しブラックで塗りいかにもマフラー替えました風になりました。もちろん音は純正音。
エアクリーナーを純正交換型の黄色い湿式スポンジ(ウォッシャブル)に替えボックスを何かで噛ませて半開きにして意味の無さそうな事をしてました。
ステアリングはウレタン製だったので安売り革カバー編み込んでしばらく乗っていたのですが後付け感が気に入らずたまたま立ち寄った「ラビット」(今は無い)という大田区大森中一丁目にあったカー用品店でMOMOのSportが売ってたので購入、即装着しました。なかなかセンターが合わず何回も付け直しました。(数年前、誰かに使ってほしいと家の前に置いてたら誰か持って行きました。きっと第2の人生を送っている事でしょう)
シフトレバーもウレタンだったので折り畳み傘の柄をねじ込んで使ってましたがステアリングと合わないので革製品のにしました。シフトパターンもLED だか豆電球で光るのにしました。
窓はアルミ蒸着銅メタリックフィルムを貼りました。
CA16DEはオルタネータを支えてるボルトの強度が弱いのか何度交換しても折れてしまいました。
ベルトぶらぶらのまま箱根からキーキー音をさせながら帰還したり、左リアのパワーウィンドーレギュレターも2回壊れました。
首都高でラジエーターホースが破けオーバーヒート気味惰力のみで奇跡的に西神田出口で止まり近くに居た工事現場の人に安全な所まで押してもらい、JAFに都心(九段?)の日産にロープで引っ張ってもらった事もありました。この西神田出口は今でも仕事で降りる度に当時を思い出します。
初心者の時に半クラッチを多用したせいか1996年秋ごろ40000キロ位で滑り出し交換してます。
大田区山王にあった「ダイシン」(現ドンキホーテ)でアルミ板買ってきて金切りハサミで切って+ドライバーでゴリゴリ穴あけて(ドリル持ってなかった)ボルトとステーで繋げ色塗って切り口はドアモールで縁取りしフロントスポイラー作ったのが良い思い出です。
1995-6年はこういった故障や部品の寿命での交換(近所の日産プリンスで入退院の繰り返し)や無駄遣いのカー用品、写真にはありませんが念願のアルミホイール(安売り)でかなりお金が飛んで、周りから「買い換えれば」とよく言われてました。
1997年1月いつもお世話になってた日産プリンスの初売りで180SXを契約して納期待ちのわずかの間に汐留~首都高浜崎橋JCTの間で追突され手放すまで最終的に46000キロ走り燃費はだいたい7~8km/lでした。
今まで乗ってたクルマの中で何故か一番雪道に強かったです。夏タイヤで雪のR139松姫峠(大月~小菅 冬期入っちゃった)越えもへっちゃらでした。
もし今も所有していたらPULSAR VECTOR風していたかもしれません。当時【みんカラ】のようなものがあれば、ラングレーもバンパーの歪み(18歳の時某所に突っ込んだ)なんか自分で直して、もう少し長く乗っていたかもしれません。
ドライバーの職業をしてますがこのクルマがあったからこそ今があるのかなと思っております。運転の楽しさを教えてくれたクルマでした。
❰2024/8/31❱
押入れ整理していたら奥多摩ステッカーが出てきたので右端に写真載せます。ダム脇の売店で何枚か購入し180SXとスカイラインにも貼ってました。何故か未使用のまま残ってましたがインターネットで同じのを探してもヒットしませんでした。ステッカーは透明で字が黒で黄色く見えるのは台紙です。
スペーシアギアに貼ってみようか?