「西播磨の山城へGO」
は下記プロジェクトの一環であります。
■西播磨山城復活プロジェクトとは
西播磨ツーリズム振興協議会が実施主体となり、利神城や白旗城をはじめとする、西播磨の山城や城下町の町並み等を整備・活用し、元気高齢者やインバウンド向けの山城歴史絵巻ツアーやモデルコースの開発、現存しない山城のAR(拡張現実)アプリの制作、眺望や登山道の整備、観光ガイドの養成などを展開するプロジェクトです。
このプロジェクトに感化されてか西播磨へは今年だけで今回で4回も訪問して下記の城を登城しております。
3/10 龍野城、龍野古城
6/1 篠の丸城、山崎城、波賀城
8/27 坂越浦城、茶臼山城
プロジェクトの一環として、今年3月より
西播磨の山城イレブン 御城印が発売されており、登城とは別に御城印入手も訪問の楽しみとなっております。
かなりの人気となっており、8/27訪問時にはすでに感状山城、尼子山城が
売り切れという事態になっておりました。
そこで事務局に今後の追加販売はないのかと問い合わせたところ、9月の後半には予定しているとのことでありました。
それがこれであります。
なかなか人生でもなんでもコンプリートすることが少ない(笑)私としてはすでに半分近く入手しているのでこれはチャンスであります。
ということで大変前置きがながくなりましたが
「西播磨の山城へGO」であります。
しかしながら、今回はまだ🏯山城登城には暑すぎて、また虫なども元気なので登城は後日ということで、下見がてら
御城印ゲットの旅ということでありますのでご容赦願います。
まずは最北端、
宍粟市から
長水城
【歴史】
南北朝期に赤松円心の三男則祐によって築かれ、その後、則祐の四男・広瀬師頼(広瀬氏の祖)が城を受けついだが、1441年の嘉吉の乱で落城している。その後、応仁の乱に乗じて赤松嫡流家が再興を果たした後に城主となった。
宇野氏は、則高、則清の2代までは重臣として赤松嫡流家を支えていたが、村頼、政頼の代になると、播磨に侵攻してきた尼子晴久と手を組むようになり赤松嫡流家と敵対するようになる。政頼は、支城・篠ノ丸城城主であった嫡男満景を粛正し弟の祐清を後継に据えている。戦国末期に至ると東の織田と西の毛利の間で翻弄され、1577年に毛利攻めのため秀吉が播磨に入ると一旦は織田に恭順の意を示したが、翌年の上月合戦で織田方の尼子勝久が救援なく見捨てられる様を見るや毛利に寝返り、織田に敵対することとなった。
天正8年(1580年)4月、聖山城に本陣を置いた羽柴秀吉は宇野方の拠点を次々と攻略して長水城に迫り、所々に砦を構えて包囲を固め一端英賀(姫路市)へ転戦した。同年5月、奮闘むなしく城を脱出した宇野政頼・祐清父子は美作方面へ逃れようとしたが、蜂須賀家政・荒木重堅・神子田正治らの軍勢に追いつかれ、千種大森で討ち死にしたとされる。
なお、江戸後期成立の『長水軍記』は、黒田官兵衛の調略で裏切った家臣の放火により長水城が落城したと伝えられている。その真相は不明であるが、宇野氏の滅亡によって播磨の反織田勢力は一掃され、当時の戦国時代は終焉することとなった。
その後、宍粟は神子田正治、次いで黒田官兵衛らの領地となり、元和元年(1615年)宍粟藩主となった池田輝澄が山﨑城を築城して近世城下町を整備し、長水城はその役割を終えることになった。
西播磨遊記より
御城印購入は
「伊沢の里」という旅館にて
下記登城地図にもあるようにここからも
登山口Aから登城できるのでありますが最も長い90分コース
6/1に訪問した時に下見した
登山口D、これが30分の最短ルートです。
しかし登山口駐車場(といっても道の行き止まり地点)までかなり狭い林道を登らなければなりません。
その時は途中で小木が倒れていたりで結構大変でした。
確か1kmとの看板があったと思います。
私はこのルートで登城したいと思います。
御城印ゲットです。
ちなみに左が従来版で
佐用町名産の皆田和紙を使用しています。
この皆田和紙が手作業で量産できないため今回のカラフル版は普通の和紙を使用したとのことです。
ちなみに通常版は400円、カラフル版は300円です。
迷いましたが
両方購入です。
とりあえず記念撮影📷
続いて
佐用町に入ります。
ここは初めてだったので見どころ満載です。
まずは今回の目玉。
国指定史跡利神城
秀吉勢の
山中鹿之助が攻め落として、のちに
池田輝政の支城のひとつ改修された総延長
700mの石垣が見どころです。
しかしながら現在は石垣が崩れやすくなっており改修中で
登山禁止です。
有料の地元ガイド同伴のみで登山可能ですが早く一般開放してほしいものです。
コンデジの限界
周辺は
宿場町ひらふくとなっており、遺構が数々残っています。
平福陣屋門
平福本陣跡
智頭急行鉄道 平福駅
タイミングよく列車が来ましたが・・・あわてて撮ったのでピンボケ😢
宿場町平福の川端風景
観光パンフには必ず掲載されている
映えスポット
映え映え
宮本武蔵 初決闘の場
他にもゆっくり見たいところもありましたが登城時の楽しみに取っておきます。
最後に利神城バックに📷
御城印もゲットです。
次は少し城から話が離れて、私の好きな人物のひとり、
陰陽師といえば・・・
安倍晴明塚
映画「陰陽師」(2001年)ではこの人が演じていました。
実際にはこんな顔? 意外と似てるかも?
そしてその対抗馬が800mほど離れたところに。
映画ではこの方が演じてました。
芦屋道満塚
そのすぐ近くに
乙大木谷の棚田
「日本の棚田100選」に認定されています。
ここが撮影ベストポジションではないでしょうが、稲刈りも済んでいるのでベストシーズンに再度トライです。
さて本題に戻って
上月城
出ました
黒田官兵衛
意外と近いが・・・
今日は暑いし先を急ぐので次回に。
御城印(だけ)はゲット
次はおなじみ
「ひょうごの城めぐり」(本岡勇一著)の中から
福原(佐用)城
主郭かな?
こんなところまでクルマで登るんじゃなかった💦
当然バックで降りる羽目に
続いても
「ひょうごの城めぐり」から
三日月藩 乃井野陣屋
「元禄10年(西暦1697)、津山藩森家の改易に伴って、その分家である森長俊が現在の佐用町三日月の地に移住。佐用町だけでなく宍粟・揖保郡の一部を含む1万5千石の藩主となりました。以後明治までの174年間、乃井野地区を城下に、政治・文化の中心地として栄えました。
整備された物見櫓は、三日月藩の乃井野陣屋で唯一現存する江戸時代の建築遺構で、現存する陣屋の物見櫓としては、全国的にも希少で大変貴重な建築遺構であると評価されています。」
佐用町HPより
裏側はこんなかんじで
陣屋表門
旧武家屋敷
演武場跡(三方里山公園)
「幕末のころ藩が兵士の訓練のために造った演武場といわれ、いまでも一部に当時の
石垣が残っています。」観光パンフレットより
これですね。
この後はランチでしたがその模様は別途☕カフェドラ🚘ブログにてアップします。
ということで盛りだくさんの
佐用町を後にして、あとは怒涛の
御城印ゲットだけの旅。
上郡町
国指定史跡白旗城
【歴史】
白旗城は、
標高440mの急峻な白旗山上に赤松円心(則村)が築いた山城です。建武3(1336)年、円心は後醍醐天皇と対立した足利尊氏に味方し、白旗山上に城を築き、そこで西国へ敗走する尊氏を追撃してきた新田義貞が率いる6万の軍勢を釘付けにします。義貞は、昼夜を問わず絶え間なく50日余り攻め続けましたが、要害堅固な白旗城を落とすことができず、勢力を盛り返した尊氏が湊川に上陸する旨の報を聞き、義貞は退却を余儀なくされた。この時の武功により、円心は播磨国の守護として室町幕府の重鎮となったのです。1441年の嘉吉の乱で赤松惣領家が滅びるまで、赤松氏の主要な城の一つとして固守されました。南北朝時代から戦国時代(14世紀〜16世紀)にかけて、戦乱の中で白旗城は何度も歴史の舞台に登場しますが、記録の上では一度も落城したことがない、
難攻不落の名城(落ちない城)です。平成8年には、感状山城跡(相生市矢野町)・置塩城跡(姫路市夢前町)とともに赤松氏城跡として
国指定史跡になっています。
西播磨遊記より
上郡観光協会と上郡ピュアランド山の里でバージョン違いのものをゲット
赤穂市
前回
売り切れの尼子山城と前回ゲット済みの
坂越浦城と茶臼山城のカラフル版もゲット
尼子山城
【歴史】
天文7年(1538年)、尼子氏の播磨侵攻により一時尼子氏の城となる。
再興を目指す赤松総領家の内紛に乗じて、天文21年(1552年)頃には山陰、山陽8カ国、約120万石の太守となった晴久が「城山城」を拠点に支配を拡大させ、尼子山城もそのひとつとして治めていた。
しかし、中国地方の争いが激化したため、数年の後には撤去を余儀なくされた。一時期尼子山城には晴久の命により義久が城代として入城していたとされる。
毛利軍の攻撃の際には既に尼子山城には居らず、この地で最期を迎えてはいないが山麓には義久公の墓石が残されている。
毛利と尼子の戦いには伝承が残っており、正面から攻めた毛利軍は天然の要塞とされる尼子山城を攻めきれず苦戦を強いられていたところ、一人の老婆に抜け道を教え導かれ、尼子軍を背後から不意打ちし城攻めを成功させたと言われています。
西播磨遊記より
相生市
国指定史跡感状山城
【歴史】
鎌倉時代(1192年~1336年)に瓜生左衛門尉(うりゅうさえもんのじょう)が築いたとする説と、建武3年(1336年)赤松円心(あかまつえんしん)の三男・赤松則祐(あかまつそくゆう)が築いたとする説があります。
建武年間(1334年~1336年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)の追討をしていた、後醍醐天皇方の建武政権軍、新田義貞(にったよしさだ)率いる軍勢を赤松円心の三男則祐が奮戦し、50余日にわたり足止めをした結果、足利尊氏の反撃の機会を与えることとなったことは歴史上有名です。この功績により、後に、室町幕府を開いた足利尊氏が、赤松則祐に感状(かんじょう)を与えたことから感状山(かんじょうさん)と呼ばれるようになったといわれています。
西播磨遊記より
太子町
楯岩城
【歴史】
楯岩城は、室町時代から戦国時代の頃の山城で、揖東郡(今の揖保郡(いぼぐん)の一部)と飾西郡(今の飾磨郡(しかまぐん)の一部)の境、眼下に山陽道を望む重要な地点にあります。
江戸時代の地誌『播磨鑑』によると、城主は赤松刑部少輔(弘(広)岡氏の祖)で、嫡子次郎泰秀が相続して、しばらくはここにいましたが、やがて加東郡に移りました。嘉吉のころに伊豆守貞村が移り住み、城山合戦(嘉吉元年、1441)に討手として加わり、武功をたてました。その嫡子彦五郎教貞、次に兵部少輔範行、次に左馬介元軌、そして次郎太郎左馬介元助まで五代続き、天正年中まで栄えて、幕下の諸家中が近燐に住んでいました。永正18年(1521)の播磨国守護・赤松義村と守護代・浦上村宗の争いでは、緊迫した様子が『鵤庄引付』に記されています。そして、羽柴秀吉が播磨国を治めるようになって廃城になりました。また、城主の日頃の館は上太田に、そして、幕下の竹川主殿介が山田、鎌田源次左衛門久種が黒岡、姿見十郎太夫清行が下村、泥田左膳元近が西山に構居を作って住み、城を守っていたようです。
とはいえ、『播磨鑑』は楯岩城が機能していた200年以上後に書かれたもので、お城のあったその時代に書かれた資料はないか、となると、『鵤庄引付』の永正18年(1521)1月から2月の記事(播磨国守護・赤松義村と守護代・浦上村宗の対立と広岡殿の動き)、天文10年(1541)3月に鵤荘政所)の快栄が法隆寺に送った年貢未払い者のリスト(前年、尼子詮久配下として年貢を納められなかった)の2つくらいしかありません。
龍野城主・赤松政秀と姫路城主・黒田官兵衛が永禄12年(1569)に戦った青山の合戦では、この楯岩城の位置が大変重要であったと伝えられていますが、記録が残されていないことが残念です。
西播磨遊記より
たつの市
城山城カラフル版をゲットすべく道の駅しんぐうへ向かうと・・・
棚卸のために16時で
閉店だと・・・
これで今回のカラフル版コンプリートの夢がたたれたのと、日没が迫ってきたので
龍野古城のカラフル版も諦め帰途に🚘
しかし一応
プレゼントキャンペーン対象としては以前に購入したものも含めて
コンプリートできました。
キャンペーン応募のもう一つの条件
御城印以外に販売店舗で2,000円以上の商品購入がありますので
御城印帳を購入です。
「山城イレブン制覇記念」コンプリート版御城印が楽しみです!
これにて
西播磨の山城へGO 御城印ゲットの旅、了!