いっつも気ィになってましたよってに、この際きっちり調べてはっきりさせときますわ。(番頭さん→ごりょんさん ご報告モード)
縄文海進以来の地形変化をわかっている必要がある。
縄文海進で河内湾があったが、偏西風で上町台地(北端がいまの大阪城)に沿って北上する海流があったのと、河内湾に注ぐ旧大和川や淀川が運ぶ土砂の堆積で、上町台地からさらに天満・長柄砂州が北に伸びて湾は閉鎖されて河内湖となり、その後も土砂の流入は続く。しかし河内は低湿地だった。
江戸時代に河内をもっと乾かそかぁゆうて
大和川が大阪平野に入ったところからまっすぐ大阪湾に流す付け替え工事。奈良盆地から大阪平野に出てくる大軍を迎撃するならここ。
後藤又兵衛が戦死したのもこの近く。
摂河国境はほぼ付け替え前の旧大和川の自然堤防=氾濫原の西端。
河内は低湿地だったが、摂津はそれよりは水害は少なかった。
南から、堺の
方違神社(大阪湾を見下ろす丘)- r12の北200mほどを並走する長尾街道 -
天美我堂西端 -
天美西を逆袈裟に断ち斬って -
阿麻美許曾神社の東を回って - 現大和川を渡って -
公園南矢田西端 - R479東へ - r186北へ - 平野川(旧大和川の西端流路)西岸(
杭全神社は摂津)- r159(放出街道 さらに古くは剱畷)北へ - 放出の
阿遅速雄神社の門前 - 守口市駅の南をかすめて - 淀川
難読地名が多いのは、古代の地理や経緯で決まった境界だからかな?
天美と矢田は河内だが、阿麻美許曾神社からは飛鳥時代までの集落の遺跡が出ているので、水没しない土地=摂津がここだけ東に突出していたはず。
R479 - r186 のあたりは官道の大津道。矢田は当時は湿地が深くて通れなかった。
長居公園と喜連は摂津、矢田と瓜破は河内。
阿遅速雄神社が八剱神社とも呼ばれたので古くは剱畷と呼ばれる参詣道が現在のr159を通っていた。自然堤防をもとにした国境堤防だったが、今や高まってないし、通りにくい狭路になっている。
「これは国境ですわ」と現地で感じられる地形はない。あえて挙げれば平野川くらいか。
Posted at 2026/08/23 18:53:34 | |
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