
新型プレリュードの試乗(約30分)を終えたあと、私は深い静けさの中に立ち尽くした。
性能は優れている。乗り心地は上質で、ハンドリングも正確だ。
それなのに——心が動かない。
モータージャーナリストたちは一様に「完成度が高い」「大人の上質なクーペ」と称賛しているが、
なぜ私はその賛辞の輪に加われなかったのだろう。
理由のひとつは、日本的モータージャーナリズムの構造にある。
多くの評論が、車を「製品」としてではなく「企業文化の成果」として語る。
批評よりも調和、個性よりも共感が重んじられる。
したがって、車の“情緒的な未完成”や“人間的な粗さ”に価値を見出す言葉は、
そこにほとんど存在しない。
結果として、「技術的完成=良い車」という単線的評価が支配してしまうのだ。
だが、車が人を動かすのは、数字ではなく感情の共鳴である。
完璧に制御された静けさの中では、心の鼓動が届かない。
プレリュードは美しいが、あまりに整いすぎている。
ハンドルを握るたび、私は「この車に、人間の余白はあるのか」と自問した。
3年前に乗ったシビック Type R には、荒々しさと緊張があった。
わずかな不安と高揚が交錯するその瞬間こそ、「未完成の情緒」だった。
そこには、車と人間が互いの限界を探り合う関係性があった。
一方、プレリュードはドライバーを試さない。むしろ、安心の中に閉じ込める。
それは“優しさ”でありながら、同時に“沈黙”でもある。
ポルシェやBMWの思想は、人間の不完全さを尊重する。
少しの危うさを許容し、感性が介入できる“余白”を残している。
それが走りの歓びを生み、哲学を感じさせる。
対して、プレリュードは人間の感情を「制御すべき変数」として扱っているように思える。
それこそが、「響かなかった」本質的理由だ。
車は、合理の産物であると同時に、感性の容れ物でもある。
科学がどれほど進歩しても、感動は数値化できない。
完璧さを目指すあまり、人間が感じる“ゆらぎ”が失われたとき、
車は作品でなく「静かな機械」へと変わってしまう。
そして不思議なことに、N-ONEで帰路に就いたとき、私はほっとした。
完璧ではないが、心に寄り添う——そんな“共存の静けさ”がそこにあった。
プレリュードが示したのは、技術の到達点ではなく、
感性がどこまで生き残れるかという問いだったのかもしれない。
Posted at 2025/10/25 14:37:13 | |
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