鉄ちゃんのほぼ原点は、これだ! 1968年7月の時刻表(その2)
投稿日 : 2009年05月24日
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どもども
それでは本編の方に進めてみましょう。
最初は東海道線の昼間の下りです。
新幹線開業後、昼間の特急は消えてしまいましたが・・・どっこい!昼間の急行は健在です。
101M、急行「第一なにわ」これは153系ですね。
熱海までの停車駅は、品川、横浜、大船、小田原、湯河原、熱海です。
「なにわ」はもともと急行設定です。
これが「東海」だともっと停車しますけど・・・
急行「おくいず2号」も見えます。
伊豆方面向けの急行で、指定席の設定がないのがこの愛称でした。指定席があるのは「伊豆」「あまぎ」の名称です。
そして・・・長崎・佐世保行きの「雲仙・西海」。31列車です。
この後も長きにわたって東海道を闊歩した伝統ある客車急行です。けん引するのは勿論EF58。ご覧になると分かりますが、1等車の指定席(座席マークに1とあれば、そういう意味です)に食堂車、そして2等寝台(ベッドマークの向かって右側に2とあれば、そういう意味です)もついているという・・・模型マニアが喜ぶ編成です。
なお、普通列車の列車番号のうち、「3」から始まるのは沼津以遠に行く列車を指しています。
この写真の中では豊橋行き331M、富士行き333Mなどがそれです。
このパターンはその後も長く踏襲されていましたが、今では沼津行きの列車を示す列車番号になっています。
なにしろ熱海から西は会社が違う今日この頃です。
沼津行きも下りで10本もありません・・・・・。
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夕方の東海道線東京口の下り列車です。
今や新幹線ホームと化した15番線から特急「富士」が下って行きます。
その後も列車番号2桁の伝統急行たちが続々と下っていく様子がうかがえます。
東海道線東京口の急行牽引にEF58が忙しかった時代です。
当然のことながら1両たりとも廃車にはなっておらず、全機健在で活躍していた・・・そんな頃です。
当然ですがHゴムなんてのはほんの少数派・・・。
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次に、東海道・山陽線の米原~岩国間のうち、米原~西明石間の朝の下り列車を見てみましょう。
まず101列車で急行「明星」が下ってきました。
のちに「銀河1号」→「銀河」となる列車です。
ベッドマークの左側に「AB」とありますが、これは1等寝台のA室・B室があるという意味。
このうち「AB」の標記を1車両で持つのは「ナロネ22」と「マロネ40」の2形式にしかないものです。
「A」とは2人用の個室を意味していますし、「B」とは開放型(プルマン)の1等寝台を指しています。
この辺は説明すると長くなるので、ご希望でしたら時刻表の現物で説明しましょう。
京都・大阪発の下り列車には、気動車の姿も多く見られますね。
特急「いそかぜ」は、のちに「なは・日向」へと名を変えます。佐世保編成が西鹿児島編成になって「なは」、宮崎編成はそのままで「日向」・・・と思われるところですが、これは逆です。宮崎編成には食堂車が入っていましたので、これを西鹿児島編成としたのです。
特急「かもめ」では、西鹿児島編成を長崎編成に、長崎編成を佐世保編成に振り替えて、その後長い間山陽筋を往来したのでした。
大阪0850発の宇野行き特急「うずしお」は181系です。この図では見えないですが・・・クロ181の最後の牙城でした。当時「しおじ」編成はすでに「クロハ181」になっていましたから・・・。
ちなみに「うずしお」は全車指定席。
当時・・・座席型列車の特急では基本は「全車指定席」でした。
急行「いこま」にコーヒーカップの絵が見えますね。
これはビュッフェ車があるということです。サハシ153が元気だったことを意味しますね。
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ミッドナイトの大阪付近です。
すでに普通列車も運転終了の時刻に、東京からの九州ブルトレが続々と飛来します。
当然ですが全て・・・EF65P(時たまFが代走)と20系の組み合わせ。
関西の方なら「おんや?」と思われたかもしれませんが・・・駅の数がむちゃくちゃ少ないでしょ(笑)
僕が兵庫に移り住んだ頃はまだこの状態でした。
大阪を出た下り快速は、芦屋、三宮、元町、神戸、兵庫・・・と停まって行きます。それで用が足りた時代だったのでしょう・・・・・。
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なにしろ40年も昔のことです。
とっくの昔に「廃線」になった路線も当時は列車が往来していました。
「世知原線」・・・
廃線になって随分と経つものですね。
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東北本線の仙台~青森間の下り列車です。
特急はつかりはまだ常磐線経由で、キハ80系(81系列)の時代です。この直後の「ヨンサントオ」つまり、昭和43年10月の大改正で東北本線が全線電化されるときに、晴れて583系化され、同時に東北本線経由に改められるというワケです。
ということは・・・
盛岡~尻内(今の八戸)に存在する奥中山(十三本木)峠ではD51(あるいはC60/C61絡みの)の三重連が最後の活躍をしていた頃です。機関車は盛岡・一戸・尻内・青森の車両たち。
僕もかすかに覚えています。
寝台の券が取れずに座席急行で室蘭から出てくるときに三つの汽笛をこだまさせながら・・・D51が喘ぎ喘ぎ峠に挑むのを・・・・・。
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仙台口をもうひとつ・・・。昼間に仙台を通る列車は、上野発だと朝出発した列車です。
急行「第一みちのく」の姿がありますが、よく見てください・・・行き先が3つありますよね。
気動車急行ならではの芸当ともいえるもの。
弘前・宮古・鳴子行き・・・
今では面倒でやらないでしょうけどね~~~。
急行「いわて」にはビュッフェのマークが。サハシ451では「そば屋」が営業していた頃です。
客車列車の姿も見えます。
白河発青森行き、黒磯発尻内行きですね。
この表にはありませんが、上野発青森行きなんてのがあった時代です。
下り125列車は上野1112発で、青森には「ヨ」0748、下り129列車は上野2048発で青森「ヨ」1658着です。
そして下り421列車は上野2240発で福島から奥羽線経由となり、青森に「ヨ」2200着・・・運転時間23時間20分という列車です。
なお、常磐線経由では、下り227列車が上野2223発で青森に「ヨ」2026着でした。
当然ですが・・・盛岡以北はC60またはC61が本務機です。
ああ・・・乗りてえ!!
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第2部はこれが最後です。
そのまま北上すると・・・北海道です。
急行「ていね」の姿が見えますね。
この列車こそ、のちにニッポン列島を震撼させる、C62三重連へと進化する「ニセコ」の前身です。
このころの小樽築港のC62たちといえば・・・
C622、3、30、32の4両。15と16がやって来るのはまだ2年近く先の話です。
一方特急列車はというと・・・
今と違って函館から各地へ~~~という流れでした。
特急「おおぞら」は函館から釧路・旭川へと向かいます。
山線経由の「北海」の姿もありますね。
ということで第2部は終了~~~
第3部へと続きます。
第3部は列車編成表を中心にお送りしたいと思います。
ではでは~~~
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