2015/12/18閉鎖される鉄道模型のサイト 'Train^2' から移植した記事です.
----------------------------------------------------------------
最近, 鉄道や模型とは関係ないところで《ざわついている》印象がどうにも拭えない Train^2 ですが, いろんな騒ぎをまるっきり無視して, ひたすらスチームパンク的モノレール史を書いてきた空気読めないシリーズも, ついに最終回. いよいよモノレールが都市交通としての姿を現します. 前回ちょっと脇道に逸れてしまいましたので, 時計の針をいったん19世紀に戻しましょう.
パーマーが世界初のモノレールをドイツに売り込もうとしていたとき, 最も導入に熱心だったのはヴッパー河に沿った谷間の町々でした. ここは19世紀ドイツにおける商工業の目覚ましい発展を象徴するような土地でした. 急俊な丘の間を河が蛇行する渓谷に, 連なり傍立つ7つの町がそれぞれに繊維, 冶金, 化学合成, 商業などの得意分野で繁栄を競い合っていました. 化学薬品大手バイエル創業の地であり, また思想家フリードリヒ・エンゲルスや哲学者ルドルフ・カルナップの故郷でもあることは, ここがドイツの資本主義と, その富を元手に知識と教養で世界を拓いていった近代ドイツ人の揺籃だった事実を物語っています. パーマーのモノレールに着目したのもそうした進取の気質の現れだったのでしょう. この計画は実現せずに終わりますが, その後の70年で谷には通常型の鉄道が2本と路面電車が導入され, 増え続けるひとと貨物を捌いていました. 1890年代にいたって, なお旺盛な輸送需要は, 細長い谷間の内部を高速で結ぶ新しい交通機関を必要としていました. しかし産業の発達ですでに7つの町の市街地が1つになってしまうほど過密化した谷間に, 新たな鉄道用地は残っていませんでした. そこで市民たちはヴッパー河の上に高架鉄道を通すことを考え, その規格として国内で開発されて間もない懸垂式モノレールを選んだのです.
前々回で述べたように, 1894年にケルンとエルスドルフで方式の違う2つの懸垂式モノレールが試作されていました. このうちファン・デア・ツィーペン&チャリアー社のものは, 断面の四角い軌道桁の内部に2本のレールを狭軌で敷き, この上を走る台車から軌道桁底面中央つまり2本のレールの間に空いたスリットを通して車体を吊るもので, 後の SAFEGE (サフェージュ)式を先取りする先進的な規格でした. これに対しランゲン式は, I字型の軌道桁に載った1本の走行レールを, 両側にフランジを付けた車輪で走るもので, 台車から軌道桁を避けるために湾曲した腕で車体を吊っていました. そして採用されたのはシンプルなランゲン式のほうでした. 理由はさまざまに考えられますが, 軌道桁の内部に駆動部を収納してしまう方式が19世紀末の時点では整備に不安を感じさせたのではないでしょうか. ファン・デア・ツィーペン&チャリアー社でもそれを意識したのか, モーターは軌道桁に納めず, 外部からスリットを通したシャフトで駆動するようになっており, そのことがいっそう機構を複雑にしていました. ちなみにランゲンは直前までファン・デア・ツィーペン&チャリアー社のエンジニアであり, 共同経営者にも名前を連ねていた人物なので, おそらくはモノレールの方式を巡って袂を分かったのでしょう.
この《空中鉄道 Schwebebahn》は1896年(明治29年)にライン県庁(現在のノルトライン=ヴェストファーレン州政府)の認可を得て, 2年後の1898年(同31年)に着工しました. 1900年(明治33年)10月24日にはドイツ皇帝ヴィルヘルムII世を迎えて公開試験走行が行われています. そして1901年(明治35年)3月1日, クルゼ/劇場駅と動物園/競技場駅の間4.5 km で開業したのです. 同年5月にはフォーヴィンケルまで3 km 延伸, 6月にはさらにオーバーバルメンまで5.8 km 延伸しました. 14 km 弱の営業距離は1970年(昭和45年)に開業した湘南モノレールより長く, 1999年(平成11年)に千葉都市モノレールが全線開通するまで世界最長の懸垂モノレール路線でした. 線路は486本の橋脚と吊り橋に支えられています. 電車は初め単行でしたが1918年(大正9年)からは2両編成の新型に以降, さらに1972年(昭和47年)からは3車体連接の現行型車両に置き換えられています. 電化方式は開業以来現在まで直流600 V です. 1928年(昭和3年)にバルメン, エルバーフェルト, フォーヴィンケル, ロンスドルフ, クローネンベルク, ランガーフェルトとベイエンブルクの7市は合併してバルメン=エルバーフェルト市となり, 2年後には市名をヴッパータールと改めました. ここにモノレールは名実共に市内交通になったのです. エリマノフやパーマーの時代から1世紀が経過していました.
2001年(平成13年)3月1日, ヴッパータール空中鉄道は開業100周年を迎えました. しかしその2年前, 1999年(平成11年)4月12日に走行中の電車がヴッパー河に転落, 死者5名重軽傷者49名という開業以来の惨事が起きていました. この事故は保線員がレール上に工具を置き忘れるというヒューマン・エラーによるものでしたが, 開業から100年を経た軌道のメインテナンスにも様々な困難が生じています. ランゲン式の I 字軌道桁は捩りに脆弱で, ヴッパータールでは複線の内側を梁で結合して上下線を一体のラダーフレームに成型し, 強度を稼いでいます. この構造体は完全な剛体とは言い難く, 電車が通過すると捩れたり撓んだりしながら荷重を分散する極めてデリケートなものです. 昨年12月15日にも複数の橋脚に亀裂が見つかり, 今年の4月19日まで長期間の運休を余儀なくされました. この生きた産業遺産を次代に伝えるために, メインテナンス体制の強化が求められています.
モノレールが今日の隆盛を迎えるには, ヴッパータールからさらに半世紀以上を経て, 跨座式の ALWEG と懸垂式の SAFEGE という2つの標準が確立されるのを待たなければなりませんでした. それでも, ヴッパータールでの成功によって, それまで産業用の軽便鉄道か遊園地の乗り物だと思われていたモノレールに, 都市の交通機関という新しい在り方が示されたのは間違いないのです.
おわり.
参考文献/図版出展: 佐藤信之「モノレールと新交通システム」グランプリ出版 2004年
画像はヴッパータール空中鉄道の開通時のようす(1901年).
5回ものシリーズをお読み頂き, ありがとうございました.