
オーディオを降ろすには, バッテリーの接続をいったん外さなければいけません. そうするとマリのドライヴ・コンピューターはリセットされて, あの素晴らしい長崎旅行や1月に名古屋へ行った記録が消え去ってしまうでしょう. 1990年代の初頭に作られたマリには, フラッシュメモリーは積まれていないから. もちろん, これまでもマリのバッテリーは何度か交換してきたし, それ以外にも部品の付け外しのために結線を外したことはあります. 映画 "2001年宇宙の旅" の HAL じゃないので, マリが僕との旅路を "記憶" しているわけではありません. でも彼女の "記録" をリセットすることにはどうしても抵抗があって, 僕は街を一周ドライヴしてきたあと, しばらく逡巡してからようやくバッテリーを外しました.
Memorial audio version PROBE の銘板も麗々しいトノーボードに固定された BOSE のスピーカーは手強いように思われたけれど, 裏側から止めていた2本のウィングナットを緩めたら呆気なく外れました. スイッチング・ボックスはネジ止めだったけれど同じくらい簡単でした. アンプに至っては滑り止めにマジックテープが貼ってあるだけで, 配線を解いて束ね直すほうがよほど大変でした. これに比べると, ヘッドユニットのほうは予想したより遙かに大変でした. Haynes のマニュアルを見ながらネジを1本ずつ探し出しては外して, でも巧く引き出せません. どうなってんだこれ?と格闘すること小1時間, "locking tab" の何たるかを理解するまでに陽は傾いて, 雨が降り出していました.
ステアリング・ホイールは諦めざるを得ません. マニュアルに従ってホーン・ボタンまでは外してみたけれど, このステアリング・ボスは手に負えそうにありません. 中古部品屋に電話して聞いたら, 安いステアリングは幾らでもあるけれど, プローブのような稀少車には合うボスがないだろうとのこと. 自分で換えるより解体屋に頼んで取っておいてもらったほうが簡単とのことでした.
すべての作業を終えると日没でした. これから大学の事務へ書類を取りにいかないといけません. 電話したら夜の10時まで開いているとのこと. 今日は金曜日. マリのためにせっかくお休みを取ったので, 最後に大学まで運転していこうと思いました. これから出かけると言ったら家族は驚いて, 夕食を採ってから行きなさいと言われました. たしかに僕はオーディオと格闘してヘトヘトに疲れていました. そこで夕食を採ってから出かけることにしました.
秦野・中井のインターから東名に乗りましたが, 何だか様子がヘンです. たいした雨でもないのに走行注意とか, 東京終点までの所要時間を示す電光板が4時間と出ていたりします. これは事故渋滞かなと思ったら, 案の定, 伊勢原市に入った辺りで止まってしまいました. しかも3車線がぜんぶ, ピクリとも動かない. こりゃダメだ. 21時を回る頃には, 僕はもうなんだか悟ったような気分になっていました. 書類は来週, 取りに行けばいいのです. 明日は雨になりそうで, マリを引き渡す前に県内のあちこちをドライヴする計画は実現できそうにありません. それなら雨が酷くなる前に今夜, ガソリンの続く限り走り回っていよう. 車列が流れはじめるまで, 僕はエンジンも切ってしまいました. 大学に電話を掛けて, 担当の Y さんに今日は行けなくなったと伝えました.
結局, 動きはじめるまで小1時間も掛かりました. マリと東名をよく行き来したのは横浜青葉 IC ができる前のことで, そのころ東名はよく渋滞しましたが, これほど酷いのに出会った記憶はありません. マリで経験できることはすべて経験しておけるように, 天の配剤がなされているような, 不思議な思いがしました.
厚木を過ぎると順調でした. 用賀で一般道に降りて, 大学に着いたのは22時半頃. 事務室はもう閉まっていて, 声のとても可愛らしい Y さんには会えませんでしたが, 研究室にはまだ学生がいました. 教授にも会えました. 廃車にするので, 最後に乗ってきましたと言うと, みんなマリのことを惜しんでくれました. 23時過ぎに, 同じ方角へ帰る学部の4年生を乗せて帰途に就きました. 東名を厚木まで. 途中で海老名の SA に寄って姪のために車のおもちゃを買いました. マリで出かけて買うガラクタもこれが最後です.
伊勢原で学生を降ろして家に帰ろうと思いました. でもガソリンがまだ 300 km 分も余っていました. 明日, 最後のドライヴをしようと思って, 現金は多めに用意してあります. ほんとうに最後のドライヴをしよう. そう思いました. もうオーディオも付いていない Maria de Buenos Aires で. 御殿場へ行こうと西にハンドルを切ってから, 考えが変わりました. やっぱり多磨へ. 国道129号線を八王子へ. そこから甲州街道を上って, 再び懐かしい三鷹の街へ. 6月17日に久しぶりで行ったばかりだけれど, マリと最後に行くところはここしかないと思いました. 14年前, クルマを買ったとき最初に行きたかった場所. 学部を卒業して2年目, 母校の回りにはまだ多くの友だちが残っていました. でもそれも2, 3年のことでした. 大学院を修了したり, 遠くに転勤になったりして, この地に訪ねるべき友はいなくなりました. それでも, マリとの原点に還るドライヴは, やはりここを目指すものでしかあり得ませんでした.
東八道路の "Gusto" に入って軽い食事をしてから, 夜明け前の街を1周しました. 昔, イグナイターが壊れてマリが突然停まってしまった, スーパー "サミット" から南下する道路. その屈辱の思い出が残る道を, 今日のマリはヴァルカン・エンジンの音も誇らしげに, 緩やかに加速しながら通り過ぎました.
マリと過ごした最後の夜. こうして朝まで走り回っていました.